壬申の乱から80年を過ぎ、天武王朝は安定期を迎えるはずだった。天皇位は天武・持統の直系が継ぎ、天皇の権威は書紀の裏づけによって完成される時代を迎えようとしていた。時に孝謙天皇の御世である。
しかし、天智系の前王朝の生き残りは少しづつ天武朝を侵食していた。
それより前段階で、天智朝の遺臣である藤原氏は、不比等という稀に見る大政治家を生み出す。この不比等は、天智の娘である持統に食い込み(持統が引き上げたのかもしれないが)、天武系と血縁関係を結び徐々に力を発揮し出す。まるで藤の花が幹に巻きつき寄生していくかの如く勢力を蓄えた。一度は長屋王の祟りによって存亡の危機に至ったものの、直系の天皇である聖武天皇の夫人に光明子を送り込んで勢力を強め、産んだ皇子は早世したもののライバルである安積皇子を廃して、皇女の孝謙を即位させて再び政治の中枢に甦ったの。
そして光明子は孝謙の後見として、一族の雄である藤原仲麻呂を登用して藤原政権の足固めをする。
この藤原氏による天武系への食い込みを憂いていた聖武は天皇時代、天武朝初代の天武天皇の武勇と勢力を懐かしみ、いわゆる「聖武天皇の彷徨」と呼ばれる5年にわたる流離を行った。天武の血統が細くなっていくことを悲しみ、初代の威光を偲んで、壬申の乱の天武の足跡を辿り歩いたとも言われる。また、もしかしたら反藤原氏の勢力結集の意味もあったのかもしれないと考えもする。しかし聖武には抵抗する力も無く、病弱であることも重なって結局は時代の流れに身を任せるしかなかったものと思われる。天武の威光を取り戻したい、とは願っていただろうが。
光明子は藤原仲麻呂を太政官とは別の紫微中台という機関を設けてその長官とし、藤原政権をますます強固にしていった。軍事権を握り、太政官を凌駕していったものと思われる。
孝謙天皇は、父である聖武を見て悲しんでいたのではないか、というふうに僕は考えたりする。実権を奪われ、しかし天武の威光を取り戻したいと願っていたのだが叶わなかった父親。彷徨するしか出来なかった父を見て、しかも自分も傀儡であることを自覚し、鬱屈した思いがあったのではないか。即位して後、仲麻呂の台頭と聖武の死は続けざまに訪れる。好きだった父を亡くした孝謙も、その時点では光明子のロボットでしかなかった。
孝謙と仲麻呂が男女の関係にあったと巷間言われているが、僕としては疑問である。少なくとも仲麻呂を寵愛し引き上げたのは母の光明子である。
藤原政権は次の手を打つ。聖武が遺言して皇太子となった道祖王を廃する。人格者であったとも言われる道祖王は光明子=仲麻呂ラインからは外れた存在だった。しかし光明子に男皇子が居ない現状なので、仲麻呂は自分が引き立てた大炊王を皇太子とすることで藤原氏の傀儡政権とし、天武系の力を削いだ。
ライバルである橘奈良麻呂を鎮圧し、ついには孝謙に退位を迫って大炊王を即位させ(淳仁天皇)、仲麻呂は恵美押勝という名を貰い後見として権勢を極める。上皇となった孝謙の思いはどうだっただろう。
そしてついに、仲麻呂は宿願とも言うべき計画に着手することとなる。
それは、「新羅征伐」である。
唐において安録山の反乱が勃発していた。この乱で安録山は唐の首都である洛陽を攻め、玄宗皇帝を落ちさせた。このため唐の国力は一時衰え、そのために唐の新羅に対する影響力が弱まっていた。
渤海使であった小野田守が帰国、唐の情勢を伝えた。渤海とは高句麗の末裔とも言える。
天智朝は親百済政権であったと僕は考えている。藤原氏もその流れをくんでいる。しかし、白村江の戦いに敗れて後、天智朝は断絶の憂き目に遭っている。親新羅政権とも言える天武朝に壬申の乱で王権を奪われて以来、かつて親百済政権の中枢を担っていた藤原氏の末裔にとって、新羅攻略は「宿願」とも言えるものだったのではないか。
ちょっと突飛な考えに見えるとも思うが、僕は信憑性が高いと思っている。しかしあくまで私見です。
