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のほほん自転車日記

早く走るより、回りの景色をみながらのんびりゆっくり。
自分の人生も介護ものほほんと…

8月6日(水) No2

2008-09-09 15:08:34 | ピースサイクル

ダイ・インが終わり、グランドゼロのつどいが開かれました。

そこでは、関東から来た小学生が平和への想いを話し、長崎から来た高校生たちの活動紹介を聞いたりしました。若いひとたちの話を聞いていると、まだまだ捨てたもんじゃないな、と希望を抱かせるものでした

そのあとは、中国電力までのピースウォーク。

ですが、わたしは限られた時間の中で行っておきたいところがあったので、ピースウォークには参加しませんでした。。。

ですので、ここでおおさかピースサイクルのひとたちとは本当にお別れいろいろお世話になりました

気持ちを切り替え、早速原爆の子の像へ。

若い人も年配者も多くの人が千羽鶴を持ってきていました。この人の多さと千羽鶴の多さは、平和への想いが強いということなんでしょうね。わたしも豊田のひとたちの想いをしっかり届けましたさて、この千羽鶴の行方ですが、いったいどれくらいのひとが考えているのでしょう。いまのところここにささげられた千羽鶴は保存展示という形をとっています。しかし中には千羽鶴未来プロジェクトといって千羽鶴を再生(費用のことや解体作業をするためのボランティア労力が気になりますが)し、世界平和と再生を象徴として世界に羽ばたかせようとしているNPO団体もあります。この団体の活動に賛同するものとして、この活動のことをより多くのひとに知ってもらいたいし、我が家に訪れる海外のひとに再生ノートとペンを渡したいと思っています。あとは、娘がお世話になった高校がインドと交流があるので、なんとか再生ノートとペンを持っていってもらえないかと考えているところです。

原爆の子の像に訪れたあとは、この再生ノートとペンを購入するために、平和記念公園1階のレストハウスに行きました。っが、どこにあるかわかりづらく、結局お店のひとに聞いてしまいました

もうちょっとなにかアピールするといいなぁと思いつつ、千羽鶴再生?というのを見て気分を慨するひともいるかも…とちょっと思いました

そのあとは、広島平和記念資料館に訪れました。10年以上前にも訪れましたが、そのときとは変わっていて、さらに資料が充実していました。しかし、13時からのフィールドワークの時間があるので、ゆっくりみてまわることはできずちょっと残念でしたが、とりあえず見ることができたことはよかったです。

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8月6日(水) No1

2008-09-08 19:50:59 | ピースサイクル

明け方早くから、同室になった女性のひとりが慌ただしく準備をして出かけていくのを、布団の中から見送りました。集合時間までまだまだあったので、わたしはゆっくりとしていましたが…

でも、いつまででも寝ていられないので布団を片付け始めていると、同室の女性が声をかけてくれ、少しだけ話をしました。

こういってしまうのもなんですが、活動家と言われるひとは本当にアツい人が多い気がします。そして、近寄りがたい存在であることもたまにあります。いつも自分がかかわっている福祉のボランティアとはあきらかに違う雰囲気。やはり、普段から世の中と闘っているせいなのでしょうか

それはさておき、朝起きて食欲もないので、集合場所である原爆ドームへ直行。

座ってボーッと考え事をしていると、チラシ配りを手伝ってと言われて、早速チラシ(9条を守る新聞)に。いろいろなひとがいろいろなチラシを配っていました。外国のひとも配っていましたでも、慣れないみたいでなかなかひとに手渡すことが難しそうでした。わたし自身英語ができるわけでもないんで、がんばれ~大丈夫さぁって心で言いながら、笑顔でその外国のひとをみると、笑顔で返してくれましたたぶん、なんとなくわかったんじゃないのかなぁ。だって、手渡せた時になんとなく合図をくれましたからね

