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凛太郎の徒然草

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もしも赤松円心が光厳上皇を担ぎ出さなかったら

2005年06月02日 | 歴史「if」
 南北朝問題は難しい。
 持明院統と大覚寺統の対立の原因までは前回記事に書いたのだが、まだまだこの問題は後を引く。亀山天皇即位から皇室の分裂が始まったとすれば、これが収束するのはなんと130余年後、となるのだ。
 しかし、まだ南北朝時代は始まってはいない。持明院統と大覚寺統問題はあくまで皇室の内部問題である。これが日本中を巻き込むのはこの後になる。
 後醍醐天皇は、即位すると両統迭立問題、そして任期10年問題から、自分の皇子に皇位を譲れない理不尽さにハラを立て倒幕を決意する。ちょうど幕府も疲弊していた時代だった。まず正中の変を企てるがこれは露見し失敗。しかし懲りずに今度は元弘の変を起こし、笠置山に籠り倒幕の兵を上げる。楠木正成の参戦もあり幕府を苦しめたが、結局後醍醐は捕えられ隠岐へ配流される。
 鎌倉幕府は後醍醐に譲位を迫り、勝手に持明院統の量仁親王(光厳天皇)を立てる。
 後醍醐は譲位を認めず、ここに至ってとうとう二人の天皇が同時に存することになってしまった。

 しかしながら、こういう事態は初めてのことではない。古代にもあったと言われており(欽明天皇時)、近い時代には平氏の擁立した安徳天皇に対して後白河院が後鳥羽天皇を即位させたこともある。この光厳天皇即位をもって北朝の始まり、とも言われるが、まだこれはプレ北朝だろう。ただし、光厳天皇は後に火種となる。
 鎌倉幕府は、足利尊氏、新田義貞らの寝返りで滅びる。後醍醐は即座に光厳を廃し、建武の新政を始める。

 この「建武の新政」は公家、武士ともに大不評だった。なかでも武士に対して、倒幕の恩賞が充分でない、知行権について態度が揺れる、などで問題が多かった。自分の領地安堵を願う武士連は、足利尊氏を頼るようになる。足利氏は源氏の名門であり、親分肌の尊氏自身にカリスマ性があったのだろう。尊氏は全国の武士の希望の星となっていく。
 そんな中、中先代の乱が起きる。これは、北条泰家と公家の西園寺公宗が、光厳天皇を立てて持明院統と鎌倉幕府の再興を狙った乱である。また光厳天皇が火種となったが擁立は未遂に終わり、信濃で北条時行が兵を上げる。時行は鎌倉に居た尊氏の弟の直義を攻めて追い払ったため、尊氏は後醍醐の勅許を得られないまま鎌倉へ攻め入り、時行を倒す。そしてそのまま鎌倉へ居座わることとなる。
 後醍醐は帰京命令を発するがこれを無視し、勝手に配下に恩賞を行った。

 ちょっと余談になるが、この時実は尊氏は後醍醐の命令に従って帰京しようとした、という説もある。これは興味深い「if」である。本来はこれでひと記事書きたいところだ。
 もしも帰京していれば囚われて殺されていた可能性は非常に高い。そうすれば、武家の不満分子は担ぐ神輿を失う。武士が集結するのはカリスマ性のある尊氏だからこそ、であるからだ。足利幕府が開かれなければ、武士たちは果たしてどうやって連帯していけばいいのか。あの時点で、尊氏以外に幕府を開ける器のある武将はいない。その後の歴史がえらいことになっていた可能性がある。
 帰京を必死で止めたのは弟の直義である。直義は先が読めていたに違いない。
 余談の余談だが、尊氏は実に親分肌で慕われる人物であったらしい。雰囲気として僕は平将門を思い出す。関東の風土はこういう大らかな人間を生み出すのだろうか。だが尊氏は戦争には強いが危なっかしい。人の良さが全面に出すぎている。頼朝のような冷徹な政治的眼力は持っていない。こういう人物は将門のように失敗するのだが、弟の直義がそれを補完している。直義はキレモノだ。しかし人間的にカリスマ性はなく戦争にも負けてばかりである。この時点では、二人でちょうど成り立っている。
 尊氏は、その後新田義貞が攻めてきてもなかなか腰を上げない。天皇に敵対するので気が重いのだ。全くお人好しにも限度がある。なので直義がニセの綸旨を作って、後醍醐が尊氏許し難きと言っているとウソをついて焚き付けた。そしてようやく尊氏は対後醍醐に本腰を入れて新田攻めに動いた、という話まである。
 しかし、尊氏が勝手に配下に恩賞を行ったという点で、もうこれは幕府であると言ってもいいのだが、直義もそこまでは尊氏に宣言させなかった。もしもしていれば、歴史はまた変わったかもしれない。鎌倉に本拠をおく足利幕府誕生となったかもしれないのだが。

 さて、幕府宣言をしなかった尊氏は、新田を押しつぶしいったん京へ攻め込む。しかし楠木正成らの抗戦にあい、また北畠顕家の参戦もあって、敗れて西へ落ちのびることになってしまう。
 ここで、尊氏側の策士、播磨の赤松円心がえげつないアドバイスを尊氏にしてしまう。それは、例の光厳天皇(もう上皇)に院宣を出してもらう、という悪魔のアイディアである。こうすれば尊氏側にも錦の御旗が備わる。つまり、どっちも官軍となるのだ。
 赤松円心というのは稀代の策士である。戦前の皇国史観では北朝は正当でなく尊氏は逆臣とされたので、円心の注目度も低いが、本来は楠木正成と同等に評価されてしかるべき武将だと思われる。
 しかし、この円心のアイディアは結果として日本を長い戦乱の時代に導くことになる。だがそれを円心の責任、というには円心に気の毒のような気もする。後の指導者たちの責任だろう。
 こうして、持明院統と大覚寺統は南北朝という新たな時代に突入することになる。正式には、このあと光厳上皇が上皇の権限で弟の豊仁親王を光明天皇とした時から、天皇二人をそれぞれが錦の御旗として擁して対立する異常な状態に突入することとなる。

 こうなってはもうドロ沼である。しかし、軍事力に勝る足利方は楠木軍、新田軍をも下し(正成戦死)、ついに京都に幕府を建てる。追われて後醍醐は吉野に逃げ、ここで南北朝分裂時代となるのだ。
 しかし時代は完全に足利のもの。残る戦力の北畠顕家、新田義貞を破り尊氏は征夷大将軍となる。翌年、吉野にて後醍醐天皇崩御。これで、南北朝分裂状態は終わるかに見えた。鎌倉幕府滅亡から6年後のことである。

 しかし、南北朝時代は終わらないのだ。なんとそれから50年以上も続くのである。いったい何故か。尊氏は幕府を開き、もう一方の南朝方は親玉後醍醐も亡く、楠木正成、新田義貞、北畠顕家らもいない。あとは吉野に何とか残っている南朝を叩き潰すだけで済むじゃないの。なんでそれが50年もかかるのよ。
 それが今回のテーマのはずだったのだが、長くなりすぎて書けなかった。今回記事は歴史の分岐点はいくつかあるのだが、「南北朝if」としては弱いかもしれない。また次回に続く。
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もしも北条時宗が皇位継承に関与してなかったら