鎌足以来の白村江の遺恨を持ち、安録山により唐が混乱している今こそ新羅を倒せる絶好の機会であると踏んだ仲麻呂は、新羅の朝貢が滞っているのを理由にしてついに遠征の準備を始めた。
この出兵計画はもう少しで実現するところまでいった。仲麻呂は太宰府に行軍式を置き、五百艘の軍船の建造を命じた。銅銭発行も行い資金調達、また在日新羅人も徴用した。軍事通訳であろう。
こうして3年計画で出兵を準備し、将軍任命まで行っている。
この出兵がもし行われていたら。それはえらいことになった可能性がある。
100年前の白村江の戦い。これは、朝鮮半島における3国の覇権争いにおいて言わば援軍派兵であった。それでも唐・新羅連合軍に破れ、日本では外国勢力を恐れて遷都、防御の徹底(水城など)、そしてついに派兵した親百済政権である天智朝から天武朝への政権交代によってようやく難を逃れた経緯がある。
しかし、今度は日本は援軍ではなく独自に攻め込むのである。緒戦は真珠湾のようにうまくいくかもしれない。しかし、乱れているとはいえ新羅のバックには大国の唐が控えている。勝ち目は、薄い。もしも戦争を始めたら、百歩譲って新羅を征服したとしても、新羅を冊封体制に組み込んでいる唐が黙ってはいない。大国に本気で攻め込まれたら、おそらく唐の軍門に下るのにそう時間はかかるまい。
後の元寇の時は、軍事政権である鎌倉幕府が日本を治めている時期であり何とか撃退出来た。だがこの時期の日本の国力であれば、日本滅亡、中国に併呑ということもありえないことではあるまい。悪くすれば、中国の属国となってしまう。
このような無謀な戦争を仕掛ける理由がわからない。仲麻呂はキレモノなのである。やはりこれは、天智朝の遺臣の末裔であるという宿願がそうさせたとしか僕には思えないのである。
しかし、この計画は頓挫する。後ろ盾である光明子が亡くなるのである。
これを機に、足枷がなくなった前天皇の孝謙が盛り返して仲麻呂を排除し、新羅出兵は未然に防がれる。危なく日本存亡の危機は救われた、とも言える。
孝謙は仲麻呂を討ち、淳仁を廃し自ら重祚して称徳天皇となり、道鏡や吉備真備を重用して藤原氏の排除にかかり、天武以来の親政を執り行う。それは無念のうちに死んだ父・聖武の意向を継ぐものであっただろう。
道鏡と称徳に男女の関係があったと言われている。それについてはわからないが、既にかなり年配の僧侶同士、邪推ではないかと僕は思う。
藤原氏はここでもまた挫折するが、その後和気清麻呂の助力もあって道鏡を排することに成功し、藤原永手、そして謀略逞しい元祖タヌキ政治家の藤原百川らの活躍で称徳の死後、今度は正真正銘の天智の血を引く白壁王を立てて、天智朝復活を果たすのである。執念という他はない。
しかし、天智系の前王朝の生き残りは少しづつ天武朝を侵食していた。
それより前段階で、天智朝の遺臣である藤原氏は、不比等という稀に見る大政治家を生み出す。この不比等は、天智の娘である持統に食い込み(持統が引き上げたのかもしれないが)、天武系と血縁関係を結び徐々に力を発揮し出す。まるで藤の花が幹に巻きつき寄生していくかの如く勢力を蓄えた。一度は長屋王の祟りによって存亡の危機に至ったものの、直系の天皇である聖武天皇の夫人に光明子を送り込んで勢力を強め、産んだ皇子は早世したもののライバルである安積皇子を廃して、皇女の孝謙を即位させて再び政治の中枢に甦ったの。
そして光明子は孝謙の後見として、一族の雄である藤原仲麻呂を登用して藤原政権の足固めをする。
この藤原氏による天武系への食い込みを憂いていた聖武は天皇時代、天武朝初代の天武天皇の武勇と勢力を懐かしみ、いわゆる「聖武天皇の彷徨」と呼ばれる5年にわたる流離を行った。天武の血統が細くなっていくことを悲しみ、初代の威光を偲んで、壬申の乱の天武の足跡を辿り歩いたとも言われる。また、もしかしたら反藤原氏の勢力結集の意味もあったのかもしれないと考えもする。しかし聖武には抵抗する力も無く、病弱であることも重なって結局は時代の流れに身を任せるしかなかったものと思われる。天武の威光を取り戻したい、とは願っていただろうが。
