凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも平重盛がもっと長生きしていたら

2005年02月14日 | 歴史「if」
 前回、「頼朝、義経が生き延びてなかったら」の記事で、「平重盛が存命していたら」のifについて少し触れたのだけれと、もう少し書きたくなったので蛇足をつける。

 そもそも平氏政権とはどういうものだったのか。
 もちろんいろんな事柄があって一概には言えないのだけれど、重要なことは、「商業政策」であることだと思う。
 それまでの日本は、班田収受にせよ荘園にせよ、農業中心政策であり、貨幣経済は補助的役割しかなく、農業生産を上げることがすなわち「富」だった。そこに清盛は「商業的貨幣経済」を導入しようとした。それまでの物々交換中心の商業から貨幣へ。もちろんそれまでに日本に貨幣がなかったわけではないけれども、清盛は宋銭を大量に取り入れ、流通させようとした。
 「日宋貿易」は清盛の父、忠盛が先鞭をつけたもので、それにより忠盛は財をなし平氏の台頭の基盤を築いた。清盛はさらにそれを進めて貨幣経済を日本に定着させようとしたわけですね。
 だから福原に都を移し、貿易政権樹立へと向かったのだが、世の中はそれを理解しようとせず、結果このことが平氏滅亡の芽を生むこととなってしまった。
 清盛がやったことは早すぎたのかもしれない。日本は、弥生文化が入ってきて以来、米本位制の定着に全力を尽くした。大和朝廷はそういう政権であり、米を作らない縄文文化の人たちを駆逐してきた。坂上田村麻呂の東征とか、前九年の役とかはそうだ。そうしてようやく日本中が重農主義となったところで、時をおかずして清盛の貨幣商業主義が出てきたのだ。

 清盛は「暴君」と呼ばれ独裁者とされるが、こういう経済転換は独裁者でないとなしえないのかもしれない。しかし、機が熟さなかった。
 日本はその後も重農主義を採り続け、これに逆らうものは必ず消される。
 足利義満は日明貿易で重商主義を採ろうとするが、天皇家乗っ取りの渦中で死ぬ。暗殺説は数多く出ている。乗っ取りが原因だけでなく重商政策への反発もあったのだろう。後継の義持は従来路線に戻している。「天魔」足利義教はその貿易を再開させたが、赤松満祐に殺された。
 応仁の乱の後、日明貿易を掌握した大内義隆は、家臣の陶晴賢による謀反で滅亡する。
 織田信長は堺を押さえ南蛮貿易を握り、楽市楽座などの流通経済を促進したことはご承知の通り。しかしやはり非業に斃れる。秀吉は後を継いだが、やはり政権は保てず重農主義の家康にとって代わられる。
 龍馬はんは「世界の海援隊」を目指し、貿易し得る近代国家建設に奔走したが、やはり志半ばで斃れた。しかしここに至って、明治維新が興ってようやく日本は重農主義からの転換が図れたのである。
 これらの先駆者は清盛だ。しかし明治維新の約700年前であるから「暴君」と呼ばれるのも無理はない。時代は清盛を理解せず、平氏は滅びる。

 話が反れてしまった。
 平重盛は、清盛の第一子であるが、清盛よりも先に死んでしまう。
 鹿ケ谷事件(後白河法皇を中心とした謀反計画)の際、法皇の幽閉を決定した清盛を諌め止めさせた話で知られるとおり、清盛の専横を抑えることができる唯一の人物だったことで知られる。
 この重盛が平氏の棟梁となっていれば。
 重盛は温厚篤実な人柄であったと言われる。重盛がいなくなったことで、清盛は暴君ぶりをさらに進めるのだ。太政大臣はじめ多くの殿上人の官職停止、そして後白河法皇を軟禁。タガが外れたように暴走する(大和大納言秀長が亡くなった後の秀吉に酷似しているように思えてしょうがない)。こんなことも重盛がいればなかった可能性がある。平氏滅亡の萌芽を摘み取ることが出来たかもしれない。

