ちょっと「幕府」というものについて考えてみたい。と言っても勉強したわけでもなく文献を読んだわけでもなくぼんやりとした考えをまとまりもなく書いていると思っていただければ幸いである。というのも、幕府というものはいったい何なのかについて、僕自身がよく分かっていないのである。
前回記事「もしも小牧・長久手の戦いに秀吉が勝利していたら」で僕は、「秀吉は関白になるより幕府を開いていたほうが安定しただろう」と書いた。秀吉も最初は将軍になろうとしていたという説もある。
資料の信憑性に欠ける、との意見もあるのだが、秀吉は当初、足利15代将軍義昭の養子になるべく工作した、とも言われる。秀吉はご承知のとおり卑賤の出で出自は武士でもなかった。なので、義昭の養子になって源氏を継ぎ、幕府を開いて全国統治を行おうとしたらしい。この「if」は面白くて、そうなれば「足利秀吉」の誕生となって大坂幕府が開かれるわけであるが、義昭は断ったらしい。人たらしの秀吉に出来ない工作があったのかとその部分が疑わしいのだが、結局秀吉は将軍を断念して(家康にも負けて東国平定もやり損ねたし)、近衛前久の養子になり(前久は本能寺の変の黒幕の一人でありそのことを知った秀吉が脅して養子になったと僕は思っている→こちら)、藤原秀吉となって関白となるのである。つまり、関白よりも将軍を上位においていたことが分かる。
関白も征夷大将軍も、律令制から見れば両方「令外官」だ。
余談だが、そもそも律令制というのは遠く大化の改新にその萌芽があり、大宝律令によって完成して、その制度は明治維新まで続く。こんなに長く続いた体制は世界にもないはずである。日本書紀を成立させて天皇制を確立させたことも含めて、この体制を作った藤原不比等という人物を日本一の政治家と僕が考える所以であるが、しかしその長い歴史の中で当然実情に合わなくなり形骸化していく(形骸化してもなくならないのはさすが)。そして、律令制にない官職が生まれる。これが「令外官」である。
その中で関白が生まれたのは9世紀後半、藤原基経が最初である。これは天皇を補佐して政治をする官職であるが、当時政治を執り行っていたのは公家であり、つまり公家の棟梁である。
それに対して、征夷大将軍は武家の棟梁である。
しかしこれは、最初から武家の棟梁を意味していたわけではない。そもそもは蝦夷征討の最高司令官である。大伴弟麻呂が最初とも、多治比県守が最初とも言われるが諸説ある。有名なのはもちろん坂上田村麻呂である。
その後しばらく将軍は存在しなかったが、復活させたのは源義仲だ。東国に居る頼朝を征伐する目的で(つまり征夷)自らを任じさせたと言われるが、これを見て「おお、そういう便利な官職があるのか」とちゃっかりいただいてしまったのが頼朝である。頼朝は右近衛大将であったが、これは京都在任の職であり鎌倉に居ることは出来ない。それでこれを辞任し、遠征軍の司令官という名目の征夷大将軍を選んだ。これなら鎌倉在任でいい。こうして「東国を制圧する」目的で征夷大将軍となり、鎌倉に東国制圧のための政庁を持った。これが「鎌倉幕府」と言われるものである。(頼朝が征夷大将軍を望んだのはもう一つ理由があると思っているが、それは後述する。)
こうして頼朝が鎌倉に東国制圧のための政庁(というのは建前で東国武士を統括するための政庁)を持ったことで、征夷大将軍が武士の棟梁の代名詞になっていくわけだが、その過程はおいて、その「幕府」という名称についても考えてみたい。
「幕府」とは何か。本来は中国の用語で、出征中の将軍がいる場所を言う。将軍は遠征すると拠点に幔幕を張って司令を出しますわな。それが転じて、将軍の司令本部、つまり政庁を幕府と呼ぶのである。
だから、別に征夷大将軍でなくても軍事司令長官であれば「幕府」なのである。つまり、頼朝は右近衛大将の時点でその政庁は幕府である。なので、鎌倉幕府の成立を1192年と我々は憶えていたが、右大将となった1190年をもって幕府は成立しているのである。征夷大将軍=幕府、というのは後付けの理屈にすぎない。
また余談になるのだが、軍事司令長官が政庁を持てばそれを幕府と呼ぶ、という定義であれば、鎌倉幕府に先んじて日本には幕府が在ったのである。それは平泉である。