光明子は藤原仲麻呂を太政官とは別の紫微中台という機関を設けてその長官とし、藤原政権をますます強固にしていった。軍事権を握り、太政官を凌駕していったものと思われる。
孝謙天皇は、父である聖武を見て悲しんでいたのではないか、というふうに僕は考えたりする。実権を奪われ、しかし天武の威光を取り戻したいと願っていたのだが叶わなかった父親。彷徨するしか出来なかった父を見て、しかも自分も傀儡であることを自覚し、鬱屈した思いがあったのではないか。即位して後、仲麻呂の台頭と聖武の死は続けざまに訪れる。好きだった父を亡くした孝謙も、その時点では光明子のロボットでしかなかった。
孝謙と仲麻呂が男女の関係にあったと巷間言われているが、僕としては疑問である。少なくとも仲麻呂を寵愛し引き上げたのは母の光明子である。
藤原政権は次の手を打つ。聖武が遺言して皇太子となった道祖王を廃する。人格者であったとも言われる道祖王は光明子=仲麻呂ラインからは外れた存在だった。しかし光明子に男皇子が居ない現状なので、仲麻呂は自分が引き立てた大炊王を皇太子とすることで藤原氏の傀儡政権とし、天武系の力を削いだ。
ライバルである橘奈良麻呂を鎮圧し、ついには孝謙に退位を迫って大炊王を即位させ(淳仁天皇)、仲麻呂は恵美押勝という名を貰い後見として権勢を極める。上皇となった孝謙の思いはどうだっただろう。
そしてついに、仲麻呂は宿願とも言うべき計画に着手することとなる。
それは、「新羅征伐」である。
唐において安録山の反乱が勃発していた。この乱で安録山は唐の首都である洛陽を攻め、玄宗皇帝を落ちさせた。このため唐の国力は一時衰え、そのために唐の新羅に対する影響力が弱まっていた。
渤海使であった小野田守が帰国、唐の情勢を伝えた。渤海とは高句麗の末裔とも言える。
天智朝は親百済政権であったと僕は考えている。藤原氏もその流れをくんでいる。しかし、白村江の戦いに敗れて後、天智朝は断絶の憂き目に遭っている。親新羅政権とも言える天武朝に壬申の乱で王権を奪われて以来、かつて親百済政権の中枢を担っていた藤原氏の末裔にとって、新羅攻略は「宿願」とも言えるものだったのではないか。
ちょっと突飛な考えに見えるとも思うが、僕は信憑性が高いと思っている。しかしあくまで私見です。
鎌足以来の白村江の遺恨を持ち、安録山により唐が混乱している今こそ新羅を倒せる絶好の機会であると踏んだ仲麻呂は、新羅の朝貢が滞っているのを理由にしてついに遠征の準備を始めた。
この出兵計画はもう少しで実現するところまでいった。仲麻呂は太宰府に行軍式を置き、五百艘の軍船の建造を命じた。銅銭発行も行い資金調達、また在日新羅人も徴用した。軍事通訳であろう。
こうして3年計画で出兵を準備し、将軍任命まで行っている。
この出兵がもし行われていたら。それはえらいことになった可能性がある。
100年前の白村江の戦い。これは、朝鮮半島における3国の覇権争いにおいて言わば援軍派兵であった。それでも唐・新羅連合軍に破れ、日本では外国勢力を恐れて遷都、防御の徹底(水城など)、そしてついに派兵した親百済政権である天智朝から天武朝への政権交代によってようやく難を逃れた経緯がある。
しかし、今度は日本は援軍ではなく独自に攻め込むのである。緒戦は真珠湾のようにうまくいくかもしれない。しかし、乱れているとはいえ新羅のバックには大国の唐が控えている。勝ち目は、薄い。もしも戦争を始めたら、百歩譲って新羅を征服したとしても、新羅を冊封体制に組み込んでいる唐が黙ってはいない。大国に本気で攻め込まれたら、おそらく唐の軍門に下るのにそう時間はかかるまい。