8時過ぎ、手元にあるチラシもなくなり、配布も終わり。

いよいよダイ・インのための座り込みです。原爆ドームまわりには、いろいろな市民活動団体の人がいて、ピースサイクルのメンバーのひとは、朝5時くらいから場所取りにでかけていました。

実はこのとき、愛知のピースサイクルで一緒だったI田さんが会いに来てくれて、なんだかふと気が抜けて泣けて来てしまいました。被爆したひとたちのことを考えたり、目的を果たすために走ってきたこと、そしてお世話になったおおさかピースサイクルのひとたちとのお別れがいよいよ近づいていること…。いろいろな想いが交錯していました。

8時15分 ダイ・イン

このときのことは6日のブログにも書きましたが、祈らずにはいられませんでした。

コクリコHPの管理人部屋「のほほんと…」の詩の中に、ちょっとこのときのことを込めて書いてみました。

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8月5日(火) No7

2008-09-07 20:52:44 | ピースサイクル

フィールドワークも途中から離脱し、自転車でエンヤコラ

翌日のこともあり、少し広島駅の場所と荷物を置いておくためのロッカーを確認しました。

翌日も午後からフィールドワークがあるのですが、荷物を宿泊場所に置いてはおけないので、駅のロッカーに預けようと思ったからです。帰りもそのまま寝台列車なので、荷物を置いておくにはちょうどよいのです。

しっかり場所も覚え、宿泊場所に帰るとしばらくして宿泊先で“8・6広島平和のつどい2008”が始まりました。

「平和を求めるなら9条を鍛えよう~核・基地・グローバル化~」ということで、2部構成になっていて、わたしたちは1部の各市民活動団体によるスピーチを聞きました。

難しいことはわからなかったのですが、長崎ピースウィーク実行委員会の教授(長崎大学)の話がわたしの中ではとても心に残りました

教授は教育学部ということで、若い生徒たちに戦争についていろいろ話してきたつもりだけれども、いまはまた昔とは違って物事の捉え方、考え方が変わってきているということでした。

「やられたらやり返す…」“報復”するということは、わたしの中では何も生まないと思っていますが、若い人のなかではそうではないようです。でも、これは若い人の中だけでは決してない気もします。社会全体がそんな雰囲気をもたらしている…そんなふうに思えて仕方ありません。

世界には、その“報復”の応酬で、永遠に解けることのない呪縛のように多くのひとが亡くなっていきます。本当に「やったらやり返す」ことで終結するんでしょうか

そうやって考えつつ1部が終わり、2部は時間の関係で欠席。ピースサイクルの懇親会に参加しました。

各地からみえたピースサイクルのメンバーのスピーチがありました。皆さん、このヒロシマを目指して各都市に申し入れをしながら走ってきたんですね。すごいことです

呉で出会った高校生の女の子とも再開できて嬉しかった~

もしっかり飲み、翌日に備えて早々と就寝…ですが、同室になった女性の方々(他の市民活動団体メンバー)は遅くまで話をしていたようです。

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8月5日(火) No6

2008-09-06 10:06:16 | ピースサイクル

ここで、少しだけ原民喜詩集から一部をほ~んの少しだけ紹介します。。。

「コレガ人間ナノデス」

コレガ人間ナノデス 原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ 肉体ガ恐ロシク膨張シ 男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル ・・・・・・

詩はもう少し続きますが、インターネット上ですべてを公開するのはよくないのでこれくらいまでで

この詩を読んでいて、淡々と描写してあるんですが、とても迫ってくるものがあります。

さて、被ばく柳をみて、次の場所に移動していく途中、サダコさんが元気であれば卒業していたであろうという中学校を通りました。

 

碑の内容を少し書きます。

この「折り鶴の碑」は、日本各地からだけでなく、外国からもヒロシマに寄せられるようになった無数の折り鶴に込められた平和への願いを、広島の子どもたちが受けとめた証しとして建立されたものです。

(中略)