2005年05月29日 | 歴史「if」
 日本史の中で、どうも僕が判りにくいのが南北朝というヤツである。
 鎌倉時代の終焉から、室町時代にかけてのTV、あるいは小説などを見るたびになんとなく釈然としない思いにいつもかられてしまう。勉強不足だと言ってしまえばそれまでなんだけれど、高校日本史を20年以上も前にやっただけの僕にはややこしすぎる。

 そもそも、なんで南北朝時代なんてものが出現しちゃったんだろうか。
 南北朝の原点は、持明院統と大覚寺統の対立に始まる、ということくらいはわかる。
 じゃなんでそんなふうに皇室が分裂しちゃったのかと言うと、それは後嵯峨天皇の皇位継承のやり方にあった。
 後嵯峨天皇とはいつの人かと言うと、鎌倉執権で言えば北条経時、つまり泰時と時頼の間の頃の人。承久の乱があり、後鳥羽、順徳系の皇子は位を継げなくなり、泰時が強引に擁立した経緯がある。
 さて、後嵯峨天皇はまず長男の後深草天皇に位を譲り自らは院政を始めた。ところが、後嵯峨院は後深草天皇があまり自分の言う事を聞かないために疎んじたか、あるいは次男の方が可愛くなってしまったのか、どっちの理由かはわからないけれど、後深草に譲位を迫ってこれを辞めさせ、次男(後深草の弟)を天皇にしてしまう。これが亀山天皇。
 これだけなら古代からよくある話。しかもまだ後嵯峨が院政を執り続けているのだから政治は全く問題がない。しかし亡くなるときに後嵯峨院は、その後どうするか、ということをきっちりと遺言せずに崩じたらしいのだ。

 これで話はややこしくなる。院政を引き続き行うのなら後深草上皇がする、というパターンがある。しかし後深草は先代に退位させられていて、もはやラインからは外れている。それに、亀山天皇の皇子が既に皇太子となっている。後嵯峨院の考えは、明らかに亀山天皇系の皇統で行く、ということだろう。
 しかし後深草もおさまらない。自分にも息子はいる。そこでひと揉めあった、ということ。はっきりと後嵯峨院が、「後深草はダメ」と言っておけば後深草も諦めたかもしれないのだが。だが現実は亀山天皇系に皇統は移っている。後深草は嘆き、出家する、と騒いだという話もある。その状況から、時の執権時宗は、後深草に同情したとも言われている。そしてその結果、時宗はとんでもない事を言い出す。

 「亀山天皇の次は、亀山の子供(邦治親王)が皇太子にもう決定しているからしょうがない。しかし、その邦治親王が即位したら、その次は後深草の子供(熙仁親王)を皇太子としなさい。」

 これが、南北朝時代の原因といってもいいと思う。キッカケを作ったのは後嵯峨院だが、そのまま放置しておけば亀山天皇の子孫が皇統を引き継ぐだけで、後深草系統は失意のまま埋もれて行ったはず。時宗が余計なことを命じたばかりに、この後深草系統(持明院統)と亀山系統(大覚寺統)で分裂する。そして、この皇統分裂と、お互いに交互に天皇を出していくシステムが、南北朝へと繋がっていくのだ。
 承久の乱以降、幕府は皇位継承にも口を出すようになる。後嵯峨即位は北条泰時の意向であった。その後も、朝廷監視体制をとっていったと思われる。
 時宗のオヤジさんの時頼は、亀山天皇即位のときには執権ではなかったがいわゆる得宗であった。責任者ということですね。その責任者が、後深草→亀山という弟への譲位を普通に認めているのだ。この時に「長子相続でないと後でややこしくなるよ」と朝廷に言えば、亀山天皇即位はなかったかもしれない。しかし、時頼はむしろこういう兄を蔑ろにして弟が即位する、という継承をむしろ「良し」としていた様子がある。皇室が弱体化するとでも踏んだのだろうか。
 となれば、時宗の皇統を分断させ皇位をいったりきたりさせるというやり方も、時頼を倣って皇室の弱体化を図ったものかもしれない。しかし時宗は、この作戦がのちのちとんでもない戦乱の世の中を生み出すとまでは想像してはいまい。

 持明院統と大覚寺統の皇位継承の不具合は、後にとんでもない人物を生み出すことになる。それはもちろん後醍醐天皇である。
 後醍醐天皇は、大覚寺統である。つまり亀山天皇系。であるから、もしも北条時頼が、後深草が亀山に譲位する、となったときに「おいおいそれはないだろう」と言っていれば後醍醐は居なかったことになる。しかしこの「if」はちょっと強引すぎると自分でも思う。北条時頼が亀山天皇即位を後押しした、ということであれば話は別だが、そこまではなかっただろう。
 では、後醍醐出現は必然か、ということになるとまたそうも言い切れないと思う。
 後醍醐は、亀山天皇の皇子の邦治親王(後宇多天皇)の次男である。本来なら傍系の傍系(次男の長男の次男)でとても天皇にはなれないが、何故か即位にまでこぎつけてしまったのである。両統の皇位のやりとりの末に30歳を過ぎてから出番がまわってきてしまったのだ。
 つまり皇位は両統で順番だったわけだが、その前の大覚寺統の後二条天皇(後醍醐の兄)が若くして崩じ、次は持明院統の花園天皇が継ぐ。しかし、両統は揉めてばかりいるので、幕府は両統が交代で皇位につく方式(両統迭立)の原則を定めようとして、いわゆる「文保の和談」を提案する。それによって、両統交代で皇位につきなさい、ということが確認されたわけだが、在位年数を10年とせよ、10年交代だ、ということも確約されたと言われる。この確約は諸説あるが、現に花園天皇は元気なのに10年で退位しているので、幕府の介入があったと見ていいだろう。
 そして、大覚寺統から次の天皇を出す番となって、後二条天皇の子の邦良親王はまだ若く病弱であったために、後二条の弟(邦良親王の叔父)である後醍醐天皇が「つなぎ」として即位するわけである。
 この後醍醐天皇の任期は、やはり10年、と決まっていたと考えられる。10年以上は出来ないのだ。その後はまた持明院統に皇位はいく。そして、また10年経って大覚寺統に皇位が還ってきた時は、邦良親王が継ぐことになるのだ。それが幕府の意向である。

 後醍醐は面白くない。10年以上やりたい。また皇位は自分の皇子に継がせたいに決まっている。しかし幕府はダメだという。現役の天皇が自由に出来ないなんて…と思いつめた後醍醐は、ついに倒幕を決行するに至る。
 武家の政治から天皇親政へ。朱子学の徒である後醍醐天皇はそう考えた。理想は高かったのである。しかし倒幕の直接のきっかけは、この10年任期と、自分の皇子を皇太子に出来ないことからである。つまり文保の和談による幕府の介入が後醍醐を立たせた、と言っていい。これが鎌倉幕府滅亡の直接原因である。
 この直接原因を生んだのが両統迭立というややこしい皇位継承だ。そしてこの両統迭立は、そのまま南北朝へと移行するのである。

 ややこしくて話がわかりにくいと思います。すみません。
 実際の南北朝にまで話がいかず、持明院統と大覚寺統までしか書けなかった。また機会を改めて南北朝も書いてみたい。

