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凛太郎の徒然草

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もしも信長が桶狭間の奇襲に失敗していたら

2006年07月21日 | 歴史「if」
 戦国時代というものは理解しにくい。
 室町幕府の権威が崩れ、乱世の中で、力の強いものが土地を切り取り、武勇をもって実力で領国を増やしていく形態で、その中から出てきた戦国大名と呼ばれる有力な武将が、いずれ天下を統一しようと凌ぎを削っていた状況であるのならば話は早い。かつてはそのように理解されていた。
 しかしながら、現在では、有力戦国大名が全て最終的に天下統一を目指していた、との考えは定説ではなくなっている。皆少しでも領土を多くしようと争いを続けたが、最終的に天下を全て我が物にするという発想を持つには至っていなかったのではないか、というのが通説となっている。
 その発想を持ちえたのは天下でただ一人、天才・織田信長だけであった。

 信長が「天下統一」を意識しだしたのはいつであるかはわからない。ただ、信長も18歳で家督を継いだ時点では、まだ尾張一国も手中に収めてはいない。若い頃から小競り合いを繰り返し精力的に国内平定作業を続けた。そうしてようやく尾張一国内で最大勢力を得た頃、尾張の東、駿河に本拠を置く今川義元が、突然大軍を率いて尾張を襲った。
 義元の目的はなんであったのかははっきりとはわからない。上洛のための大軍であったという見方が大勢であるが、それも否定する意見もある。ともあれ、今川軍は西上し、尾張の織田を踏み潰すであろうことは間違いなかった。織田信長最大の危機である。兵力は今川軍が2万5千とも3万とも言われている。織田軍はせいぜい3000。どう考えても勝ち目のない戦争で、信長は一発逆転の奇襲を打ち今川軍を壊滅させる。「桶狭間の戦い」である。

 この戦いは、巷間言われているように「窮鼠猫を噛む」式の偶発的なものだけではない。諜報戦であり、信長が「ここでしか勝てない」というギリギリの部分でピンポイントを突いたものであって、信長が勝つにはそれなりの裏づけもある。しかし、信長が勝ったのは必然、とまでは言えないだろう。やはり天佑というものもあった。様々な偶然も折り重なって、兵力1/10の織田軍が勝てたのだ。
 信長は、戦力の差からまともにぶつかっても勝てないことはよく承知しており、狙うなら国境で、戦力が細長く伸びざるを得ない場所しかないと考えていた。それが桶狭間であり、斥候を放ち諜報活動を徹底させた。そして今川先鋒軍(これは後の徳川家康軍だった)が織田の砦である鷲津、丸根城を落とすも捨て置いた。この先鋒軍の制圧によって本隊が動き、義元が行軍を始めた。それのみを信長は狙い、間道を伝い一気に本陣を突く作戦に出たのだ。
 しかしそれだけでは大軍には勝てない。ひとつは本隊が、松平(徳川)軍の先勝によって緩んでいたこと。そして、織田が圧倒的な戦力不足であることは承知しており、攻めて来る可能性を低く見ていたこと(こういう場合は籠城が常套手段である)がある。ゆえに、今川軍は信長がピンポイントと狙った桶狭間(田楽狭間とも)に着いたときには、昼食を摂っていたとも言われる。前祝で酒も振舞われていたとも。完全な油断。そしてこの状況を信長が諜報作戦で知りえていたことがある。
 戦法は、とにかく大将の首だけを狙う。あとは切り捨てである。これもスピードアップに貢献している。
 そして、風雨に乗じることが出来たこともある。折からの集中豪雨で、織田軍の接近に気がつかなかった、またこの雨のため連絡が途絶え、伸びている軍勢を立て直すことが出来なかったこともある。これらは「天佑」の部類だろう。そうして信長は義元を討ち、戦いに勝利を収める。

 それにしても、よく勝てたものだと思う。何かひとつ歯車が狂っただけでも勝てなかっただろう。信長はこれ以降、一切奇襲攻撃などはやらなかった。自分でも「運半分」だと承知していたからだろう。
 つまり、この戦いは負けていた可能性の方が高いのだ。もしも今川軍が桶狭間で休止していなかったら。行軍が早かったら。また、集中豪雨がなかったとしたら。
 信長は善戦空しく蹴散らされていただろう。戦死していた可能性も高い。信長はどんなことがあっても逃げ延びる男だが、この場合は危ない。よしんば逃げ延びたとしても、尾張は今川のものとなり信長は落ち武者になるしか道はなかっただろう。天下などゆめまぼろしである。

 もしも信長が今川に敗れていたら。これは日本史最大の「if」であるかもしれない。その後の日本史の流れが全く読めないからである。
 まず尾張は今川のものとなり、織田家はなくなる。信長の天下への芽は途絶える。これは間違いない。
 そして、仮に今川義元の行軍が上洛目的だったとしよう。上洛して、没落した足利将軍家を再興し、自らは幕府の執権となって天下に号令する。そういう筋書きだったというのが定説である。そうすれば、まず今川軍の当面の敵は美濃の斉藤である。
 これも踏み潰していこうとするだろう。戦力差がある。美濃も攻略して一気に京へ攻め上るか。
 しかし、世の中は下克上である。今川と言えども一気に京へは到達出来ないのではないか。周りは敵だらけである。信長の時は、美濃平定のあと本拠を岐阜に移し、そこで兵力を蓄え(兵農分離もある)、京へ上った。しかし、浅井、朝倉には苦しめられることとなる。そして、信長がこういうことが出来たのも「清洲同盟」があったればこそである。家康という愚直なまでの誠実さを持った武将(当時は家康はタヌキではなかった)が後顧の憂いを無くしてくれたから出来た進軍であるということも見逃せない。果たして今川は? 後ろには「善徳寺同盟」の北条氏康、武田信玄がいる。これらは家康ほど人がよくない。兵站が伸びた今川軍をだまって見ているだろうか。そうは思えない。お尻に火がつくことも十分可能性としてある。
 仮に信玄は謙信との喧嘩が忙しく、また北条も関東経営でとても同盟破棄には至らなかったとしても、駿河から美濃、近江までは距離が長すぎる。領地経営をしっかりしていかないと、例えば三河一向一揆などはこの時期に起こっている。真ん中で分断されないとも限らない。東海道をしっかり平定しないと、ただ京に大軍を率いて上っただけでは天下に号令など出来ない。しかしそういう領地経営を行っていると、義元は何歳になってしまうのだろうか。

 仮に、そういうものをすっ飛ばして上洛し、大軍をもって松永弾正を蹴散らし、足利将軍を奉じて天下に号令したとしよう。しかし、その後室町幕府を再興し自らが執権となって、かつての義満、義教の時代のように中央集権的政府が運営できるのかどうか、と言えば疑問も残る。確かに今川家は血筋もよく、執権足りうる家柄ではある。しかし世の中は下克上、家柄や権威などすっ飛んでいる。当時は軍事力が全てだ。そうすると、今川にそこまでの力があるのかどうか。東海道を蹴散らして進んできただけであれば。仮に、仮に御威光で、駿河・遠江・三河の他、尾張・美濃・南近江と全ての豪族が今川に忠誠を誓い、一大勢力となっていたらそれは別だが、そこまでは御威光だけでは無理だろう。領国経営をしないとダメ。しかし力がないと、松永弾正はまた噛み付くわ、朝倉も六角も、みんな反抗するだろう。本拠地の後ろには北条、武田。とても京都を維持出来ない。また義元も若くはないのだ。跡継ぎは氏真だが、彼は巷間言われるほど愚鈍ではなかったにせよ、乱世の執権には荷が重い。そうしてまた天下は乱れ、群雄割拠の時代へ逆戻り、ということになる可能性がもっとも高い。
 武田信玄が出てくる、ということを言う人は多いだろう。歴史ファンに信玄待望論は多い。しかし、信玄が京に上ろうという発想を得たのは信長の成功を見て後だ。当時は天下取りの考えはない。しかし仮に、今川の状況を見て、「ワシなら」と出馬する可能性もあるにはある。だが、信玄とて寿命があるのだ。やはりこれは信長のような若者でないと難しいことなのだ。一代で成し遂げないと難しい。勝頼がいるにはいるが、難しいだろう。
 この他、今川が一時的にでも天下に号令すれば、野心を持つ武将は確かにいる。上杉や毛利はそこまで考えないかもしれないが島津、長曾我部は考えるかもしれない。しかし彼らは京に遠い。やはり第二世代が覇権を担うことになるのではないか。
 天下取りを狙った若者として、第二世代の代表格としてこのあと伊達政宗が出てくる。彼の発想、そして実力は唯一信長的とも言える。しかし、政宗も信長に影響されていることは否めない。それはともかく、京ではなく関東進出で力を蓄えていずれ天下を狙う、ということは絶対にないとは言えない。しかし可能性は薄いだろう。東北からではなかなか中原を制することは難しいのではないか。立地条件も重要だ。

 したがって、天下の行方は全く読めない。このあとどんな天才が出てくるかなどわからないからだ。秀吉はどうなっているかわからないし、家康は今川配下に居るとしても成り上がってはこれまい。信長の存在がいかに大きかったかがわかる。
 極端な話、天下統一はなされない可能性だってあるやもしれない。たった一人の天才が時流に押されて出てこない限りは、九州は島津、中国は毛利、四国は長曾我部、東海は今川、関東は北条と、それぞれで独立して力を蓄え、睨み合ったまま最終的に日本は、統一政権を持たないままいくつかの公国に分断してしまうかもしれない。そして独自の領国経営をしながらそのまま何百年か過ぎる。
 そして黒船がやってくる。統一国家を持たない日本という島は、列強の草刈場になってしまうだろう。考えるだけでイヤになってしまうな。

 信長という天才を僕はどうしても人間として好きにはなれないが、彼の存在というのは相当に大きかったと思う。公国分断化は極論でありそうはならなかったとは思うが、現在の日本の基盤を築いた功労者であるのは間違いないと思う。また、いいときに斃れたとも思う。そのままずっと長生きすれば、もしも本能寺で信長が斃れていなかったらで書いたように海外進出、そして日本転覆の可能性もあった。歴史というのは不思議なもので、うまく役割を配していると本当に思う。


もしも大阪遷都が実現していたら

2006年06月01日 | 歴史「if」
 旅のカテゴリで、「僕の旅 大阪府」を書いたので、表記のようなことについて考えてみたいと思う。もちろんこれは、明治維新による大阪遷都についての「if」のことである。
 その前に「首都」の定義について考えてみたい。辞書的には、「一国の中央政府のある都市。首府。(goo辞書)」となる。では中央政府とは「国家行政の中心機関。内閣の行政官庁や、連邦制国家における連邦政府をさす。(goo辞書)」となる。
 ということは、江戸時代には、日本の政治的中心である幕府があった江戸が首都であるということになる。事実、幕末期に諸外国は江戸を首都としてとらえ、開国を幕府に要求した。
 ここからは話がややこしくなってしまうのだが、結局日本が出した判断は「首都は京都」ということであった。これは幕府が開国に際し、対応を朝廷にお伺いをたてるということをしたということで表面化する。将軍の任命権は天皇が持ち、天皇が元首であると幕府が認めてしまったに等しい。ここから、江戸にある幕府は政治を仮託されているにすぎず、あくまで首都は元首のいる京都であるということになる。ややこしい二重構造だな。
 つまり日本においては、古来より「天皇のいる都市が首都」という定義になる。辞書や外国の認識と少しズレが生じる。ここの部分について話をしだすと先に進まなくなるので「京都は平安遷都以来首都であった」ということにしておく。「天皇のいる都市」が首都なのだ。これは日本にだけ通用する定義である。

 さて、大阪。そもそも日本の首都は古代、大阪にあった時代がある。河内王朝がもしも日本の単独王権だったとすれば、この時期の首都は大阪である。応神、仁徳天皇陵をはじめ巨大古墳が残るのは大阪だ。河内王朝はこのような巨大墳墓を作れるだけの土木力を持っていたのだ。当時の日本首都であった可能性は極めて高い。
また後代、孝徳天皇は難波宮を築いた。これはあくまで天皇の住居であって首都機能を持っていたかどうかは疑問視されるむきもあるが、天皇が居住した点においては首都であったともいえる。そして、奈良時代には聖武天皇が難波京遷都を実施した。これは僅かな時間であったが首都機能を持っていたとされる。
 その後、大阪は首都となる機会はなかった。正確にはチャンスはあったのだが(jasminteaさんの大坂遷都を夢見た人たち参照)、結局果たせずに幕末を迎える。

 前置きが長くなった。
 嵐を呼ぶ幕末から明治維新を迎えようとするその最終段階で、首都を京都から大阪へ移そうという計画が進行した。大阪遷都である。この大阪遷都を画策したのは大久保利通であった。
 主旨は、幕府崩壊による混乱(この当時鳥羽・伏見の戦いは終わっているものの旧幕勢力はまだまだ残っていて、新政府も基盤が出来ていなかった)に対して、旧弊を改めご一新とするには遷都が有用であるとの考え方による。
 そもそも幕末に大阪遷都論を主張したのは大久保が最初ではない。平野國臣や真木和泉が既に主張している。また薩摩の伊地知正治は大久保に先立ち大坂遷都論を主張している(伊地知は京都を狭隘などと言っていて京都人としてはちと腹が立ったりして)。
 さて、大久保は大阪遷都を建白する。内容は、政治の一新と朝廷改革。桓武天皇が平安遷都したように、全てを新体制としたかったのであろう。国内外へのアピールともなる。建白書は合理的なものだった。

 この遷都建白に対し、保守的はもちろん抵抗。計画は二転三転することになる。そもそも大久保の建白はまず「遷都ありき」であって、京都を離れることが重要であり大阪にする積極的な理由は少なかったと言ってもいいと思う。
 確かに地形は大阪がいい。水運にも優れ、地勢的には申し分ない。当時既に経済の中心地であり、因循とは無縁。だが、それだけであったとも言える。
 江戸城開城と上野戦争の終結。その頃から江戸(東京)遷都論が持ち上がってくる。結局、大阪遷都は見送られて東京遷都という結論に達する。