それらの折り鶴の一羽ずつにこめられた願いを、わたしたちは大切に受け継ぎます。そして、貞子さんの命日である10月25日には、ヒロシマの子どもの堅い意志をあらわすこの黒御影石の碑に折り鶴を置き、世界に平和を築く決意を明らかにします。

2000年3月 広島市立幟町中学校 生徒会

平和であることなんて、日常の生活、特に日本にいると当たり前のように感じてしまうことの方がおおいでしょうが、こうやって振り返りながら「築く」ための決意をすること、、それはわたしにも必要なことだと思いました。

この「折り鶴の碑」も通りすぎ、今度は縮景園に行きました。

この縮景園は、広島藩主が1620年から別邸の庭として築成されたものですが、原爆により壊滅状態になりましたが、現在は戦災前の景観に復元されています。

ここで、しばし休憩…のはずだったんですが、わたし自身かなり疲れがピークで。。。

暑さと歩き疲れ、そしてまた帰りは自転車に乗って宿泊所に向かわねばならず、いったいどこまで歩いていかなければならないんだろう?という不安もあり、情けないですがここでリタイアすることにしましました

でも、わたしの疑問は残っているので、原民喜の研究者である女性の方になぜ自裁したか尋ねてみました。

すると女性から、原民喜は「生に対しての欲がなかった」という返事がかえってきました。

もともと被災する前に愛するひとを亡くし、死を決意していたのですが、被爆したことでその時間が少し伸びたといってもいいのかもしれません。

この原爆の状況を残すことが彼の使命・ミッションであったということも言われていました。

ですが、ここでもうひとつわたしには疑問がありました。

彼は幼少のころとても慕う姉の影響でクリスチャンにはならなかったけれどもキリスト教の教えに傾倒していたようですが、最後まで洗礼を受けることもなくクリスチャンにはならなかった…。

このことも尋ねてみたら、組織に入ることがクリスチャンになることとは違う、という考えをもっていたのではないかと、推測だけれどもということばを添えて女性は言っていました。

確かに…。わたしも共感するところがあります。

組織に属すものではなく、常に個が神とつながっていると考えた方がいいでしょう。組織となった時点で、残念ながらひとはひとをみて、神をみることがなくなることも儘にある気がします。

でも、それが悪いわけではないですが…。ひとの世に生きる限り、組織も必要ですからね。

原民喜が惜しげもなく、自分の命をたつことができたことは、ある意味全力で生きてきたからなのかもしれません。もしかしたら、死の向こう側に希望を見出していたのでしょうか?

わたしはわたしであり、当然のことながら原民喜ではありませんので本当のところはわかりませんが、彼が見て書き残したもの…それを読んで個々がいろいろと感じるということが大切なのかもしれませんね。

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8月5日(火) No5

2008-09-05 19:12:44 | ピースサイクル

5日のフィールドワークには、3つのプログラムがありました。

①平和公園・碑めぐり

②原民喜とともに“夏の花”を歩く

③米軍岩国基地/綿帯橋 バスツアー

なぜわたしが②を選んだかというと、説明文に

「原民喜は原爆に遭ってのち、自分のためでなく他者のために生きようと自分に言い聞かせた。原爆犠牲者のために、言葉でヒロシマの真実を示そうとした。それを了えて彼は自裁した。…」

せっかく助かった命であるのに、なぜ原民喜は自分で命を絶ってしまったのか、、、そんな疑問がよぎり、原民喜のことを少し知りたいと感じたからなんです。

フィールドワークの集合場所に行くと、とても品のいい感じの年配者がみえ、紹介のときにその男性の方が原民喜氏の甥であるということがわかりました。

このプログラムに参加したひとたちは、大学のゼミ生と思われる生徒さんと先生、生活協同組合の関係でみえた女性の方々、市民活動をしてみえる方など、20名余りの方がみえました。