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もしも…番外編・天智百済朝と天武新羅朝

2005年05月11日 | 歴史「if」
 前回記事「もしも白村江で日本軍が勝っていたら」の続編。

 さて、日本は運がよかった。
 白村江の敗退という結果、日本は外圧の脅威を肌で感じることとなる。日本が生き残るためにはどうすればいいのか。その結果が「大化の改新」ではないか、と推察される。
 ちょっと待ってくれ、大化の改新は645年の乙巳の変(蘇我入鹿暗殺)から始まったことであり、翌年に改新の詔が出ている。白村江は663年だ。約20年前の話をするんじゃない、という突っ込みも聞こえてきそうだ。
 書紀は確かにそう言う。しかし実際のところはどうだったのだろう。
 大化の改新は公地公民が目玉なのだが、この白村江をはじめとする朝鮮半島戦役には、国造が派兵を担っているという話がある。部曲かきべ田荘たどころの領有権を持つ国造くにのみやっこが登場するというのは、公地公民の世の中でありおかしい。他にも「評」と「郡」の表記問題などいろいろ問題は指摘されていて、大化の改新はまだまだ浸透していなかったという説が主流である。
 それどころか、改新の詔が実際に出たのは実はこの白村江以降ではないのか、とも僕は考えたりするのである。

 663年の白村江の敗戦の後、すぐに唐からの使者が日本に来ている。使者とはいえ兵力も携えてきており、一種の「脅し」であったかと思われる。もう手を出すなよ、ということか。高句麗と日本が結んだらまた厄介なことになるからだろうか。そして668年、高句麗滅亡。そのあと、唐は同盟国として戦った新羅を併呑しようとする。しかし新羅はこれに反抗し(当然だが)、逆に滅ぼした高句麗の残部隊を応援したりしてかき回し、676年、ついに唐は手を引く。こうして新羅の半島独立支配が成る。もっとも唐の冊封体制に取り込まれはしたが。
 つまり、唐と新羅は戦いで忙しかった。そのため日本に時間が生まれた。
 日本は急いで防御体勢をとる。水城を築き、城を造り烽火を整備し外敵に備えた。むろんそれだけでは足らず、国内が一致団結して外圧と対しないと滅ぼされる、というところにまで追い詰められたと言ってもいい。では、一致団結の方策とは。
 結局これが大化の改新なのだろう。
 確かに統一日本を作ろうという動きは以前よりあったとは思われる。だが日本は大和朝廷の下で決して一枚岩ではなかった。地方に豪族が跋扈し、その連合体の首長或いは盟主、という立場にすぎなかったのではないか。磐井の乱を見てもそのことがわかる。磐井の反乱と言うが、磐井は「筑紫の君」であり、対して「大和の君」として継体が存在したということではないか。
 江戸時代と重ね合わせてみる。あくまで徳川家は日本最大の大名であり、諸大名の盟主という立場でしかなかった。そのため黒船が来て外圧が加わると、挙国一致しないと立ち向かえないような状況となり、大名連合政権である徳川幕府を倒して中央政権政府を建てようとする明治維新が興った。これと状況が酷似、と言えば推測過ぎるけれど、このようにして日本は完全統一され最初の中央集権体制が生まれたのではと考えている。
 新羅が頑張ってくれてよかった、と言える。新羅が唐に併呑されていたら、確実に次は日本だっただろう。

 しかし、ここで一種のねじれ現象が日本にはおきている。それは、中央集権を目指し改新を行おうとする天智政権は、かなりの親百済政権だった可能性が高いと考えている。
 もともと日本には百済系渡来人がかなり入っている。歴史的にも、文化伝来の窓口は百済である場合が多かった。さらに、百済滅亡による亡命者も多く抱え、優秀な人材はどんどん政府に登用され、よって親百済色が強く反映される政権となる。
 あまり話がそれると収拾がつかなくなるので自粛しつつ話を進めるが、僕は天智という人自体が百済系の人物ではなかったかと思っている。乙巳の変の「韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し(古人大兄)」の韓人とは天智のことだ。ある種無謀ともとれる白村江の戦いに挑んだのも、天智が百済系だと考えれば納得がいく。自らのルーツの国を助けに行ったのだ。小林惠子氏のように、天智が百済王子「翹岐」であるという説、また翹岐=豊璋=天智という相当激しい説もあるようで、僕はそこまではとても考えられないが、百済系渡来人であった可能性、或いは百済の血がかなり濃く入った人物という可能性は強いのではないかと考えている。
 キーマンは舒明。僕は「百済大寺」を造営し百済川のほとりに「百済宮」を造りそこで死んだときに「百済の大殯おおもがり」と言われた天智の父「舒明天皇」という人物の出自はもっと考えてられてもいいのではないかと思うが。(九重の塔を誇った百済大寺は天武によって廃され、移転して高市大寺となり後に大官大寺となった。別記事)

 さて、半島では新羅が政権を持っている。高句麗を滅ぼして以降、新羅は唐と対することになる。その際、後ろに百済系政権が控えているとまずい。唐が百済回復を餌にして同盟を結ばないとも限らない。遠交近攻戦術。なので新羅は何度も日本に遣いを出すことになる。新羅は日本が新羅系政権になってくれるのが一番有難い。背後に憂いがなくなる。
 また、国内も百済系政権を望んではいない。ここ近年の百済戦役(白村江の役等)の負担と防衛戦略のための労役負担は民衆を苦しめている。近江遷都も一大事業だった。そして公地公民による中央集権化は豪族から土地を奪う。しかし政府に重用されるのは百済人で、入植地も次々と与えられ免税措置もとられたらしい。不満は鬱積していたと考えられる。

 大海人皇子という人物は、そうした豪族や民衆の不満を解消できる人物として映ったであろうことは想像に難くない。後醍醐政権に対する足利尊氏のように。
 地方豪族の支持が得られるということは、少なくとも百済系政権とは関係ない人物であっただろう。正史では天智天皇と大海人皇子は兄弟とされているが、これは近年疑問が呈されている。天智は大海人に兄弟なのに4人の娘を嫁がせている等の不自然さが挙げられているが、僕はそれより、大海人が正史に出てくるのは成年となってから、という点に不思議さを覚える。
 国際状況から察するに、大海人は新羅に近い人物であった可能性は高いと思う。まさか新羅渡来人とまでは考えていないが、渡来人でなくても親新羅系の人物であっただろう。唐と新羅が対峙する中、百済系政権を廃し新羅の背後を衝く心配を無くそうとしたのだから。

 当時の現状では、統一新羅との関係から政権は新羅色を濃く打ち出すべきだった。それは実は唐との関係にも繋がる。新羅は唐との同盟時代に思い切って唐化政策を打ち出し、政治体制から風俗まで唐にならった。つまり、新羅化=唐化であったと言える。そして唐から自己を守るためには、日本は朝貢国として唐風にせざるを得なかった事情もある。国際情勢から親百済政権は合致しなくなっていたのだ。早く唐の律令制を倣った国家建設が必要だった。そのためには天智百済政権では苦しい。百済系政権の継続では唐、そして新羅と良好な関係を築くのは難しい。
 また、それに加えて百済系政権に対する地方豪族の鬱積した不満、疲弊した民衆の声、そのようなものを一身に受けて大海人皇子は打倒近江政権(百済系政権)の旗揚げをした、それが「壬申の乱」の実情ではなかったか、と推測している。