奥州藤原氏は、後三年の役以降、着々と「奥州藤原政権」を作り上げていった。清衡、基衡、秀衡と続き、平泉を中心に京都とは一線を画した安定政権を築いた。そして秀衡は1170年に鎮守府将軍に任じられる。こうして奥羽武士団を統率し、政庁「柳之御所」を持ち奥州を統べた。朝廷の律令政権の中で自治政権が既に鎌倉幕府以前に存在したのだ。この「将軍」が現地で政庁を持ち自治をするという形態は正に「幕府」そのものである。これを何故「平泉幕府」と呼ばないかについて僕は常々不満に思っていることなのであるが。誰もそう言ってくれない。 →「もしも平氏と源義仲が手を結んでいたら」
頼朝はこの「平泉幕府」を完全に雛型として鎌倉幕府を発想して成立させたのだと思う。独立武家政権の構想は頼朝のオリジナルではない。そう言うと頼朝ファンに怒られるのであるが。
ただ頼朝の凄いところは、これを全国規模にまで押し上げたことである。ブレーンであった藤原基成と大江広元の差なのかもしれないが。
話が思わず長くなってしまった。次回に続く。
※追記(2010/4)
知ったようなことを書いているが、義仲は実は征夷大将軍ではなく「征東大将軍」であったとの説が最近の研究では支持されている様子。詳細はさがみさんの義仲の「征東大将軍」についてを参照のこと。
確かに、頼朝征伐においては「征夷」より「征東」がより相応しい。
前回記事「もしも小牧・長久手の戦いに秀吉が勝利していたら」で僕は、「秀吉は関白になるより幕府を開いていたほうが安定しただろう」と書いた。秀吉も最初は将軍になろうとしていたという説もある。
資料の信憑性に欠ける、との意見もあるのだが、秀吉は当初、足利15代将軍義昭の養子になるべく工作した、とも言われる。秀吉はご承知のとおり卑賤の出で出自は武士でもなかった。なので、義昭の養子になって源氏を継ぎ、幕府を開いて全国統治を行おうとしたらしい。この「if」は面白くて、そうなれば「足利秀吉」の誕生となって大坂幕府が開かれるわけであるが、義昭は断ったらしい。人たらしの秀吉に出来ない工作があったのかとその部分が疑わしいのだが、結局秀吉は将軍を断念して(家康にも負けて東国平定もやり損ねたし)、近衛前久の養子になり(前久は本能寺の変の黒幕の一人でありそのことを知った秀吉が脅して養子になったと僕は思っている→こちら)、藤原秀吉となって関白となるのである。つまり、関白よりも将軍を上位においていたことが分かる。
関白も征夷大将軍も、律令制から見れば両方「令外官」だ。
余談だが、そもそも律令制というのは遠く大化の改新にその萌芽があり、大宝律令によって完成して、その制度は明治維新まで続く。こんなに長く続いた体制は世界にもないはずである。日本書紀を成立させて天皇制を確立させたことも含めて、この体制を作った藤原不比等という人物を日本一の政治家と僕が考える所以であるが、しかしその長い歴史の中で当然実情に合わなくなり形骸化していく(形骸化してもなくならないのはさすが)。そして、律令制にない官職が生まれる。これが「令外官」である。
その中で関白が生まれたのは9世紀後半、藤原基経が最初である。これは天皇を補佐して政治をする官職であるが、当時政治を執り行っていたのは公家であり、つまり公家の棟梁である。
それに対して、征夷大将軍は武家の棟梁である。
しかしこれは、最初から武家の棟梁を意味していたわけではない。そもそもは蝦夷征討の最高司令官である。大伴弟麻呂が最初とも、多治比県守が最初とも言われるが諸説ある。有名なのはもちろん坂上田村麻呂である。
その後しばらく将軍は存在しなかったが、復活させたのは源義仲だ。東国に居る頼朝を征伐する目的で(つまり征夷)自らを任じさせたと言われるが、これを見て「おお、そういう便利な官職があるのか」とちゃっかりいただいてしまったのが頼朝である。頼朝は右近衛大将であったが、これは京都在任の職であり鎌倉に居ることは出来ない。それでこれを辞任し、遠征軍の司令官という名目の征夷大将軍を選んだ。これなら鎌倉在任でいい。こうして「東国を制圧する」目的で征夷大将軍となり、鎌倉に東国制圧のための政庁を持った。これが「鎌倉幕府」と言われるものである。(頼朝が征夷大将軍を望んだのはもう一つ理由があると思っているが、それは後述する。)
こうして頼朝が鎌倉に東国制圧のための政庁(というのは建前で東国武士を統括するための政庁)を持ったことで、征夷大将軍が武士の棟梁の代名詞になっていくわけだが、その過程はおいて、その「幕府」という名称についても考えてみたい。
