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凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

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もしも紫式部が二人いたとしたら

2005年10月26日 | 歴史「if」
 前回からの続き。

 僕は、隠してもしょうがないので書くけれども京都の「紫竹」というところで生まれ育った。隣には「紫野」という町もあり紫野高校の出身である。ここいらへんには「紫式部さんが住んでたんやで」という伝承が残っている。近所のばーちゃんらはそう僕に教えてくれた。
 「紫式部の墓」というのも残っている。校区内だった。小さい頃からそこには出入りしていた。なので紫式部には思いいれが普通よりちょっとだけ深い。

 その紫式部とはどういう人だったのだろう。
 わかっていることは少ない。生没年も定かでない。一条天皇の中宮彰子に仕えた女房であるということ。そして源氏物語の作者であると伝えられること。
 源氏物語には署名はない。それではどうして紫式部が源氏物語の作者とされるのか。
 この時期、公家の日記は多く残されており、一級史料とされるが、同時期の日記等には紫式部の名前は全然出てこないのである。わずかに、藤原実資の日記「小右記」に「藤原為時の娘の取次ぎで中宮彰子と話をした」という文言が記されているだけである。為時の娘が紫式部とされる女性だ。同時期の史料に出てくるのはたったこれだけなのである。中宮彰子の父である関白道長の日記にも紫式部は全く登場しない。同様に源氏物語も登場しない。
 結局紫式部と源氏物語を結びつける史料は「紫式部日記」しかないのである。他に直接的な史料は一切ないのだ。

 この紫式部日記は、もちろん紫式部本人が書いたものと伝承され、そうであるからこそ紫式部の人となりと源氏物語執筆状況の研究に使われてきた。しかしながら、この日記には不審な点が多いらしいのである。本当に本人が書いたものなのかどうか。言葉の遣い方、語句や敬語の用法などから、「紫式部日記」というより「紫式部記」あるいは「紫式部伝記」の方が相応しいのではないか、との見方も出てきている。後世になって紫式部を顕彰(?)する目的などで書かれたのではないか、ということである。既に源氏物語=紫式部という伝承があって、その図式にのっとって後世書かれたものであれば、かなり内容を割り引かざるを得ない。

 紫式部日記には、中宮彰子に仕える女房としての日常の他に、紫式部が源氏物語を書いたと匂わせる記載がいくつかある(あくまで匂わせているだけではっきり書いたとは言っていない。これも不思議だ)。
 左衛門督が「わかむらさきやさぶらふ」と紫式部を呼ぶくだり(「若紫」か「我が紫」か議論は分かれるが源氏物語の作者に対して洒落たのだと言われる)。また天皇が源氏物語を読んで、「日本紀をよく学んで描かれている」と感心するくだり。そして道長が、源氏物語を書く人ならば「すきもの(好色)」なのだろう、と詠みかけて紫式部が否定するくだり、などである。
 これらが事実とすれば、もうこの彰子に仕えていた時期に源氏物語は発表されていることになる。少なくとも若紫の巻は流布していて、それが紫式部の筆になることを宮廷人は知っている。
 そうなると、何故道長をはじめとする人々は一言も源氏物語と紫式部について触れないのか。「小右記」の「藤原為時の娘」という記述が唯一なのである。もちろん「源氏物語」「紫式部」についての記述は見当たらない。他の詩歌などについての批評は多く載せられているというのに。
 また、ちょっと時代は下がるが菅原孝標女の「更級日記」に源氏物語の記述がある。ようやく「源氏」が流布したとの証拠が現れた。しかし彼女は光源氏に憧れているが、紫式部については全く言及していない。菅原孝標女と紫式部は縁者である。何故触れないのか。

 少なくともこの時代は「源氏物語」=「藤原為時の娘で中宮彰子に仕えた紫式部」ではなかったのだと考えるのが正しいのではないか。そして後世に源氏物語の筆者が紫式部だという評価が定まって、のちに「紫式部日記」が伝記として編まれたのではないか。
 じゃあ紫式部が源氏物語の作者ではないのか。そうは断定できない。書いたのは紫式部で流布が遅れたために道長その他の当時の宮廷人の日記に書かれなかった、ということも考えられる。しかし以前にも書いたように、藤原氏の出身で道長の娘である中宮彰子に仕える紫式部が、こっそり藤原氏批判の物語を書くのはどうしても不自然なのである。考えにくい。
 紫式部という人物が架空の人物では? という説も読んだことがある。しかし、藤原為時の娘で紫式部という女人は実在したらしい。それは歌集「紫式部集」が残されており、勅撰和歌集に和歌が選ばれていることから言える。断定は出来ないが、平安半ば以降の勅撰和歌集に伝説上の人物を取り上げることはないと考えていいのではないか。なので紫式部は存在するのである。もう一点面白いことは、個人歌集「紫式部集」にはあの800首近く和歌が載せられている源氏物語から一首も選られていないのである。これは不思議なことではないのか。
 僕はこのことが、逆に紫式部という人物が存在する証明になっていると思うし、紫式部と源氏物語が関係ないことを示していると思うのだがどうか。

 では何故、源氏物語が紫式部作ということになったのだろうか。
 冒頭の話(式部の墓の話)には続きがある。
 紫式部の墓は、塚である。こんもりと盛った土であり墓石は後世のものだと考えられる。工場地の片隅でありまた大通りに面して騒がしいところであるが、それはさておき不思議なことは、この紫式部の墓の隣には小野篁が葬られているのである。
 小野篁。才人でありながら反骨の人物であり隠岐に流されたこともあった。文人、歌人として知られる。また冥界へ通じていて閻魔大王の副官をしていたとの伝説もある。面妖な人物だ。
 この小野篁と紫式部が何故並んで葬られているのか?
 ニセ物だろうと断定するのは容易い。だが、墓は後に作られたものであったとしても、何故紫式部と小野篁が同じところに埋葬されたことにしなくてはならないのか。二人を結びつける何かがあるから墳墓が並んでいる、と考えるのが自然だ。普通に考えれば墓が並んでいれば夫婦である。少なくても同じ一族。しかし紫式部は藤原氏のはずであり、篁と結婚もしていないし時代が違う。

 これはやはり「もう一人の紫式部」が居たと考えるのが自然だろう。藤原氏の紫式部(為時の娘)以外に小野氏にも「紫式部」と呼ばれる女性がいたのだ、と。式部は官職であり「紫」は愛称。複数居てもおかしくない。この墓に眠る紫式部はこの「紫野」の地に住んでいたんだと近所のばーちゃんたちは教えてくれた。さすれば「紫野式部」だったのかもしれない。
 この地は内裏からはかなり北に離れた場所である。近くには蓮台野という葬送の地もある。宮廷の女房である藤原氏の紫式部が住んでいたとは考えにくいのだ。やはり別の紫式部がこの地に居たのだ。
 この小野氏の紫式部が「源氏物語」に関わっていたのではないのだろうか。「源氏物語」には様々な人物の手が加わっている。そうして出来上がった源氏物語を編纂した人物が「小野紫式部」であったのかもしれない。あるいは最後の執筆者とも考えられる。小野紫式部によって源氏物語は完成をみたのかもしれない。
 それがいつの間にか「藤原紫式部」と取り違えられて伝播し、平安末期には為時の娘が書いたと信じられてしまったのではないだろうか。「紫式部日記」もその頃書かれたものであったのかもしれない。

 小野氏は、小野妹子を祖とし、詩文や芸能に優れた一族。有名な小野小町もいる。日本の歌舞の伝承に深く関わっているとされ、また前述の篁の冥界伝説にもあるように闇の世界にも通じていたとされる。
 源高明から始まった源氏物語の怨恨の系譜。この「幻の源氏王朝譚」は様々に写本され書き足されて反藤原氏の間で静かに育っていったのだろう。それが最終的に、日本の文学芸能の影の部分を担ったとされる小野氏の手により完成され、ベールを被せられて世に流布したのかもしれない。最終作者は小野「紫式部」。このように考えればすっきりといくのでは、と考えるのだがどうだろうか。

 そして、源氏物語の最終章「夢浮橋」は、浮舟が出家遁世した「小野の里」で静かに幕を閉じるのだ。


 参考文献:藤本 泉「源氏物語の謎」「王朝才女の謎」他
 

もしも源氏物語が反体制文学だったら

2005年10月23日 | 歴史「if」
 前回からの続きです。

 源氏物語については、最初に紫の上系統の17帖の原「源氏物語」があり、そこにアナザー・ストーリーが加えられ、そして第二部、第三部が書き加えられて成立したものではないか? と書いた。
 では、その原ストーリー17帖とはどういう話か。前回も書いたが、これは光源氏の栄光の物語である。源氏は桐壺帝の皇子として生をうけ、母が更衣(身分が低い)であったことから臣籍降下となり源氏の姓を賜る。そして、天皇家を守る使命を帯びて生きていくのだ。ライバルは頭の中将。右大臣も左大臣も皇后も同じ一族である。何氏とは明記されていないがこれはどう見ても藤原氏である。そして、賜姓源氏である光源氏が、この頭の中将をはじめとする藤原氏一門にことごとく勝利を収めていく話なのである。
 一度は失脚するが(藤原氏である弘徽殿の女御の妹「朧月夜」に手を出して藤原氏が激怒し須磨へ落ちる)、すぐに復活し、その後藤壺との密通で生まれた皇子は冷泉帝となって即位する。そして娘の明石姫が入内し、自分は太政大臣を経て摂関を超えた上皇とも言うべき準太上天皇にまで上り詰めるのだ。息子夕霧は宮廷の中枢に居る。藤原氏の血筋でない天皇の即位だけでも大変なことなのに、完全に源氏が宮廷を牛耳る結末を迎えるということは、これは大変なことなのである。また、光源氏以外のところでも、藤原氏の弘徽殿の女御を抑えて立后する藤壺もまた源氏、六条御息所の娘、秋好も立后するがこれも源氏である。まさに源氏王朝だ。
 時代はまさに藤原摂関家全盛の道長の御時。このような物語が本当に流布していたのだろうか。

 光源氏にはモデルではないかと言われる人物が居る。それは源高明である。
 摂関家も全て磐石だったわけではない。危機もあった。その危機の代表が源高明の存在である。高明は醍醐天皇の第十皇子で、臣籍降下し左大臣にまで昇った。高明の女婿である為平親王が立太子するおそれがあり、そうなると外戚政治が高明に持っていかれるために、藤原氏は謀反のおそれありとして高明を配流にした。これが「安和の変」である。これで藤原氏最大のライバルである源氏が失脚し、摂関家はほぼ磐石になったと言われる。
 高明は有職故実に深く通じ、風流人としても一流と言われ、その配流されたことからも光源氏のモデルとされる。時の天皇が冷泉帝であったことからもそう言われる。
 もしもこの時高明が順調に宮廷で力を発揮していたら、光源氏の栄華と同じであっただろう。まるで源氏物語は高明の恨みを晴らすべく書かれた物語のようにも見える。高明の失脚配流から30~40年後に源氏物語は成立したと言われるからだ。

 このような源氏礼賛、アンチ藤原氏の物語を道長の時代に発表できるものなのだろうか。僕はやはり難しいと考える。いくら道長が鷹揚な人物であったとしても、この話は無理であろう。そして、紫式部と言えば藤原氏の女性で、道長の娘の中宮彰子に仕える身である。ちょっと考えがたい。
 ではあるが、こちらとしてはもう源氏物語は紫式部の作と刷り込まれているのである。どう考えをまとめていったらいいのか悩むところだ。
 井沢元彦氏は、この謎について、源氏物語は「高明をはじめとする源氏の霊の鎮魂のため」に藤原氏によって書かれたという。余談だが僕は井沢氏が苦手で、あまり読まないので孫引きになっているので申し訳ないのだが。この人はその思想的背景はともかくとして(それが苦手なのだが)、歴史は怨霊と穢れと言霊でなんでも解決するのでこれも同様の推理なのだろう。怨霊鎮魂であるとすれば高明の霊は確かに満足するかもしれない。しかし、高明は3年で配流先から帰ってきており、怨霊になったと言うには少し難しい。菅原道真とは少し事情が違う。また源氏が全く滅びたわけでもない。滅亡した氏なら鎮魂が必要だ。しかし源氏がまだ居るのにこういう源氏礼賛の物語を書くと、それこそ逆に「言霊」の力で源氏の栄華が実現してしまうおそれもあるではないか。なので、藤原氏の鎮魂説にはどうも矛盾があり与することは出来ない。
 かと言って、僕にも決め手はないのだ。誰が書いたのかについての推測はなかなか出来ない。ただ、高明の一族が執筆したと考えるほうがよっぽどすんなりと納得できる。全然裏付けはないのだけれど。高明自身が書いたと考えると実に様々なドラマは浮かぶのだが。琵琶の名手であり宮中行事・儀式の教科書とも言うべき「西宮記」を書いた文才誉れ高い高明であるとすれば。