 その結果、百済系政権は一旦潰える。百済渡来人の新政権での立場は微妙なものとなる。即位して天武となった大海人は、自分の身内で政権を固め、唐、そして新羅から吸収した律令制国家確立に向けて動き出す。新羅との関係も当然良好なものとなっただろう。壬申の乱は国際情勢の必然だったとも言えるか。
 この親新羅系政権は一応約100年、称徳天皇まで続く(一応、とは含みがあるが)。そして天武系の血が途絶え、天智系の白壁王が即位して光仁天皇となる。その結果、白村江以来続いた遣新羅使は中止され、新羅との国交が断絶される。これは天武系=新羅系であった証拠ではないか。そして光仁後、百済人の高野新笠を母とする桓武天皇が即位し、都も移されることとなる。これは先の話だが。

 外圧がもしもなかったら。日本の統一政権、中央集権化はもっと遅れていた可能性がある。だが侵略されることもなく済んだのは実に幸運だった。防波堤となった新羅は冊封体制に組み込まれたが、日本は朝貢国でおさまっている。もしも新羅が唐に併呑されていたら、日本も同様に併呑、或いは冊封体制に組み込まれ日本国王は唐から冠位をもらうという状況になり、天皇という存在も危うかった。
 日本はこの後国力を蓄え、遣唐使を派遣し文化は唐からめいいっぱい吸収して発展していく。そして、後に遣唐使さえ廃止する。
 しかし、今も昔も外圧がないと飛躍しないのは同じ。1200年後の明治維新と状況が酷似しているのには実に驚く。これは島国である日本のある意味特性なのかもしれない。


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もしも白村江で日本軍が勝っていたら

2005年05月09日 | 歴史「if」
 7世紀半ば。朝鮮半島では新羅が唐と結んで百済を攻め、これを滅ぼした。しかし唐と新羅の連合軍が高句麗の攻略に力を注ぐうち、百済の遺臣鬼室福信は、日本に居た百済王子豊璋を迎えて百済復興を目指し、そのために日本に王子返還、そして援軍を要請した。時の為政者中大兄皇子は百済救援に向けて軍を送ったが、白村江で日本水軍は大敗し、朝鮮半島から完全撤退せざるを得なくなった。
 これが、白村江の戦いの概要である。

 古代日本は、現在考えられる国際関係よりももっとグローバルだったのかもしれない。朝鮮半島との関係は後の歴史観からは想像出来ないくらい濃密なものだったと思われる。
 順を追うと、朝鮮半島は大国である中国の脅威に晒されながら、4世紀頃から国家を建設していた。北方ツングース系の高句麗が半島北部を制覇、半島南部では馬韓、辰韓、弁韓が興り、発展して百済、新羅、任那となった。
 同時期に日本では、大和朝廷が国内統一をほぼ果たしていたか。そして朝廷は、百済と結びつきを深めつつ、任那と濃いつながりをもった。任那は日本の植民地的存在だったという説もある。大和朝廷は勢力を強めて新羅にも強い影響力を保ち、南下する高句麗とも戦った。これは教科書的見方だが、広開土王の碑という物証もある。
 僕は、征服や支配下というきっちりとした形ではなく、相互交流が実に密であったのではないかと思う。大和朝廷にも絶対的支配力があったとも思えず、文化交流も含めて、結んだり戦ったり、という感じではなかったか。人的交流も盛んで、日本人も多く朝鮮半島に行き、また朝鮮半島からも大量の人の流れがあったと思われる。パスポートもないこの時代、国家、国境という考えは今よりずっと緩やかだったのだろう。
 6世紀、任那は新羅の圧迫を受け滅亡する。百済も攻められ、日本も救援の兵を送ったが成果はさほど上がらなかった。大伴金村の外交失敗による失脚、また磐井の乱(九州筑紫の豪族とされる磐井が新羅と手を結ぶ)などあり、徐々に朝鮮半島から撤退せざるを得なくなる。聖徳太子も新羅征伐軍を送って勢力復興を目指したがやはりうまくいかなかった。

 その後、日本では645年乙巳の変(蘇我入鹿暗殺)が起きて、中大兄皇子が実権を握ることとなる。そして、最初に書いたような百済滅亡とそれに伴う白村江の戦いの敗北、朝鮮半島からの完全撤退という道筋をたどる。
 この戦いは、唐を敵にまわした時点で勝敗は決まっていたとも考えられる。
 しかし戦況は、第一次派兵、第二次派兵ともうまくいっていた(ともに阿曇比邏夫軍として一次、二次と分けない考え方もある)。だが百済軍の内部分裂(豊璋が鬼室福信を誅する)と、高句麗との戦局の膠着化により唐・新羅の戦力が百済方面に集中したことが原因で、白村江の敗退となる。
 しかし、敗因はこれだけではない。
 特に第二次派兵軍はかなりの戦果をおさめていたが、対新羅に集中しすぎており、唐軍に対して何の手も打っていなかったか。第二次派兵軍が唐の進軍を意識していたら、第三次派兵軍(白村江の派兵)があそこまで簡単に壊滅させられることはなかった可能性もある。情報は得ていたはず。
 また白村江の派兵自体も、安易だった。唐の水軍戦力の分析もなされぬままであったため、船団は戦闘用ではなく輸送用だった。であるがため、上陸しないと力が発揮できず、唐水軍の前に崩れ去る。戦場に結集した兵力だけを見れば、日本は唐を凌駕していたとされる。兵2万7000、400隻の大船団だった。しかし、戦略、戦術とも粗末であった。
 もう少ししっかりとした軍略があれば、局地的勝利はおさめられていただろう。さすれば、百済国復興も一時的には出来ていた可能性もある。

 しかし、ここで勝っていたら本当に良かったのだろうか。
 歴史の結末を知っている側から言えば、この時に日本が敗退し半島から完全撤退していたことで、日本という国が守れたとも言える。また、本来の意味での日本建国がなされたのもこの敗退からという見方もされる。
 その後の歴史の流れは以下の通りである。
 日本の撤退後、唐・新羅軍は高句麗を滅ぼして半島の覇権を新羅が持つ。しかし、唐がその新羅を支配下におさめようとして、唐VS新羅が始まる。そして様々な戦いと外交の末、新羅はなんとか唐をしりぞけて完全半島統一を果たす。
 もしも白村江で日本軍が勝利し、一時的にせよ百済が復興したとしたら。新羅は、百済と日本の連合軍とさらに戦い続けなければいけなかったであろう。高句麗との戦いでかなり疲弊し、唐の援軍によって勝ってきている新羅である。百済の盛り返しは新羅の国力にかなりのダメージを与えたと考えられる。
 高句麗はまだ滅亡していない。新羅は百済・日本連合軍と高句麗軍との挟み撃ちにあうこととなる。苦しい新羅は、唐の介入をさらに許し、戦局はドロ沼化し、新羅が最終的に覇者となっても、唐に半分以上は乗っ取られた状態になることが予想される。そして、そういう状況で唐が新羅を攻めだしたら、新羅は唐の侵攻を防げたかどうか。
 半島は唐の支配下となった可能性が高い。日本が撤退したから、新羅は高句麗を滅ぼした後、唐の侵攻に耐え、半島統一を成し遂げることが出来たとも考えられるのである。