 この過程に、前島密の東京遷都建言があったことはよく知られている。前島密は幕臣であり、大久保につてが無い為「江戸寒士」という筆名で大久保宅に匿名投書したと言われる。
 内容は、
・大阪は日本の中心でないこと(旧来なら大阪が中心だが、北海道を入れると東京がほぼ真ん中になる。この時点で蝦夷地開拓のことは検討されているが、沖縄のことは考えられていないことがわかる)。
・港が小さい(堺は河川の砂で底が上がり、この頃は兵庫港が使われていた)。
・市街地の規模が小さい。江戸には役所や住居となるべき大きな建物が多いが大阪にはない(大阪城が戦火にあったが江戸城はそのまま残った、また大名屋敷その他も残されている)。
・大阪は既に経済の中心であり遷都がなくても衰えないが、江戸は政治をとられたら衰える(江戸の市民は幕府依存で生活していたとも言える)。
 以上のような内容であった。
 前島密の建言で大久保がそれまでの考えを突然翻したように言われることが多いが、そんな簡単なものではなかっただろう。様々な嘆願や圧力、そして十分に検討した結果東京遷都になったと思われる。しかし、この前島密の建言は的を得ているとも言える。実情はどうだったのだろうか。
 僕はやはり
・まだ戊辰戦争が終結しておらず、東進の意味合い。
・政庁その他の建物が既にあった。
 これが重要なポイントであったと考えている。特に建物というのは案外重要で、都道府県の県庁所在地も結局、県庁となるべき大きな建物があったからそこに決まった、という実例も多いのである。ましてや国の政庁ともなると、かなりのものを建造せねばならないが、新政府には金がなかったのである。出来れば既存のものを使いたい。当初の大阪遷都論には「大阪城の活用」が当然念頭にあっただろうが、鳥羽伏見の戦いで落城してしまった。一方江戸城は無血開城のためそのままである。大名屋敷その他の建物もそのまま残され、都市機能が充実している。結局修辞的に言えば、新政府は「金がなかった」ために、東京遷都を行ったとも言える(極端に穿って言えばだが)。

 ということは。もしも江戸無血開城、あの西郷と勝のとっつぁんの話し合いが決裂していたら、そして江戸が西郷の構想どおり焦土と化していたら、東京遷都はなかったのではないか。東京遷都を目標に新政府は動き出したとしても、東京に拠り所がなく皇居移転も出来ないではすぐには遷都できない。しばらく京都・大阪併用で政務が行われ、そのうち既得権も生まれてますます東京へは行きにくくなり、結局なし崩しに(日本人の得意なパターン)大阪で首都が営まれていた可能性もあるのではないだろうか。(面白いぞ)

 もしも日本の首都が大阪だったなら。このifは考えれば考えるほど面白い。ただ、大阪が首都でなくてよかったなぁと僕などは思う。当然大阪は1000万人都市となるわけだが、大阪平野はそんなに広くないのである。なので、生駒山は平らになり、六甲山は削られ、奈良はベッドタウンとなる。平城京址がそのまま残されているような贅沢な現在の状況など考えられないのである。宅地になりマンションが建つだろう。また、美味しい泉州の水ナスや聖護院かぶらなど消えているだろう。農地など残す余裕はないのである。関東平野は広いから、練馬大根も生き残れるのだ。そう考えると、東京遷都でよかったのかなと僕などは思う。勝のとっつぁんのおかげで美味い水ナスが食べられるのかもしれない。
 また、よく言われることだが、関西弁が共通語になっていたのではないか、という視点。そないなったらオモロイとワテなんかは思うたりもすんにゃけど、それはあるまい。共通語(標準語)の形成にはもっと様々なことがあって、これだけでひとつ記事を書きたいくらいなので詳述は出来ないが、結局今の言語は文部省が作ったのである。江戸の言葉は参考にはなっているが、造語と言ってもいいのではないだろうか。例えば「おとうさん・おかあさん」なんて言葉は文部省が作ったのである。
 しかしながら、アクセントは関西言葉が採用されていた可能性はある。もしもそうなっていれば、母音の発音が強い、なんとなしにもう少し柔らかい言語世界になっていたのではないかなぁ、と京都人である僕は思うのである。

 ※もちろんみんなお遊びで書いていることであります。ご承知とは思いますが。


もしも…番外編 沖縄の歴史その後

2006年05月12日 | 歴史「if」
 前回からの続き。

 明治維新の成立後、1871年廃藩置県を実施した日本政府は、琉球を鹿児島県の管轄下に置く。中国と日本のグレーゾーンに存在するとは言え、琉球は独立国であるはずなのに。
 1872年、日本政府は琉球王国を一方的に廃止して琉球藩を設置した。これは琉球に了解なしの抜き打ちであった。日本政府は維新慶賀の派遣使節を琉球に要求した。琉球はかつての「江戸上がり」と言われた琉球の江戸幕府への使節と同様に理解し上表文を作成したが、これを鹿児島県権典事右松五助が添削、「琉球国中山王尚泰」を「琉球尚泰」に、その他の親方うえーかたなどの位階名なども省いた。そして王府にその意図を知らせず、琉球を勝手に日本政府直轄とした。ひどい話である。
 清はこの日本に反発、琉球の領有権を主張した。日本は琉球領有の正当化のため、1874年に台湾出兵を行ない、琉球を日本の領土であるとした。1875年、薩摩出身の大久保利通は琉球の独立などお構いなしにどんどんと既成事実を積み重ねていく。やったことは、中国への進貢禁止、冊封受け入れ差し止め(外交権停止)、日本軍駐留、日本の国内法による一元的内国化(司法権接収)である。軍事力を背景とした植民地化政策である。大久保主導で進められたこれらの政策は根本が薩摩の侵攻となんら変わることがない。
 1879年、西南戦争も終結した日本政府はついに「琉球処分」を断行する。「統合」ではなく「処分」なのである。政府は軍隊並びに警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入(後に沖縄県を設置)した。王府の首里城からの退去、藩主(琉球国王)の上京、土地人民の引渡し(版籍奉還ということ)を強行する。こうして、ついに琉球王国は滅亡した。

 ここまでくれば「薩摩が」などと言うつもりは僕にはもちろんない。日本政府がやったことである。薩摩が隠し知行などから南進して琉球に侵攻しなかったら、とは考えるが(歴史の分岐点ではあったが)、ここに至って日本は万国津梁の平和の国、琉球王国を滅ぼしたのだ。
 しかしながら、それでも沖縄が日本の一部となったことで幸せが訪れるのなら、独立国の矜持は別として、終りよければ全てよしとも言える。しかし全然終りが良くないので「ひどいこと」なのである。
 日本政府は沖縄を「植民地」としか捉えていなかった。清国がこのことに反発し領有権問題を提示した際、日本は石垣島や西表島などの先島諸島を割譲して収めようとしている。日本の沖縄への認識はその程度のものだったのだ。これは結局合意に至らず日清戦争まで発展してしまったが。
 また、日本は沖縄に対し、急激な変革は反発もあると考え「旧慣温存策」をとり徐々に日本化する方針で臨んだが、そのために旧来の人頭税(薩摩支配以来の過酷な税)が残ったり、また逆に1889年に施行された衆議院議員選挙の選挙権は与えられなかった。なんということか。また、皇民化政策として「標準語励行運動」が行われ、方言札(標準語奨励のため学校で行われた罰。沖縄方言を禁じ、方言を使うと、次の違反者が出るまでみせしめの札を首から吊るすことを命じられた)というものまであった。朝鮮や台湾を併合した際に日本語を強要したのと同じ文化破壊行為である。

 このように沖縄は日本に振り回される歴史を歩まざるを得なかった。その極めつけは、あの沖縄戦である。
 ここまで来ると政治論のようにもなるし反発も予想されるので筆が鈍る。お前に何がわかるとも言われるだろう。がしかし…。
 1945年4月1日、アメリカ軍本島上陸。ただし日本軍は強い反撃をしなかった。米軍は西海岸から2日で東海岸へ。本島は分断し20日程で北部制圧。このような簡単な上陸には意図があったと言われる。米軍を本島に引き入れて戦いを長期化させ、本土攻撃を遅らせ、米軍の犠牲をより多くして本土決戦を有利に進めるための作戦であると。事実なら沖縄は捨て石にされたのだ。
 その結果、住民を巻き込んだ壮絶な地上戦が展開される。5月に首里占領。しかし壊滅状態の日本軍はまだ降伏せず南部摩文仁に司令部を移動。多くの住民が避難していた南部にわざわざ軍が移動し、結果軍人を上回る住民の犠牲(4人に1人とも3人に1人とも言われる)を生んだのだ。日本軍による避難民の壕からの追い出しや食糧強奪、また沖縄方言が聞き取れないことからのスパイ容疑などで住民虐殺がおこなわれたとも言われる。簡単に書いてしまっているが、これほど悲惨で非道なことはない。

 沖縄の苦難はまだ続く。戦争終結後も沖縄は米軍の占領下に置かれた。サンフランシスコ講和条約が締結されて後も、米軍の沖縄占領は続いた。日本はかつて、清国と揉めた際に先島諸島を割譲しようとしたが、今回も日本は沖縄を犠牲にして平和条約を結んだ。沖縄は朝鮮戦争、そしてベトナム戦争の最前線として危険に晒され続けた。その沖縄の米軍基地は「銃剣とブルドーザー」によって強制接収された私有地が多くを占める。農地を取り上げられた人々は生きる糧を失った。

 1972年、沖縄の日本返還がなされたが、米軍基地はそのまま残されてしまった。
 沖縄の面積は日本の1/170しかない。その中に日本全体の7割の米軍基地がある。日本本土の米軍基地は旧日本軍が所有していた土地が中心だが、沖縄は私有地が多い。土地を奪われた人たちがまだまだ多い。土地を収容されているということは、産業発展の妨げ、都市開発の遅れになっていることは明らかである。失業率の高さもここに由来している。そして空域制限、水域制限もなされている。あの低空で飛ぶ旅客機を見ると、様々な足枷がまだまだ強いことに気がつく。

 まず理解から始めなくてはいけないだろう。かつて平和と礼節の国だった沖縄が、今も戦争に振り回されている。なんでこんなことになったんだ?
 「沖縄独立論」が論議されて久しい。沖縄はかつてもちろん独立国であり、琉球処分(独立を奪われた日)から日本時代、占領時代にも常に声が上がる繰り返され続けた話である。現在も、居酒屋の酔談から出版まで連綿と議論が続く。独立した場合の経済や外交シュミレーションを考察している人もいる。
 こんな議論には口を挟める道理もないし、感情論を完全に理解するのは無理だろう。ただ、現状理解だけはしておきたいと思う。現在の基地依存経済は決して望んでそうなったものではないこと。コザ暴動や少女レイプ事件、ヘリ墜落は氷山の一角であること。

 未だにifの結論は出ないままである。

もしも薩摩が琉球に侵攻していなかったら

2006年05月10日 | 歴史「if」
 沖縄を訪れるたびに、この島々の美しさと文化の素晴らしさを思う。何度足を運んでも心が洗われて帰る。島の人々の矜持、ホスピタリティ、そして平和への強い願いをひしひしと感じて、前を向く気持ちになれる。
 この島が、何故犠牲にならなくてはならなかったのか。第二次世界大戦の沖縄焦土作戦。20万人の死者のうち12万人は住民と言われ、掌握出来ていないだけでもっと多いとも言われる。被害は計り知れない。そして今も、一等地は米軍の占領下にある。例の9.11の時は、沖縄にもかなりの緊張が走った。
 もともとこの島は、平和の島であったはずなのに。

 沖縄の歴史は苦難の歴史である。
 日本との関わりで見ていくと、7世紀以降、日本に律令国家が成立した頃、書紀には奄美、信覚しがく球美くみが入貢したとある。信覚は石垣島、球美は久米島のことであろう。日本との関わり合いはこの頃から正史に現われる。白村江以降、遣唐使船が朝鮮経由でなく南方航路をとるようになって、中継地としての役割を果たしたようだが、菅原道真の遣唐使廃止によって日本史書からしばらく消える。
 中国との関わりはもっと深い。沖縄からは、紀元前の燕の古銭、漢代のやじり、銭が出土している。随書に「流求(琉球)国伝」が現われる。この時点では、沖縄が中国寄りなのか日本寄りなのかはよくわからない。
 宋の外国貿易振興政策により、海外交易ネットワークの拠点としての役割を担うようになり、また明の時代には、明朝の海禁政策~朝貢体制の中で、沖縄は特権的地位を占め(一時は進貢回数、貢期の制限がなかった)、10年に一度しか朝貢出来なかった日本や、その他東南アジアの国々が沖縄を通じて中国物資を得るという中継貿易の担い手として隆盛を極めた。
 この頃の沖縄の歴史はあまり浸透しておらず、本土では知る人は少ない。按司(地方豪族)の時代、北山・中山・南山の三山時代、そして尚巴志による統一と琉球王国の形成。固有の歴史がある。護佐丸や阿麻和利、そして第二尚氏の誕生など興味深い流れは歴史好きにはたまらない世界なのだが、端折る。
 「万国津梁の鐘」という文化財が沖縄には残る。

 此二中間湧出之蓬莱島也 以舟楫為万国之津梁 異産至宝充満十方刹 地靈人物遠扇和夏之仁風
 ここは明と日本の間にある蓬莱の島だ。船を漕いで万国の架け橋となり、異国の産物や珍しき宝は国に満ち、優れた人は出でて遠く日本と中国の仁風をあおぐ…。

 なんとも雄大ではないか。世界の架け橋たらんとする気宇壮大な国の息吹が伝わる。統一琉球王国は刀狩を実施し、平和を標榜し外交と貿易でヨーロッパにまでその名を知られるようになった。琉球の黄金時代であったろう。