 しかし、この物語が世に出るまでには紆余曲折があったはずである。紫の上系統17帖だけではとても世に問える話ではあるまい。だからこそ、玉鬘系統16帖の挿入があり、第二部、第三部の付足しがあったのではないだろうか。
 玉鬘系統の話は、源氏の失敗談が多い。末摘花の話はその最たるものだが、夕顔、空蝉、みんな源氏の思うようにはいかない。玉鬘も源氏が言い寄っても最後までなびかない。その玉鬘は頭の中将の娘(藤原氏)なのだ。こうして、完璧な光源氏の様子は崩れていく(そこが文学的には優れているのだが)。
 二部になると、女三宮の源氏とのエピソードはまさに不幸としか言いようがない。決して源氏に身を寄せない女三宮は、頭の中将の息子柏木と通じてしまい秘密の子「薫」を生む。これは源氏の系統が藤原氏に乗っ取られたとも言えるのだ。
 そして第三部ではその「薫中将」が主役である。源氏の血を引く匂宮も居るが、薫の占める部分が大きい。極端な言い方だが、源氏物語はとうとう藤原氏を主人公とするのである。
 こうして核となる反藤原氏小説「紫の上物語」をだんだんベールで覆い隠して、ようやく世に流布したのではないか、とも思えてくるのである。しかしながら、まだ道長が喜んで読む中身には到達していないとも思えるのだが。

 だんだん迷宮に入ってきた。もう一回くらい書いてもいいかな。次回に続く。

もしも源氏物語が複数作者の手によるものだったら

2005年10月22日 | 歴史「if」
 ちょっといつもの「歴史if」とは毛色の違う話をしようと思う。「源氏物語」についてである。全然ifにならないかもしれないが。

 日本が世界に誇る長編大河小説、源氏物語。
 その成立は11世紀初頭と言われる。長編小説としては世界最古である。これは驚くべきことだ。「水滸伝」よりもダンテの「神曲」よりも古い。これは世界文学史上の奇跡であると言われる。まさにそうであろう。
 源氏物語との出会いは、やはり古典の授業であった。「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に…」と暗唱したが、古文はとっつきにくく全体像を掴みにくい。受験時に、わかりにくいので家にあった「与謝野晶子訳源氏」を読もうとしたのだがこれも難しくブン投げてしまい、困った僕は大和和紀のコミックス「あさきゆめみし」を手にとった。これですっかり源氏物語にハマッてしまい、その後「田辺聖子訳源氏」を読んでようやく全貌をとらえるまでに至った。そういう経緯である。

 源氏物語は本当に面白い。しかし、僕の能力のせいもあるのだが実にわかりにくい小説である。千年前ということもあるのだが、なんせ内容が複雑なのである。光源氏があちこちで恋愛をし過ぎるために小説内でパラレルワールドが幾重にも広がり、それが小説の重層的魅力になっているのだが、源氏があっちで恋をしこっちで悲しみそっちで慈しんだりするのでなんだか分裂症になったような気分になる。しかしそれが大河小説というもので、そのことに疑いをもったりすることはなかった。
 そうこうするうちに大人になり、僕はあるとき藤本泉「源氏物語の謎」という本を手に取った。
 そこには、実に興味深いことが書かれてあった。源氏物語が紫式部の作であるということに一分の疑いも持たなかった僕であったが、それから僕は源氏物語に別の視点を見つけることになる。果たしてこんなに長い小説を紫式部は一人で書いたのか? そして、藤原氏全盛の時代にこんな時の為政者を貶めるような小説が本当に膾炙したものなのだろうか? 疑問は深まる。

 源氏物語はその内容構成によって通常は三部に分かれると言われる。第一部は「桐壺」から「藤裏葉」まで。源氏が生まれて様々な恋の遍歴を経て、最終的に隠し子である冷泉帝が即位し、娘は東宮となり自らは準太上天皇となって栄華を極めるストーリーである。第二部は、「若菜」から「幻」まで。光源氏の権勢にも翳りが見え、最愛の妻紫の上にも先立たれて自らも死を迎える。そして第三部は「匂宮」から「夢の浮橋」まで。「宇治十帖」を含む光源氏の子孫の話である。
 その第一部の話であるが、この33巻の話は二系統に分かれる、という説がある(古来よりあった「並びの巻」という話についてはちょっと置く)。
 武田宗俊氏が唱えた説では(孫引きなので申し訳ないが)、この33巻は「紫の上」系統と「玉鬘」系統とはっきりと分かれるらしい(この~系統という言い方は便宜上のものであるが)。つまり紫の上系統は「桐壺」「若紫」「紅葉賀」「花宴」「葵」「賢木」「花散里」「須磨」「明石」「澪標」「絵合」「松風」「薄雲」「朝顔」「少女」「梅枝」「藤裏葉」である。もし手元に源氏物語か、あるいは国語便覧でもあったら参照して欲しい。これ以外の「帚木」「空蝉」「夕顔」「末摘花」から「蓬生」「関屋」、そして「玉鬘」以下十帖は別系統である、という説である。
 「紫の上」系の話は、これだけで完結している。母桐壺を亡くした源氏は母に生き写しの藤壺に恋し、想いをとうとう遂げるが最後まで罪の意識に苛まれる。そしてその藤壷にもまた似た少女紫の上を手元で育て上げ正妻にする。最初の妻葵の上は六条御息所の生霊に憑かれて死ぬ。しかしその遺子夕霧は立派に成長。都落ちした源氏との明石の上とのロマンス。その娘明石中宮は入内。藤壺との秘密の子は即位。幸せな話である。しかもさほど浮名を流すイメージはなく割合に誠実な人格が浮かび上がる。ストーリーはこれだけで成立している。

 しかしながら、「帚木」以下のストーリーは源氏を急にプレイボーイにしてしまうのである。「桐壺」であれだけ藤壺との禁断の恋に悩んだ源氏が急に「雨夜の品定め」をやるので読者は驚いてしまう。ここが物語に重層的厚みを持たせてはいるのだが、まるで人格が変わる様にも取れる。そこが源氏物語の魅力であり、また戸惑うところでもあるのだ。この戸惑いは読後、非常に物語に深みを持たせる要因にはなるのだけれども。
 もしも、源氏物語がこの「紫の上」系統17帖でいったん出来上がっていて、「玉鬘」系統16帖が後から挿入されたものだとしたら。
 痕跡はいくつも残っているのだが、その最たるものは、玉鬘系統に出てくる個性的な女人達は、一切紫の上系統には登場してこないということである。夕顔、玉鬘、空蝉、そして軒端荻、末摘花etc.。この末摘花という面白い女性は巻6に登場するので、もう少し後にも頻繁に登場してもよさそうなものだが、紫の上系統の話には全く出てこない。実に不思議なことである。紫の上系統の話で先に完結していて、後にエピソードをいろいろ挿入した証拠ではないのか。
 話のトーンもこの両系統では違う。紫の上系統が、光り輝く源氏の賞賛譚だとすれば、玉鬘系統はプレイボーイ源氏の色話であり、そして何故か源氏の失敗話も多い。源氏の人間味が溢れているのはむしろ玉鬘系統の話で、栄光の光源氏の人間性に厚みを持たせてはいるが、やはりアナザー・ストーリーなのである。

 源氏物語は、結論を言うにはまだ早いがやはり紫の上系17帖でいったん物語として完結していて、その後玉鬘系統が書き足され、そして第二部、第三部と続編が書かれて完成したと考えるほうが自然である。
 では、紫式部が書いたのは一部紫の上系統17帖だけなのだろうか? いや、この17帖も紫式部の手によるものなのだろうか。

 この源氏物語は、複数作者の手によるものであったとしても作品の価値は全く下がらないと断言できる。しかし、その評価のされ方はずいぶん違ったものになっただろう。世界で訳されて日本を代表する作家とも言われる紫式部。当時ノーベル賞があれば文学賞間違いなしだ。しかしその作者が特定できないとなれば、これは様々に難しい問題を内包してしまうことにもなるだろう。
 そして、この小説はもちろん恋愛小説なのだが、もうひとつ「風刺小説」の側面が大きいのだ。この側面の解明なくして正当な評価を源氏物語に与えることなど出来ないのではないか。

 もう少し書いてみたい。次回に続く。


もしも毛利輝元が大坂城を明け渡さなかったら

2005年09月02日 | 歴史「if」
 最近ちょっと坂本龍馬はんと幕末関係に焦点を置いた旅行をしたので、幕末に意識が飛んでしまう。関ヶ原の話は終わるつもりだったのだがもう少し蛇足を付けたくなった。
 幕末の嵐の中で、倒幕を主導した薩長の根底には関ヶ原の恨みがあり、関ヶ原の敗者であるが故に倒幕を果たしたのだ、とはよく言われる話である。つまり、関ヶ原の合戦が幕末まで尾を引いて、倒幕、明治維新へ繋がったのだと。
 長州では、恒例の正月行事として「殿、そろそろ討幕の機かと」「いや、まだじゃ」と語られるということがまことしやかに伝えられている。また薩摩では「チェスト! ! 関ヶ原」が合言葉であったと。これは話としては面白い。
 実際は、明治維新のきっかけは黒船であり、外圧に対抗するためには幕藩体制では立ち行かず近代国家建設が急務であったことから明治維新は興ったのであり、そこに関ヶ原だけを原因にもってくるのには無理がある。ただ、一因であったことは言えるかもしれない。

 薩摩については、島津惟新義弘が夜襲を画策したがそれを三成が受け入れずアタマにきて西軍に味方しなかったと言われる。保元の乱で源為朝が夜襲を進言したが公家側が受け入れずに敗れた状況と似ている。もしも夜襲をかけていたら東軍は浮き足立ってバラバラになったかもしれずおもしろいifである。しかしながら、前代未聞の敵中突破をやってのけた薩摩は、結局は本領安堵である。幕府に対する恨みつらみについてはそれほど説得力がない。
 しかし、毛利家は領地をいったんは取り上げられお家断絶の憂き目にあっている。それを、関ヶ原で東軍に加担し功績のあった吉川家が、自分に与えられた長門、周防二国を毛利本家に差し出してなんとか家継続に至ったと言う経緯がある。改易は免れたといえ大幅減封。苦しい生活が続いた。こちらは恨んだだろう。
 簡単に、安国寺恵瓊が悪いのだ、と言ってしまうことは出来る。もしも最初から恭順していれば、あるいは前田家のように百万石を擁して江戸時代を生き残れたかもしれなかった。しかし輝元は恵瓊の進言に乗って大坂進出をした。乗った以上は情勢をよく見極めて行動しなくてはいけなかったのだが。
 毛利家は、大大名であるが故に所帯も大きく、内部派閥問題を抱えていた。統率者が居なかったこともある。小早川隆景が没して以来、カリスマ性のある人物がいなかったことが問題だったのだ。

 もしも隆景がもう3年生きていたら(隆景1597年没)、というifもよく言われる。 そうなったらどうなったか。彼は視野が広かった。天下を望むことは元就の遺訓でなかっただろうが、徳川の天下は見通せていたはず。そうなると完全恭順か。しかし、前田利家亡き後徳川の最大のライバルが毛利であることもまた自明であり、徳川の天下になると毛利家の先細りも見えていたのではないかと想像されるのだ。毛利にとっては豊臣の天下が続くほうがずっとありがたかった。なので、隆景は勝負に出た可能性も否定できない。徳川押し込めのための西軍加担である。隆景が動けば、西軍も力が生じただろう。
 しかし、隆景は死んでしまってもういない。医療が発達していないこの時代で長生きifは難しいのだ(平重盛長生きifは過去に書いてしまったが)。結局秀吉が死に、弟秀長、前田利家そして小早川隆景が存命でないことで家康は関ヶ原を起こしたのだ。このifは通用しない。
 さて隆景の死。これは痛かった。毛利では、結局その視野の広さを継承したのが安国寺恵瓊だったのだろう。彼の洞察力は、信長、秀吉の天下を見通していたことでも知れる。しかし残念ながらカリスマ性はなかった。結果、毛利家は内部分裂することとなる。
 いったん西軍に加担するという中途半端な状況を作って、吉川元春は毛利秀元の軍を抑制し、小早川秀秋は裏切る。毛利本家(輝元)は、謀略に引っかかり秀頼を押し立てて出陣するどころか、簡単に大坂城を明け渡してしまうのである。さんざん秀元が抗戦を説いたにもかかわらず、である。それなら最初から東軍に属しなさいよ。そして戦わずして改易。結局吉川の犠打で救われたが、防長二国に押し込められる。