 そうして朝鮮半島が唐の支配下となっていたら。
 次の標的は日本、ということにもなりかねない。時は下って元寇の際も、朝鮮半島の高麗を元が支配下に置いたことによって日本に攻めて来たのである。同様のことが起こっていても全く不思議ではない。新羅が防波堤になってくれたおかげで、唐が日本に攻め込まなかったと言えるのではないか。

 日本という国の成立にも、この敗戦は大きな影響を与えた。律令制国家を目指していた日本はこのあと大きな転換点を迎える。それは壬申の乱である。この壬申の乱も、国際情勢と大きく関わっていると考えられるのである。
 次回は、国内情勢について見ていきたい。


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もしも北条泰家が執権を継いでいたら

2005年04月22日 | 歴史「if」
 鎌倉幕府は何故滅びたのか。
 それは、突き詰めていったら元寇が原因と言う他は無い。

 直接の原因は後醍醐天皇の蜂起ではあるが、結局幕府を滅ぼしたのは足利尊氏ら幕府側の有力者の反乱である。では何故御家人や有力豪族が幕府に不満を抱き寝返ったのかと言うと、北条氏の力が強くなりすぎたことが原因なのではないか。
 「得宗体制」というものがある。北条家一門が幕政を完全に取り仕切る体制のこと、と極端に言ってしまってもいいだろう。もともと鎌倉幕府は源氏滅亡のあとは「有力御家人連合」で運営されており、北条氏はその議長という立場だった。しかし、北条氏はライバルの有力御家人を次々に粛清し、そして時頼が三浦一族を滅ぼした後は完全に他氏を圧倒し、北条氏は執権という立場を超えて一族支配を始める。これが「得宗体制」。北条泰時以降その嫡流が権力を持ち、執権は他の北条一族のものに譲っても嫡流がその幕政の実権は握り続ける。藤原氏が関白をたらいまわしにしても「氏の長者」が荘園を握って実力を持ち続けたのと似ている。家督を継いだものがえらいのだ。政治のやり方は「院政」に似ているかもしれない。こうなると執権は飾り物であってもよいということになる。

 その得宗体制が強固になりだした時宗の時代、元が攻めてくる。
 なんとかに二度の元寇は乗り切ったものの、いつまた元は攻めてくるかわからない。従って戦時体制は続く。北条氏に権力が集中せざるを得なくなる。外冦対策に九州にも北条氏の力が入らざるを得ない。どんどん日本は北条氏直轄となってくる。元寇の後、逆に北条氏の権力は頂点に達したのだ。
 ところが御家人は、元寇の恩賞ももらえない。また総領相続が確立していなかったこの時代、子供にそれぞれ土地を分割して与えると、家は増えても個々の力は弱まる。御家人は借金までするようになり、幕府がそれを助けようとして借金棒引きの徳政令を出してもそれは一時しのぎでその後逆に金貸しは御家人を助けなくなり、どんどん窮乏していく。これでは不満が鬱積するのは当然だ。
 この悪循環は生半可では止めようがない。また北条貞時の時代、霜月騒動によって内管領平頼綱が実権を握る。この人はつまり北条家の番頭と言えばいいのだろうか。「執権の執権」みたいなものとも言える。得宗体制によって北条家の権力が上がると、家の執事が政治をやるようになってしまうのだ。しかし対外的には「北条家の権力」で頼綱が政治をするわけで、北条家の力はますます強くなる格好となる。対して御家人やその他の人々にどんどん不満が溜まっていく。それが元寇からの歴史の流れだ。
 そして最後の得宗、北条高時の登場となる。

 滅亡時の責任者はとにかく「愚鈍」とか言われてしまう。平宗盛、藤原泰衡、みんなそうだ。しかし考えてもみてくださいよ。高時が家督を継いだのは9歳の時、執権となったのは14歳である。北条家の番頭である内管領長崎円喜、長崎高資が完全に実権を握っている。下手に逆らうと廃されてしまう状況で、田楽や闘犬に明け暮れるしかないではないか。僕は徳川幕府に対し暗愚を装って鼻毛を伸ばした前田利常を思い出すのである。
 その高時がとうとう内管領長崎氏に逆らったときがある。高時が病気になり出家して執権を降りる際、弟の北条泰家を次期執権にしようとした。しかし、長崎高資は北条(金沢)貞顕を次期執権とした。北条泰家と長崎高資は折り合いが悪かったとも言われる。
 北条泰家は血の気が多い性格だったようで、怒って出家してしまう。そして長崎高資の下、貞顕が執権となる。しかし病気の癒えた高時も怒り、泰家もまだ怒り冷めやらず、鎌倉には貞顕追討の噂が流れ、貞顕は恐怖で直ぐに執権を退いた。
 ここで泰家が執権になれればよかったのだが、直情型の泰家は既に出家していて、そのことが要因で資格を失ったと言われる。もったいないことである。執権は一門の北条(赤橋)守時が継ぐ。守時は人物であったが、執権職は残念ながら長崎高資の傀儡である。
 長崎高資は視野の狭い男であったと思われる。奥州津軽の安東氏の同族争いの申し立てについて、高資は双方から賄賂をとって事を収めようとしたという。結果津軽で合戦が起こり、その平定にも時間がかかった。権力志向だが政治力はあまり無かったと言えば言い過ぎかもしれないが。

 この「if」は針の穴ほどの可能性しかない。元寇から始まった北条の権力一極集中、そして不満の鬱積による倒幕は避けようがないと思えるからだ。しかし泰家が執権を継いでいたら、もう少し違う展開になったのではないかとどうしても思ってしまう。内管領政治から北条親政への転換だ。
 有力御家人の不満鬱積は極限にまで高まっているが、まだ幕政は破綻していない。しかしこの内管領と北条との不協和音が後醍醐天皇を動かした一因であることは間違いない。幕府の中枢が揺らいでいる今こそ倒幕だ、と。
 しかし最初の「正中の変」は失敗しているのだ。ここまでは「承久の乱」と同じである。しかし、挙兵していない後醍醐天皇を隠岐に流すことは出来なかった。倒幕の目を完全に摘むまではいかなかったのだ。血の気の多い泰家であったら徹底弾圧をしていた可能性もある。しかし実際は万里小路宣房にうまく逃れられ、日野資朝をトカゲのしっぽにして収めてしまった。このことが、倒幕の導火線を残すことになってしまったのである。

 高時も長崎高資の専横振りに怒り討とうと試みたこともあったが事前に露見してしまう。そして身代わりを立てることで高時はようやく得宗に留まった。かつて北条貞時は専横が目に余る平頼綱を排したことがあったが、もはや北条にはその力は残っていなかったのか。
 これを見て後醍醐は挙兵し、いったんは失敗するものの北条氏の実力の無さを目にした有力御家人が次々寝返り、鎌倉幕府が崩壊への道を辿る。

 高時、そして長崎高資は新田軍に攻められ東勝寺で自害。暗愚と言われた高時であったが散り際は立派だったとも言われている。そのとき泰家は。
 泰家は北条家再興のために生き延びているのである。自害したかに見せかけ鎌倉を脱出した。そして高時の子亀壽丸(後の北条時行)を諏訪盛高に託し信州へ落とした。この負けん気の強さ。自らは奥州に潜伏、のち京都へ。クーデターを起こすべく虎視眈々と狙っていたらしい。そして西園寺氏と手を組み後醍醐天皇暗殺計画を企てるに至る。
 この計画は露見し、西園寺公宗は誅殺されたが泰家はまた逃げ、その後北条時行を擁して幕府再興のために中先代の乱を起こす。実に執念深い。
 この北条泰家が幕府の中枢に居座っていたら、少しは状況が変わっていたのではないか。高時は確かに気が弱い。その分を泰家がカバーし、北条親政を行っていたならば。彼は後醍醐暗殺計画も立てた男。正中の変の処理も徹底していたかもしれない。なにより北条家にカリスマ性がまた戻っただろう。
 あの時出家していなかったらなぁ。血の気の多さがマイナスに働いてしまったのか。出家していなければ貞顕のあと執権になれたかもしれないのに。

