池袋犬儒派

自称「賢者の樽」から池袋・目白・練馬界隈をうろつくフーテン上がり昭和男の記録

サーキヤ国の村落風景

2020-10-03 15:00:25 | 日記
仏典に「村」という言葉がよく出てくるが、読んでみると、それなりに大きい。どちらかといえば「小さな町」に近い。

首都にあったこの公会堂の他にも、上に述べた他の町にもいくつかあったようだ。
全ての重要な場所に、そのような公会堂または別棟があり、屋根で覆われているが壁がなく、その中で仕事が出来るようになっていたのは間違いない。
それぞれの村の地域的な問題については、世帯主が屋外で集まっていた。
今も昔も、小さな森の中で開催するというのが、この長くて平たい沖積平野上にある各村落の大きな特徴である。
この平野は、東から西にかけて約50マイル、ヒマラヤ山脈の足元から南へ30~40マイルほど伸びており、この部族の大半がこの平野に居住していたのは間違いない。

この部族は米の生産と牛に頼って生きていた。
田圃を囲むようにしていくつかの村落が形成され、周囲にある森は、サーキヤ族として生まれた全ての小作農が共同で使用する権利を持ち、牛たちはその森を歩き回っていた。
それぞれの村には、おそらくはサーキヤ族ではない職人たちもいた。
そして、たとえば、大工や金属細工師や陶工など、高い技術を持つ特殊な商売をする人々も、自分たちの村落を持っていた。
またバラモンもいて、彼らの仕事は、家庭内の様々な儀式に呼ばれることであった。たとえばコーマドゥッサはバラモンの居留地である。
市場にはいくつもの店舗があったが、隣接する王国の大都市に居住したと記されている商人や金貸しのような存在については記録がない。
村と村はジャングルによって隔てられており、このジャングルは大きな森(マハーヴァナ)の名残である。
この部族の領土全体にわたって森が残っており、その森の色々な場所について、たくさんの記述がある。もともと、これは山岳地帯の麓から大河ガンジスまでの平地全体を覆っていたのだろう(この時代からそれほど遠くない昔まで、その状態であったと思われる)。隣接する君主国によって部族が破壊された後、ジャングルは再びこの国土を覆った。4世紀から今日に至るまで、森は、古代文明の名残の上に広がっている。

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