 もしも毛利家が一枚岩であったなら。元就の遺訓どおり三本の矢であったなら。
 輝元は大坂城に居て当時の「玉」である秀頼を擁している。これは力強い。最終的に関ヶ原で敗れていても、大坂城に籠城して徳川の兵を迎えることとなったら、福島正則以下豊臣恩顧の大名の士気が下がることは間違いあるまい。秀頼を攻めるのは「話が違う」からである。それに籠っているのは堅牢で名高い大坂城。城攻めの苦手な家康ではそうそう落せまい。堀を埋めて和睦など毛利に通用しない。
 毛利秀元が吉川広家を制して西軍に加担したら。これもまた徳川は苦しい。秀元は戦う気満々だったのだから。そうなれば小早川秀秋も簡単には裏切れまい。また、秀秋の裏切りは関ヶ原最大のifだが、これがなければ東軍勝利はかなり難しかったと言うのは定説。
 秀秋が裏切らなくても秀元が加担しても、そのうち秀忠の徳川本隊が駆けつけて数的優位に立つ東軍が最終的には勝つ、という見方もあろう。しかし、西軍も援軍があった。大津城籠城戦はあまり有名ではないが、京極高次は大津城で、立花宗茂ら西軍勢15000騎(一説には3万騎)を食い止めて関ヶ原に参戦させなかった。東軍の秀忠vs真田昌幸のようなことがこちらにもあったのである。結果大津城は降伏しているので、この軍勢も関ヶ原に向かったはず。そうなれば戦況はまたわからない。
 東軍がそれでも勝っていたことも考えられる。しかし戦いが長引いており、西軍諸将は四散せず大坂へ撤退した可能性が高い。あの戦いは秀秋の裏切りで半日で決したところに価値があるのだ。大坂へ撤退すれば、出馬しなかった毛利輝元も、秀頼も居るのである。前述したように豊臣恩顧の諸将はどうなったか。石田を討つための連合軍崩壊の危機である。もしそうなれば…。
 以前に書いたように、黒田如水の勃興もあった。また、伊達・上杉連合軍の進軍も考えられた。これらは全て関ヶ原が一日で決着してしまったが故に生じなかったことだろうと僕は考えている。そうなると…。

 元亀・天正の戦国時代に逆戻りの可能性もある。最終的勝者が誰になるのかは難しい。確かに徳川が最も力があるが、家康がどこまで長生き出来るのかが問題となってくる。
 いちばん極端な話をする。徳川は天下を握り損ねることも十分に考えられるのである。結果、豊臣政権が続き、執権的位置に石田三成が座る。最大の大名は毛利家となる。毛利家は豊臣家の最大の庇護者となり君臨するだろう。徳川家光は伊達政宗を「父と思え」と訓されたが、同様に秀頼は「輝元を父と敬え」である。豊臣家はかつての中国大返し、そして大坂徳川撃退合戦に尽力してくれた毛利に感謝し「天下あるのは毛利のおかげ」を家訓とする。
 逆に徳川は武蔵一国に封じ込められる。関東平野には大谷吉継が移封されて監視する。そして「なせばなる…」と鷹山式窮乏生活を送り、関ヶ原の恨みを末代まで三河武士は語り継ぐことになるのだ。
 そして黒船来襲。もちろん黒船は堺にやってくる。維新の志士は、虐げられた武蔵徳川藩が輩出することとなる…。

 お遊びで書いています。ご承知だとは思いますが。


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2005年08月31日 | 歴史「if」
 関ヶ原の合戦を「乱世の再来」と見て最後のチャンスに賭けた戦国武士達が居た。しかし結局家康の思惑通りの展開となって彼らは世に出ることなくして終わった。そのツワモノ達の代表は、西の黒田如水、東の真田昌幸である。
 如水については前回書いた。もう一人の男である真田は、徳川本隊である秀忠軍を上田に足止めして本戦に遅参させた。家康が勝ったからよかったものの秀忠は大変な失態である。これで東西対決が長引けば真田は自分にもチャンスがあると考えたのだろうが残念ながら及ばなかった。
 戦国を生き抜いてきた武将はもうこの当時は少なく、二世のサラリーマン大名ばかりであった。信玄、謙信、元就、隆景、利家、いずれも既にこの世に居ない。実戦(朝鮮の役は別として戦国時代)を知る男は家康の他、前述の如水や真田くらいで、このチャンスに天下を獲ろうという発想を持つ男は少なかった。お家大事の世の中になり、まず保身を考えた。
 しかし、戦国大名の生き残りにはもう一人大物がいたはずである。東北の雄、遅れてきた戦国武将、独眼竜伊達政宗である。この独眼竜はなぜ天下を狙わなかったのだろうか。彼がもし動けば歴史は変わった可能性が実に高かったのに。

 そもそも関ヶ原の合戦は会津上杉征伐から始まっている。上杉景勝が越後から会津若松に移封され、治政と道路整備及び新城建設、軍備整備をやっていると、家康が「謀反の準備じゃないか」とイチャモンをつけた。上洛して申し開きをしろと言うと、上杉家家老直江兼続が、

 「何を言うねん。そっちかて縁組したりで謀反ちゃうんか。ワシらは領民のため当たり前のことをやっとるっちゅーねん。武器揃えたりすんのも武士やから当然やないか。あんたらは茶の湯ばっかりやってて武士には見えへんな。罪もない前田はんを痛めつけたそうやないか。偉い御威光でんな(フン)。そっちへ行くほどヒマやないわい。文句あんにゃったらいつでも相手したるで」

 と強烈な返書を送り(これが有名な直江状。関西弁なはずはないですが)怒った家康は「謀反だー」と大軍を率いて東下した。これが上杉征伐。直江状はまるで挑発文であるため、三成と兼続が共謀していたのでは? という説が多いが実際はわからない。
 家康は下野小山まで来て、三成の挙兵を知り例の「小山評定」がある。当然上杉方が攻めて来ることは配慮し、福島正則らが西へ向かった後もしばらく小山に残り、その後宇都宮に秀忠(後に結城秀康)を配し、さらにその「縁組」で家康に与していた伊達政宗に上杉を釘付けにするように命じてようやく江戸へ帰った。
 しかし、家康はその後も江戸を動かないのである。動けなかった、と言うべきか。政宗が本当に味方であればまず上杉とは戦力も均衡しているので大丈夫なはずだが、信用できなかったのであろう。状況をよく見て、尾張方面では正則らが「家康公が来ない」と騒いでいるようでもあるし、政宗に「100万石あげるから頼んだぞ」と言って、ようやく一ヶ月以上も経って西へ向かうのである。

 ここがチャンスであった。伊達政宗にも上杉景勝にも。
 一ヶ月前、家康が小山を引き上げる際に兼続は、「今追撃したら家康を倒せる」と進言した。しかし上杉景勝は首を縦に振らなかったという。「逃げる敵を追うのは卑怯なり」と。ああ景勝もやはり二代目の坊ちゃんだ。兼続はさらに「じっとしていても家康が天下を獲れば上杉家は潰される。戦って負けても動かなくても一緒だ。勝つチャンスがあるなら行きましょう」と言ったがダメだったらしい。難しいことだ。
 しかし、実際には最上、伊達、南部、秋田諸将の包囲網があって出にくかったのも事実。後顧の憂いがあると出にくい。背後を衝かれる可能性がある。
 なので、現実には上杉方は最上や伊達と和睦交渉を進めていたらしい。他の諸将はともかく、大領を持つ伊達政宗さえ同調すれば関東へ打って出られる。常陸の佐竹義宣は三成と仲がよく既に通じているのだ。
 なのに伊達政宗は何をしていたかと言うと、自分の旧領回復に走り白石城を攻めていた。うーん。今がチャンスなのだ。そんな目先のことより、上杉、佐竹と同調し関東制圧に走れば歴史は変わるのに。
 果たして政宗は、100万石のお墨付きを貰い尻尾を振ったのか。そうではあるまい。どさくさに紛れて政宗は南部利直領を掠め取ろうとしていた。これも旧領回復である。お墨付きなど信用していないことが伺える。
 それにしても…。視野が狭いと言えば政宗ファンに怒られるが、もっとデカいことが出来るチャンスだったのに。
 政宗は、後のことになるが慶長遣欧使節を派遣して、ヨーロッパと手を結ぼうとしていたこともある。この時「奥州王」と称したという。これはスペインと同盟して倒幕を企んだという説もあるほど。そこまで野心があるのなら、スペインと同盟する前に上杉と同盟して関東に攻め上った方がよかったのに。そうすれば、背後を衝かれて家康はおそらく敗退していたと考えられる。
 結局、政宗も乱世がもっと長引くと見ていたのかなぁ。なので地盤固めをして東北を統一してから関東へ、と考えたのだろうか。しかしチャンスはそんなに何回も回ってこないもの。さっさと連合して討って出ないと。秀吉の中国大返しをみんな見習わないと天下は獲れないよ。

 奥州、東北はなかなか一枚岩になりにくい土地柄なのかもしれない。かつて(ずっと昔)、安倍氏が奥州に君臨した際も、羽州清原氏らと手を組めずに中央からの源氏に滅ぼされている。→もしも前九年の役で蝦夷が大同団結していたら
 それ以来東北は冷や飯を食っている。結局団結したのは戊辰戦争の時だけだろうか。しかしあの奥羽列藩同盟は、時すでに遅い団結であった。負け戦の時にだけ団結が出来たのもまた歴史の皮肉である。

 政宗は結局、100万石のお墨付は勝手に南部氏を攻めたことで反古にされている。上杉氏は米沢に押し込められ、石高もぐっと減り苦しい事態となった。「なせばなる」鷹山式倹約生活が始まるのである。
 政宗は元服した時、「信長の如くなりたし」と言ったという。このとき思い切っていれば信長になれたかもしれなかったのに。
 独眼竜のファンは多い。僕も、江戸時代を大藩として生きる基盤を築いた政宗を批判するつもりは毛頭ない。しかしファンはその資質に見合った活躍をしたとは思っていないのだろう。だから「遅れてきた戦国大名」と言われ「もしも政宗が20年早く生まれていたら」とか「政宗が東海地方に生まれていたら」というifがよく語られるのだろう。だが、政宗の本当のifはこの関ヶ原にあったと思われてしかたがない。
 東北連合軍の「幻の関東侵攻」という選択がなされていれば、現在の日本の中の東北地方の位置づけも変わっていたかもしれなかったのに。一度くらい東北主導で歴史が動くことがあってもいいのに、と夢想するのである。

もしも黒田如水と長政親子が共謀していたら

2005年08月29日 | 歴史「if」
 関ヶ原の戦いにおいて家康が勝つためのポイントがいくつかあった。

 家康が会津上杉征伐に秀吉恩顧の諸将を率いて東へと向かったとき、その留守を狙って三成が挙兵した。三成一派を崩壊させることによって敵対勢力を廃そうとしていた家康にとっては渡りに船であったが、これを家康独自の軍隊で叩き潰すのでは結局三成との私戦となる。天下分け目の戦にするためには、現在会津征伐のために行動を共にしている諸将をそのまま家康軍として振り向ける工作をしなければならなかった。多数派工作がなりたたないと孤立してしまう。
 会津征伐軍は豊臣系の諸将がかなりの割合を占める。福島正則、藤堂高虎、加藤嘉明、細川忠興、浅野幸長らである。これら諸将は反三成ではあるが、豊臣恩顧であり秀頼に刃向おうとはしていない。明確に家康側と言えるのは藤堂高虎くらいではなかったか。状況はよくない。ほとんどの諸将の妻子は大坂にいる。人質と言っていいだろう。細川忠興の妻ガラシャの悲劇はよく知られるところ。
 ましてや、主君である豊臣秀頼は西軍総大将である毛利輝元と大阪城にいる。見方によっては秀頼に逆らうことになるのだ。この大軍はあくまで会津征伐のためであり三成追討軍ではない。三成を討てとの秀頼の命令もない。しかし彼らを寝返らせないと以後の天下経営が難しくなる。

 ここで有名な小山評定である。小山で諸将と軍議を開いた際に、家康は問うた。 「みなさんどうします?」
 ここで福島正則が、「家康につく」と先頭きって宣言したため、他の諸将も家康になびいたと言うのだ。秀吉の恩が最も濃く現在も「豊臣家いのち」の猪武者正則がそう言ったため、迷っていた諸将も我も我もと家康傘下になったと言う。
 この軍議がうまくいかなくても、家康単独で三成軍と戦うことは可能である。しかし天下を二つにわけることにはならず、勝っても簡単に家康が天下経営をする基盤とならない。多数派工作が最も重要なのだ。ここで福島正則の発言は大きかった。これで関ヶ原の合戦が成立したとも言える。
 この発言を正則にさせたのは黒田長政の工作であったと言われる。長政が言わせたのだ。
 黒田長政はあの黒田官兵衛如水の子である。黒田如水は、秀吉に天下を取らせた男として名高い。秀吉軍の軍事参謀として、中国大返しを実現させたのは如水である。こうしてみると、秀吉、家康両者の天下獲りに黒田家が大きく関わっているのがわかる。
 このときもしも福島正則の発言がなかったら。先頭きって賛成した人物が例えば山内一豊のような小物であったとしたら、真田昌幸だけでなくもっと離反者が出ていた可能性がある。みんな大坂に妻子を置いているのだ。日和見も出ただろう。そうなると後の天下経営にかなりの影響が出ていたと考えられる。合戦もどうなっていたかわからない。家康は圧倒的軍勢を所持していたとはいえ、その本隊は秀忠が率いて、真田昌幸に足止めされて本戦に間に合っていないのである。天下の流れは変わった可能性が高い。

 そして関ヶ原本戦。家康は大垣城に居る三成をおびき出す。家康は城攻めより野戦を得意としていたからだ。三成は引っかかり関ヶ原で一戦まみえることになる。しかしこの時点ではまだ三成有利である。
 関ヶ原は山に囲まれた盆地。その平地の周りに西軍は陣取った。三成や大谷吉継、小西行長、宇喜多秀家らが正面に構え、毛利秀元や吉川広家、小早川秀秋の大軍が側面の山上に陣を構えた。ここへ東軍が来ればフクロのネズミ状態である。勝ち目は薄い。
 しかし、既に吉川広家と小早川秀秋は家康に内応していた。そのため、側面からの西軍の攻撃がなく、逆に秀秋は裏切って大谷軍を叩いたため、家康は勝つことが出来たのだ。
 この吉川、小早川両川に工作し寝返らせたのはまた黒田長政だったと言われる。これはただの内応では勝負は決しない。西軍として陣を構えてなおかつ西軍に味方しないことが重要。始めから家康軍に参じていたら三成もそれ相応の対処をしただろう。こうして、戦いは半日で決着する。