 北条泰家のその後はわからない。中先代の乱が足利尊氏に鎮圧された際、おそらく戦死したのであろうが歴史はそれを伝えていない。
 平宗盛には知盛、藤原泰衡には国衡と、それぞれ血の気の多い兄弟が居た。しかし歴史は変わらない。泰家とて、歴史の流れはおそらく止められなかっただろう。しかし、どうしても僕は「if」を考えたくなるのである。
 家勢絶頂の時に滅んだ北条氏は、平氏滅亡にダブる。これもまた諸行無常である。

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もしも元寇のとき神風が吹かなかったら  

2005年04月04日 | 歴史「if」
 日本と言う国は海で囲まれているために、国家が成立して後は比較的独立を保ってこられた。
 国家が成立して後、と書いたのは、そもそも日本国家の成立が侵略によるもの、という考え方があるからだ。古来日本民族であった縄文人を駆逐して大陸から弥生民族が侵攻、倭国を成立させたという考え方もできる訳で、それが騎馬民族か否かは別としても古代には比較的侵略、移住は容易だったのかもしれない。

 前置きはともかく、日本という国が成立して後は、陸続きでない日本は外敵に対しては楽な立場であったと言っていい。となりの朝鮮半島などは中国と接しているだけで外交と防衛戦争にあけくれた。
 日本が危機にさらされたのは過去に6度ほどしかない。
 最初は白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れたとき。天智政権は水城を築き、城を固めて自らは近江に逃げた。しかしこのときは結局唐は攻めてはこなかった。
その後「刀伊の入寇」はあったがたいした事はなかった。次が鎌倉時代の元寇である。このときは実際に元が侵攻してきたわけで、日本歴史上未曾有の危機であったと言っていい。元はチンギスハン以来、宋を押しやって中原に腰を下ろし、高麗(朝鮮)を支配下におき、西は「タタールのくびき」のロシアをはじめヨーロッパを次々に陥とした。ローマ帝国以来の強大国と言ってもいい。(キプチャクカン国とかいろいろあって面倒なので、とりあえずみんな「元」ということにします)   次は戦国期にキリスト教とともにやってきた南蛮諸国の脅威(サン・フェリペ号事件で知られる)である。日本を植民地にしようとする動きは確かにあったのだが、スペイン・ポルトガルの国力低下と日本のキリスト教排除及び鎖国政策で封じた。
 あとの3回は幕末の黒船、日露戦争、太平洋戦争である。何れも近代だ。

 この中で最も危なかったのは、太平洋戦争と並んでやはり元寇だったと思う。
 元は日本を支配する予定ではなかった、とはよく言われる説だ。高麗の三別抄を鎮圧出来ず、南宋の抵抗もあって、日本がこれらと連携しては困るのでとにかく同盟を結びたかった、或いは併合ではなく属国としたかったのだ、という説である。僕もおおむね賛成なのだけれど、絶対に征服併合しなかったという保証はない。国書を何回も無視しているわけで、そうなれば攻められる事は必至となる。元は怖いのだ。
 結局、元は攻めてくる。といっても海に守られた日本であるから船を作らねばならず、支配下にあった高麗は突貫工事で船を量産させられた。そして文永11年に元・高麗軍はまず壱岐・対馬を攻めるのである。壱岐・対馬は壊滅状態になった。 このことは、後の太平洋戦争の沖縄戦に似ている。元寇に打ち勝ったことばかり喧伝されているが壱岐・対馬の犠牲をもっと知るべきだろう。
 そして元は九州に上陸する。日本の戦法はまだ「やあやあ我こそは…」であったらしくこれでは鉄砲も持つ元軍に勝てるわけがない。義経でも居たらいい勝負をしたかもしれないけれども当時の鎌倉武士では勝ち目はなかった。
 しかし奇跡が起こる。夜になって船に引き上げた元・高麗軍を嵐が襲う。神風だ。一説によるとこの戦いは偵察であり元軍は帰ったのだ、という説もあるが(この文永の役は11月であり台風シーズンではないため)、とにかく元が居なくなったことには違いはない。とりあえず命拾いである。
 しかしその後も元の使者杜世忠を幕府は斬り(国際常識がない)、その後の使者周福も斬り、攻めてくれと言わんばかりの行動をとる。弘安の役は起こるべくして起こった。
 今度は元も本気であり、鎌倉幕府も危機感を募らせ防塁を築き関東から幕府軍も来ていた。しかし戦力は圧倒的に元が勝る。しかし、またもや奇跡は起こるのである。2度目の神風。今度は8月でありおそらく台風だろう。元軍は壊滅した。
 その後元は日本を襲うことなく無事に過ぎたが、元寇には恩賞もなく、御家人はますます窮乏し幕府崩壊の最大の要因となったことには間違いない。 

 では、もしも弘安の役のときに神風が吹かなかったとしたらどうなっていただろうか。
 文永の役では神風はなかったという説もあり偵察派兵とも言われているが弘安の役は本気だった。元軍は14万、対する日本軍は6万である。防塁を築き、軍船に夜襲をかける等戦術も工夫していたが、やはり攻め込まれていたと考えるのが妥当ではないか。
 極端に考えれば、元の日本征服は有りえたかもしれない。しかし、補給線の問題もあり、輸送を船に頼らざるを得ない元とすれば、日本の完全制圧は考えにくい。島国であるがゆえ世界を席巻した騎馬部隊が使えないからだ。しかし北九州をかりに元が制圧したとして、大規模な基地を作り高麗からの徹底した戦力補給がなされればかなりの混乱は予想される。当時は簡易鉄砲はあったにせよ人海戦術に違いはないので、ジリジリと元軍が京都、鎌倉方面へ局地戦を繰り返しながら攻めていくことになっただろう。
 しかし高麗の三別抄の例もあるように、小競り合いやゲリラ戦などが頻発し元も完全制圧は難しいと思われる。陸続きではないのだから。元としては南宋や高麗と日本が手を組まなければいいわけであって、ある程度のところで和睦が考えられる。日本は元の属国となり、奥州の金はかなり吸い取られるだろう。その後、元の国力が衰退すれば、再び独立を取り戻すことが予想される。

 だが、鎌倉幕府の権威は完全に堕ち、おそらくは鎌倉幕府崩壊は半世紀早くやってくるだろう。ただ、後醍醐天皇はまだ出てきていない。もしかしたら北条氏の失脚に留まって、鎌倉幕府は存命の可能性もある。だが幕府はガタガタのはずであり、朝廷は権謀術策に長けているので、承久の乱のリベンジをすべく政権奪還工作を始めることは充分に想像できる。しかし後醍醐天皇のような強烈な個性あってこその南北朝時代であるので、持明院統と大覚寺統があそこまでドロドロするとは思えない。長い南北朝の対立はおそらく無いだろう。そして朝廷がかりに政権奪還しても、武士の不満がおさまるわけでもなくまた武家政権は起こるだろう。その旗頭が足利なのか、或いは新田なのか武田なのかはわからないが、歴史は全然別の道を進むに相違ない。