 ただ、大航海時代のポルトガルなどの進出により、琉球貿易にも衰えが見え始める。国力が弱り沖縄は建て直しを模索し始めるが、そのさなか、日本の薩摩藩が琉球に侵攻するのだ。
 戦国時代、薩摩の島津氏は九州一円を平定する勢いであったが、秀吉に屈し、さらに総無事令によって北進は出来なくなった。かわりに目をつけたのが平和の貿易立国沖縄である。薩摩は南進政策を始める。
 1602年、伊達領に琉球船漂着。家康は途絶えている明との国交回復の仲介となるよう期待して丁重に護送した。
 1604年、島津義久は時の琉球王尚寧に、送還を謝する礼使を送れと催促する。薩摩が礼使を送らせることによって、琉球が薩摩の「付属国」であることを示そうとしたのだ。琉球はそれは認められない。琉球は明の冊封体制下にある独立国なのだ。
 1605年、琉球進貢船が平戸に漂着、帰国させ、松浦氏も礼使を求めた。家康、そして松浦氏と琉球に介入を始めたことで、薩摩に焦りが生じる。しかし明との関係からまだ琉球には手が出せずにいた。
 1606年、薩摩に隠し知行が発覚。つまり年貢の徴収が困難な荒廃状況にある知行地があるということ。当然財政難となる。石高が足りず困った薩摩は、いよいよ標的を琉球に向ける(自国でなんとかしろよ)。
 1607年、日朝国交回復。「唐入り」の後遺症が消え、朝鮮そして中国の動向を警戒せずともよい状況となってきた。
 1609年、ついに薩摩が琉球に侵攻した。武勇をもって知られた薩摩に武器を持たない平和の国琉球では、既に勝敗は明らか。

 このあたりの歴史は、かつて大河ドラマ「琉球の風」で一部放映されたが、あまり視聴率がよくなかったと聞く(谷村御大の主題歌なのに)。沖縄以外の地域では身近でなかったためだろう。
 こうして薩摩は琉球王国を実質的に支配下におく訳だが、ほとんど無抵抗の琉球を制圧した薩摩に、僕はあまりいい感情を持たない。明の軍事庇護下にあって軍隊を放棄していた琉球は日米安保下で憲法九条を持つ日本を連想させる。なので日本も軍隊を、という声も聞こえてきそうだが、この場合は明らかに薩摩が悪い。隠し知行を自分で処理できずに他所で充当するとは卑怯かと…(あまり言うと薩摩ファンが怒鳴ってきそうだが、やはりこういうやり方は肯定出来ない)。
 薩摩は、喜界、大島、徳之島、沖永良部、与論を占領し直轄地として(今だにこれらの島々は鹿児島県だ 怒)、沖縄本島以南を琉球王府領とした。これはつまりカムフラージュである。琉球を形式上冊封体制の独立国として明との交易の窓口として、薩摩は隠れて旨みを吸い取ろうとするコンタンである。ずるい。そしてその琉球王国には重税を課し、徹底して搾り取った。この搾り取った税による財力が明治維新の原動力となったわけであるから、明治維新の薩摩藩の活躍も少しは割り引いて考えたくなる僕なのである。もしも万国津梁の琉球王国が無ければ、薩摩藩は明治維新の主役たり得なかった可能性もあるのだ。

 このあと、薩摩藩は明治政府の主役となり、琉球に二度目の苦難を与える。それはもちろん「琉球処分」である。
 長くなったので次回に続く。少し極端に書いていることもあり異論はおっしゃっていただいて結構です。骨子は間違っていないと思いますが。


もしも清河八郎が庄内に埋もれていたら

2006年03月19日 | 歴史「if」
 藤本鉄石という人を知る人は少ない。
 しかし幕末ファンであればこの人の名前をさすがに落とすことはない。あの天誅組の総裁である。幕末も大詰めの段階で、公卿中山忠光を奉じて義兵を大和に挙げ、さらに大和行幸の天皇を奉じようとしていた。しかし八月十八日の政変で梯子を外されたような格好となり、吉野山中で戦死した。享年48歳。しかしながら天誅組総裁という立場でありながらあまり有名ではない。天誅組と言えば、同志だった土佐の吉村寅太郎の方が坂本龍馬との関係から世間には知られている。ただ、藤本鉄石は幕末において実に重要な役割を果たしている。
 備前国岡山藩の出身である鉄石は、天保11年に24歳で脱藩し、京都で軍学を学び志士活動を開始する。あの黒船が来る10年以上も前のことである。まだ世の中に尊皇攘夷の嵐は吹き荒れていない。志士歴が長い。
 しばらくして鉄石は京都を出て全国遊説行脚に出る。西は九州から東は江戸、東北まで。こうして各地の志士と交流を深めていくのだが、弘化3年、鉄石30歳の折に、出羽国庄内藩の清川村であの清河八郎と出会うことになる。八郎当時17歳。
この出会いこそが、実質的な幕末のひとつの始まりだったのかもしれない。

 司馬遼太郎氏は、「幕末は清河八郎が幕を開け、坂本龍馬が閉じた」と言う。歴史の流れは清河八郎が居ても居なくても関係なかったかもしれない。しかし形はずいぶん変わっていたことになっていただろう。もしも清河八郎が幕末の風雲に身を投じていなければ。
 清河八郎は庄内清川村の大庄屋の長男として生まれた。そもそも武士ではない。しかし地元では神童として知られ、漢学を学び頭角を現していた。そして17歳で鉄石と出会う。この出会いによって、八郎は江戸へ出る夢を抱いたという。もしもこの出会いがなければ、八郎は庄内で大庄屋を継ぎ、地元で塾でも開きながら幕末を迎えたかもしれない。
 八郎は鉄石に感化されて江戸へ遊学に出る。そして10代で江戸の東条塾に入塾、その間に西国旅行もしている。梁川星巌らとも出会い、北辰一刀流で高名な千葉周作道場にも入門、剣術を磨き各地の留学生とも親交を深めた。あの土佐の間崎哲馬や幕臣の山岡鉄舟とも出会っている。また八郎は九州から蝦夷まで歩いている。その全国行脚をするバイタリティーは凄い。そうしているうちにペリーが浦賀にやってくる。
 八郎は江戸神田に開塾し、山岡らと「虎尾の会」を結成し本格的に尊皇攘夷運動に傾倒していくこととなる。ヒュースケン暗殺事件にも八郎が関わっている。

 しかし幕府に追われ、江戸から逃避することになる。この逃避行が結局全国遊説となり、各地で尊攘倒幕を訴えた。特に西国九州では八郎のアジテーターとしての才能がいかんなく発揮されて、志士たちが続々と京都へ上ってくることとなった。京都における尊皇攘夷の志士たちの嵐は八郎のアジから始まったと言えるのではないか。そうして京都に尊攘倒幕の志士が充満することになる。
 八郎はさらに、京都の志士田中河内介と組み、島津久光上洛を機に挙兵しようとした。あの真木和泉、平野國臣らと連絡をとり、薩摩藩の兵と尊攘浪士らを合流させようと画策する。しかし島津久光はその時点ではまだ守旧派であり、薩摩軍を抑え込んだため不発に終わった。この時薩摩の尊攘派が暴発しようとしてあの「寺田屋事件」が起ったのである。有馬新七ら薩摩藩士激派は鎮圧され田中河内介らも死んだ。八郎は江戸に戻り、次の驚くべき一手を打つ。

 京に尊攘浪士が満ちて(八郎が集めた志士たちだが)幕府はかなり手を焼いた。その鎮圧のため八郎は松平春嶽(当時政事総裁)に浪士組編成を建白し、これが採用されるに至る。マッチポンプとはまさにこのことだと思うが、八郎主導で(むろん幕臣でないお尋ね者の八郎は黒幕だが)腕自慢の浪士を徴集し浪士組が結成される。
 この浪士組を率いて八郎は上洛。京都に到着し、ここで八郎は浪士に向って結成の本当の目的を明かす。「この浪士組結成は幕府警護でなく、尊王攘夷の実現にある」浪士たちはあっと驚いた。
 さらに八郎は、尊皇攘夷の実現のため浪士組を回れ右させて江戸に向うよう指示したが、「話が違う」とこれに反対して京都に残留したのが芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らであった。これら残留組が新撰組へと発展していくのである。

 結局、京都に勤皇の志士を集め不穏な行動を充満させたのも清河八郎なら、またそれを抑えるために出来た新撰組もまたタネを蒔いたのは八郎なのである。あの寺田屋事件も八郎。そして「明治維新を3年遅らせた」と言われる池田屋事件も、討たれる側も八郎が関わっているとすれば討つ新撰組もまた八郎である。あくまで極端に言えば、の話であるが。宮部鼎蔵、大高又次郎、吉田稔麿、松田重助、そして北添佶摩、望月亀弥太。これらの人々は死なずに済んだかもしれない。
 みんな、八郎が若き日に藤本鉄石と出会って、中央に出てきたときから始まったのである。彼が出てこなければ、明治維新は無かった、とまでは言わないが幕末の景色はずいぶん変わっていたはずだ。

 清河八郎は、江戸に戻った後も野心衰えず、次の攘夷として横浜外人居留地焼打ちを計画する。しかしこの計画は実現しなかった。決行の二日前、八郎は謀られて、佐々木只三郎により斬殺された。享年34歳。

 清河八郎という人物は、結局何を目的としていたのだろう。そこが少し読み取りにくい。志はどこにあったのだろうか。小説では「清河幕府」を目指した、などとも書かれているが本当のところはよくわからない。ただ、やはり「やむにやまれぬ気持ち」は持っていたのだろう。そこに、明瞭過ぎる頭脳からくる行動が「策士」と呼ばれ、また功名心や、煽動家としての才能、出自が武士ではないコンプレックス、藩士ではないという一匹狼的要素も加わって、嵐を呼ぶ幕末の起爆剤となってしまったとも言える。
 ただひとつ言えるのは、天皇を奉じて事を起こすという発想をずっと持ち続けたことは事実で、寺田屋事件も浪士組結成もそのことが背景にあった。勤皇家は数あれど、具体的に天皇の名で事を起こそうとしたのは八郎が嚆矢である。この発想は「玉を擁く」という戦略となって、先輩格の藤本鉄石は天誅組で天皇を奉じようとし、後には薩長の討幕運動の支柱となり、錦の御旗、官軍へと繋がっていったとも言える。
 藩士ではない人間が尊攘浪士と幕臣の間を行ったり来たりする状況は、ある部分では坂本龍馬を連想させる。バックボーンを持たない「徒手」の人間だったことも同じだ。ただしやったことはずいぶん違うが。
 歴史に現れた時期、というものもあるのだろうか。八郎が世に登場したときは、まだペリーも来ていない。なので、自らが幕末の火付け役とならざるを得なかった。もう少し事態が変わってきてからの登場であれば、違う活躍の仕方もあったかもしれなかったのだが。

 幕末の火付け役清河八郎も、終息的役割を果たした坂本龍馬も、同じ幕府見廻組佐々木只三郎によって命を落とすことになる(龍馬はんの場合は推測)。この佐々木只三郎という人物の運命もまた数奇である、と言える。

もしも足利義満が天皇家簒奪に成功していたら

2006年03月08日 | 歴史「if」
 時事的なことは書かないようにはしているけれども、今(2006/3月現在)皇位継承問題は秋篠宮家のことがあって一時棚上げ状態に置かれている。なので少しはかまわないだろう。
 ただ、秋篠宮家に男児が誕生する保証はなく、いずれ皇室典範改正問題は登場してくるはずである。

 もしも皇室典範が改正されて女系天皇を容認することに決定すれば、そのことによって、「もう天皇家は終わった」と見てもいいのではないか。
 これはあくまで歴史的な見方でそう言っているのであり、「男女同権」や「時代の要請」といった視点ではない。詳細はこちらに書いたことがあるが、歴史的裏付けが取れない古代はともかくとして、正史に確認できる限りは女系天皇は今までに存在していない。女系天皇を成立させる、すなわち天皇家からの皇位簒奪を意味するからだ。
 具体的には、女系天皇が認められれば、権力者が皇女を配偶者として、生まれた子供にも皇位継承権が存することになる。皇族以外で、皇女或いは皇姉妹(そんな言葉あったっけ)を娶っている人物は歴史上に存在する。しかしその子供が皇位に就くことはない。例えば皇女和宮が徳川家茂と結婚したが、もしも二人の間に子供が居たとしても、その子に皇位継承権はない。もしもそうなったら、それは徳川家が皇位を簒奪したということになる。

 この「皇位簒奪」を歴史上一人だけやろうとした人物が居る。
 「皇位簒奪」ということ自体は、古代史上では本当は何例もあった可能性があるが、当然万世一系を謳う史書には出てこない。上代史書に示されている人物としては一応道鏡がいる。道鏡は自ら皇位につこうとしたとされる。あくまで史書によれば、だけれども。
 他にも、織田信長がもしも本能寺で斃れていなければ天皇位に手をつけていた可能性は確かにあったと考えられるが。もちろんあくまで可能性の話。
 ただ、この「女系天皇」による簒奪を試みた人物は一人しかいない。それは足利義満ということになる。

 足利義満。室町幕府の三代将軍であり、南北朝合一を成し遂げた凄腕の政治家である。南北朝については以前に言及したことがあって(これこれこれ)、それはもうややこしい時代なのだがそれを豪腕で無理やりまとめ上げたのが義満である。その後義満の勢いは衰えることを知らず、太政大臣となって位を極め、御所のすぐ隣に相国寺を建立し七重塔をおっ建てて内裏を睥睨し、北山第(金閣)を作って政務を執った。敵はなく、「日本国王」として日明貿易を行い、威光を天下に知らしめた。この義満が、唯一自分よりも上の存在とされている天皇家をも手中に収めようとしたらしい。
 日本の三大幕府の中で最も安定感がなく弱かったとされる室町幕府であるが、鎌倉幕府も江戸幕府もここまでのことはしていない。南北朝の事があって武士の拠点である関東に幕府を置けなかったことが室町幕府の弱さに繋がっているのだが、この京都に幕府を置いたことによって、天皇家に目を向けることが出来たのではないか。近くに自分より権威を持つ機関があるということは非常に目障りなものであったであろう事は想像に難くない。