 こうしてみると、いかに黒田長政の活躍が大きかったかわかる。終戦後、家康は長政の手をとり礼を繰り返し、福岡52万石に封じた。最大の功労者である。
 その頃、オヤジの如水はどうしていたか。
 如水は、九州で兵を挙げていたのである。とは言っても、豊前中津17万石の兵はほとんど長政が率いて関ヶ原に行っている。如水は、手兵300あまりから始め、蓄財で新規兵を召抱えて、西軍に与した旧領主大友氏と戦った。息子と同様東軍に与したように見えるが、とはいえ九州は加藤清正を除き、島津氏はじめほとんどが西軍なのである。そこに戦力なしで兵を挙げるとはよほどのことである。しかし、大友氏に勝ち戦力は増え1万3000ほどになった。瞬く間である。戦さの天才と言っていいだろう。

 黒田如水にはこの時野望があったと言われる。
 彼の半生を見ると、秀吉の参謀として貢献しながら禄は驚くほど少なかった。光秀、勝家を破りようやく3万石程度になったがまだ大名とも言えない。九州征伐を軍監として成功させてようやく中津17万石となったが、功にしてあまりに少ない石高である。
 「秀吉は如水を恐れている」
 というのが定説だった。この男に100万石与えれば天下を獲られてしまう。そう恐れて秀吉は如水を飼い殺しにしたのだと言われる。戦には負けなかった。秀吉が唯一敗北した小牧・長久手の合戦には如水は主として中国で毛利との交渉ごとにあたっていた。
 天下が乱れたと知った如水は、最後のチャンスと見て天下を狙ったのかもしれない。結局如水は軍を発してわずかの間に豊前、豊後二ヶ国を制圧した。恐るべき早業である。如水の知謀と行動は凄まじい。秀吉が恐れたわけである。このままいけば九州平定も視野に入ったと思われたが、関ヶ原東軍勝利の報が届く。
 如水はもっと長引くと予想していたらしい。長引けば如水にもチャンスが生まれた。留守部隊しかいない中国の毛利を撃破して備前、播磨にまで到達すれば、そこは如水の故郷。大坂を衝ける距離でもある。兵300から始めて二ヶ国を陥れた如水なら可能だったかもしれない。東西対決が進み双方疲弊したときに第三勢力を登場させる。如水の青写真はそうだったであろう。しかし、皮肉にも息子長政の活躍によって戦争は早く終結した。前述したように、長政がこれほど働かなければ東西対決はもう少し長引き乱世になっていた可能性もあったのだ。
 如水は天下決着の報を聞き、さっさと矛を収め、さも東軍に味方して戦ったかのように家康に報告した。もともと隠居の身である。家康は、「ヤツは狙っていたな」と分かっていたかもしれないが、長政の功もあり咎めはなかった。

 如水と長政が連動していたら歴史はもっと興味深い展開になったかもしれない。親子で正反対のことをやっていたのだから。
 伝説がある。長政帰城の際、如水に、家康は3度も自分の手をとって礼を言ってくれた、と報告した。そのとき如水は軍功を褒めもせず、取った手は右手であったと聞いて、
 「そのときお前の左手は何をしていたのだ」
 と言ったという。片手が空いていれば刺せたではないかと。戦国の世を生きてきた如水の本音であったかもしれない。黒田官兵衛如水の名は、今は教科書にも載らないほどであるが。


もしも石田三成が100万石の大名だったら

2005年08月25日 | 歴史「if」
 関ヶ原の話を書いてみたいと思う。

 関ヶ原の合戦でよく語られる「if」は、小早川秀秋の裏切りがなければ西軍は勝っていたか? という話である。これはもうあらゆるところで書かれている。而してその結論と言えば、たいていは、そのときはいったん西軍優位で東軍は退くものの「徳川の天下は揺るがない」である。どうしても人は現在の歴史の流れの呪縛から逃れられないものらしい。僕は素人であるからもう少し柔軟に考えたいと思うのであるが。
 あの当時確かに家康は250万石の大大名であり、世の中は朝鮮出兵による疲弊で豊臣政権に対し不満が鬱積していたのも事実である。ではあるが、それだけではすんなりと徳川の天下へと移行しない。これは、家康の懸命の政治工作の賜物であり、「時勢」という言葉で片付けられることではないような気がする。徳川氏の天下となって、「徳川幕府当たり前史観」で語られるから、他に無数の選択肢があったことを覆ってしまうのではないか。家康は苦労してようやく天下をとったのだ。決して時勢に乗っかっただけではない。

 おっと、最近「歴史のifを考えることは愚」という人(僕が逆らえない立場の人)と話してストレスが溜まったのを吐き出してしまった。ごめんなさい。しかし何故誰もがhistorical ifを目の敵にするのか。禁句とか禁物とか何故言うのか。

 閑話休題。
 関ヶ原の戦いにもしも家康が敗れていれば、歴史はかなり変わったというのは誰も異論がないところ。もしも家康討ち死にとなっていたら、江戸幕府は開かれなかっただろう。文字通り「天下分け目」だった。
 状況を見てみたい。

 豊臣秀吉の死から後、家康は豊臣政権下の大老であったが、天下人となることを狙っていた。家康は、武断派の武将(加藤清正、福島正則ら)を取り込む。彼らが石田三成ら文治派と対立していたことを利用しようと目論んだのだ。また個人としても豊臣家に反旗を翻す。伊達政宗らと婚姻関係を持ち勢力拡大に出た。三成はこれを責めたが動ぜず、対立を深める。
 福島正則ら武断派は三成を廃しようとするが、前田利家が歯止めになり表面上は動けなかった。しかし利家が亡くなると、武断派は三成襲撃を企てる。家康は三成を庇うかわりに引退勧告をし、三成は蟄居することとなる。後に一戦交えることで天下の趨勢を決定しようと目論んでいたため三成を生かしたというのが通説。
 家康は戦を起こそうと前田家謀反の濡れ衣を着せ討伐軍を出そうとするが前田家の懸命の保身工作で未然に終わる(お松の方が江戸へ行きましたね)。さすれば次に上杉景勝に嫌疑をかけて、討伐軍を編成し東下を開始する。その隙に、三成は毛利輝元を総大将に据えて挙兵した。
 家康は会津征伐軍を反転させて西に向かい、三成軍と関ヶ原でぶつかり合戦となった。
 これが関ヶ原の合戦のあらましである。

 結果家康が勝ち、対立勢力を一掃して天下は家康が手中にするわけであるが、ここには無数の「if」が存在する。小早川秀秋の裏切りだけではない。みんな書いてみたいが長くなるので控えますが。

 一番極端な話を書くが、この戦いがなぜ家康の勝ちとなったかについては、西軍の大将である石田三成の求心力のなさが最大の原因である。なぜ求心力がなかったかと言えば、三成の性格の悪さだと巷間言われるが、実際いちばん大きな理由は三成の戦力の裏付けのなさであると思う。家康は関東八州250万石の大大名であり、強大な戦力を持ち、もしも戦に負けたとしても保障があるのだ。比べて三成は佐和山19万石である。単独で対戦すれば圧倒的に家康が勝つだろう。だからこそ、三成は自分が大将になれずに参謀的役割のままで(実際に軍を動かしていたのは三成だが)、毛利輝元を総大将に仰ぎ、宇喜田秀家らの戦力をあてにしなくてはならなかったのだ。苦しい立場がよくわかる。
 もしも三成に戦力の裏付けがあったならば。

 史実かどうかはわからないが面白い話なので書いてみる。司馬遼太郎の大作「関ヶ原」によると、秀吉は晩年、小早川秀秋の無能さに業を煮やして移封させ、三成を北九州100万石に封じようとしたことがある、と書かれている。しかし三成は、九州は遠いので実務に支障をきたすとこの話を断ったというのだ。
 この話は「関ヶ原」でしか読んだことはないので司馬さんの創作だろう(他にも小説としてあったかもしれないが未見)。裏付けがもしあるのなら教えて欲しいものだが。史実として残るのは、秀秋は確かに移封された。筑前36万石から越前12万石である。旧領は秀吉直轄となり、その代官に三成が任命されている。100万石とはいかないまでも、近い状況があったと言える。うまくやれば自分の領地に出来たのではないか。さすれば佐和山と合わせ60万石に近い領地を得られたことになる。戦力は3倍に膨れることになる。こうなると三成は2万人近い動員力をもつことになる。西軍の中核部隊が2万いれば、三成にも説得力が生まれる。中立に立ち結局裏切った諸将(長宗我部、島津ら)も状況は変わってくるだろう。小早川秀秋はともかく、安国寺恵瓊に乗せられただけの毛利は本気になったかもしれない。そうなると戦局は大きく変わるのだ。
 吉川広家は完全に家康派だが、毛利輝元は状況によってどう変わるかわからなかった。諜略によって大阪城を動かなかったが、もしも輝元が秀頼を押し立てて出てくることにでもなれば、東軍に造反者が出て、まず勝ちは西軍であったろう。こうなれば家康は天下獲りのチャンスを確実に逸することになり、殺されないまでも関東に封じ込められただろう。家康のことだから二度目の関ヶ原を狙うだろうが、そこまで寿命がもったかどうか。

 三成は驚くほど人気がない。確かに最高級に有能な官僚だったけれども政治家ではなかった。しかし、忠誠心で動いていたのは間違いはなく、そこまで性格が悪いと言われることもないと思う。徳川の天下になって後、三成の評価は捻じ曲げられたような気がしてならない。家康の方がよっぽど人が悪いと思うのだが。


もしも…番外編・幕府とは何か? Ⅱ

2005年08月05日 | 歴史「if」
 前回記事からの続きです。

 征夷大将軍が「武家の棟梁」と同義語になったのは、源頼朝の力が大きい。
 頼朝は軍事には兵糧が必要である、という理屈で、守護・地頭を全国に置く権限を朝廷からもぎ取った。これが最も重要な点である。この発想は凄い。これにより、鎌倉幕府は全国を影響下に置いた。頼朝は日本国総追撫使・総地頭である。この時点で、日本全国には律令下の「国司」、そして公家(主として藤原氏)の私的領地である「荘園」そして守護、地頭が併設されることとなったが、徐々に鎌倉幕府は力を強めていく。承久の乱以降は朝廷の力が弱まり守護、地頭の武家側の勢力が強まっていくのである。
 最初、幕府(武家政権)というものは、公家社会に虐げられ搾取されてきた武家のための「労働組合」的存在であったと解釈している。だから律令制と「二重構造」になっているのだ。本社経営側である朝廷を廃した政権ではない。しかし、徐々にその組合は勢力を強め、最終的に絶対権限となっていくのである。武家は軍事力を持っているからだ。
 そしてもう一つ、幕府の役割は対朝廷だけではなく「武家社会の調停機関」である。武家は当然武力を持って任じており、「一所懸命」という言葉もあるとおり土地が命である。したがって所領争いは必ず起こる。それを調停するためには圧倒的武力を所持しないと説得力がない。よって、幕府の長は「最も武力に秀でた者」が任じられることとなるのだ。それはとりもなおさず「武家の棟梁」である。

 少し話がそれるが、頼朝は何故「征夷大将軍」任官を望んだのか。
 これには定説がない。幕府とは軍事司令官の政庁であって、それは征夷大将軍でなくてもいい。むしろ日本では、幕府は近衛府の館を指すとされており、右近衛大将であった頼朝はそのままでもよかったはずである。
 確かに近衛大将は「近衛」であるから京都居住が建前である。なので征夷大将軍にした、というのが理由としてまず考えられるが、そんなもの頼朝の力を持ってすれば別にこだわらなくてもよさそうなものである。
 幕府の目的は、前述したように武家の労働組合である。搾取される側の武家の権益を守るために成立している。しかしそれに加えて、頼朝個人として「征夷大将軍」にこだわる思いがあったのではないかと考えている。

 木曾義仲が征夷大将軍になった時に頼朝は「この官職が源氏の総領として欲しい」と思ったのではないか。何故かと言えば、その称号を用いることによって「奥州征服」の正当性を確保したことになるからだ。
 頼朝は清和源氏(河内源氏)の嫡流であるが、その源氏の「宿願」が奥州征服なのだ、と以前にも書いた。
 かつてその祖である源頼義は陸奥守として奥州征服を目論んだが安倍氏に抵抗され前九年の役が起きた。奥州は源氏の手に落ちず、息子の義家も失敗した。後三年の役の結果、藤原清衡が奥州を治めた。源氏は奥州をどうしても手に入れられなかったのだ。その後源氏に奥州侵略は宿願となった。源為義は陸奥守を強く望んだが叶えられず没落、そして孫の代の頼朝で源氏が復活すると、奥州をどうしても先祖以来の「宿願」として望んだと考えられる。その怨念が、「征夷大将軍」へと繋がったのではないか。
 頼朝は征夷大将軍任官を強く望んだが、後白河法皇の抵抗で称号を得られない。結果頼朝は任官を待たずして奥州征服をやってしまうのだが、奥州征服が終わっているにも関わらず、その奥州征服の正当性を後世に残すためにも「奥州を平らげた将軍」としてどうしても「征夷大将軍」という称号を欲したのではなかったかと推測している。正義の軍が奥州を滅ぼしたというお墨付きみたいなものだ。
 これが、その後何百年も「武家の棟梁」の名称として定着するのだが、それは源氏の「宿願」であり頼朝の「怨念」の所産であったのではないかと僕は考えている。頼朝がこだわらなければ幕府の長は「近衛大将」であるということになっていたかもしれないのだ。足利大将、徳川大将である。