「幕府」とは何か。本来は中国の用語で、出征中の将軍がいる場所を言う。将軍は遠征すると拠点に幔幕を張って司令を出しますわな。それが転じて、将軍の司令本部、つまり政庁を幕府と呼ぶのである。
だから、別に征夷大将軍でなくても軍事司令長官であれば「幕府」なのである。つまり、頼朝は右近衛大将の時点でその政庁は幕府である。なので、鎌倉幕府の成立を1192年と我々は憶えていたが、右大将となった1190年をもって幕府は成立しているのである。征夷大将軍=幕府、というのは後付けの理屈にすぎない。
また余談になるのだが、軍事司令長官が政庁を持てばそれを幕府と呼ぶ、という定義であれば、鎌倉幕府に先んじて日本には幕府が在ったのである。それは平泉である。
奥州藤原氏は、後三年の役以降、着々と「奥州藤原政権」を作り上げていった。清衡、基衡、秀衡と続き、平泉を中心に京都とは一線を画した安定政権を築いた。そして秀衡は1170年に鎮守府将軍に任じられる。こうして奥羽武士団を統率し、政庁「柳之御所」を持ち奥州を統べた。朝廷の律令政権の中で自治政権が既に鎌倉幕府以前に存在したのだ。この「将軍」が現地で政庁を持ち自治をするという形態は正に「幕府」そのものである。これを何故「平泉幕府」と呼ばないかについて僕は常々不満に思っていることなのであるが。誰もそう言ってくれない。 →「もしも平氏と源義仲が手を結んでいたら」
頼朝はこの「平泉幕府」を完全に雛型として鎌倉幕府を発想して成立させたのだと思う。独立武家政権の構想は頼朝のオリジナルではない。そう言うと頼朝ファンに怒られるのであるが。
ただ頼朝の凄いところは、これを全国規模にまで押し上げたことである。ブレーンであった藤原基成と大江広元の差なのかもしれないが。
話が思わず長くなってしまった。次回に続く。
※追記(2010/4)
知ったようなことを書いているが、義仲は実は征夷大将軍ではなく「征東大将軍」であったとの説が最近の研究では支持されている様子。詳細はさがみさんの義仲の「征東大将軍」についてを参照のこと。
確かに、頼朝征伐においては「征夷」より「征東」がより相応しい。
myblogでは不比等も定慧ももっともっと書きたかったのですが書き出すと止まらないので!
孝徳帝父親説と、不比等の父は天智??まで一旦話がずれていって割愛しました。
さて、幕府の話で(前置き長いですね)「大江広元と藤原基成の違い」は苦笑いの中でうなづいてしまいました。
おっしゃる通り~。
やっぱり私も藤原清衡は日本で初の幕府を開いたって解釈したいです。
次回、楽しみにしていまーす
しかし、書き出すと止まらないので止めるとはさすがですねぇ。僕などはいつも止まりません。自制心を持たないとねぇ…。現在幕府の話そのⅡを書いていますが長くなって今日中にはアップできません(汗)。←止められない男
平泉幕府の成立時期についてはいろいろ考えられると思います。鎌倉幕府が実質始まった1180年、または1185年を始まりという説と、右大将任官の1190年説に分かれるようなものですが、その1190年説と同じようなものです。1170年は。清衡からもう既に幕府が始まっているという考え方は、機能第一で考えればアリだと思います。形式は整ってはいませんが。ちゃんと整理することも必要かもしれませんね。
秀吉のことは、ちょっと新しく記事をおこさないと書ききれませんね(汗)。ただ征狄大将軍、征西大将軍という肩書きは、唐入りを想像させて面白い(笑)。
2.足利高義による室町幕府(足利幕府)開府
3.羽柴秀吉が足利義昭の猶子となり、源 秀吉として
大坂幕府(源幕府)開府
4.高麗出兵を大成功させ、高麗半島を完全領有
5.関ケ原合戦に於いて、西軍大勝利によって明治維新
まで大坂幕府継続
6.明治維新後、大坂奠都により西京と改め現在に至る
筆頭 得川家康(三川・遠江・駿河・甲斐・科野5ヶ国 計150万石)
次席 前田利家(高志国金沢87万5千石)
以下 堀 秀政(相模・武蔵・布佐3ヶ国及び・真田領 を除く毛野国 計250万石)
毛利義元(安芸・周防・長門・岩見・出雲・伯耆 ・隠岐7ヶ国及び宇喜多領を除く吉備 国 計125万石)
蒲生氏郷(陸奥国黒川100万石)
↓
上杉義景(陸奥国神指125万石)