 具体的には、朝廷に求め藤原摂関家と同格、さらには上位の扱いとなり、官の人事権を徐々に奪っていった。将軍、太政大臣を歴任し出家した後は、上皇待遇を求め僧職の人事を奪った。天皇家のバックボーンである寺院門跡(ここには親王が入ることになっている)に自分の息子達を得度させ送り込む(その中には青蓮院門跡・天台座主義円~後の六代将軍義教も居る)。さらには天皇継承問題にまで介入する。
 祭祀権までも奪った。当時は神道だけでなく仏教の祭祀も天皇中心で行われていたが、陰陽師の地位を破格に引き上げ、これを自分の邸内(北山第)で行うこととしたのだ。こうして、徐々に外堀を埋めていく。残るは天皇位である。
 これについて、義満は妻の日野康子を国母に准ずる「准母」とすることに成功した。後小松天皇の母が病弱であったことから無理やり押し込んだものだが、それによって「准母」の配偶者である義満は必然的に「准上皇」という待遇になる。
 そもそも、義満は天皇家とさほど遠い間柄ではない。清和源氏を源流とするということであれば確かに天皇家の血筋ではあるけれども、これは遠すぎる(清和天皇からすれば550年くらいか)。
 しかし母系が近い。後光厳天皇の后である崇賢門院仲子と、義満の母紀良子とは姉妹だった。この姉妹は順徳天皇の血筋である。したがって義満は女系による天皇の血筋ということになる。また後光厳天皇の皇子の後円融天皇と義満は従兄弟同士になり、次の後小松天皇にとって義満は父の従兄弟(これは何て言うんでしょ? 叔父さんでもなし)となる。遠い間柄ではない。
 いくら清和源氏とは言え 男系として考えれば遠すぎる。ほとんど他人である。しかし、順徳天皇からすれば女系5世であり、後円融天皇とは従兄弟である。ここで、義満は天皇家簒奪を考えたのではなかったか。既に自分は上皇待遇であり妻は国母待遇である。義満には目に入れても痛くない義嗣という子供がいる。この義嗣を皇位に就けようと計画したとされる。

 この事と次第は今谷明氏の「室町の王権」に詳しい。この皇位簒奪計画は教科書に明確に書いてあるかどうかは確認していないが、一般的にはよく知られている事柄だろう。僕が子供の頃に読んでいた学習漫画にも既に出ていた。
 「かわいい義嗣を天皇にすることだってできるぞ」という満面の笑みを浮かべた義満の漫画を子供の頃読んで、強く印象には残ったが、これは歴史の転換点だなぁとまではその時はさすがに思い及ばなかった。
 なお、少し話は逸れるが井沢元彦氏が「天皇になろうとした将軍」という書籍を出されている様であるが、正確には義満は天皇となろうとしていない。息子の義嗣の即位の可能性を創出したのである。ちょっとセンセーショナルな表題にしすぎではないかと思う。(と言いつつ、井沢元彦氏の著作を読んでいないので申し訳ないのだがブログという気安さで許してもらう。そもそも井沢氏の著作はどうもそのイデオロギーが鼻についてページを捲るのが億劫になりなかなか読めない。「逆説の日本史」も同様に疲れてポスト連載記事でさえ最後まで読めない。すんません)
 義満は上皇になろうとしていた。この当時は上皇は「治天の君」として院政を執り行い権力を実際に持っていたポストである。ただ、義嗣を天皇にするということはすなわち「足利家による天皇位簒奪」であることは間違いない。

 義満は、後小松天皇を北山第に招き、15歳の息子義嗣に天皇から天盃を与えてもらうこと等の「お披露目」を執り行う。そしてすぐに義嗣を宮中において「立太子」の礼において元服させるのである。これで義嗣親王だ。形式は皇位継承出来るところまで手がかかった。
 しかして、義満は義嗣立太子から10日後、発病し突然死するのである。

 この義満の死は暗殺説が強い。つまり一服盛られたのだと。これは立証出来ないが、確かにその可能性は考えられるかもしれない。その死のタイミングが絶妙すぎる。
 おそらく朝廷側が行ったことだろう。公家側はこの立太子には従順の姿勢を示していたが、最終的には古代に定められた日本書紀の掟~万世一系の決まりに逆らうことへの畏れが生じたのだろうと思う。この掟はかつて藤原不比等が定めたものだ。この豪腕政治家義満も、ついに不比等がかけた魔法には勝てなかったのだ。
 かくして万世一系は保たれ、義嗣は天皇になることなしに終わる。

 もしも義満が(例えば毒を盛られることを回避し)さらに存命であったなら。確実に後小松天皇に譲位を迫り義嗣は天皇に、そして義満は「治天の君」として君臨することになったか。天皇家簒奪は成功したと考えられる。
 ただし、この「足利天皇家」がその後も続いたかどうかは疑問だ。いずれ義満は死ぬ。その後、足利のバックボーンである幕府はこれを継承する手段はとるまい。四代将軍義持は自分の弟義嗣が自分より上位にいくことは望んでおらず、武士団は足利家が突出して睥睨することもまた望んでいない。義嗣に器量がなかったことから、彼一代で簒奪が終わった可能性が高い。次代天皇はまた皇統に戻るだろう。しかしながら、全く「足利天皇」が続いた可能性がないとは言えない。義満が長命し、義嗣がその後に見られるようなだらしなさを呈示することなく帝王学を学んだとしたら、どうなっていたかはわからない。

 それよりももっと重要なことは、このことが男系相続である天皇家における「女系」の前例になるということ。この手をつけてはいけない聖域に前例が出来たとしたら。
 その後の時の権力者は挙って皇女を配偶者とし、自分の子孫を天皇にしようとするだろう。そうすることで権力とともに権威も手中に出来る。もはや万世一系など望むべくもなく、また天皇の価値も下がるに違いない。天皇の価値はそのアマテラス以来の「血統」にのみ存在意義があったのであるから。だれでも天皇になれる状況となれば、これは歴史の大きな転換点である。豊臣天皇も徳川天皇も出るだろう。尊皇攘夷も統帥権もどこに行くかわからない。「玉を奪う」のではなく「玉になりたがる」という状況が生じれば、日本の歴史はよっぽど変わったものになってしまう。それほど「万世一系」の天皇制は日本史の根幹を成していたのだ。

 「古事記」「日本書紀」を編纂することによって、日本に永劫の掟を制定した藤原不比等。現在も日本はその不比等の魔法の延長線上にあると言っていい。
 僕は天皇制を守らねば、という考えではない。ただ、皇室典範を改正するという作業は、日本史における最大の転換点であるということは認識している。このことをもっと認識した上で考えてもらいたい。歴史が変わるのだ。変えるべきではない、とは主張していない。

もしも田沼意次の改革が成功していたら

2006年02月18日 | 歴史「if」
 明治維新というものをよくぼんやりと考えている。どうして明治維新が興ったのか。
 直接的には「尊皇攘夷」運動が幕府を倒した。しかし、尊皇攘夷運動が方便であったことは誰でも知っている。根源的な原因はおおまかに言って二つある。
一つは外圧である。黒船来襲。このペリーの開国要求に、欧米の帝国主義に侵略される危機感を日本が抱いたことから明治維新が興った。
 もう一つは、幕藩体制の行き詰まりであろう。200年以上続いている幕府主体の農本主義、それが日本の現状にそぐわなくなってきたことから、徳川幕府に代わる新しい政権を日本が求めた、ということであろう。
 では、いつから幕藩体制に歪みが出てきたのだろうか。

 徳川家康は、確かに凄腕の政治家だったと思う。しかしこう言ってしまうと反論が多いことが予想されるが、あくまでその政治手腕は徳川家の存続安定に向けられた。
 織田・豊臣の時代、日本は膨張政策だったと思う。兵農分離をやり遂げ、検地を隅々まで行い食糧事情を安定させ、その上で商業を盛んにし経済発展を目指した。その果てに唐入り、朝鮮出兵が行われてしまったわけだが、これは失敗に終わった。家康は反省を踏まえ、農業を主体とした守備型の政権を打ち立てた。徳川に敵対する可能性のある国内勢力の力を削ぐ政策を主眼とする。そして家光の時代までに、参勤交代等の負担を諸大名に課し、自由貿易を制限して交易を幕府の統制下に置く。諸大名の力を蓄えさせない政策と言えよう。その政策が進み、幕府は禁教令、そして鎖国へと進むわけである。
 この体制は初期はうまく発展する。米本位制であったことから、米を売却する必要性があり大坂を中心とした流通体制が確立し、商業も盛んになる。貿易は幕府が独占し、生糸や砂糖、香料などを輸入した。しかし、輸出入ではなくほぼ幕府は買うこと中心だった。金銀が豊富に産出していた時期はそれでよかった。しかし産出量が漸減し、また元禄時代の華美な消費、そして明暦の大火などの支出の増大から、徐々に幕府は財政難となっていく。この頃から少しづつ幕藩体制に翳りが見え始める。
 こうして、幕府は経済立て直しに着手することになる。しかし慶長金銀を改鋳した元禄金銀は質が悪く、かえって物価の上昇を招く。新井白石は正徳金銀を発行して是正しようとしたがうまくいかなかった。また白石は金銀流出を恐れ輸入制限をしたが、これはまた経済の停滞を招いた。
 ここで八代将軍吉宗が登場して享保の改革を行う。
 これは善政だったと言われるが、抜本的改革には繋がらなかったのではないか。倹約令、そして上米(大名から税金を取るようなもの)。新田開発と年貢率の引き上げ。結局農本主義からの脱却がなされなかったので、年貢の徴収高=財政建て直しということである。なので豊作であれば米価が下がり禄米生活の武士は困窮し、飢饉がおこれば米価が上がり打ちこわしも起きた。

 その後に登場したのが田沼意次である。
 田沼意次については、もはやかつての「収賄政治家」という悪評は影を潜め、経済通の人物として評価が高い。僕は池波正太郎氏の「剣客商売」のファンであるので田沼には親近感がある。やはり先を見通せた政治家だったのだ。
 田沼家はもともと紀州藩出身で、吉宗について旗本となった。微禄であったが、吉宗の跡継ぎ家重の小姓に意次が取り立てられることによって徐々に頭角を現す。大名となり、10代家治の時に側用人から老中格へと出世を遂げる。
 軽格であった意次の出世には妬みも多い。しかし政策が一流であったせいでその出世を止められなかった。意次も出世に努力をした。地位を得ないと政策実行が立ち行かないからだ。よく大奥の機嫌をとって雑音を抑えたと言われるが、大奥の女性に取り入ったその着眼点と手段は、僕には大久保利通が島津久光に取り入るために囲碁を学んだという手法とダブる。そうして意次は大奥予算の削減にも成功しているのである。
 結局、吉宗時代に新田開発もある程度進み、年貢徴収による財政安定にも限界があると承知していた意次は、農本主義から商業主義への転換を図ったのだ。
 具体的には、貿易の促進。これはほぼ輸入だけであった交易路線を転換し輸出を奨励する。金銀流出を抑え、干鮑やフカヒレなどを輸出し逆に外貨を稼いだ。また銅、鉄などを幕府の専売にして、幕府自ら商業に手を染めた。そして特定の商人に座を作らせ、そこから運上金(まあ税金かな)を徴収した。そしてさらに株仲間(幕府の御用商人として特権を持つ)を積極的に公認して冥加金(これも営業税)を増収させた。農業に頼らない近代的政策である。
 さらに、新田開発も商業資本を入れ、出資した商人に取り分を約束するという、株式会社的発想も持っていた。実に近代的である。意次の政策は列挙するとキリがないほどであるが、金銀交換レートの統一も試みている。大坂銀本位制、江戸金本位制ということから生じる交換差損を是正しようとした。こういう考え方は当時としては秀逸だと思う。経済感覚は坂本龍馬はん並みだ。

 このまま田沼改革が続いていたら、幕府は完全に経済を立て直していたことも考えられる。もしもそうなっていたら。
 幕府経済は高度成長を遂げていた可能性もなくはない。そうなると、次に続く変革は、やはり産業革命ではないかと予想される。それほど突飛な考えでもないと思うのだが。経済発展は需要の高まりを生む。手工業生産は工場工業へと変革を遂げるだろう。既に問屋制家内工業は行われている。需要の拡大は製造業発展へと確実に繋がり、産業革命の息吹が聞こえてくることだろう。
 実際、幕末には薩摩藩を筆頭に各藩内での産業革命は生じている。これは逼迫財政からの脱却を目指して発展したものだが、これを幕府単位で行うことが出来れば、幕府の力は相当なものとなる。
 そして黒船来航。力を失った幕府はこれに対応できず、明治維新が興った。しかし、開国時に幕府が富国強兵に突入できる実力を保っていたとしたら、幕府主導での中央集権国家が生まれていた可能性はかなり大きいとも考えられるのではないか。

 しかし、意次は志を遂げることなく失脚する。時代が意次に追いつかなかった。当時の幕府の理念は朱子学であり、農本主義に直結する。武士が士農工商の最下層である商業に携わることへの反発。周囲の無理解。そういったさまざまな逆風が意次を孤立させる。そして、失脚を決定付けたのが浅間山の噴火である。天変地異は政情不安を生み、そして「天明の大飢饉」がおこり、一揆や打ちこわしが頻発してしまうのだ。
 起死回生の印旛沼干拓も大雨による利根川の氾濫により失敗し、息子意知が城内で斬られ、ついに老中を失脚し、将軍家治が亡くなると閉門となって失意のうちに世を去ることとなった。