説明は、70歳は超えるであろうと思われる男性の年配者が主にお話をされ、ときどき原民喜の研究者である若い女性の方、そして甥の方がフォローして話す感じでした。

世界記念聖堂の近くには、原民喜の生家があり、そこで彼は被ばくをしました。

説明をしっかり聞きたかったんですが、如何せんにも声が聞き取りにくくて説明がよくわかりませんでした

でも、川沿いの被ばく柳をみたり、昔の情景を思い浮かべながら歩いて、少しだけ雰囲気を味わうことができました。しかし、それは原民喜の幼少のころの楽しい思い出と同時に被ばく時の体験を知ることは、正直わたしにはとらえることが難しかったです。

 

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8月5日(火) No4

2008-09-04 23:31:26 | ピースサイクル

フィールドワーク 原民喜と歩く広島の『夏の花』 の集合場所である世界平和記念聖堂(カトリック教会)を目指すべく地図をみながら行きましたが、初めての土地なのでグルグルしてしまいました

わたしとしては、名古屋にある布池教会(左側)をイメージしていたのがいけなかったのかも…。

   

やっと探し当てた世界平和記念聖堂。

世界平和記念聖堂の入口というか、門をくぐると正面に聖堂、左手にパウロ書院(聖書関係の本やロザリオ、マリア像などが販売されています)右手にヨハネパウロⅡ世のことばが書かれた看板がありました。

核戦争とはいわず、すべての武器と戦争を拒否したいです。

この日は、この教会でもイベントをやっているようで、多くのひとが訪れていました。

敷地内を自転車にのっているわけにもいかないので、押しながら自転車置き場を捜していたのですが、どうにも見つからない…なので、道行く人に聞き、ついでに敷地内のどこにフィールドワークの集合場所があるか尋ねてしまいました。やれやれ…とホッとして時間をみると、まだ余裕があったので、せっかくなのでパウロ書院に行き、娘が持っているといいと言っていた小さなオメダイを購入しました

そこで、シスターからきょうは被爆証言の話があるから聞いていったらどうかと言われましたが、フィールドワークの時間と重なっていたため聞くことはできませんでした。ん~残念

でも、今回の目的はフィールドワーク。いよいよ出発です。

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8月5日(火) No3

2008-09-03 19:33:32 | ピースサイクル

呉での見学を終え、いよいよ原爆ドームに向けて出発。でも、その前に倉敷市から一緒だったNEご夫妻と一緒に記念撮影です。パシャl!

さて、いよいよラストラン(?)です。

およそ30K。

海沿いの景色から街中の景色に変わるとともに、物々しくザワザワしてきました。

でも、30Kというのは、案外あっという間。時間にしたら2時間もかかりません。

一生懸命自転車をこいでいると…原爆ドームと横断幕が目に飛び込んできました。

終わったんだ。。。

そう思っただけでした。

おおさかピースのO田さんが、「お疲れ様!」と言って握手してくれたけど、まったく実感がわかなかったし、感動もありませんでした。わたし自身、ある程度予想していたことでしたが、結構冷めてましたね

とはいえ、一緒に走った唯一の女性であるYさんとはお疲れ様でしたということで、しっかりハグしましたが…

着くことの目的よりは、その行程がわたしにとっては宝物だったんですね

かなり充実した日々を過ごしていたから、終わったことが悲しかった…そんな気持ちの方が大きかったです。

みんなとの記念撮影です。

記念撮影が終わると、近くの宿泊場所へ。

慌ててフィールドワーク(原民喜と歩く広島の『夏の花』)に参加するために、地図をフロントでもらってひとり自転車に乗って移動しました。

 

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8月5日(火) No2

2008-09-02 09:22:33 | ピースサイクル

大和を造っていたというドッグをみたあとは、いよいよ潜水艦です。

もともとわたが住んでいる場所は、どちらかというと山に囲まれているので、海や船をみたりするのも珍しいことなのですが、さらに本物の潜水艦をみることができるとは…。

大和が建造されたドッグの左手に潜水艦や海上自衛隊の船が浮かんでました。

潜水艦が浮かんでいる場所には、たくさんの自衛隊員の方が…。なにかあるんでしょうか?