 重盛は、亡くなるに際し清盛が宋の名医を向かわせたとき「異国の医師、都に立ち入れることならず。国の恥辱なり」と断ったという。史実かどうかはともかく、この逸話からかなり保守的な人物が浮かぶ。誤解を恐れずに言えば、重盛は家康型の人物だったのではないか。
 この重盛が「信長型」の清盛の跡を継げば、平氏政権がひょっとして続いていたと考えるのもあながち的外れではあるまい。二代目に調整型の人物が現われることで、初代の不平不満を吸収し、無理して貨幣経済を推し進めることなく、武家中心の長期政権の基礎が作れる可能性は高い。もともと人望は厚いのだから。
 そして関東に勃興した鎌倉政権に対して、重盛なら奥州藤原氏との連携も試みただろう。前にも書いたが、鎌倉幕府は豪族の共同政権であるためまだまだ不安定であり、西と北に脅威があればそうそう頼朝も全国制覇に向かえず、地盤固めに集中した可能性が高い。守護、地頭設置の勅許など当然下りない。さすれば、各々が独自に鼎立することも考えられる。平氏、源氏、奥州藤原氏のそれぞれが一国を成す。日本版「三国志」だ。極端だが、全く可能性がなかったわけでもないでしょう。

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12 コメント

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凛太郎さんこんにちは (jasmimtea)
2005-02-19 13:30:51
ご無沙汰しています。

最近、ちょっと忙しいためhttp://plaza.rakuten.co.jp/jyasmintea7/

に、アップしています。今度遊びにいらして下さいませ。URLで貼ったタイトルは私も同じこと考えて書いてみました。

凛太郎さんみたいに理路整然としていませんが‥(^^; ....



清盛・信長・龍馬は考え方が斬新すぎて時代に合わなかったと思っています。

確かに、重盛が生きてたら‥って思うのですが結局は彼のあとを継げる人がいないのは同じですし、時子が重盛のバックアップをしたかどうか‥。

それに奥州も秀衡亡き後はどうだったか‥。

やっぱり歴史って不思議なタイミングの積み重ねですよね。

でも、確かに重盛が存命だったらタヌキは源氏とはくっつかなかったかもしれませんね!!(すっかりタヌキで定着してしまいました笑‥)
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ようこそ♪ (凛太郎)
2005-02-19 23:46:35
こんばんわ♪



いやー、ブログお邪魔させていただきました。立派なブログで驚くとともに、あちこちにリンク先が。そんで見ていくと、どんどんjasmimteaさんの世界が広がっていく…。いやーびっくりしました。お忙しいでしょうによくもあれだけの記事を執筆出来ますねぇ(感動)。筆力に脱帽です。僕なんてここと、あとは某所でボヤいているだけで、とても毎日更新など覚束ないですし。弟子入りしたい気持ちです。



まあ重盛については…。

僕は専門家ではありませんので、針の穴ほどの可能性でifを考えてしまいます。確かに重盛の後継を考えると難しいですが、組織さえちゃんと出来てしまうと続く可能性だってあるのです。足利義詮だって徳川秀忠だって続いたのですし(義詮や秀忠がボンクラとは言いませんよ 汗)。鎌倉幕府なんて、子孫がいなくても続いた(笑)。まあ可能性を考えて楽しんでいるだけですのでお見逃しの程を。(* ̄m ̄)プッ
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先日はコメント&TBありがとうございました (jasmimtea)
2005-02-21 23:26:30
すっかりお礼が遅れて失礼致しました。



ところで凛太郎さん、「義経」見ていらっしゃるんでしたっけ?