 意次の政策の一つに、蝦夷地開発がある。当時北海道は松前藩が仕切っていたが、搾取を繰り返しついにシャクシャインの反乱が起こる。鎮圧後幕府は北海道を直轄地とした。ここで海産物(俵物と言う)を増産させ、交易の目玉にしていくのだが、意次の考えはそれだけに止まらなかった。
 当時ロシア船が頻繁に日本の海に現れており、工藤平助が「赤蝦夷風説考」で国防を訴え、放置すると危機的状況になる可能性もあった。松前藩はアイヌから搾取するだけで具体的措置を全くとらなかったため、意次はまず蝦夷地調査を行う。その時の調査で、意次は廻船商人にこれを請け負わせ、アイヌとの交易も視野に入れていたと言われる。搾取から交易。それだけでも一大転換であるが、調査結果北海道は農耕も可能という結論を出し、新田開発のためアイヌを農耕者として教育しようとする。これは古代アテルイなどの東北の蝦夷と対峙した大和朝廷のやり方である。そして、農耕人口のさらなる確保に、当時の被差別民も送り込もうとしていた。本格的な北海道開拓。これは、後の坂本龍馬構想を彷彿とさせはしないか。
 意次はさらに、脅威であるロシアとの貿易を狙っていたとも言う。国防のために兵力増強ではなく、ロシアとの国交樹立、交易政策によって双方の利潤を生じさせ、侵略を抑えようとした構想があったとも言われる。この世界的構想、ますます「世界の海援隊」を連想させないか。実際は実現は困難であったにせよ、その着眼点はちょっと時代離れしている。
 この計画は意次失脚とともに松平定信が封印する。そして日の目を見るのは明治以降となるのだ。

 意次と同時代、あの平賀源内が居た。意次と源内は懇意であったとも言われる。時代を先に進みすぎた二人。どちらも悲運に倒れるが、この時間を先取りしすぎた二人は真に理解しあえていたのかもしれない。


もしも徳川幕府に宮将軍が擁立されていたら

2006年01月12日 | 歴史「if」
 徳川幕府は家康以来、後継者問題には十分に気を遣っていた。秀吉の後継問題で様々な問題が生じたことを家康は見続けて来たからであろうか、二代将軍を秀忠として将軍職を譲って後、水戸、尾張、紀伊に御三家を立て、血筋の絶えないように十分に配慮していた。
 徳川将軍家は、直系が絶えても、紀州徳川家から吉宗、また家茂をむかえたり、また水戸徳川家から慶喜(彼は一橋家に養子に入ったため正確には一橋家から)を将軍に据えたりして、300年近い間、15代の将軍を立てて血脈を途絶えさせることなく平和裏に幕府を続けてきた。これはなかなかすごいことであると思う。天皇家は別格としても、ここまで家康の血筋で続けることはなかなか難しいことではないかと思う。鎌倉将軍家は頼朝の息子、わずか三代で終焉を迎え、足利将軍家は徳川同様15代続いたものの後継問題で常に問題を起こし、応仁の乱をはじめとする内乱を勃発させた。

 ところで、その徳川将軍家継承に一度だけ赤信号が点ったことがある。それは、第4代将軍家綱の後継問題であった。
 4代将軍家綱は家光の長男で、周りにライバルとなるべき将軍候補者もなく、平穏無事に将軍職を継いだ。家光が没したとき家綱はわずか11歳、少年であったが、その頃になると徳川幕府は磐石の体制となっており、組織もしっかりしていて問題はなかった。多くの老臣に支えられて幕府は運営されていた。ことに保科正之の力は大きかった。保科正之は二代秀忠の妾腹であり、家綱の叔父にあたる。この保科正之が絶対的権力で幕府を牛耳ることは可能だったのだが、影響力は強いもののあくまで家綱の後見という立場を逸脱しなかったので、幕政が乱れることはなかった。酒井忠勝、井伊直孝、阿部忠秋ら譜代が老中を固め、稲葉正則も尽力した。
 しかしながら、ひとつの問題があった。家綱が病弱だったことである。
 そのため、家綱は正統な跡継ぎを残せずに病に倒れ、後継将軍位をめぐって様々な問題が生じることとなる。

 家綱が亡くなるこの時点で、磐石だった幕政は代替わりし、酒井忠清が「下馬将軍」とも言われ権力を握っていた。子供が居ない家綱の後継をどうするか。そのとき酒井忠清が持ち出した案が「宮将軍擁立」であった。
 以前にも書いたことがあるが、僕が子供の頃に読んでいた学習歴史漫画に、酒井忠清は大老としていかにも悪人ヅラをして登場する。そして、

 「鎌倉幕府の例もある。次の将軍には京都から宮様を迎えては?」

 と切り出すのである。これは徳川家血脈の危機であったと言ってもいい。
 しかしながら、子供むけの学習漫画にも描かれていたこの事件は、実際には史実かどうかの決着がついていない事柄なのだそうである。そういえばこれだけの大事件であるのに高校日本史では学習しない。決定的な史料が残されていないので、この事件を疑問視する学者も多い由。
 僕などは子供の頃から宮将軍擁立工作が史実だと信じてきたので実に肩透かしをくらった気分である。ちょっといくつか書籍を読んでみた。

 この当時、後継の可能性があったのは家綱の弟で家光の三男にあたる綱重、そして四男にあたる綱吉である。そして、綱重は家綱より先に亡くなってしまい、その遺児綱豊が候補となる。
 普通に考えれば綱吉が継ぐのが正統であろう。血の濃さは家康から考えれば家綱と同じ。しかしながら、忠清が綱吉を後継者にしたくなかった理由があったらしい。
 ここからは推測となってしまうのだが、考え方はいくつかある。
 まず、綱吉が将軍職を継ぐ器でなかったと忠清が判断していた、ということ。綱吉はご存知の通り「犬公方」として知られる。巷間言われるところ綱吉は性格に難があり、また母の桂昌院、怪僧隆光ら後ろ盾に問題があって、幕政が立ち行かなくなる可能性があり、綱吉を推したくなかったという説。
 また、綱吉や綱豊ではなく、忠清の本命は家光の長女千代姫が尾張家に輿入れして生んだ松平義行であり、この義行が成人するまでの繋ぎとして宮将軍を立てようとした説。
 また、家綱死亡時に、家綱の側室が懐妊しており、男子であれば間違いなく正統な後継者になるはずであるから、出産を待ち、その繋ぎとして宮将軍を擁立しようとした、という説。
 そして、忠清が独裁政権を保つには既に壮年であった綱吉を将軍にするわけにはいかず、宮将軍を立て自らが「執権」となって北条氏のように幕政を牛耳っていこうと企んだ説、などいくつかのことが言われている。

 いずれが正しかったのかはわからない。しかし、史料孫引きの僕が判断してはいけないことだとは思うが、具体的に有栖川宮幸仁親王という名前も出ており、やはり宮将軍擁立構想はあったのではないかと推測される。そして、老中堀田正俊の反対などでこの擁立劇は立ち消えとなり、綱吉が将軍に就き忠清は結果として失脚している。

 ここから先は針の先のifであるが、もしも忠清が執権になる目的で宮将軍擁立を実現させた場合、実に歴史は面白い方向に動いたと考えられるのである。
 鎌倉幕府の例をそのまま持ってくることは難しいだろうが、忠清が執権的役割に就いた場合、それが世襲となるのかどうか。そうなれば、北条得宗家の再現となる。酒井家が事実上の幕府運営者となるが、それはちょっと考えにくかろう。
 しかしながら話を面白い方に持っていきたい僕としては、酒井得宗家実現はなかったとしても、老中合議制の幕府運営は実現した可能性もゼロではなかったのでは、と考える。酒井家、井伊家はもとより、御三家も加えた親藩、譜代による合議制だ。将軍を飾り物として内閣を作る。この後将軍独裁(吉宗など)や、側用人政治なども江戸幕府では繰り広げられたが、かえって合議制の方が上手く行っていた可能性もある。人材登用を確実に行い独裁を許さない相互チェック機関を機能させれば、近代国家建設も比較的早かったかもしれない。独裁を好まない日本人に合った体制とも言える。
 それに。この宮将軍という存在は、一種の「公武合体」とも考えられないか。飾りとは言っても、天皇家が幕府のトップに立つというこの構造。こうなると、日本の政治体制は一元化するのである。
 嵐をよんだ幕末。その旗印は「尊皇攘夷」であった。しかし、もう既に幕府は天皇家がトップにいるのである。これでは尊皇運動は成り立たないのではないか。そうなると、幕末の志士達は何を担いで幕府に対抗したらいいのかわからなくなる。場合によっては、ペリー来航からスムーズに幕府主導で開国がなされ、薩長の出番がなくそのまますんなりと近代化へと日本が進んでいた可能性も…ゼロではないと思うのだが。

 現実には考えにくい選択肢ではあるのだけれども、この宮将軍擁立がひとつの岐路であった可能性もあったと思う。この事件が本当にあったことなのかそうでないのかが、学者の間で結論が出てくれればいいのだけれども。

もしも…番外編・龍馬はんの見た未来 Ⅳ

2005年11月23日 | 歴史「if」
 さて、前回からの続きです。もう第七話なので、本来の「歴史if」に戻りたい。果たして坂本龍馬が死ななかったら、日本はどういう未来を迎えたのだろうか。この話はもちろん龍馬ファンとしての遊びである。

 よく言われることは、坂本龍馬が居れば戊辰戦争は起こらなかったのではないか、という話。これについてはもちろんわからないのだけれど、戊辰戦争にあまり意味がないとおそらく考えていたであろう龍馬はんは、鳥羽、伏見の戦いには大きく手を広げて反対しただろう。国内戦争などをやっていては「世界を相手に貿易」どころではない。しかし龍馬はんと違って凡人である僕には、その戊辰戦争を止めさせる手段が思いつかない(汗)。ただ「そういうムダな戦争はなんとしてでも龍馬はんが止めたんじゃないの?」と夢想するしかない。しかし、龍馬はんの思想的同盟者である勝のとっつぁんは見事に江戸総攻撃を西郷に見送らせている。ここに戦争を止めるひとつの方策が見て取れる。西郷は「日本を焦土にする」といいつつ、かつて長州征伐の総大将だった時に穏便に済ませたりした経験もある男。話せばわかるのだ。やはり龍馬はんならなんとかしたんじゃないかと(希望的観測)。そうして戦争は起こらず、河井継之助のことも、白虎隊の悲劇ももしも無かったとすればそれは素晴らしいことである。

 本当の革命的階級闘争は後に起こるのだ。佐賀や神風連、秋月、萩の乱。そして西南戦争。これが本来の革命戦争である(と、僕は思う)。これは戊辰戦争と違って歴史の必然のようにも思う。しかし龍馬はん存命であれば、これも未然に防げたかもしれない、と夢想する(僕のような龍馬信者はなんでもこういうふうに思うのだ)。
 武士階級をどうするか、ということがひとつのポイントである。かつての支配者層の反乱は当然ある。この階級に仕事を与えガス抜きをすればよかったのだ。ひとつのヒントとして、龍馬はんは北海道開拓を夢見ていた。北添佶磨らとともに実現したかっただろう。そこに過激浪士を送り込むという方策を龍馬はんは考えていた。明治の世になってその方式は使えないか。北海道に限らず殖産興業の過程の中で、うまく武士階級を取り込むことが出来たなら…不満分子をなし崩しにしてしまうことが出来たかもしれない。まあ本当に夢想だが。

 さて、龍馬はんが生きていれば、明治の世でどんなふうな位置に居ただろうか。
 当然「世界の海援隊」であろうが、当初は新政府に名を連ねざるを得なかったかもしれない。しかしある程度国の形が見えれば、政府から手を引き、経済界で生きる道を選んだだろう。龍馬はんは儲けたいのだ(笑)。或いは陸奥宗光を新政府に送り込んでそのフィクサーとなり、政商として活躍したかもしれない。龍馬はんは○○大臣よりも、現在で言えば経団連会長といった位置づけが似合う。官に入らず民から明治政府に影響を与え、国家の設計をリードする。そんな存在になっていたかもしれない。
 例えば福沢諭吉は学校を作り人材育成を進めると共に、明治政府に意見を言い続けた。そういう立場に立っていたかもしれない。学校ではなくて企業の立場から影響を与える。僕は福沢諭吉が本当に好きではないので(慶応の方すみません)、もしも龍馬はんが居たら福沢など青菜に塩(by陸奥宗光)だっただろう。

 西郷は明治政府の青写真を本当に持っていなかった。どうしていいのかわからなかったのだろう(だから紀州の津田出に真剣に教えを乞おうとした)。龍馬はんが居ればいちいち聞いたに違いない。龍馬はんは「早く憲法を作りなさい」「早く議会を開きなさい」とどんどん追い立てただろう。龍馬はんは得意の「耳学問」でルソーの民約論などを聞き齧って、「それじゃそれじゃ」と言って海援隊で出版し、基本的人権の確立と民衆の政治参加を訴え、エヘンエヘンとばかりに明治政府の方向をそちらに曲げてしまったかもしれない(楽しいなあ)。龍馬はんが居なかったから、明治政府はヨーロッパへ付け焼刃の勉強に出かけて、結局ドイツ式の立憲君主制で重い国家を作ってしまったのだ。こんな行政権の強い国家、龍馬はんなら作らせなかったかもしれない。共和制の、象徴天皇制と明確な三権分立。そういう国家になっていた可能性もゼロではない。重い国家を作った山県有朋など青菜に塩(by陸奥宗光)。そうすれば統帥権などというものは出てこず、太平洋戦争まで未然に防げたかもしれない(どんどん筆が滑る)。