 また、このことが、「征夷大将軍は源氏でないとなれない」という伝説を生んだのではないか、とも想像する。もとよりこんな取り決めはなくて、坂上田村麻呂は東漢氏出身であるし、鎌倉幕府は実朝以降はずっと公家や親王だ。護良親王もいる。しかし源氏の宿願と頼朝の強い怨念が、征夷大将軍=源氏という図式を生み出したのだのではないだろうかと思う。どなたか賛同者はいないだろうか。
 この呪縛によって、足利義満は「源氏長者」の位を公家から奪う。そして秀吉は足利義昭の養子たらんとし家康は新田源氏を自称した。征夷大将軍源氏説はこの頃はもう確立しているように思える。(源氏長者については書き出すとキリがないので言及しないが)

 頼朝の成功、そして承久の乱の平定により武家政権は日本の表政権になった。その後後醍醐天皇が一時朝廷に日本の政権を取り戻したものの足利尊氏がまた武家に政権を取り戻す。結局のところ、最終的には軍事力が勝つのである。軍事力のない朝廷では武家中心の社会は治められない。
 したがって、幕府の在り方も徐々に変貌を遂げるのである。当初の「朝廷に対する労働組合」的性質は影を潜め、日本の軍事力の頂点という性格を強める。この軍事力が弱まると幕府は崩壊する。個々の領土争いが調停出来ないからである。こうして室町幕府は倒れる。

 秀吉は将軍になった方が良かった、というのは、天下の趨勢を決定するのは軍事力という時代だったから。関白という天皇を頂点とするヒエラルキーでは権威は強いが実質的ではない。「武家の棟梁」でないと武家社会を押さえ込むシステムを構築できない。
 秀吉は将軍になれなかった為に、権威を朝廷に求めざるを得なかった。
 当時の秀吉には急ぎ権威が必要だった。軍事では確かに日本を統べた。だがその秀吉の立場はまだ織田家の筆頭重役でしかない。正当化には、信長を超えたとするお墨付きが必要。将軍と成れなかった秀吉は、信長の正二位右大臣という官位を凌駕することによって織田家から天下簒奪を成そうとした。信長より官位が上なのだからもはや家来ではない、という事。これは秀吉もそうせざるを得なかったということがある。秀吉軍の主体は織田家の家臣軍横滑りであり、つまりは同僚だった。
 圧倒的軍事力を背景にした権力とは別に、権威を関白だの大納言だのという官、また正三位、従二位という位に求めなければならなかった。この権威と権力の二重構造が、豊臣政権を不安定なものにしていた最大の原因ではなかったか。征夷大将軍となり幕府を開けば、権力と権威は一元化する。それは、鎌倉幕府、室町幕府(前期)という先例があって構築されてきた武家社会を治めるシステムである。
 秀吉は、「惣無事令」という法令をその幕府の統治システムの変わりにしようとしたのではなかったか。
 実質的でない律令制権威の中で、この発想はある種、天才的だ。天皇の権威を借りるとは言うものの「天下静謐主宰権者」として出すわけで、権威と権力を一元化出来る。しかしこれがシステムでなく法令であったことに弱さがあった。裏付けが幕府機構ではなく秀吉個人の軍事力に頼っていたのだから。
 家康に敗れなければ、また義昭が断らなければ「羽柴幕府」が成立した可能性はかなり高かったのではないだろうか。そうすれば、武家社会を治めるためのシステムが成立したはずだ。権力の集中および譜代的存在による合議制、相互監視、敵対勢力の分断その他。石田三成がいれば組織作りは完璧に出来たはず。

 結局家康がこのシステムを採用する。家康の時は、頑なに将軍職を手放さなかった義昭もこの世にいない。空位となった将軍となるのは容易かっただろう。
 藤原秀衡の自治政権幕府、頼朝の労働組合幕府から発展して、武力と領土をもつ武家を治める為にこれほどまでに合致したシステムはないと思えるほど幕府システムは進化した。徳川300年もむべなるかなである。

 結論というほどの結論は出ないままであるが、幕府についての思うところの文を終わります。

※追記(2010/4)
 実際、頼朝は征夷大将軍を強く望んだのではなかった様子が伺えるらしい。そうであれば、「源氏の宿願」については、訂正せざるを得ないと考えます。
 詳細はさがみさんの義仲の「征東大将軍」についてを参照してください。

もしも…番外編・幕府とは何か? Ⅰ

2005年08月03日 | 歴史「if」
 ちょっと「幕府」というものについて考えてみたい。と言っても勉強したわけでもなく文献を読んだわけでもなくぼんやりとした考えをまとまりもなく書いていると思っていただければ幸いである。というのも、幕府というものはいったい何なのかについて、僕自身がよく分かっていないのである。

 前回記事「もしも小牧・長久手の戦いに秀吉が勝利していたら」で僕は、「秀吉は関白になるより幕府を開いていたほうが安定しただろう」と書いた。秀吉も最初は将軍になろうとしていたという説もある。
 資料の信憑性に欠ける、との意見もあるのだが、秀吉は当初、足利15代将軍義昭の養子になるべく工作した、とも言われる。秀吉はご承知のとおり卑賤の出で出自は武士でもなかった。なので、義昭の養子になって源氏を継ぎ、幕府を開いて全国統治を行おうとしたらしい。この「if」は面白くて、そうなれば「足利秀吉」の誕生となって大坂幕府が開かれるわけであるが、義昭は断ったらしい。人たらしの秀吉に出来ない工作があったのかとその部分が疑わしいのだが、結局秀吉は将軍を断念して(家康にも負けて東国平定もやり損ねたし)、近衛前久の養子になり(前久は本能寺の変の黒幕の一人でありそのことを知った秀吉が脅して養子になったと僕は思っている→こちら)、藤原秀吉となって関白となるのである。つまり、関白よりも将軍を上位においていたことが分かる。

 関白も征夷大将軍も、律令制から見れば両方「令外官」だ。
 余談だが、そもそも律令制というのは遠く大化の改新にその萌芽があり、大宝律令によって完成して、その制度は明治維新まで続く。こんなに長く続いた体制は世界にもないはずである。日本書紀を成立させて天皇制を確立させたことも含めて、この体制を作った藤原不比等という人物を日本一の政治家と僕が考える所以であるが、しかしその長い歴史の中で当然実情に合わなくなり形骸化していく(形骸化してもなくならないのはさすが)。そして、律令制にない官職が生まれる。これが「令外官」である。
 その中で関白が生まれたのは9世紀後半、藤原基経が最初である。これは天皇を補佐して政治をする官職であるが、当時政治を執り行っていたのは公家であり、つまり公家の棟梁である。
 それに対して、征夷大将軍は武家の棟梁である。
 しかしこれは、最初から武家の棟梁を意味していたわけではない。そもそもは蝦夷征討の最高司令官である。大伴弟麻呂が最初とも、多治比県守が最初とも言われるが諸説ある。有名なのはもちろん坂上田村麻呂である。
 その後しばらく将軍は存在しなかったが、復活させたのは源義仲だ。東国に居る頼朝を征伐する目的で(つまり征夷)自らを任じさせたと言われるが、これを見て「おお、そういう便利な官職があるのか」とちゃっかりいただいてしまったのが頼朝である。頼朝は右近衛大将であったが、これは京都在任の職であり鎌倉に居ることは出来ない。それでこれを辞任し、遠征軍の司令官という名目の征夷大将軍を選んだ。これなら鎌倉在任でいい。こうして「東国を制圧する」目的で征夷大将軍となり、鎌倉に東国制圧のための政庁を持った。これが「鎌倉幕府」と言われるものである。(頼朝が征夷大将軍を望んだのはもう一つ理由があると思っているが、それは後述する。)

 こうして頼朝が鎌倉に東国制圧のための政庁(というのは建前で東国武士を統括するための政庁)を持ったことで、征夷大将軍が武士の棟梁の代名詞になっていくわけだが、その過程はおいて、その「幕府」という名称についても考えてみたい。
 「幕府」とは何か。本来は中国の用語で、出征中の将軍がいる場所を言う。将軍は遠征すると拠点に幔幕を張って司令を出しますわな。それが転じて、将軍の司令本部、つまり政庁を幕府と呼ぶのである。
 だから、別に征夷大将軍でなくても軍事司令長官であれば「幕府」なのである。つまり、頼朝は右近衛大将の時点でその政庁は幕府である。なので、鎌倉幕府の成立を1192年と我々は憶えていたが、右大将となった1190年をもって幕府は成立しているのである。征夷大将軍=幕府、というのは後付けの理屈にすぎない。

 また余談になるのだが、軍事司令長官が政庁を持てばそれを幕府と呼ぶ、という定義であれば、鎌倉幕府に先んじて日本には幕府が在ったのである。それは平泉である。
 奥州藤原氏は、後三年の役以降、着々と「奥州藤原政権」を作り上げていった。清衡、基衡、秀衡と続き、平泉を中心に京都とは一線を画した安定政権を築いた。そして秀衡は1170年に鎮守府将軍に任じられる。こうして奥羽武士団を統率し、政庁「柳之御所」を持ち奥州を統べた。朝廷の律令政権の中で自治政権が既に鎌倉幕府以前に存在したのだ。この「将軍」が現地で政庁を持ち自治をするという形態は正に「幕府」そのものである。これを何故「平泉幕府」と呼ばないかについて僕は常々不満に思っていることなのであるが。誰もそう言ってくれない。 →「もしも平氏と源義仲が手を結んでいたら」

 頼朝はこの「平泉幕府」を完全に雛型として鎌倉幕府を発想して成立させたのだと思う。独立武家政権の構想は頼朝のオリジナルではない。そう言うと頼朝ファンに怒られるのであるが。
 ただ頼朝の凄いところは、これを全国規模にまで押し上げたことである。ブレーンであった藤原基成と大江広元の差なのかもしれないが。

 話が思わず長くなってしまった。次回に続く。


※追記(2010/4)
 知ったようなことを書いているが、義仲は実は征夷大将軍ではなく「征東大将軍」であったとの説が最近の研究では支持されている様子。詳細はさがみさんの義仲の「征東大将軍」についてを参照のこと。
 確かに、頼朝征伐においては「征夷」より「征東」がより相応しい。

もしも小牧・長久手の戦いに秀吉が勝利していたら

2005年08月01日 | 歴史「if」
 信長が本能寺の変に斃れて以降、歴史は大きなうねりを見せる。明智光秀を討った秀吉は、天下を手中にするために様々な権謀術策を繰り広げていく。
 信長は既にこの世にいない。だが織田家はこの時点においても日本最大勢力であり、天下統一に向けて活動を展開しているのも織田家しかいない。したがってその織田家の持つ領土、戦力、権威を手中にすることが天下の主になる最短距離である。それに向けて秀吉はあらゆる手を尽くし動く。言わば織田家のっとり作戦である。

 まずは信長の後継者を決定する「清洲会議」において、秀吉はその発言力の強さから、信長の次男信雄、三男信孝を抑えて信長の直系の孫である三法師を跡目とすることに成功する。当主が幼い三法師であれば、秀吉が意のままに後見することも可能となる。
 そして次に、優秀であると評価の高い三男信孝を廃することに力を注ぐ。信孝より「程度が落ちる」と言われる信雄と結託して(秀吉が信雄を取り込んで)信孝追討の戦を「織田家を守るために」やってのける。信孝は負けて自害、そして織田家武将で筆頭重役であった柴田勝家を「賤ヶ岳の合戦」で破りこれも滅ぼす。こうして織田家内で秀吉に対抗する勢力はほぼ一掃された。
 ここに至って、凡庸であるといわれる信雄も「今度は自分が危ない」とは思っただろう。信長の同盟者であった家康と連合し秀吉に対抗することを決意する。

 それまで家康はどうしていたのか。家康は、秀吉が清洲会議をリードし、信孝や勝家と戦っていた頃、自己の領地拡大を図っていた。さすが、といえばさすがなのだが、本拠地三河から遠江、駿河はもとより、武田を滅ぼして織田家のものとなっていた甲斐、信濃までも手中にしていた。いつのまに、というやつである。そうして一大勢力となり、武田氏の軍勢も手中にしてますます強固になっていた徳川軍は、信雄の求めに応じて秀吉と向かい合った。これが「小牧・長久手の戦い」と呼ばれるものである。

