凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも小牧・長久手の戦いに秀吉が勝利していたら

2005年08月01日 | 歴史「if」
 信長が本能寺の変に斃れて以降、歴史は大きなうねりを見せる。明智光秀を討った秀吉は、天下を手中にするために様々な権謀術策を繰り広げていく。
 信長は既にこの世にいない。だが織田家はこの時点においても日本最大勢力であり、天下統一に向けて活動を展開しているのも織田家しかいない。したがってその織田家の持つ領土、戦力、権威を手中にすることが天下の主になる最短距離である。それに向けて秀吉はあらゆる手を尽くし動く。言わば織田家のっとり作戦である。

 まずは信長の後継者を決定する「清洲会議」において、秀吉はその発言力の強さから、信長の次男信雄、三男信孝を抑えて信長の直系の孫である三法師を跡目とすることに成功する。当主が幼い三法師であれば、秀吉が意のままに後見することも可能となる。
 そして次に、優秀であると評価の高い三男信孝を廃することに力を注ぐ。信孝より「程度が落ちる」と言われる信雄と結託して(秀吉が信雄を取り込んで)信孝追討の戦を「織田家を守るために」やってのける。信孝は負けて自害、そして織田家武将で筆頭重役であった柴田勝家を「賤ヶ岳の合戦」で破りこれも滅ぼす。こうして織田家内で秀吉に対抗する勢力はほぼ一掃された。
 ここに至って、凡庸であるといわれる信雄も「今度は自分が危ない」とは思っただろう。信長の同盟者であった家康と連合し秀吉に対抗することを決意する。

 それまで家康はどうしていたのか。家康は、秀吉が清洲会議をリードし、信孝や勝家と戦っていた頃、自己の領地拡大を図っていた。さすが、といえばさすがなのだが、本拠地三河から遠江、駿河はもとより、武田を滅ぼして織田家のものとなっていた甲斐、信濃までも手中にしていた。いつのまに、というやつである。そうして一大勢力となり、武田氏の軍勢も手中にしてますます強固になっていた徳川軍は、信雄の求めに応じて秀吉と向かい合った。これが「小牧・長久手の戦い」と呼ばれるものである。

 家康は当初信雄の清洲城に入ったが、秀吉軍が犬山城を攻め取ったため、小牧山に本陣を構えた。秀吉は大阪城築城などで遅れて犬山に入ったが、小牧山に陣取った家康は守りが固くそうそう攻め込めず膠着状態となった。
 これより先、先発隊の森長可が攻め込んだが逆に家康軍に敗戦している。この合戦は既に秀吉軍が一敗、もはや負けられないという状況が戦線を膠着させる一因にもなっている。
 この状況下で、池田恒興が秀吉に「留守となっている家康の本拠三河を奇襲したい」と申し出てきた。
 こういう戦争は、先に手を出した方が負けである。出てきた部隊を討つ方がはるかに容易い。賤ヶ岳でもそうだった。しかし秀吉には池田恒興に異を唱えにくい事情があったのだ。
 池田恒興は秀吉の部下ではない。信長の家来で、しかも乳兄弟(信長の乳母の子)であった。
 本来であれば、秀吉は三法師を手中にしているとはいえ、信雄の家来の立場である。信雄に弓を引くのは不忠。信孝を倒したのは信雄の命という理屈をつけて成り立ったこと。であるが、信長の乳兄弟の池田恒興も味方している軍ということで大義名分も立つのである。恒興が味方するくらいだから、他の織田家家臣連も秀吉に追従するのだ。おまけに恒興には清洲会議で秀吉に賛成票を投じた恩がある。
 なので秀吉は恒興の出陣を許可した。そして三好秀次(後の関白秀次)を同行させた。
 これが裏目に出た。
 家康はこの動きを察知し、秀次軍の不意を衝いて攻撃した。秀次は進行途中で休止中だったと言う。散々に打ち負かされ秀次は身一つで逃げるありさま。先行していた恒興、そして森長可軍も家康軍に阻まれて敗戦、恒興、長可は討たれた。戦死者は3000を数え奇襲軍は壊滅した。
 秀吉はしまったと思っただろう。しかしうかつに第二軍も出せず再びにらみ合いとなるのである。

 結局秀吉はどうしたか。なんと信雄と和戦協定を結んでしまう。
 戦って、しかも勝っている立場の信雄が秀吉と講和をするというのは実に不可解だが、秀吉はそれを実現してしまう。信雄が抜けていると言うべきか秀吉の謀略能力を褒めるべきか。このことは家康不在で行われ、結局家康は秀吉と戦う大義名分を無くして合戦は終了、という始末となった。秀吉は結局負けたままである。

 このことは秀吉の天下獲りに多大な影響を及ぼした。もしもこの合戦で秀吉が家康に堂々と勝っていたら、そのまま武力で天下統一を果たしていたと思われる。家康の首でも取っていたら、その後の関ヶ原も江戸幕府も存在せず、豊臣の天下が続いていたかもしれない。
 ちょっと話が先走りすぎた。
 重要なことは、秀吉はこの合戦に勝てなかったことで、征夷大将軍になり損ねた、という考えもある。
 今谷明氏の著作を読んでいて、「秀吉は小牧・長久手の戦いに敗れて将軍になれなかった」という一文に当たったことがある。その時は深く考えもせず、その他の今谷明氏の著作を読むこともしなかったので意味がよく分からなかったのだが、よくよく考えると「征夷大将軍」とは武士の棟梁であり最高実力者でないといけない。また「征夷」であるからして、東国を平らげることが条件となる。
 この小牧・長久手の敗戦によって秀吉は、戦争の実力№1を家康に譲ったことになり、しかも東国に攻め入れなくなった。これでは将軍の条件を満たさない。
 秀吉は征夷大将軍になることも視野に入れていた形跡があるのだが、この敗戦以降路線を変更し、家康には自分の母親まで人質にして頼み込んで臣下になってもらい、長宗我部攻め、島津攻めを完遂し西国を統一した後、ようやく東国に侵攻する。そして、将軍ではない新たな「関白」という位につくことを「発見」して、ついに将軍以外の方法で人臣を極める。
 いろいろな考えもあるだろうが、幕府を開いていたほうが安定したかもしれない。将軍より関白の方が位は上だが、関白という律令制下の位で全国を統べる時代では既になかった。しかし、秀吉の選択肢はそれしかなかった。それは小牧・長久手の敗戦が尾を引いているのではなかったか。

 幕府を開いたほうが何故安定するのか、そもそも幕府とは何か、ということについて考えたかったのだけれども長くなりすぎたので、次回の機会にまた考えてみたい。

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1 コメント

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腐っても幕府 (ゲバゲバ)
2018-02-08 20:10:59
やはり、腐っても幕府ですよ!
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