 龍馬はんがもし明治に居れば、憲法、参政権、そして法治国家の建設を急いだに違いない。そして政党政治を目指したかもしれない。議会制民主主義の行き着くところはそれだ。党首としての活動ではなくフィクサーだっただろうが、その方向性は様々に残され、片鱗を伺う事が出来る。
 まずその思想は、中江兆民が後を継いだ。龍馬はんに「中江の兄さん煙草を買うてきておうせ」と頼まれたことをずっと誇りにしていた兆民は龍馬はんを尊敬し、第二の龍馬を目指そうと頑張った。革命は民衆から。ルソーを紹介して明治期の自由民権運動の理論的背景となった。
 その行動は、板垣退助ら土佐の後輩達が自由民権運動を起こして進めた。しかし結局尻つぼみとなってしまった。龍馬はんがもしも居れば、兆民も板垣も従えて大きな政治的うねりを起こしたのではないかと夢想されてならない。この自由民権運動には柱が居なかったのだ。飽きっぽい板垣では成就しなかった。惜しいことである。
 国家の法整備は、江藤新平が必死になってやった。しかし大久保との政争に破れ梟首となる。もしも、近藤長次郎さんの件で人材を死なすことに懲りている龍馬はんが居ればこんな優秀な人物を死なしめることはなかっただろうに。

 先に行き過ぎたが、龍馬はんが居ればもしかしたら「征韓論」などというものも存在したかどうか。龍馬はんは師匠の勝のとっつぁんと共に「日本・朝鮮・中国の東アジア三国同盟」を理想としていた。西欧の侵略主義に対抗するにはこれしかないぜよ、と言わんばかりに。この方針で行けば、征韓論など青菜に塩(by陸奥宗光)だっただろう。征韓論どころか、伊藤博文の朝鮮併合もない。日清戦争だって勝海舟は最後まで批判していた。なのに日本は西欧の悪しき真似をして帝国主義に走り、長州の山県有朋などは吉田松陰の「朝鮮、満州、支那を切り随へ」という前時代的思想に凝り固まって日清戦争を起こした。福沢諭吉は「脱亜論」で「亜細亜東方の悪友を謝絶せよ」とそれに拍車をかけた。勝海舟には評論で「旧幕臣が口を出すな」と牽制した(福沢め!)。商売の視点から見ていた龍馬はんが居たならこんな明治はなかったかもしれなかったのに。今でも靖国や教科書問題、拉致問題でこのことは遺恨を残している。龍馬はんありせば…。

 さて、龍馬はんの海援隊は、明治の世にどう発展しただろうか。
 その方向性は、ある程度は現在の三菱に伺うことが出来る。しかし岩崎弥太郎がいろは丸の賠償金と人材を用いたとは言え、龍馬はんなくして三菱は無い、と言えば三菱の人に怒られるだろう。海援隊の残務整理をした等々、様々な経緯はあるにせよ、堅実に事業を発展させた岩崎三菱は龍馬はんなくても存在しただろう。龍馬はんは土佐藩営事業から発展した三菱とは別に、独自に海援隊を運営したであろうから、三菱と海援隊はライバル関係になったと想像するのが正しいかもしれない。堅実に手堅く商売をやる三菱。吉岡銅山や高島炭坑を入手し、金融業を興し造船~後には重工業に着手する三菱には龍馬はんも手を焼いただろう。しかし北海道開拓事業や鉄道などの分野には龍馬はんは手を染めそうだ。どちらかと言えば、阪急の小林一三や西武の堤康次郎的なこともやったかもしれない。海運業、商事会社、そして開拓事業方面への進出。成功したかどうかは…それは分からない。
 三菱商船学校(後の東京商船大学)などの人材育成機関は、海援隊がやっていたかもしれないなあ。人材育成には力を入れて欲しい。三菱は福沢の学校から人材をずいぶん引っ張ったが、龍馬はんには独自の学校を打ち立てて欲しいな、とも夢想する。

 戊辰戦争は、無念に斃れた龍馬はんの執念と勝のとっつぁんの活躍で最小限に終わった。そのせいで「戦争は4年は続く」と目論んでいたグラバー商会は倒産してしまう。その後グラバーは三菱の傘下に入りビール会社経営にあたった。これがキリンビールである。さて、何故麒麟なのか。長崎のグラバー園には麒麟のモデルとなったとされる狛犬が展示されているが、この狛犬と麒麟はあまりにも似ていない。よくこの麒麟の目は西洋人でありその髭とともにグラバーを象徴していると言われる。しかしさらによく見ると、麒麟という想像上の動物の中には龍と馬が見え隠れする。このデザインには様々な意味が込められているのであろう。今の三菱には龍馬はんの影はない。龍馬はんの痕跡を現在の企業に探すとすれば、この麒麟くらいなのかもしれない。
 かと言って僕は龍馬はんゆかりとも言われるキリンビールを特に愛飲したりはしていない。酒はまた別である。

長々と大変失礼しました。贔屓の引き倒しの龍馬はんの話を終わります。

※ブログを始めてよりの念願であった坂本龍馬の話を開設一年経ってようやく書くことが出来ました。読んでくださった方には本当に感謝します。

もしも…番外編・龍馬はんの見た未来 Ⅲ

2005年11月21日 | 歴史「if」
 前回記事からの続きです。

 マルクス史学的なことになるので最近流行の考え方ではないのだけれども、明治維新というものは僕は革命じゃなかったんじゃないかなとふと思ったりもする。
 もう少し正確に言えば、民衆の革命ではなかったのではないか。革命の定義を「既成の制度や価値を根本的に変革すること」であればその匂いはするけれども、「支配者階級が握っていた国家権力を被支配者階級が奪い取って、政治や経済の社会構造を根本的に覆す変革」とすれば、明治維新はそうじゃなかった(定義はgoo国語辞典による)。
 明治維新は外圧によって生まれた。西欧の植民地政策による危機から尊皇攘夷運動が生まれ、政権交代が起こった。しかしその新政権を打ち立てたのは薩長であり、やはり武士という支配者階級である。武士が武士を駆逐した。すなわちこれは支配者階級の中の、単なる支配権を巡る闘争だった可能性もある。僕は歴史を専門に勉強したことのない人間なので適当な話になってしまっているのだが、革命というのは、やっぱり被支配者が、民衆が起こしてこそ革命じゃないのだろうか。民衆が封建制からの自由を求めて、身分制、世襲制からの脱却を目指す。
 慶応年間の農民による打ちこわし。これは封建制の矛盾に気が付いた民衆のパワーの発露であり、近畿で発し江戸でも勃発、関東地方に広く波及した。これが組織統一されれば革命になったかもしれない。しかしそうなるには時間がなく熟成しなかった。「ええじゃないか」というガス抜き的な動きに移行してしまった感もある。
 また江戸時代は町人の時代とも言える。商人は財力を持ち、合理主義、そして自由を求めていた。この階級からブルジョアジー革命が起こればこれは是である。
 龍馬はんは、この商品経済の欲求からくる民衆革命の唯一の具現者ではなかったのか、と思ったりもするのである。もちろんこれは僕の夢想でもあるが。

 龍馬はんは町人の血を受け継いでいることは以前にも言及したが、実際の身分は「郷士」であった。まあ武士階級と言ってもいいかもしれない。しかしながら龍馬はんの「民衆の血」は彼に脱藩という道を選ばせる。身分から脱却した「フリー」な立場を選択したのだ。ここが武市半平太以下の土佐勤皇党から一線を画しているところである。
 龍馬はんの「亀山社中」「海援隊」の組織を見ればその思想が見て取れる。

 「凡嘗テ本藩(土佐)ヲ脱スル者及佗(他)藩ヲ脱スル者、海外ノ志アル者此隊ニ入ル」

 浪人が第一条件なのだ。これは支配者階級から脱却した人間が作る組織なのである。民衆であるということなのだ。身分制を廃した平等思想。これこそが龍馬はんの理想であり、自らをその立場に置いて革命を果たす。大久保利通が島津久光に取り入って、「武士・藩士」として力を持つのとは方向性が全然違う。真の民衆革命は龍馬はんだけが唯一目指していたと言っていい。

 したがって、「薩長同盟」などは方便である。幕藩体制では革命を起こしようがないため、とりあえず「革命準備政権」を樹立しようとして雄藩連合を目論んだのだと思う。大政奉還がゴールではなかったのだ。幕府を終わらせ、革命準備政権を作り日本を変革する。西欧諸国の植民地政策に対抗するためには、農民・町民の蜂起を待っている時間はなかった。なのでとりあえず政府を作り稼動させて革命を起こす。西郷が倒幕を最終目標としていたのとはずいぶん視点が違う。
 薩長の政府では「支配者から支配者」に過ぎない。本当の革命は階級を無くすこと。だから、明治2年の版籍奉還、同4年の廃藩置県に至ってようやく革命の第一次段階なのである。そして民主主義の到来。民衆の政治参加があり議会を最高議決機関とする。これこそが革命の成就である、と龍馬はんは見ていたのではないか。その思想は「船中八策」にも盛り込まれている。

 支配者から支配者への政権移動。これは革命ではない。なのでここに戦争があるのはムダなこと、だと龍馬はんや勝海舟は知っていた。だから「討幕」ではなく「閉幕(こんな用語はありません。勝手に言ってます)」を目指して動いた。西郷はそこのところがわかっていなかったのかもしれない。戊辰戦争などはなくてもいい戦争だった。「国を焦土にしてそこから湧き上がるもの」などという抽象的な思想で戦争を始めるのはナンセンスである、と龍馬はんは知っていた。しかし結局龍馬はんは周囲の無理解の中で死を迎えてしまう。

 龍馬はんが夢見た「民衆が自由に、海外に志を向けられる世の中」。それは龍馬はんが存命であればもっと合理的に、速やかに行われた可能性があると僕は夢想する。しかし明治政府は薩摩の西郷、大久保が主体となってしまったために薩摩藩(島津家)の足枷が強く、結局西南戦争まで実現が出来なかった。自らが武士階級であったためにそれまでの支配者階級であった武士の処遇をコントロールすることが出来なかったのだ。夢想でしかないが、民衆の立場であった龍馬はんならもう少し違ったアイディアを使って上手な政権移動を可能にしたかもしれないのに、とぼんやりと考える。龍馬はんが想定していた憲法制定そして議会制民主主義は、さらに後の伊藤博文の時代まで待たなければならなかったのだ。

 話が難しいな。終わらせなくちゃいけないのにまだ続いてしまった。さらに次回。今度こそ完結。


もしも…番外編・龍馬はんの見た未来 Ⅱ

2005年11月20日 | 歴史「if」
 前回からの続き。

 白石正一郎に会って後、龍馬はんは行動を共にしていた沢村惣之丞と別れ九州に向かう。薩摩に入国を考えていたと言われるが、普通の志士なら京都に向かうはず。この時長崎に行ったかどうかは不明だが、何か龍馬はんは普通と違うことを考え出していたのではないか。この後大阪、京都、そして江戸へ入り、松平春嶽、勝海舟、横井小楠らと会う。ついに龍馬はんの中で何かが動き始めた。徐々に理論武装をしながら「日本の洗濯」の作業へと突入するのだ。
 これから先はもう有名な話ばかりである。勝のとっつぁんの下で航海術を学び、その後、身が危うくなると薩摩へ。そして長崎で亀山社中設立となる。

 この亀山社中は、薩摩を大株主とした商事会社である。この後援をしたのが長崎の豪商小曾根乾堂、そして弟の英四郎である。この小曾根乾堂、英四郎との出会いこそが、龍馬はんにとって最も重要なことではなかっただろうか。才谷屋に生まれ、冨屋金兵衛、白石正一郎、伊藤助太夫と出会い、世界を相手にしたいと思いはじめて、勝、一翁、春嶽、小楠ら一流の人物に学び日本の先行きの青写真を作り、そして長崎という街に龍馬はんはやってくるのである。
 小曾根家とは、勝海舟の紹介で面識が既にあった。一年前、勝のとっつぁんに付いて龍馬はんは長崎に来ている。そのときにもう既に英四郎とは意気投合していたのではないだろうか。商業的視野で物事を見始めていた龍馬はんにとって、世界経済との窓口である長崎で乾堂、英四郎との出会いは、何かが弾けるような思いがしたのではなかったかと想像するのである。この時に僕は、社中設立の約束は出来ていたと考える。「世界の海援隊」構想の始まりである。
 そうでないと、長崎に龍馬はんがやってきて社中設立までの時間が短すぎるのだ。既に社中設立構想があり、そのために薩摩から船も借りようとしていたのではないか。龍馬はんの世界構想は、最初の小曾根家との邂逅にあったのだろう。
 英四郎は社中に資金を提供し、そのメンバーとなっている。そして慶応元年5月に社中設立。素早い。その3ヶ月後にはもう薩藩名義で長州の武器を購入している。早すぎる。設立前から手が既に打ってあったかのようである。小曾根英四郎は先立って動いていたのではないか。

 こうして電話もファックスもない時代に素早く次々と手を打っていく。このことから、「死の商人」トーマス・グラバーとの関係を強調する研究者もいる。極端な話、龍馬はんは西欧の秘密結社、フリーメイソンのメンバーになったのではないか? とも言われている。一介の脱藩浪士の龍馬はんが、信用が物を言う商売の世界で何故次々と輸入が出来たのか。グラバーとジャーディン・マセソン社、パークスらイギリスの外交官たち、そしてフリーメイソンが動き龍馬はんはその操り人形ではなかったか、という説である。黒幕説では触れなかったが、大政奉還で平和裏に権力禅譲が行われると武器が売れなくなるため、「死の商人」たちが龍馬はんを襲わせた、という説まであるのだ。その場合は西郷に教唆した、ということだろう。黒幕の黒幕である。
 僕は龍馬はんがフリーメイソンであったとは考えていない。ただ、別にそうであったとしてもかまわないとは思う。その後の状況を見れば、龍馬はんはやはりグラバーやその他の外国商人をうまく利用しただけのように見えるからだ。彼ら(イギリス)の目的は日本の属国化にあったであろう。属国まで行かなくても輸出入の最有利化。しかし現実はそうなっていない。龍馬はんは、外国勢力を言わば踏み台にした、利用したとも取れる。もしも鉄の結束を誇るフリーメイソンに方便で入会していたとしたら傑作ではないか。革命の際には隠れキリシタンまで扇動しようとした男である。そのくらいのことはやりかねない。