 家康は当初信雄の清洲城に入ったが、秀吉軍が犬山城を攻め取ったため、小牧山に本陣を構えた。秀吉は大阪城築城などで遅れて犬山に入ったが、小牧山に陣取った家康は守りが固くそうそう攻め込めず膠着状態となった。
 これより先、先発隊の森長可が攻め込んだが逆に家康軍に敗戦している。この合戦は既に秀吉軍が一敗、もはや負けられないという状況が戦線を膠着させる一因にもなっている。
 この状況下で、池田恒興が秀吉に「留守となっている家康の本拠三河を奇襲したい」と申し出てきた。
 こういう戦争は、先に手を出した方が負けである。出てきた部隊を討つ方がはるかに容易い。賤ヶ岳でもそうだった。しかし秀吉には池田恒興に異を唱えにくい事情があったのだ。
 池田恒興は秀吉の部下ではない。信長の家来で、しかも乳兄弟(信長の乳母の子)であった。
 本来であれば、秀吉は三法師を手中にしているとはいえ、信雄の家来の立場である。信雄に弓を引くのは不忠。信孝を倒したのは信雄の命という理屈をつけて成り立ったこと。であるが、信長の乳兄弟の池田恒興も味方している軍ということで大義名分も立つのである。恒興が味方するくらいだから、他の織田家家臣連も秀吉に追従するのだ。おまけに恒興には清洲会議で秀吉に賛成票を投じた恩がある。
 なので秀吉は恒興の出陣を許可した。そして三好秀次(後の関白秀次)を同行させた。
 これが裏目に出た。
 家康はこの動きを察知し、秀次軍の不意を衝いて攻撃した。秀次は進行途中で休止中だったと言う。散々に打ち負かされ秀次は身一つで逃げるありさま。先行していた恒興、そして森長可軍も家康軍に阻まれて敗戦、恒興、長可は討たれた。戦死者は3000を数え奇襲軍は壊滅した。
 秀吉はしまったと思っただろう。しかしうかつに第二軍も出せず再びにらみ合いとなるのである。

 結局秀吉はどうしたか。なんと信雄と和戦協定を結んでしまう。
 戦って、しかも勝っている立場の信雄が秀吉と講和をするというのは実に不可解だが、秀吉はそれを実現してしまう。信雄が抜けていると言うべきか秀吉の謀略能力を褒めるべきか。このことは家康不在で行われ、結局家康は秀吉と戦う大義名分を無くして合戦は終了、という始末となった。秀吉は結局負けたままである。

 このことは秀吉の天下獲りに多大な影響を及ぼした。もしもこの合戦で秀吉が家康に堂々と勝っていたら、そのまま武力で天下統一を果たしていたと思われる。家康の首でも取っていたら、その後の関ヶ原も江戸幕府も存在せず、豊臣の天下が続いていたかもしれない。
 ちょっと話が先走りすぎた。
 重要なことは、秀吉はこの合戦に勝てなかったことで、征夷大将軍になり損ねた、という考えもある。
 今谷明氏の著作を読んでいて、「秀吉は小牧・長久手の戦いに敗れて将軍になれなかった」という一文に当たったことがある。その時は深く考えもせず、その他の今谷明氏の著作を読むこともしなかったので意味がよく分からなかったのだが、よくよく考えると「征夷大将軍」とは武士の棟梁であり最高実力者でないといけない。また「征夷」であるからして、東国を平らげることが条件となる。
 この小牧・長久手の敗戦によって秀吉は、戦争の実力№1を家康に譲ったことになり、しかも東国に攻め入れなくなった。これでは将軍の条件を満たさない。
 秀吉は征夷大将軍になることも視野に入れていた形跡があるのだが、この敗戦以降路線を変更し、家康には自分の母親まで人質にして頼み込んで臣下になってもらい、長宗我部攻め、島津攻めを完遂し西国を統一した後、ようやく東国に侵攻する。そして、将軍ではない新たな「関白」という位につくことを「発見」して、ついに将軍以外の方法で人臣を極める。
 いろいろな考えもあるだろうが、幕府を開いていたほうが安定したかもしれない。将軍より関白の方が位は上だが、関白という律令制下の位で全国を統べる時代では既になかった。しかし、秀吉の選択肢はそれしかなかった。それは小牧・長久手の敗戦が尾を引いているのではなかったか。

 幕府を開いたほうが何故安定するのか、そもそも幕府とは何か、ということについて考えたかったのだけれども長くなりすぎたので、次回の機会にまた考えてみたい。

もしも織田信忠が生き延びていたら

2005年07月30日 | 歴史「if」
 天正10年(1582)本能寺の変がおこり、信長は明智光秀に殺される。ここから歴史は大きく動き、天下は光秀を斃した秀吉の下へ大きく傾くことになる。
 なぜ秀吉が信長の後継者となって天下統一の覇者になれたかといえば、信長の後継者も共に光秀に討たれてしまったことによる。織田信忠である。

 信忠は織田家の正統な家督継承者だった。というか、もうこの時点では織田家の家督を譲られている。天正3年には長篠合戦、岩付城攻略などで活躍し、美濃を任されて岐阜城主となり、繊田家を継いだ。その後の信長は既に「隠居の身」だった。織田家当主は信忠である。
 もちろん実質は信長の支配が絶対であったとは考えられるが、信長ものちの憂いを無くしたかったのだろう。信忠を売り出して実績を積ませ、天下人の後継として相応しく育つよう教育をしているように思われる。信忠もよく期待に応えた。難しい雑賀攻め、松永久秀攻め。その後も信長のコントロール下にあるとは言え織田軍の総大将として播磨攻め、武田攻めを執り行う。実績も十分に積み、天下人の後継者として周囲も認める武将となっていく。もはや信長は戦場においては総帥ではなく、一歩引いた立場をとっている。
 このことは、むしろ信長を自由にさせたのかもしれない。後に秀吉が太閤、家康が大御所となったように、家督、役職から離れた立場に居た方が都合がいい、ということも信長が当主を譲った要因としてはあるだろう。が、信忠の権威を高めるという意図もやはりあったのではないか。

 だが天正10年、本能寺の変は起こってしまう。光秀は信長の宿舎である本能寺を攻め、自害に追い込む。「是非に及ばず」である。そのとき信忠はどうしていたのだろうか。
 信忠は信長とともに京都に滞在していた。信長が森蘭丸その他の手勢しか率いていなかったのに比べ、織田家の総帥である信忠には手兵がいた。約1000人とも3000人とも言われる。宿舎の妙覚寺は本能寺の少し北に位置する。
 本能寺の変の知らせをうけ、信忠は信長救出に動こうとする。しかし、時すでに遅く本能寺は陥落していた。そのとき信忠はどうしたか。
 近くにある二条御所に籠城してしまうのである。このときまだ光秀は信忠を襲ってはいない。逃げることも可能だったのだ。実に惜しい。
 落ち延びることを進言した家臣もいたらしい。しかし本能寺炎上を見て逃げてきた信長家臣村井貞勝が籠城を提案し、信忠はその通りにしてしまった。二条御所には誠仁親王その他が居る。親王らは当初「人質」という意味合いもあっただろう。が、結局親王らを内裏へ逃がし、その手間をとられているうちに明智軍が御所を囲み、自害という結末を迎えてしまった。
 信長だったら逃げていただろう。かつて、朝倉攻めで浅井長政が裏切って挟み撃ちに遭った絶体絶命の場面で、信長は疾風の如く逃げている。光秀の軍は1万2~3000ほどであり、単独犯であって他者との連携は取れていない。岐阜城までとは言わずとも山を越えて安土に行けばまず安全である。そうして光秀の追撃を何日か凌げば、秀吉が中国大返しをしてくるのである。また、信忠存命であれば大阪にいた丹羽長秀の四国討伐軍も稼動したに違いない。信長だけでなく織田家総帥の信忠も死んだということで四国軍は戦意喪失してしまったのだから。
 やはり信忠は甘かったのか、とつい考えたくなる。偉大な父親が討たれてショックだったのかもしれない、と。逃げると決めてさっさと行動に移せばよかったのに。「雑兵の手にかかりては無念なり」と自害を選んじゃったけど逃げてみないとわかんないじゃない。そこが二代目、泥にまみれるより美学を先行させたのだろうか。

 このように、信忠が逃げられた可能性は高い。同列に論じられないかもしれないが、現に三法師(信忠の子)はこの時信忠と行動を共にしていて、織田有楽斎と共に脱出したという説まであるらしい。幼児まで逃げられたのか。実際は三法師は岐阜に居たという話が有力ではあるが、有楽斎は脱出したのだろう。逃げる時間はあったとも考えられる。
 光秀は大軍勢を率いていた。これは二手に分けても十分な人数。天下をとるなら本能寺と妙覚寺を同時に攻めるべきであったのにそうしていない。これは不可解なことである。結局光秀は信長をまず標的にしていたのだ。信忠はあくまで第二目標だった。いやむしろ信忠は「ついで」のような感じさえある。だから、情報さえしっかりと取れていれば逃げられた。城に籠ったりせずに。

 これをもって、光秀の動機が信長への個人的怨恨であってあくまで発作的に思いついたことであり「黒幕」は居ない、という説が成り立つ、という人もいる。
 僕は以前「もしも本能寺で信長が斃れていなかったら」の記事で朝廷黒幕説がありうると書いた。果たしてどうだろうか。
 僕は朝廷黒幕説はそれでも成り立つ、と思っている。
 朝廷が廃したかったのはあくまで「織田家」ではなく「信長個人」であったからだと推測している。信長の野望は朝廷を飲み込もうとしていた。しかしそれはあくまで信長の思想背景がなせる技であって、信忠がそこまで出来るかと言われれば否、だったと思っている。信忠は天皇を廃するまではしないだろう。なので、信長さえ居なくなればまだまだ朝廷には打つ手はある。また、イエズス会黒幕説も然り。イエズス会も対立していたのは信長個人。
 逆に、黒幕説として他に論じられている秀吉説、家康説、足利義昭説は成り立ちにくくなる。あくまで「織田家断絶」でないと彼らに益はない。信忠が生き延びていれば、主人や同盟者が信長から信忠に移るだけのことだ。
 しかし結果として信忠は信長と同時に死んだ。こうして、天下の行方は「清洲会議」にかけられる事になる。

 信忠が清洲会議に出席していたらどうなったか。もちろん光秀を討った秀吉の発言権は強くなっただろう。しかしそれでは信忠の後見者と成りえたか、と言えばそれは難しいといえる。あくまで織田当主は26歳の信忠である。秀吉は「筆頭重役」までにしかなれなかっただろう。そして、路線はもはや天下統一へと動いている。信忠も凡庸ではなかったと言われるので、あくまで信長路線を継承して天下平定の旗頭になった可能性が高い。
 信忠では器量不足で結局反乱が起こり秀吉の天下になるさ、と言う人もいるかもしれない。しかし、それは歴史の結末を知っているからそう言えるのであって、秀吉の天下獲りなど一種の「青天の霹靂」でありハプニングだったと思う。むしろ家康の方にまだ可能性があったのではないか
 発想を飛躍させれば、信忠は征夷大将軍になっていた可能性もあるのではないかと思う。信長の「三職推任」運動を継承すれば、朝廷も「信忠なら」認可していた可能性がある。そうすれば「織田幕府」成立もありうる。織田家は平氏(と言っている)だが、源氏に簡単に姓を変えることもあるだろう(この当時、将軍=源氏という図式があったかどうかも分からない)。

 そのまま何百年かの「織田幕府」の可能性もゼロではない。場所は安土ではなく「大坂」だっただろう。大坂首都を信長は画策していたとも言われ、秀吉も信長構想を継承し大坂城を建てた可能性がある。
 しかし、三代目にあたる織田秀信(三法師)の関ヶ原予備戦でのぼっちゃんぶりを見ると、織田幕府の先行きも思いやられるが。

もしも道鏡が天皇になっていたら

2005年06月21日 | 歴史「if」
 古来、日本では王朝の交代は隠されているが実際はあったという説は多い。書紀が記述している天皇をそのまま実在として考えるとして、初代神武天皇から続く葛城王朝は、10代崇神天皇に至って王朝交代の可能性が論じられている。また、応神天皇の河内王朝も新しく始まった政権の可能性がある。顕宗、仁賢天皇は播磨の国から進出、また継体天皇は越前からの進出である。全てに血縁関係があったかどうかは疑わしい。
 欽明天皇は安閑、宣化天皇の時代に既に即位していて、2朝併立の時代があったと言われている。また、天武朝は簒奪王朝である、とはよく言われる話。僕は欽明から始まる舒明、天智王朝も怪しいと思っている。

 しかし、天武朝(持統朝)は日本書紀を編纂し、「天皇は万世一系であり、天皇の位にはアマテラスの子孫でないと就けない」と明確に定義し神格化を図る。日本の天皇制はここに確立し、血の繋がりが天皇位を嗣ぐ第一条件となり、それが現在にまで続いている。
→「もしも…番外編・天皇とは何か?」参照
 そのため、日本では天皇は絶対的存在であり、政治の実権を握ろうとするものは天皇に「大権を委任」されなければならない。天皇位は一段高いところに置かれているのである。