来週は重盛の烏帽子事件のところです。

どんな解釈でどんなふうに描かれてるのか楽しみです。

でもね、重盛ファンの私にはブーイングの描き方のような、、悪い予感‥。



明日、明後日は格闘技ファンには楽しみですね
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恥ずかしながら… (凛太郎)
2005-02-21 23:51:47
わざわざ書き込んでいただいて恐縮です。^^;



「義経」は、正直ちゃんと見たのは先週の「夢の都」からです。お恥かしい。平幹二郎のタヌキも見ました(笑)。

烏帽子事件は重盛の人望と温厚篤実さを描写しようとするとネックになる事件ですねぇ。「致し方なく…」という描き方をしてくれるとわかりやすいのですが。見て視たいと思います。



明日も明後日も格闘ファンは盛り上がるでしょうねー。僕ももちろん見ますが、「プロレス者」の僕は徐々に置いていかれそうです(汗)。

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Unknown (うてきなぷりぱ)
2008-12-13 18:20:52
はじめまして、うてきなぷりぱと申します。厳島にございます国宝の甲冑「紺糸威鎧」が平重盛公の寄進とされていることから、今重盛公をはじめ平氏のことを色々調べております。特に清盛公と厳島の関係は外すことができません。貴ブログ興味深く拝見させていただきました。
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>うてきなぷりぱさん (凛太郎)
2008-12-14 23:24:16
ありがとうございます。この記事は約4年前のもので、今読むと全くお恥ずかしい限りです。
骨子はさほど悪くはないとは思うのですが結論が突飛すぎますね。お見逃しの程を(汗)。
当時の東国の武士の状況は、幕府が成立したこともあって事細かな研究もなされていて僕のような素人にも分かりやすいのですが、西国の豪族の割拠の様子は概念がつかみにくいんですよね。伊勢平氏である清盛の一族がどのように西国に勢力を伸ばしていったかということをいろいろ勉強すると興味深いであろうことは僕も分かっているのですが、なかなか手が出ません…。
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Unknown (KS)
2012-06-30 21:25:37
こんばんは。
何故かyahoo!で「平清盛」を検索すると、こちらのページが上位にきてしまいましたので、お邪魔しました。
一ヶ所だけ、指摘させて頂いてよろしいでしょうか?
暴君の清盛、温厚篤実な重盛という人物像は「平家物語」によるフィクションです。
物語の演出として、清盛を悪役、重盛を平家一門の良識派というキャラクターに設定したのです。

しかしながら、清盛が時代的に時期尚早の重商主義を展開し、重盛がその行き過ぎを緩和した可能性がある、という視点は、なるほどと思わされました。
「平家物語」の作者にその視点があれば、物語をもっと盛り上げられたかもしれません。
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>KSさん (凛太郎)
2012-07-01 04:04:41
どうもありがとうございます。「何故か検索すると上位にきてしまいましたので」とは、えらい皮肉ですね(笑)。そんなのはyahooの都合なんで知りません。
僕もこの7年半前の記事を久々に読み返しましたが、確かに突っ込みどころ満載です。今ならこんなふうには書かないだろうな、と。「米本位制の定着に全力を尽くした」とかね。修正したい箇所がいくつもあります。
それでも「暴君」と一応カギカッコ付きで書いていますよ。そこを汲み取って欲しかったと思いますね。当時は、そう書いたほうが読者に分かりやすいと思ったのです。最近は、そういう読者を想定して端折って書くという視点は当方から抜けていますが、この昔の記事が何故か検索上位に来るので困ったことです(笑)。
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Unknown (taku)
2012-07-08 13:21:41
私も「義経」繰り返し見て涙を流してます(T_T)
平家一門で一角の武門として誇れるのは
清盛・重盛・知盛・重衡の4人だと思えますね。
特に、重盛の死はホント残念でしたね・・・。

それに対して、宗盛はじめ維盛などは
ただの公家に思えます。
実際どんな人物だったのかちょっと知りたいですね。。
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>takuさん (凛太郎)
2012-07-09 05:29:04
ありがとうございます。
事績ではなく人物像をはかるのはホント難しいですよね。僕は重盛を評価していますが、いろんな説があります。
平家物語の影響は強くて。宗盛はどうしてもあまりいい印象を持たれることがありません。僕は以後のブログ上などで藤原泰衡、北条高時そして宗盛を擁護する発言を繰り返しています。宗盛の悪評は、ちょっと気の毒に思えましてね。
確かに平家一門を率いるには少し荷が重かったのかも、とは思いますが、もしもそこまでの立場でなければ、それなりに能力を発揮した人ではなかったのでしょうか。
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