 ※追記として、以下の記事をupしました。(2010/3/29)
  もしも元寇のとき神風が吹かなかったら2
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もしも本能寺で信長が斃れていなかったら

2005年03月26日 | 歴史「if」
 織田信長はいったい何を目指していたのだろうか。

 天下統一さ、と言ってしまったらそれまでのことなのだが、信長の目的は日本国を自分の手中にすればそれで満足だったのだろうか。
 そもそも信長が「天下を静謐にする」と宣言し「天下布武」を掲げて目指した先はなんだったのだろうか。
 天下統一の発想だって当時にすれば稀有なことだったような気がする。戦国武将はみんなそのような発想があったのかと考えると決してそんなことはないのだ。北条早雲や大内義隆はとてもそこまで考えてはいまい。斉藤道三はチラリと考えたかもしれないがそれよりも目先のことで精一杯だった。毛利元就は京都まで決して攻め上ろうとしなかった。上杉謙信や武田信玄も「自分の領国を増やそう」とまでしか発想がなかったと思われる。今川義元にしてもそうだ。彼らの目標は「足利将軍の執権になる」までしか発想がいかなかったのではないか。
 信長は違う。自らが天下の盟主になろうとしていた。だから「天下布武」であり、足利源氏に代わるために「平氏」を自称したのだ。
 では信長は将軍になって幕府を興そうとしたのか?。それも考えたかもしれない。しかしどうも信長はもっと先を考えていたような気がする。

 『信長はジンギスカンになろうとしたのではないか? 』

 僕には最終目標がそこにあったような気がしてしょうがない。信長の視線は遥か遠くを見ていたように思える。全ての権威を自分に集中させ、日本を平らげた後は皇帝となって世界を目指したのではないかと。発想のスケールが全く違ったのではないかと。

 傍証は様々にあると思うが、信長の継承者であった秀吉の行動を見ればある程度予想が出来るのではないかと思う。
 秀吉の天下統一に明確なビジョンは無かったと思う。本能寺の変で突然天下レースのトップに立ったのだから。だから、天下統一の方法も信長を踏襲した。大阪城も信長が築こうとしていた。検地や刀狩もそうだったかもしれない。秀吉は信長の敷いたレールの上を走った「信長政権」の優秀で忠実な二代目なのだ。
 秀吉は信長の亡霊に突き動かされていたのだと思う。信長路線でいけば間違いはない、のだと。死してなお秀吉を強迫観念の虜としていたのだ。さすれば、「唐入り」も信長の規定路線ではなかったのだろうか? そうでないと、あの秀吉の後半生は説明が出来ないのだ。何故に朝鮮に攻め入らなければならなかったのか? それは信長の目標だったからだ。秀吉は信長の野望を忠実に守って「中原」に立とうとしたのではないか。「唐入り(中国征服)」は信長の発想と思えば、不可思議な「狂った」秀吉の後半生の説明がつく。秀吉を動かしたのは信長の「世界征服プラン」なのだ。

 だとすれば、本能寺の変の黒幕も浮かび上がる。信長によって権威が否定されてしまう人々である。絶対に信長に全国制覇をされては困る存在…それは朝廷である。
 歴史上、幻の古代は別として天皇家を廃しようとした者は居ない。足利義満だってそうだ。天皇になろうとしたかもしれないが天皇を廃しようとはしていない。天皇の権威を利用しても、易姓革命によって天皇を廃して皇帝になろうとした者は皆無なのだ。将軍も関白も形は天皇の配下なのだ。しかし、信長は最終的に絶対王者を目指したのだろう。とりあえずは朝廷の権威も利用して右大臣にはなったが、臣下になって喜ぶ信長ではあるまい。これはステップに過ぎない。足利将軍を追放し、比叡山を陥落させ宗教弾圧をし、あらゆる権威を否定しようとした信長である。天下統一の暁には朝廷も廃そうとしたことは想像に難くない。
 それを読み取った朝廷、具体的には正親町天皇の下、誠仁親王と近衛前久が画策し、光秀を動かしたのではないか。信長誅殺の後、親王は直ぐに勅使を光秀に送っている。怪しい。吉田兼見もかなり動いている。近衛前久は上杉や足利義昭とも連絡を取っている。このことは安倍龍太郎氏の著作に詳しい。
 足利義昭黒幕説も頷けるのだが、さすれば何故秀吉の中国大返しを許したのか。義昭は当時毛利家の食客である。そこのところがどうも問題として残る。しかし、信長を廃することだけが目的で光秀を見殺しにしてもいいという考えであれば可能性はないとは言えない。朝廷と共犯関係だったのかもしれない。
 家康黒幕説もあるが、これはかなり危険である。「変」の時、家康は信長と同様丸腰だったのだ。伊賀越えをカムフラージュとするには危険度が高すぎる。天下が一瞬でも乱れると身が危ない。実際穴山梅雪は討たれている。野武士らも動き出す。光秀の最期を見ても、伊賀越えなどはリスクが多すぎる。
 秀吉説も根強い。信長が斃れて最も特をしたのは秀吉だ。大返しも早すぎるという見方もある。京都に信長を誘き出したのは秀吉とも言える。しかし秀吉もリスクが多すぎる。以前これをテーマに「もしも光秀の使いが毛利に届いていたら」と言う記事を書いたことがあったが、結果としてうまくいったものの、黒幕であれば毛利と睨みあい状態の時に「変」が起こるのは望ましくない。可能性はゼロではないが。

 もう一つ恐ろしい黒幕説がある。立花京子氏が言われる「イエズス会の存在」である。
 信長の快進撃は海外技術無くしては成り立たない。火薬、硝石の輸入はイエズス会が握っていたとも言われる。その頃イエズス会と信長は蜜月の時代であった。ルイス・フロイスが信長に如何に近かったかは有名である。信長はキリスト教を保護し、既存の宗教を弾圧した。比叡山焼き討ちしかり、一向一揆弾圧しかり。それは大量殺戮であったが、キリスト布教の動向と完全に合致する。信長軍はイエズス会から見れば「十字軍」だったのだ。
 イエズス会の目的は布教活動であるが、さらにスペイン・ポルトガルの植民地政策の先端とも言える(サン・フェリペ号事件参照)。実際に中南米はそうやって侵略している。そうしてあるときまで信長の路線とキリスト教布教の路線は完全に合致していたのだ。信長の中国侵略という青写真があったとしたら、それはイエズス会の中国布教路線からの発想かもしれない。
 しかし、信長はイエズス会から距離を置くようになり、安土城も「天主閣」と呼ぶようになる。(普通なら天守閣) イエズス会は、信長が自ら「デウス」になろうとしていると読み取ったのかもしれない。信長は信長で自分が「南蛮植民地政策のお先棒を担いでいる」ことがわかったのだろう。フロイスは本国への手紙で信長を罵るようになる。信長とイエズス会との同盟が壊れた矢先、本能寺の変が起こる。
この説は傾聴に値する。そうすると、信長の宗教大量殺戮や大陸進出の考えが完全に説明がつくからだ。しかし、当時のイエズス会はヨーロッパ軍ではない。黒幕足り得ない可能性が高い。
 しかし、細川藤孝を活用をしたとすれば可能性は残るのである。藤孝は妻がキリシタンであり本人もそうであった可能性が高い。息子忠興の妻は光秀の娘ガラシャである。細川家がキリシタンであったとしたら…実に怪しい。イエズス会は藤孝を通じて光秀を動かし、そして後からハシゴを外したのではないか。光秀は藤孝が味方だと信じていたのに裏切られている。事実だとしたら恐ろしい。