 かつて、蘇我蝦夷、足利義満、織田信長らが天皇の位を脅かした可能性がある、と指摘されている。しかしそのことは正史には出てこない。あくまで推測の域を出ない。「書紀」の定義によって、天皇位というものは奪えないものになっているのだ。平将門が「新皇」になると言っても、京都の天皇を廃するという話ではなくあくまであれは分家宣言のようなものだ。しかも将門は天皇の血筋である。
 しかし、史上唯一、公式にはアマテラスの子孫ではないのに天皇の位に就こうとした人物がいる。
 それは弓削道鏡である。

 道鏡についてはイメージが凄い。妖僧・怪僧そして逆臣。「巨○○」などとも言われて全く「お前見たのか」と突っ込みを入れたくなること必定である。
 結局のところ、称徳天皇に取り入り、寵愛を受けて、それまでの天皇の愛人だった藤原仲麻呂を失脚させ後に討ち、太政大臣禅師となり法王となって位を極め、さらに神託によって皇位に就くことを望んだとされる。まあ極悪人のイメージだろう。
 イメージについては感じ方もあるのでここでは真偽はわからない、としておく。戒律の厳しかった時代に双方とも出家の身であり、しかも年齢的にも愛人関係を否定する意見も最近多いようだ。これはもうわからない。プラトニック、という説もありそうなるともう小説の域である。

 現実問題として、称徳天皇には後継者が居なかった。自らは巫女天皇であり子供は産んでいない。弟の基皇子は早世し、聖武のもう一人の皇子である異母弟安積皇子も死んでいる(消された可能性あり)。聖武の直系は居らず、聖武が皇太子とした道祖王は陰謀で廃される。その兄弟の塩焼王は仲麻呂の乱で擁立されようとして斬殺されている。船王もそれに与して流される。大炊王(淳仁天皇)は自らが廃した。三原王は死んだ。他の皇女は結婚している。天武の孫世代は壊滅状態であり、もう後継者が居ないのである。
 それはまだ天武の子孫は居る。だが、かなり遠くなってしまう。天武・持統直系は少なくとも断絶である。

 そうした場合、少なくとも政治力のある他の人物に皇位を譲る、という発想が出てくる可能性もあるのではないか。称徳は100年前に自らの祖である天武が王朝を簒奪したという事(ここでは事実と仮定する)を知っていただろう。万世一系は作りごと。なので、王朝交代にさほど抵抗がなかったことも想像できる。従って道鏡に譲位、ということになったのか。
 ここで道鏡が天皇に即位する。そうすると、日本の歴史は根本的に変わってしまうのである。以後の歴史も全て、現在に至るまで天皇の万世一系を基本として成立している。為政者も全て天皇ありきで存在しているのだから、想像もつかない変革である。
 道鏡も僧であり後継者はいない。道鏡の後すら想像できない。このあとに続いた歴代天皇は全て存在しなくなる。明治天皇もいない。日本歴史最大のターニングポイントであった、とも言える。

 藤原氏はどんなことがあってもこれを阻止したい考えだったであろう。藤原氏の権勢は天皇ありきで存在する。常にナンバー2でまつりごとを司るのが氏の安全に生きる道である。それは天才政治家不比等が定めたラインだ。そのために不比等は書紀を編み、国のルールを確立したのだ。
 話がそれるが、藤原仲麻呂が天皇の位に就こうとした、という説があるがその点で納得いかない。皇位に就くことは藤原の道に外れるのである。実際、失脚し乱を起こしたときも、神器を奪って塩焼王を奉じて天皇にしようとしたのである(プレ南北朝だな)。あくまで自分は天皇にはならないのが藤原氏の生きる道である。なので、仲麻呂皇位簒奪未遂説は頷けない(仲麻呂ご落胤説もあって、もしそうだとまた話は別である)。

 769年、大宰府の阿曾麻呂が宇佐八幡神の神託として道鏡を皇位につけるべきことを奏上した。ここに至って道鏡は皇位に就かんとした。称徳は念のため(夢のお告げと言われる)、側近の法均尼を確認に大宰府に行かせようとするが、法均尼は虚弱という理由で辞退し弟の和気清麻呂が代りに宇佐八幡の神託を伺うこととなった。
 藤原氏は当然清麻呂に工作したであろう。そのおかげかどうかはわからないが、結局清麻呂は道鏡への譲位を否定する神託を持ち帰る。

 「臣下が皇位に就いた事は一度もない。アマテラス以来、天皇と臣下の区別は決まっている」

 この報告を聞いた天皇は怒り、清麻呂を別部穢麻呂と改名させ左遷した。称徳は藤原氏の作為を読み取ったのかもしれないが、真相はわからない。
 しかし、称徳天皇は翌年死去してしまうのだ。暗殺説もあるがこれも真偽はわからない。

 この後、後ろ盾を失った道鏡は失脚してしまう。天皇位の流出は免れた。

 空位になった天皇位。そこに、謀略逞しい藤原百川という凄腕政治家が登場、天智の孫である白壁王を即位させるというウルトラCをやってのける。天智系に皇統を戻し、鎌足以来の天智系~藤原氏の政治を復活させるのだ。以後天皇制は文字通り「万世一系」となる。南北朝というややこしい時代もあったが、天皇制は存続していくのである。

もしも藤原仲麻呂の出兵計画が頓挫しなかったら

2005年06月19日 | 歴史「if」
 壬申の乱から80年を過ぎ、天武王朝は安定期を迎えるはずだった。天皇位は天武・持統の直系が継ぎ、天皇の権威は書紀の裏づけによって完成される時代を迎えようとしていた。時に孝謙天皇の御世である。
 しかし、天智系の前王朝の生き残りは少しづつ天武朝を侵食していた。

 それより前段階で、天智朝の遺臣である藤原氏は、不比等という稀に見る大政治家を生み出す。この不比等は、天智の娘である持統に食い込み(持統が引き上げたのかもしれないが)、天武系と血縁関係を結び徐々に力を発揮し出す。まるで藤の花が幹に巻きつき寄生していくかの如く勢力を蓄えた。一度は長屋王の祟りによって存亡の危機に至ったものの、直系の天皇である聖武天皇の夫人に光明子を送り込んで勢力を強め、産んだ皇子は早世したもののライバルである安積皇子を廃して、皇女の孝謙を即位させて再び政治の中枢に甦ったの。
 そして光明子は孝謙の後見として、一族の雄である藤原仲麻呂を登用して藤原政権の足固めをする。

 この藤原氏による天武系への食い込みを憂いていた聖武は天皇時代、天武朝初代の天武天皇の武勇と勢力を懐かしみ、いわゆる「聖武天皇の彷徨」と呼ばれる5年にわたる流離を行った。天武の血統が細くなっていくことを悲しみ、初代の威光を偲んで、壬申の乱の天武の足跡を辿り歩いたとも言われる。また、もしかしたら反藤原氏の勢力結集の意味もあったのかもしれないと考えもする。しかし聖武には抵抗する力も無く、病弱であることも重なって結局は時代の流れに身を任せるしかなかったものと思われる。天武の威光を取り戻したい、とは願っていただろうが。

 光明子は藤原仲麻呂を太政官とは別の紫微中台という機関を設けてその長官とし、藤原政権をますます強固にしていった。軍事権を握り、太政官を凌駕していったものと思われる。
 孝謙天皇は、父である聖武を見て悲しんでいたのではないか、というふうに僕は考えたりする。実権を奪われ、しかし天武の威光を取り戻したいと願っていたのだが叶わなかった父親。彷徨するしか出来なかった父を見て、しかも自分も傀儡であることを自覚し、鬱屈した思いがあったのではないか。即位して後、仲麻呂の台頭と聖武の死は続けざまに訪れる。好きだった父を亡くした孝謙も、その時点では光明子のロボットでしかなかった。
 孝謙と仲麻呂が男女の関係にあったと巷間言われているが、僕としては疑問である。少なくとも仲麻呂を寵愛し引き上げたのは母の光明子である。

 藤原政権は次の手を打つ。聖武が遺言して皇太子となった道祖王を廃する。人格者であったとも言われる道祖王は光明子=仲麻呂ラインからは外れた存在だった。しかし光明子に男皇子が居ない現状なので、仲麻呂は自分が引き立てた大炊王を皇太子とすることで藤原氏の傀儡政権とし、天武系の力を削いだ。
 ライバルである橘奈良麻呂を鎮圧し、ついには孝謙に退位を迫って大炊王を即位させ(淳仁天皇)、仲麻呂は恵美押勝という名を貰い後見として権勢を極める。上皇となった孝謙の思いはどうだっただろう。

 そしてついに、仲麻呂は宿願とも言うべき計画に着手することとなる。
 それは、「新羅征伐」である。
 唐において安録山の反乱が勃発していた。この乱で安録山は唐の首都である洛陽を攻め、玄宗皇帝を落ちさせた。このため唐の国力は一時衰え、そのために唐の新羅に対する影響力が弱まっていた。

 渤海使であった小野田守が帰国、唐の情勢を伝えた。渤海とは高句麗の末裔とも言える。
 天智朝は親百済政権であったと僕は考えている。藤原氏もその流れをくんでいる。しかし、白村江の戦いに敗れて後、天智朝は断絶の憂き目に遭っている。親新羅政権とも言える天武朝に壬申の乱で王権を奪われて以来、かつて親百済政権の中枢を担っていた藤原氏の末裔にとって、新羅攻略は「宿願」とも言えるものだったのではないか。
 ちょっと突飛な考えに見えるとも思うが、僕は信憑性が高いと思っている。しかしあくまで私見です。

 鎌足以来の白村江の遺恨を持ち、安録山により唐が混乱している今こそ新羅を倒せる絶好の機会であると踏んだ仲麻呂は、新羅の朝貢が滞っているのを理由にしてついに遠征の準備を始めた。
 この出兵計画はもう少しで実現するところまでいった。仲麻呂は太宰府に行軍式を置き、五百艘の軍船の建造を命じた。銅銭発行も行い資金調達、また在日新羅人も徴用した。軍事通訳であろう。
 こうして3年計画で出兵を準備し、将軍任命まで行っている。

 この出兵がもし行われていたら。それはえらいことになった可能性がある。
 100年前の白村江の戦い。これは、朝鮮半島における3国の覇権争いにおいて言わば援軍派兵であった。それでも唐・新羅連合軍に破れ、日本では外国勢力を恐れて遷都、防御の徹底(水城など)、そしてついに派兵した親百済政権である天智朝から天武朝への政権交代によってようやく難を逃れた経緯がある。
 しかし、今度は日本は援軍ではなく独自に攻め込むのである。緒戦は真珠湾のようにうまくいくかもしれない。しかし、乱れているとはいえ新羅のバックには大国の唐が控えている。勝ち目は、薄い。もしも戦争を始めたら、百歩譲って新羅を征服したとしても、新羅を冊封体制に組み込んでいる唐が黙ってはいない。大国に本気で攻め込まれたら、おそらく唐の軍門に下るのにそう時間はかかるまい。
 後の元寇の時は、軍事政権である鎌倉幕府が日本を治めている時期であり何とか撃退出来た。だがこの時期の日本の国力であれば、日本滅亡、中国に併呑ということもありえないことではあるまい。悪くすれば、中国の属国となってしまう。
 このような無謀な戦争を仕掛ける理由がわからない。仲麻呂はキレモノなのである。やはりこれは、天智朝の遺臣の末裔であるという宿願がそうさせたとしか僕には思えないのである。

 しかし、この計画は頓挫する。後ろ盾である光明子が亡くなるのである。
 これを機に、足枷がなくなった前天皇の孝謙が盛り返して仲麻呂を排除し、新羅出兵は未然に防がれる。危なく日本存亡の危機は救われた、とも言える。
 孝謙は仲麻呂を討ち、淳仁を廃し自ら重祚して称徳天皇となり、道鏡や吉備真備を重用して藤原氏の排除にかかり、天武以来の親政を執り行う。それは無念のうちに死んだ父・聖武の意向を継ぐものであっただろう。
 道鏡と称徳に男女の関係があったと言われている。それについてはわからないが、既にかなり年配の僧侶同士、邪推ではないかと僕は思う。

 藤原氏はここでもまた挫折するが、その後和気清麻呂の助力もあって道鏡を排することに成功し、藤原永手、そして謀略逞しい元祖タヌキ政治家の藤原百川らの活躍で称徳の死後、今度は正真正銘の天智の血を引く白壁王を立てて、天智朝復活を果たすのである。執念という他はない。


もしも…番外編・天皇とは何か?