それにしても、こんなものが海の中を行き来しているかと思うと不気味な感じです。

どうせなら黒じゃなくてカラフルな花柄なんかにして、戦争時の落し物処理をしてもらえるといいかもしれませんね

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8月5日(火) No1

2008-09-01 15:54:08 | ピースサイクル

いよいよ目的地の広島市に到着する日です。

ですが、出発するその前に呉で大和が作られたという場所、そして本物の潜水艦をみるために、おおさかピースサイクルの方に連れて行ってもらいました。以前は、自転車ででかけていたようなのですが、話に聞くときつい坂なので(時間短縮?)自動車で行きましょうということに。確かに…行きはよいよい帰りはこわい~♪坂でした。自動車で行って正解です!

呉には海上自衛隊の基地があるのですが、イメージとして刑務所っぽく、高い壁があるかと思ったのですが、そうでもなくわたしが思ったより開放的な気がしました。でも、実際はわかりませんが。

高台から大和が作られたという場所(左手の方)をみました。本当に大きな建物・工場です。

 

父は、戦争になる前、船乗りにあこがれて、商船学校に入りたいと家族にお願いしたことがあったというのですが、家が貧しかったため入学するための資金もなく、泣く泣く学校に入るのをあきらめ、甲板員として戦争になる前まで船に乗っていました。(そのため、この豊田では珍しく船員保険をもらっていました)そのときの話をもっと聞いておけばよかったといまでは後悔することが多いですが、その戦争になる前までは日本以外の国に行ったり、お相撲さんが船に乗っていたとか、船が沈没して辛かったとか…いろいろな話を母にしていたようです。でも、戦争になり船が兵隊を乗せるための輸送船と変わり、状況も一変。父は船乗りになる夢もあきらめ、家に戻り今度は兵隊として戦地に赴くことになったそうです。

船をみながら、もし戦争がなかったら…当時のひとの夢をかえすことができないのが残念です。

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8月4日(月) No5

2008-08-31 13:53:36 | ピースサイクル
大和ミュージアムを見学したあとは、呉ピースの方のお誘いで宿泊施設のすぐ隣にある“海軍さんの麦酒館”で食事をしました。
うぅ~ん?すごいです。。。
ここのビール、はっきりいっておいしいです
あとでインターネットで調べてみましたが、思ったより結構リーズナブルです。
もし、豊田にあったら絶対わたしは通っていると思います。
っが、名前が気になる…。

食事のことはこれくらいにして、ここでは呉ピースの方や四国ピースの方から話を聞く機会がありました。高知から四万十川沿いに行くコースで、市町村に申し入れをしながら走ったそうなのですが、そこになんと小学生の男の子と高校生の女の子(姉弟)も参加し、途中川で遊んだり、夜はトランプをしたりと楽しく過ごしたそうです。ピースサイクルの活動も“楽しく”をモットーにしていると言われていました。もちろん、辛いこともあるでしょうが、それもひっくるめて楽しくってことなんでしょうね。
食事のとき、この子どもたちと近くだったので、いろいろおしゃべりをしましたが、小学生の男の子はとってもかわいかった!!!
それに、お姉ちゃんもめちゃくちゃいい子で…
中学生の弟くんもいたんですが、今回はサッカーがあるということで参加しなかったと言っていましたが、その子も本当にさわやかなスポーツ少年。
このファミリーをみていると、なんかホッとしました。
それにしても四万十川…きっときれいでしょうね。しかしそんな場所にも原発が稼働しているということです。東海・東南海地震が懸念されるなか、はたして大丈夫なんだろうか?そう思えてしまいます。
この原発問題も考えることは多いです
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