後の元寇の時は、軍事政権である鎌倉幕府が日本を治めている時期であり何とか撃退出来た。だがこの時期の日本の国力であれば、日本滅亡、中国に併呑ということもありえないことではあるまい。悪くすれば、中国の属国となってしまう。
このような無謀な戦争を仕掛ける理由がわからない。仲麻呂はキレモノなのである。やはりこれは、天智朝の遺臣の末裔であるという宿願がそうさせたとしか僕には思えないのである。
しかし、この計画は頓挫する。後ろ盾である光明子が亡くなるのである。
これを機に、足枷がなくなった前天皇の孝謙が盛り返して仲麻呂を排除し、新羅出兵は未然に防がれる。危なく日本存亡の危機は救われた、とも言える。
孝謙は仲麻呂を討ち、淳仁を廃し自ら重祚して称徳天皇となり、道鏡や吉備真備を重用して藤原氏の排除にかかり、天武以来の親政を執り行う。それは無念のうちに死んだ父・聖武の意向を継ぐものであっただろう。
道鏡と称徳に男女の関係があったと言われている。それについてはわからないが、既にかなり年配の僧侶同士、邪推ではないかと僕は思う。
藤原氏はここでもまた挫折するが、その後和気清麻呂の助力もあって道鏡を排することに成功し、藤原永手、そして謀略逞しい元祖タヌキ政治家の藤原百川らの活躍で称徳の死後、今度は正真正銘の天智の血を引く白壁王を立てて、天智朝復活を果たすのである。執念という他はない。
あと、阿倍と母の関係も!!
最近は持統は高市の傀儡、だから長屋王はあんなことになる必然があった。と、聖武と阿倍は天武の子孫であることを強く意識していたって考えているのですが光明子を中心に考えるとイマイチまだわからないんですよね(T_T)
記事を拝見して凛太郎さんと考えが近いような気がしたのですが如何でしょうか?
私も道鏡は妖僧ではないと思うし、伝えられてる関係ではないと思っています。
大変失礼な言い方かもしれませんが(先に謝ってます!)今日のこの記事はこういう解釈を書いて下さって本当に嬉しいです!
申し訳ないのですが、この記事は光明子と聖武をテーマにしていなかったので、かなり端折って書いています(汗)。長屋王の話にも触れていません。またいずれ書きたいとは思いますが…。
結局のところ天武朝と天智朝の対立構造の続きみたいな話ですのでかなり割愛しています(割愛してもこんなに長いのかという話はさておき^^;)が、僕は光明子は藤原氏そのものととらえています。ちょうど政子が北条氏であるように。なので政治的には天武リスペクトの聖武とは対立関係かと。聖武は弱かったので結果藤原氏の力を強めてしまったのではとも思います。通説では聖武は藤原氏側の人間なのですが。
しかし聖武が強ければ、長屋王のように消された可能性もあり、難しい問題です。
しかし、聖武と光明子の愛情関係についてはまた別問題だと思っています。政子が頼朝を愛したように。
僕は本文中にも書きましたが、孝謙(阿倍と書かなくちゃですか^^;)は誤解を恐れずに言えばファザコンだったのかも、とも思っています。これはあくまで想像。
この話は、僕の中では宿願シリーズ第三弾(笑)なのです。秀吉の朝鮮出兵、頼朝の奥州出兵と並んでですね。ただ秀吉の場合と同様、この仲麻呂も普通は誰も宿願とは見てくれないので書いてみたかったのです。なのでjasminteaさんの視点での言及が足りませんでしたね。
今から道鏡を書こうと思っているのですが多分今日中にはアップできません(汗)。しかしまた望まれるようなことは書けないかと思います。m(_ _;)m
日本国内であれば兵站を重要視して基地も作りますが(熊本の鞠智城は白村江の後の外冦に備えた兵站専用施設だと言われていますね)、海外になると補給線が延びるので実に難しい。おそらく略奪がかなりのウェイトを占めるのではと思いますが。
しかし、日本は昔から神風志向で兵站を軽視するキライがあります。それは第二次世界大戦時でもそうでした。精神論で乗り切ろうとしたって無理な話なんですけどねぇ…。