 龍馬はんの目指していたもの。それはやはり「世界の海援隊」であった。そのためには清濁を併せ呑んだところもあったのかもしれない。とにかく世界相手に貿易業を始めるには、近代国家が建設されないとどうしようもない。しかし、国内戦争で国力が衰えれば西欧帝国主義の植民地政策の餌食となる。それでは困る。なので、国事に奔走したと見るのが正しい見方だろう。そして、世界にも例が無い(中国の伝説にはある)禅譲というやり方で新政府を樹立させようとしたのだ。それが大政奉還である。そして新政府を樹立させ、通貨価値統一と不平等条約の撤廃を進め、憲法を作って法整備を行い諸外国の信頼を勝ち取って、自由に貿易業を行いたい。それが龍馬はんの見ていた未来ではなかったのだろうか。

 だから亀山社中、そして海援隊を自らの母体として大切にした。国事に奔走していては商売など二の次になるのが当然なのにそうではなかった。あくまで貿易業を本業にしていて、その合間にチョコチョコと動いては倒幕運動にテコ入れをしている。事業の有利化工作と同じ意識だったのかもしれない。なので会社の危機だったいろは丸沈没事件、そしてイカルス号英国水兵殺害事件などでは懸命に立ち回っている。水兵殺害事件の頃は維新革命が成るか成らないかの非常に多忙な時期だったにもかかわらず放っておくことはなかった。それは本業があくまでこっちだからである。「世界の海援隊」といずれなるべき萌芽を大切に、大切に龍馬はんは思っていたのだ。

 まだ次回に続く。終わんないな。

もしも…番外編・龍馬はんの見た未来 Ⅰ

2005年11月19日 | 歴史「if」
 前回からの続きです。

 さて、坂本龍馬という人はいったい何を目指していたのだろう。

 ごく一般的な評価としては、龍馬はんは勤皇の志士であり、当初尊皇攘夷であったが、勝海舟との出会いにより開国派に転向、迫り来る外国勢力に対抗するには富国強兵しかないと悟り、それにはまず幕府を倒すことを目標として薩長同盟を締結させ、大政奉還のフィクサーとなってそれを実現した矢先に帰らぬ人となった、という見方。

 「日本を今一度洗濯いたし申し候」

 龍馬はんの名セリフである。これがひとつの龍馬はんの目標であったことは間違いない。そして本当に洗濯してしまった。脱藩した一介の浪人が、徳川300年の幕藩体制を終わらせた。このことに後世の人間はシビれる。まさに「奇跡の男」だった。
 しかし、洗濯を半ばし終えた龍馬はんの視線はまだ遠くを見ていた。普通であればこれだけの仕事をすればもう人生満足である。実際西郷は維新革命の後は抜け殻のようになってしまっている。しかし龍馬はんはまだ志半ばであったような感がある。

 「世界の海援隊でもやりましょうかな」

 この有名なエピソードは虚構とも言われる。龍馬はんが新政府構想を西郷に示した、その名簿に龍馬自身の名前がなかった。西郷が何故かと尋ねたところ、「わしゃ役人が嫌いだ」と答えて上記の文言を言ったとされる。しかし「尾崎三良手扣」には龍馬はんが作ったとされる「新官制擬定書」が記されていて、その中に龍馬はんの名前もある。したがって龍馬はんは新政府に入ろうとしていたのであって、「窮屈な役人にはならんぜよ」とは言っていない、ということである。
 虚構だったかもしれない。しかし陸奥宗光はこの「世界の海援隊」の発言から「西郷より龍馬は二枚も三枚も上に見えた」と言っており、またお龍の回顧談からも、役人になりたくない龍馬はんの言動が見てとれる。仮に新政府に名前を連ねざるを得なくても、それも龍馬はんにとっては通過点であるという見方が出来るのではないか。やはり目指すところは「世界の海援隊」ではなかったかと思うのである。

 この「世界の海援隊」はキーワードである。司馬遼太郎氏は後に「竜馬にとって維新革命は片手間の仕事ではなかったか」と発言している。明治維新が片手間。しかしそう考えると、龍馬はんの考え方がすっと理解できるようにも思えるのである。
 龍馬はんが新政府のあり方を示した「船中八策」。その中には「世界の海援隊構想」を実現しようとする内容が盛り込まれている。

 一、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。

 一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。

 つまり外交は新しく公正な条約を作り、海外と金銀価値、物価を平衡しろ、と言うのだ。これ無くして海外貿易は成り立たない。八策のうち二策までも貿易重視の内容になっている。これがつまり、龍馬はんの維新政府発足の目的であったと言える。これを実現せんがために龍馬はんは「日本を洗濯」しようとしたのだ。

 この龍馬はんの思想はどこから生じたものであるのか。通説によると、まず土佐の絵師河田小竜との出会いから始まる、とされる。このジョン万次郎と親交の深かった小竜には確かに影響はされただろう。そして、志士となって名士と交流するに至って龍馬はんの「来るべき日本の未来」は具体化していったものとされる。まず勝のとっつぁん。そして大久保一翁、横井小楠。現在の幕府では外国の脅威に太刀打ち出来ず、雄藩連合によって政府を運営し、いずれ共和体の政府を作るべきであるという考え方。それは前述の「船中八策」にも大いに盛り込まれる。「上下議政局」「万機宜しく公議に決すべき」「新に無窮の大典を選定すべき」等々。既に議会制民主主義、憲法制定まで視野に入れている。封建時代から一足飛び過ぎる、と後世の僕達にも思えるほど斬新である。勝海舟らはこれを目標としていたことはほぼ間違いあるまい。また西郷ら倒幕派は、討幕革命が一次目標でありここまで先を見据えてはいなかったかもしれない。龍馬はんの先進性が伺える。
 しかしこれも龍馬はんにとっては手段にしか過ぎなかったのかもしれないのだ。「世界の海援隊」を見据えていたとすれば。
 この考え方は勝のとっつあんの影響だけでは導き出せない。

 それでは、龍馬はんの真の思想背景を形作ったものはなんだろうか。
 それはやはり「才谷屋」の血が成せるものだったのではないだろうか、と僕は夢想するのである。坂本家は土佐郷士だがもともとは商人である。「勤皇思想」といった形而上の考えでは左右されない何かがあったような気がしてならない。
 土佐は「天保庄屋同盟(我らの総主は山内でなく天皇)」もあり勤皇思想も強く、確かに若いときは土佐勤皇党に所属し、武市半平太にも影響されただろう。しかし龍馬はんは、この勤皇思想の中から平等思想を抽出したような気もする。そして「土佐にはあだたん(入りきらない)男」であった龍馬はんは、脱藩して長州に向かう。檮原の山中を抜け伊予へと国抜けを果たし、龍馬はんは伊予長浜の冨屋金兵衛宅で宿泊している。
 ここが龍馬はんの出発点ではなかったか、と僕は夢想したりもするのである。豪商冨屋金兵衛は勤皇派を擁護し援助していた。まず「勤皇の商人」との出会いから、武士だけではなく何故商人が封建時代を終わらせたいのか、という思想の片鱗と遭遇したのではとも思える。想像にすぎないが。そして三田尻へ渡り下関へ。ここには勤皇商人の大御所、白石正一郎との出会いが待っていた。
 白石正一郎は商人というより志士だったのかもしれない。倒幕に財産を使い果たした男だからだ。しかし、武士階級でない人間が「勤皇思想」だけでここまでするのだろうか。白石にも商人の思想はあったはずである。この時ではないが下関には豪商伊藤助太夫も居た。この人物を龍馬はんは信頼し後に助太夫宅を「自然堂」と号し、お龍も住まわせた。
 この商人たちとの出会い。これは龍馬はんには大きかったのではないか。他の志士達には「金づる」でしかなかったこの豪商たちに、もともと才谷屋であった龍馬はんのアンテナは何かを察知したのではないか。そしてさらにこの後、龍馬はんはもっと深く商人の思想の世界に入っていくこととなるのだ。

 さらに次回に続く。いったいいつ終わるのか。

もしも坂本龍馬があの日…Ⅲ(黒幕は誰か)

2005年11月17日 | 歴史「if」
 前回からの続きです。

 龍馬はん襲撃の黒幕は果たして誰なのか?
 そもそも見廻組であれば、黒幕は簡単に言えば幕府である。松平容保と言ってもいい。龍馬はん襲撃の命令は出ていたのであるから。しかし、状況は多少混迷する。今井信郎の証言からすれば、龍馬はんのアジトは「ふとしたことから」判ったと供述している。自力で見つけ出したのではないこと明白なのだ。見廻組の探索者が見つけたのであれば「ふとしたこと」などと言うはずがない。密告者が居たのだ。それを伊東甲子太郎に比定しているのだが、伊東に密告せよと命じた者が黒幕ということになる。

 さて黒幕説は実に多い。むろん幕府説が以前は主流だった(幕府なら当然で「黒幕」などという言葉は使わなくてもいい)。見廻組や新撰組であるとすれば命令者は幕府ないし松平容保であるから、この説は一面では正しい。しかしながら事態はそう簡単なものではないのだ。近江屋に龍馬はんが居ることをつき止め、情報を与え命令を裏で下した(見廻組ないし高台寺党を動かした)人物が居る。そうでないとあの完璧な襲撃は成り立たないように思う。
 幕府ないし容保が情報収集しピンポイントで命令を下した、とは考えにくい。従来より龍馬はんを斬れ、という命令は見廻組には出ていたと思うが、具体的ではない。
 また、幕府上層部は龍馬はんをお尋ね者から解除しているのである。大政奉還の功労者でもあり当然である。龍馬はんは当時「徳川家の味方」と言ってもいい立場に居た。ただその命令解除が末端にまで行きわたっていなかった、というのが幕府黒幕説の根幹である。その可能性はある。ただこの襲撃劇は実に周到に計画されていて、情報を基に新たな命令が下されていた匂いがする。

 勝海舟は「榎本対馬ではないか」と推測している。榎本武揚ではなく、当時の幕府目付で大阪城代の榎本道章である。この人物についてはよく知らないのだが、かなりの保守派だったらしい。幕府大目付である松平勘太郎、永井尚志は龍馬はん狙いを解除しているのだが、強権派で独断で命令したとも考えられる。ただ情報網などの点からこの説は薄いと思われる。
 幕府でなかったとすれば? 陸奥宗光は紀州藩三浦休太郎が新選組を教唆したのではないかと考えてこれを襲撃した(天満屋事件)。いろは丸事件の恨みである。ただこの疑いは晴れたのか、その後陸奥ら海援隊は三浦を狙うことをしていない。
 また最近、龍馬はん暗殺に彦根藩が関与していたことを示す密書が出てきた、と話題になった。実行犯とされる見廻組頭佐々木唯三郎の兄手代木直右衛門(会津藩)が彦根藩と連絡を取り暗殺を指示した、というものだが、密書の内容は具体的ではなく龍馬はん暗殺を指していたかどうかは難しいところ。日付もあいまいでちょっと短絡的過ぎるのではないかと思う。彦根藩は井伊直弼死亡後転落した藩勢を取り戻そうとしていたが、裏で動いていた龍馬はんを知っていたかどうかも疑問だ。

 もうひとつの黒幕説の柱は、幕府側ではなく官軍側の指図ではなかったのか、という説だ。
 龍馬はんの大政奉還は薩長側の武断派には実に都合が悪いものだった。なおかつ龍馬はんは徳川慶喜を新政府に取り込もうとしている。これでは革命が成り立たないと危機感を覚える人間は薩長に多かったはず。
 その本題に行く前に、後藤象二郎説を見てみたい。これは実に奇説である。つまり大政奉還を建白するにあたって山内容堂にも幕閣にも龍馬はんの名前を出さず、つまり功績を独り占めせんがために龍馬を消した、という説である。そんなアホな。大政奉還策を龍馬はんが後藤に伝えた場面では、長岡謙吉も居るのである。長岡も消さなければならない。また、そもそもの大元である勝海舟や大久保一翁も消さなければならない。そんなことくらい後藤ならわかるはずである。また後藤にとって龍馬はんはまだまだ活躍してもらわなければならなかったはず。どう考えても成り立たない。

 さて、薩長説である。特に薩摩説は現在の主流と言ってもいい。何故薩摩かと言えば、このような重要な指令が出せるのは西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允しかいないからである(薩長ではないがもう一人岩倉具視という人物も居る。ただ岩倉には手駒がいない)。この中で木戸はその性格から考えて龍馬暗殺指令は出せないだろうから薩摩ではないか、というのである。僕もそれには賛成である。暗殺指令は木戸のやり方ではない。
 ただ、可能性として「思う」だけではダメなので考証したいが材料があまりない。状況を見れば、木戸はこのとき京都には居なくて(指令は居なくても出来るが)、3日後たまたま上京してこの事件を知り落涙したと言う。葬儀がこの日であったため墓標を揮毫した。その墓は現在も霊山墓地にある。黒幕とはとても思えない(全て演技かもしれないが)。
 他の状況として、もしも実行犯が見廻組ないし高台寺党だとして(新撰組でもいいが)、長州には接点がないのである。絶対無かったとはいいきれないが(新撰組には絶対無かったが)、どうも可能性としては薄い。
 だが、薩摩には見廻組にも高台寺党にも接点があるのである。

 高台寺党は薩摩藩とは密接であった。伊東と高台寺党の目的は、御陵衛士(天皇を守る組織)となること以外に、新撰組を乗っ取り勤皇討幕に変えたいということもあったようだ。このため薩摩は高台寺党に援助し(スポンサーだった)、隊員も前述の富山弥兵衛らは薩摩出身であった。油小路事件で伊東が斃されたあとメンバーは薩摩藩邸に逃げ込んでいる。
 見廻組と薩摩の接点は難しいが、佐々木唯三郎は例の薩会同盟の頃から誼を通じ、同盟瓦解の後も連絡を取っていたという説もある。また歌をよくした佐々木は、歌会で薩摩の高崎正風(薩会同盟の実務者)と交流が続いたとも言われている。長州とは比べられないほど薩摩と見廻組・高台寺党との繋がりは深い。