2005年06月05日 | 歴史「if」
 あくまで「おことわり」として書いておくが、僕はブログで政治・宗教・時事については書かないことをスタンスにしている。世の中にはいろいろな立場の人がいるので、こういうタイトルだと不快に思われたり現行体制批判だと考えられる方がいるかもしれないが、これはあくまで歴史コラムを書いている上で自分の考え方の整理として書いている。なのでもし検索して来られた方がいればそこのところを誤解しないでいただきたい。
 南北朝時代という特殊な時代を書いてきたので、天皇という存在がいったい歴史の流れの中でどういう位置におかれているか、と言う事を考えたかったに過ぎない。

 歴史の中で、古代は天皇の位を争奪して血も流れたし、また天皇と血縁関係を持つことで力を蓄えた一派もいる。葛城氏や蘇我氏、藤原氏がそうだ。平清盛は天皇の外戚になることが日本支配のカギであるとした。また、天皇を味方につけることで自己を正当化しようとすることが歴史上繰り返されてきた。南北朝は、天皇がどうしても味方にならないことで足利氏がもう一人の天皇を擁立することによって収束しない戦乱を生んだ。信長も秀吉も天皇の権威を利用した。明治維新も天皇側に立つことで徳川幕府を反体制と見なすことに成功し、革命を起こした。
 日本の権力者であった大臣、関白、将軍、これ全て天皇が任命したものである。権力を持つことを天皇が許したので政治を行うことが出来たのだ。それは現在も続いていて、首相も最高裁長官も天皇が今だに任命権を持っている。現在も形式上とは言え最高の権威を持つ。
 その天皇が持つ恐ろしいばかりの「権威」とはどこから来ているのだろうか。

 天皇が日本史の中で果たしてきた役割とは何か。天皇の成り立ちから少し見てみたい。
 天皇はアマテラスの子孫として、書紀、古事記にそのルーツが記されているが、初期のころを見ていると実に不思議なことに気づく。といって気づいたのは僕ではなく学者さんたちが論争をしている箇所。それは、天皇の二子相続、また末子相続といわれるものである。
 神武天皇より以降、天皇相続は例外はあるが長男ではない。二子、あるいはそれより弟が嗣いでいる。これはどういうことなのだろうか。
 鳥越憲三郎氏はそのことについて明確に答えられている。長子は、天皇よりもっと重要な役割についていたのである、と。それは、「祭祀権」の相続である。
 当時は、大王として政治権を持っていたのが今に至る天皇であって、祭祀権は分離していた、と見る説だ。古来日本は、首長の中で、祭祀権を持つものを一義的に扱い、政治は二番手だった。卑弥呼と男王の関係を考えてもらえばいい。
 詳細は書ききれないので「神々と天皇の間」などを参照していただきたいが、祭祀権を継承した長子は結婚が許されないため後継を作れず、二子の子供が大王家を嗣ぐために家系上は長子が消えたようになっている。長子は忌人いわいびととなるのだ。

 この慣習を破ったのは応神天皇である。兄を滅ぼして祭祀権も政治権も同時に手に入れる(応神は仲哀と血縁関係がないとの説もあるがそれはさておき)。応神から始まるいわゆる「河内王朝」は天皇に権威と権力が集中した時代で、巨大墳墓を造れる実力を擁したが、天皇位を争って兄弟が血で血を洗う争いを繰り広げる状況になってしまった。
 その後、天皇を中心とした大和朝廷は日本統一に向かっていく。完全統一が為されたのは諸説あるところであるが、壬申の乱に勝利した天武天皇は、東国の蝦夷を除いてほぼ全国を手中に収めたと考えられる。
 全国統一を為した大和朝廷は、律令制の導入、そして公地公民へと中央集権国家として形を成していくわけであるが、その中で重要なことが、国の基本史である「日本書紀」の編纂であると考えられる。
 書紀の中では、全ての「国つ神」を従えた「天つ神」の存在、その流れに天皇が存しており、神界においても天皇家がチャンピオンである、と記される。そして「延喜式」で神を格付けして天皇が地位を与えている。
 この「日本書紀」の完成及び流布によって、神と天皇家が完全に同一であるという理論付けがなされて、現在に至る「現人神である天皇」という存在が確立したのであろう、と思われる。祭祀権を超えた、自らが神の末裔で祝福権と呪術権を持つ超越した存在になったのだと考えられる。(あくまで僕が思う天皇神格化の過程です)

 さて、古来から日本は「絶対神の存在」がない。
 西洋には居る。キリスト教やイスラム教には唯一神が存する。しかし日本にはそういう存在がいなかった。あったのは、僕が考えるに①アミニズム ②祖先崇拝 であると思われる。宗教史には詳しくないのであくまでも感覚で書いているのだが、僕の感じではそうだ。
 日本の宗教観というものは、あくまで神々は「祟り抑えと薬効(司馬遼太郎)」であって、全てを統べる存在ではない。現在でもなんとなしに悪い事をすると「バチがあたる」という感覚を我々は持っているが、いったい誰が罰を与えるのだろうか。この無意識の「畏れ」的感覚というのは説明しにくい。これは木々や土地の精霊か、死んだおじいちゃんがこらしめを与える、ということではないのか(僕の感覚です)。
 仏教伝来以来、外国から宗教が入ってくるが、全て日本流に翻訳されて浸透する。薬師如来信仰などは実に日本流だ。仏教や儒教は元来哲学だと僕は思っているので、「唯一神」というものを持たずに時代は流れて行った。
 しかし、人の心はよりどころを求める。日本人であっても同様。なので、後年浄土真宗(阿弥陀信仰)や、キリシタンなどが日本に入り込んで来る余地が出てくる。一向宗は絶対神への信仰に近い。極楽浄土に行けると信じているから一揆を興してそれで死んでもかまわぬ、とまで考えられた。
 ではそれまでの人々のよりどころはどこにあったのか。それがかつては「天皇」というものの存在で埋められていたのではないだろうか。

 天皇が絶対真理のよりどころになっている、と言うと「そんなアホな」と言われるだろうが、現在でも欧米では、例えば大統領就任は神に宣誓して成り立つ。日本では天皇が任命して初めて機能するのである。「お墨付き」を与えるのは天皇なのだ。日本では天皇より上位の存在はいない。
 神という存在は「天」から我々を見ている存在であるのが普通だが(だから審判をしたりバチをあてたり出来る)、天皇は現存している。なので、「絶対真理」のお墨付きを作為的に自分のものにすることが可能、ということに理屈ではなる。その現象が極端に出たのが「南北朝」であり、明治維新の「玉」ではないだろうか。

 この天皇という存在で最大に重用なのは「血」である。アマテラスの子孫であるからこそなのだ。だから、誰も天皇にとって代わることは出来ない。「日本書紀」が記した呪縛がそうさせるのだ。信長でもダメなのである。また天皇を誅することは神に対する反逆であるので難しい。なので後鳥羽も後醍醐も殺すことは出来なかった。

 うーん。僕は正月の天皇参賀で旗を振ったりすることなど全く考えられない人間なので、深く心理的に掘り下げることが出来ない。歴史上の日本人の深層心理で、絶対神を持たないことが、アミニズムや祖先崇拝(畏れ)と天皇制(機能)の二元的信仰を生んだということが書きたかったのだが、どうもアタマがついていかなくて無理だった。自分の中で整理はまだついていないが、とりあえず筆をおくことにする。なお、政治的発言をしているつもりは毛頭ありません。




もしも足利直義が南朝に帰順していなかったら

2005年06月03日 | 歴史「if」
 前回、南北朝分裂の経緯について書いた。
 足利尊氏は、楠木正成、新田義貞、北畠顕家らを破り京都に幕府を開く。後醍醐は吉野に逃げ、後に崩御する。
 普通ならこれで、南北朝分裂状態は終わるはずである。戦力も弱体化し、檄を飛ばす恐怖の親玉後醍醐もいない。このまま推移すれば南朝は降伏し、北朝に吸収されてしまうことが考えられる。
 しかし、南北朝分裂は終わらない。なんとそれから50年以上も続くのである。いったい何故なのか。

 簡単に考えれば、圧倒的な戦力を誇るはずの足利幕府が押しつぶしてしまえばいいのだ。そして天皇から神器を奪い、配流して南朝を途絶えさせてしまえばそれで終わり。頼朝や信長ならすぐにそうしていただろう。
 しかし、尊氏はグズグズしてしまうのである。その原因はいくつか考えられるだろう。
 まず、南朝の戦力はかなりダウンしていたものの、まだまだ抵抗勢力としては侮りがたかったという点も確かにある。吉野は要害の地であり、簡単に殲滅は出来ない。
 そして、幕府の結束力も実に弱かったこともあげられる。これは、尊氏にやはり責任がある。尊氏は幕府を開くと、自分を絶対的権力者として君臨させることをしなかった。新しい政権の基礎作りの段階では、ある程度トップが恐怖政治をしくことも重用となる。頼朝や家康はそれをやって幕府の土台を築いた。だが尊氏は軍事指揮権は手中にしていたが、行政の大部分は弟の直義に任せてしまう。
 直義は聡明だがカリスマ性はなかったと言われる。行政官としては超一流だがトップに立つ器ではなかったのかもしれない。石田三成を想像してしまう。
 本来、親分尊氏が全面に出ないとおさまらない。結果、幕府の内部分裂がおきる。幕府の武力を担う高師直や佐々木導誉、土岐頼遠などと、直義派の官僚である上杉や畠山といった派閥の対立である。これでは南朝討伐まで出来ない。
 結果、南朝が放置されてしまうのである。これは後々えらいことになってしまうのだ。

 社会的背景がこれに輪をかける。この時代、武士社会は「対立」の時代だった。
 鎌倉時代の領地の「分割相続」が武家を零細化させ基盤を弱め、幕府崩壊に繋がった事はよく知られる。御家人は借金して幕府が徳政令、なんてことはよくありましたね。これではいかんと言う事で、武家は「惣領制」に移行していく。領地の分割相続を止め、嫡子の「単独相続」へと移行していったのだ。
 こうした変化は、過渡期には反発も呼ぶ。家督を継げなかった者は不満分子となり、南朝につく場合も多かった。そうして、徐々にあちこちで武士団の動乱が拡大した。足利幕府は安定しなかったのである。
 地方でも完全な統一はなされなかった。そもそも南朝があったおかげでその対抗手段として幕府を京都に置かなければならなかったことが弱点でもあったか。武士の本場はやはり関東。そこに幕府が置けなかったことが、関東武士の統制を充分にとれなかった原因となる。また奥州や九州も完全平定出来ない。九州は後に後醍醐の遺子、懐良親王の君臨を許してしまうのである。
 そうした中で、完全に南朝の息を吹き返させる出来事が起こる。それが「観応の擾乱」。

 これは、前述した足利直義と高一族の対立から始まる。幕府設立に武功があった高師直派と直義派。武断派と文治派と考えていいか。後の世で比すと清正・福島派と三成派みたいなものかもしれない。しかし、清正vs三成は秀吉の死後表沙汰になったことだが、尊氏はまだ現役の将軍なのである(尊氏しっかりしろよ)。
 まずこの勝負は軍隊を率いた師直のクーデターで直義が失脚し出家。直義派の上杉重能や畠山直宗は暗殺される。
 このあと直義はなんとかして盛り返そうとして、驚くべき行動に出る。

 それは、南朝への帰順(降伏)である。北朝による直義追討令に対抗してのことであり、直義はこれによって、錦の御旗を手に入れることになるのだが、これで、尊氏・師直(北朝)と直義(南朝)という新たな南北朝時代に突入してしまうことになる。
 完全に「死に体」だった南朝はこれで息を吹き返す。
 直義南朝は、天皇をバックに師直を朝敵とし、京都を占領し両派は全面戦争へ突入する。そして摂津の戦いで直義が勝ち、高一族を葬ってしまうのだ。尊氏は直義と和睦せざるを得ず、直義は幕政に返り咲く。
 しかし尊氏は、直義をそのままにしておくことは出来ず、義詮と共に直義討伐を始める。このとき、尊氏はまた信じられない行動に出るのだ。
 尊氏が今度は南朝へ帰順(降伏)するのである。
 直義は今度は錦の御旗を失い、落ち延びて鎌倉で死を迎えることとなる。

 この一連の騒動で、完全に南朝は復活し、以後40年にわたり第二次南北朝激突時代が続くことになってしまう。直義は死んだが、養子の直冬(実は尊氏の実子)が反抗を続け、日本は南朝、尊氏(幕府)、直冬の三つ巴の争いが続く。非常にややこしい状況となる。
 直義は聡明だが、長期的視野に欠けたのか。南朝を担げば確かにその場は凌げるし、自己正当性も唱えられる。ただこれは、パンドラの箱だ。おかげで以後40年も戦乱が続いてしまうのである。もし南朝を担がなければ、南朝はジリ貧だったであろうに。
 もっと困るのが尊氏である。さらに混乱を助長させた。そもそも足利幕府は北朝を担いでいるのだ。南朝に帰順すれば北朝はどうなる。やはり南朝の北畠親房は尊氏が直義追討で鎌倉へ行った際に北朝の光厳上皇以下を拘束してしまうのである。焦った義詮は神器も上皇もナシに傍系の皇子を後光厳天皇として擁立する。糸はさらに縺れる。
 こんな傀儡もいいところの天皇がどうして必要なのか。それが天皇制の摩訶不思議なところであるのだろうか。無理やり北朝を再興させた足利幕府はなんとか正当性を確保しようとする。おかげでまた南北朝時代が延びた。
 いったい天皇の正当性とは何だろうか。

 この南北朝騒動は、足利幕府に出た稀代のタヌキ政治家、足利義満によって終結する。義満は、簡単に言ってしまえば南朝にカラ手形を切って神器を北朝に渡させる。今までは南朝が正統でしたよ、北朝はニセですよ、しかしおさまらないから北朝に一度譲位してください、そのあとはまた両統迭立でいきましょう、悪いようにはしませんから、と言って譲位させ、二度と南朝に皇位を渡す事はなかった。
 尊氏も直義も、こうやってやればよかったのに。それが出来ないのが、天皇というものへの畏れなのか。神をも畏れぬ豪腕義満だから出来たのか。難しい問題である。