 黒幕は薩摩であるという傍証は出てきたが(動機と状況)、これは証拠はまず出ては来るまい。先に話を進めて、大久保なのか西郷なのか。
 どちらも怪しい。大久保なら岩倉とのタッグということになろう。岩倉は「あの維新当時は大久保と、とても口に出せないようなことをやった」と述懐している。これは錦の御旗の偽造と孝明天皇毒殺を指すと言われるが、龍馬暗殺も入っていたとしたらそれは怖ろしい。高台寺党と密接だったのはむしろ大久保で、その意味からも大久保(及び岩倉)は怪しい。
 ただ、邪魔者は斬れ、という発想は西郷のものである。小御所会議で山内容堂と後藤が徳川慶喜の処遇について反論した際「刺してしまえ」と言った西郷である。幕府を挑発して朝敵にする陰謀も西郷が担当した。本当に怖いのは西郷だ。大久保は龍馬暗殺を聞いて岩倉に「新撰組らしいぞ。ヒドいことだ」と書簡を送っている。これだけ見れば大久保は関与していない。無論カムフラージュかもしれないが。しかし西郷はこのとき沈黙している。

 西郷説を唱える場合必ず出てくる挿話は、実行犯とされる今井信郎を赦免した、という事実である。本当なら龍馬はんを殺した憎き男を赦免など考えられない。また指令を出したのが薩摩であったなら、口封じで斬首が最もいいのである。どちらにせよ不都合な赦免という事実は残っていて謎とされる。
 これはしかし西郷らしい逸話のような気もする。今井は斬っただけであり薩摩との因縁は知らなかった、と仮定すれば口封じの必要はない。情報源の伊東と実行責任者の佐々木はもう死んでいる。それでも大久保なら助けはしなかっただろう。あの江藤新平を梟首にした大久保ならば。しかし西郷は、例えば庄内藩に寛大な処置をしたように事が一旦終わればもはや問うことはしない、という思想がある。函館戦争に今井は参戦しているが黒田清隆に救われている。またもう一人の実行犯と言われる渡辺一郎は、海江田信義がその後の面倒を見ている。黒田、海江田は当時西郷派である。このように、今井の赦免と渡辺の処遇は西郷が暗殺に関与していないと解けない謎になってしまうのである。

 直接的証拠はもちろん出てこないが、黒幕は西郷、と考えたほうがすっきりとまとまる。武力革命に大きな障害となったであろう龍馬はんを、「刺してしまえ」と言ったのであろう。非情な世界ではないか。そして鳥羽・伏見の戦いは始まるのだ。

 次回に続く。

もしも坂本龍馬があの日…Ⅱ(実行犯は誰か)

2005年11月16日 | 歴史「if」
 さて、龍馬殺害犯及びその指令を出した人物については、実に多くの説が唱えられている。前回、情報を流したのが伊東甲子太郎ではなかったか、とまでは書いたが、実行犯も果たして伊東なのだろうか。黒幕より前に実行犯について考えてみたい。

 実行犯は見廻組説が現在のところ通説と言ってもいい。それは何故かと言えば、自供があるからである。これほど確実なことはなくてこれで決定と言えばいいはずであるが、どうしてこれが信用されないのか。
 実行犯は、当時新撰組だと言われた。それは現場に刀の鞘と下駄が残されていたからである。この鞘と下駄を見て、例の伊東甲子太郎は、新撰組の原田左之助のものだと判断した。これを土佐藩谷干城が信じ、下手人を新撰組に絞って探索したのである。近藤勇が斬首になったのもこの影響がある、とされる。
 しかしながら、後に新撰組大石鍬次郎を取調べた際に「見廻組の今井、高橋がやったのだ」という証言が出てきた。果たしてその今井信郎は戊辰戦争で函館に従軍していて、後に拘束され自供した。この時は「自分は見張りだ」と言って禁固刑に止まっている。しかし後日述懐したところによると実行犯は自分だったと言っている。
 他の見廻組は鳥羽伏見の戦などで組頭佐々木唯(只)三郎をはじめとしてほとんどが戦死している。真相を裏付けする証言は得られない。唯一、渡辺一郎という元見廻組の剣士が「自分がやった」と述懐している。こういう点が「功名争い」であると谷干城が判断して新撰組説を譲らなかったため、混迷していったと考えられる。
 しかしながら、この元見廻組の二名の証言は信憑性がある。今井の証言が揺れるのも実行犯となれば斬首は免れないのでいたしかたないだろう。また今井は実行メンバーを佐々木唯三郎他5名としてその中に渡辺一郎を含まなかったのも、まだ生き延びている渡辺のことを思うと当然とも言える。

 他の説も考えてみよう。まず新撰組説だが、近藤にも原田左之助にもアリバイがあり、他の隊士に命じたとしても記録がない。仇敵である龍馬はんを討ったのなら自慢してもいいくらいなのに沈黙している。その他の状況を書くとキリがないのだが、新撰組は関与していないと見るのが妥当だろう。
 中村半次郎説は、黒幕薩摩説とともにクローズアップされているが、その日記などから否定的意見も多い。僕は個人的に思うのだが薩摩自顕流は初太刀が命で、龍馬はんの額をはらい背中に斬り付けてまだ致命傷を負わせていない太刀筋は違うと思うのだがどうだろうか。
 内ゲバ説、特に中岡と斬り合った説などはどうも納得出来ない。動機付けはともかく、背面からの刀傷が多すぎる。正面から斬り合ったとは思えない。また当時大政奉還に激昂していたと言われる陸援隊の他の隊士がやったという説もある。中岡はそれで犯人像を明確にしなかったのだ、とも。しかし陸援隊長の中岡をも斬るだろうか。口封じで斬ったとしても、完全に止めを刺さないのはどうしたわけか。 「もうよい、もうよい」と言って刺客は去ったのだ。この説は成り立たないように思う。
 そして問題の伊東甲子太郎説であるが、彼は龍馬はんの居場所も確認しているし、事件後すぐに駆けつけ新撰組犯行説を唱えるなど相当に怪しい。しかし、伊東は龍馬はんと中岡慎太郎には面が割れているのである。伊東であれば瀕死の慎太郎が名指ししたはずだが、慎太郎は「刺客に見覚えはない」と証言しているのだ。ここが難しい。ただ、伊東以外の高台寺党がやったとすればまた話が違ってくる。高台寺党の一員であった富山弥兵衛説というのがあって、これはなかなか捨てがたい説なのだ。刺客に薩摩訛り、という証言もある。富山は官軍として戊辰戦争に参加、越後で捕えられ死んでいる。

 僕が考えるのは、伊東以下高台寺党説も可能性は高いが、やはり自供がある今井信郎、渡辺一郎を擁した佐々木唯三郎以下の見廻組であると思う。伊東が命令して高台寺党がやったとすれば危険が多すぎる。勤皇討幕の立場として土佐藩を敵に回したくはあるまい。それでなくても怪しい行動を伊東はしていたのだ。伊東が見廻組に情報を流した、と考えるのが妥当ではないか。見廻組は必死で龍馬探索をやっていたのだ。寺田屋襲撃事件で龍馬はんが捕り方をピストルで撃って以来、龍馬はんはお尋ね者である。龍馬はん襲撃の正統な理由があるのだ。確実な情報が佐々木唯三郎に入れば動くに違いない。伊東からの情報というのは組頭佐々木しか知らないことであろうから、今井、渡辺が知らなくても不思議ではない。
 しかし、高台寺党説も絶対否定は出来ない。決め手はなく推測で僕は見廻組説を採っているに過ぎない。少なくともどちらかだと思う。

 では伊東が黒幕か? 伊東にそんな動機はない。伊東に命じた人物は存在するはずである。そこがこの事件の一番の謎の部分だろう。

 次回に続く。

もしも坂本龍馬があの日風邪を引かなかったら Ⅰ

2005年11月15日 | 歴史「if」
 11月15日は坂本龍馬の誕生日であり命日。なのでちょっと龍馬はんについて考える。

 坂本龍馬を大好きな人は実に多いと思う。僕もその一人。
 そもそもこの「歴史if」というカテゴリも、もしも龍馬はんが暗殺されなかったら、ということが書きたいがために設けたカテゴリみたいなものだった。しかし好きなのでなかなか書けずにいた。今日こそは書く。

 「坂本竜馬は維新史の奇跡」である、と司馬遼太郎氏が言った。維新という近代国家の幕開けは、龍馬はん無くして考えられない。この土佐の脱藩浪士は、常に視野を世界に向け、あくまでも度量大きく、未来を見つめ続けた。「尊皇攘夷・倒幕派」「開国・佐幕派」などという枠を超え、あの幕末の時代に株式会社を作り、黒船を手に入れ、北辰一刀流の剣の達人でありながら人は斬らず、心をいつも太平洋に向けていた男。

 「薩長同盟、大政奉還、あれァ全部竜馬一人がやったことさ」(勝海舟)

 もしも龍馬はんが居なければ明治維新はもっと変わっていたものになった可能性がある。いずれにせよ日本という国は近代化しなければ存立の危機であった。龍馬はんが居なくても近代国家の建設はなされていただろう。しかし、この国のかたちは大きく変わった可能性がある。龍馬は近代日本の青写真を書き、そして明治の世が訪れようとしたまさにそのとき非業の刃に斃れた。もっと長く生きて欲しかったと思う人は多くいるはず。

 あの日風邪さえ引いていなかったらなあ…。

 そう思う人は多いだろう。龍馬はんは無防備なようでいて、自分が危険に晒されていることは十分に知っていて、早いうちからピストルも携帯し、身の回りには気を配っていた。この時期の京都滞在も、福井出張から帰った龍馬はんは最初いつもの酢屋に入ったが、用心を重ね近江屋へ移動している。近江屋では土蔵で寝泊りしている。防御は万全だ。しかし、京都は冷え込み土蔵は寒い。風邪を引いてしまった龍馬はんは11月14日、土蔵から出て暖かい母屋の二階へと移った。
 このことが龍馬はんの命運を分けた。土蔵に居れば刺客も手を出せなかっただろうに。

 坂本龍馬は翌15日、中岡慎太郎、下僕藤吉とともに刺客の手にかかり絶命。享年33歳。

 さて、龍馬はんが生きていたら明治はどう変わったか、について書きたいのだけれど、その前にちょっとおかしなことに気がつく。実行犯については現在に至るまで特定されていない。見廻組が現在のところ定説だが、新撰組説、中村半次郎説、内ゲバ説と様々に推定されていて、これは邪馬台国の謎と共に日本史二大謎とも言われるが、ちょっとここでは置く。まずなんでこの運命の日に龍馬はんが近江屋の母屋二階に居た事が刺客にわかっていたのだろう? このことを知る人物は少なかったはずなのだ。なんせ風邪を引いて母屋に移ったのは前日であったはずなのだ。そもそも近江屋に移ったのも3日前であったはず。それまでは酢屋に居たのだから。見廻組は必死になって探索をしていたのに場所を特定できず捕縛さえ出来なかったはずなのに。

 知っていた人物はわかっているだけで、近江屋の主人と家族。下僕籐吉。中岡慎太郎。岡本健三郎。菊屋峰吉。そして海援隊では宮地彦三郎、長岡謙吉。淡海(板倉)槐堂(例の掛け軸をもってきた)。また当日龍馬はんが訪ねた福岡藤次も知っていた可能性がある。実に少ない。そこからの伝聞でもう少し知っている人物も居たと推測されるが、日数のこともあり(昨日の今日だ)、さほどには広まっていないとも思われる。
 この中に情報源となった人物がいる、と考えるのが常道というものだろう。しかし、ほとんどが龍馬はんの身内である。刺客に教えたとはとても考えられない。この中で唯一怪しいのは板倉槐堂である。一時期僕も槐堂を疑った。しかし動機付けが薄い。そして、槐堂が龍馬はんの元を辞したのが夜8時頃、そして岡本健三郎と峰吉が出たのが8時半、そして峰吉が戻ってきた9時にはもう惨事の後であった。刺客は槐堂が辞した時にはもう既に待機していたと思われ、関連性は薄いように思われる。まだ一考の余地はあるのかもしれないが。
 実はそれよりもっと怪しい人物は居るのである。もうお分かりの方も多いと思うが、伊東甲子太郎である。
 この元新撰組で高台寺党の代表である伊東甲子太郎は、15日の前々日ないしその前日に近江屋へ龍馬はんを訪ねている。そして新撰組が狙っていて危険である由を忠告している。この時には龍馬はんは土蔵に居たのだが、どこで伊東と応対したかがカギとなる。説は分かれるのだが、龍馬はんは伊東を全面的に信用していなかったので、アジトである土蔵に迎えることはあるまい、と僕は思う。母屋で応対したのではなかったか。もしそうだったとすれば、伊東は「龍馬は近江屋の母屋に居る」という情報を流した可能性がある。或いは実行犯ということも。
 ただ、本来龍馬はんは土蔵に居たのだ。母屋に刺客が入っても空振りだった可能性が高い。土蔵には逃げられる仕掛けも備わっていて、騒ぎを聞きつければ龍馬はんはすぐに逃げられたはず。

 あの日風邪さえ引いていなかったらなあ…。

 もうこれは愚痴でしかないが、土蔵であれば難を逃れた可能性が高かった、と思うのはこういう理由である。間違った情報に龍馬はんが合わせてしまったのかもしれなかったのだ。

 では伊東が実行犯なのか? それについてはまだ結論は出せない。次回に続く。しかし「龍馬はんが生きていたら明治はどう変わったか」という話にはなかなかいかないな。まだ実行犯も、黒幕についても考察したいところであるし。