 この二説が僕は有力だと見る。ただ、朝廷とキリスト教は水と油であり共謀したとは考えられない。僕は、イエズス会と信長の不和を見て朝廷が事を起こしたのだろうと思う。信長は朝廷にとって危険すぎた。
 朝廷というところは軍隊を持たない。その代わりに権謀術策を使う。古来朝廷にはタヌキが多く存在する。他人のフンドシで相撲を取ってばかりだ。
 しかし、その陰謀の一部始終の情報を得た人物が居る。秀吉である。
 卑賤な出自の秀吉が関白太政大臣にまで昇りつめられたのは何故か? 僕は朝廷を脅迫したのだろうと見ている。信長殺しの罪を不問にし、光秀が自らのカンシャクで信長を廃したということに仕立て上げることによって朝廷と取引し、位階を得たのではないか? 信長が三職推任(太政大臣か関白か将軍)にあれだけ時間を費やし結局為し得なかったことを秀吉は3年で遂げたのである。これはおかしい。やはり裏取引があったと見るべきである。しかし、将軍ではなく関白としたところに朝廷の面目躍如がある。長続きしないように、武士ではなく公家の棟梁にしたのだ。ここにも朝廷にタヌキが居る。

 信長が生きていたら。おそらく全国統一をした後、大陸進出をしたであろう。しかしヨーロッパ勢力の日本侵略も有りえた。秀吉の時代にはもうポルトガルはスペインに統合され、スペイン自体も下降線を辿っていたのでよかったのだが。信長の時代であれば恐ろしい。信長の存在は両刃の剣だ。大陸進出もさることながらヨーロッパも敵に回していた可能性もある。信長がジンギスカンやアレキサンダーと並ぶ英雄になれたかどうかは分からない。

(立花京子氏、桐野作人氏、安倍龍太郎氏らの著作を参考にしました。)
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もしも平氏と源義仲が手を結んでいたら

2005年03月08日 | 歴史「if」
 突拍子もないタイトルなので歴史ファンの人は怒るかもしれない。
 僕は奥州の安倍氏、そして藤原氏に肩入れしているので、なんとか滅びずに残った可能性を考えて、安倍氏と清原氏が手を結んだらどうなるか? とか、頼朝が池の禅尼に助けられなかったり石橋山で討ち取られたりしていたらどうなるか? とか、ちょっとifには苦しいけれど重盛が早死にしなかったらどうなるか? とかいろいろ可能性を探ってきたのだが、泰衡の義経討ちがなかったら?を書いて、もうネタ切れだなぁと思っていた。

 しかし、もう一つ思い出しましたよ。
 要は、軍事バランスの問題なのである。平氏がたやすく滅びてしまったので、頼朝は全く憂う点がなく奥州を攻められたわけだ。つまり藤原氏が滅びないためには、平氏が滅びてはいけないのである。
 平氏は清盛亡き後、急速に求心力を低下させていた。木曾義仲の挙兵、そして倶梨伽羅峠での敗戦に及んで、平氏は都落ちを余儀なくされる。そしてしばらく義仲は「我が世の春」だったわけだが、西に落ちた平氏が戦力を整え、都奪還に攻め上ると聞き、義仲はこれを叩き潰さんと西国へ兵を向けた。そして、備前水島で、両軍は戦を交えるのである。
 結果は、義仲の大敗だった。当然平氏は戦力も整っていたし、なにより水軍は平氏はお手の物である。瀬戸内の合戦で、木曾出身の騎馬隊はあっけなく敗れた。

 このときに、義仲はとんでもない申し入れを平氏にしているという話がある。
 義仲は、平氏に対して和睦を申し込み同盟の誼を結ぼうとしたと言うのだ。
 勉強不足で原典はどこか知らない。僕が読んだのは今東光の小説「蒼き蝦夷の血」だ。小説だから虚構かもしれないが、これは面白い話である。そして、平宗盛は、この「まことに奇想天外な、あるいは乾坤一擲の申し入れ」を受け入れようとしたらしい。実に宗盛らしい脆弱さである。戦は平氏が勝っているのだ。当然知盛ら主戦派はこの提案を退けた。結果義仲は義経に討たれ、そして平氏も同様に滅びの道を進む。
 ここで「もしも」なのだが、今東光氏も書いている。義仲は頼朝の圧力を受けていたこともあり、平氏にとんでもない同盟申し込みをした。「この不思議な同盟軍の軍事力は寡少評価すべきではなかった。若し平家の主戦論者の中にこれを計算することが出来た戦略家が一人でも存在したら或は平家は四国か九州に生き残れたかもしれない」と。
 戦力は分散すれば弱くなる。頼朝軍はまず義仲を滅ぼし、しかる後に平氏を攻めている。この戦力がもしひとかたまりだったとしたら…。平氏水軍と義仲騎兵隊を擁した大軍が存在したら。
 義経もそう簡単には勝てまい。そうなると、また歴史は変わってくる。
 面白いのは、宗盛がいったんはこの同盟を受け入れようとした点だ。宗盛は戦いが嫌だったのではないかと思う。少しでも戦わずにすめばいい、という視点であったろう。対頼朝まで思案が巡っていたかは疑わしい。しかし受けていれば違った展開も考えられたのだが。

 歴史は冷酷で厳しい。頼朝が勃興しなければ、奥州藤原氏は安泰で居られたと思う。章立てするほどでもないのでもうひとつ「if」を言うと、「関東武士団がみこしに担いだのが頼朝ではなかったら?」奥州は無事だった可能性も高い。
 院政そして平氏政権の中で、奥州は外交によって安寧を保ってきた。関東武士団の律令体制に対する不満は確かに鬱積していたし、いずれは権利主張のため労働組合的なものは出来ただろう。その「委員長」が頼朝でなければ、奥州はその関東政権とも巧みに外交戦略を徹底し、従属という形で本領安堵されていた可能性もある。例えば委員長が平将門であったなら。しかし頼朝はどうしても奥州を自分のものにしたいという野望があったのは確かなのだ。

 奥州を源氏に。これは宿願みたいなもの。かつて源頼義は陸奥守として奥州をなんとか意のままにしようとしたが安倍氏に邪魔され前九年の役が起きた。結局奥州は源氏の手に落ちず、息子の八幡太郎義家も失敗した。後三年の役の結果、藤原清衡が栄華を手に入れるのである。全く奥州の民であった彼らにとっては源氏はとんでもない侵略者だったわけだが、源氏に侵略の怨念は残る。源為義は陸奥守を強く望んだが叶えられなかったという。そして孫の代の頼朝が関東で覇権を奪うと、奥州をどうしても「宿願」として望んだに相違ない。その証拠に頼朝は平氏追討は全て弟任せであったが、奥州征伐は先頭を切って向かっている。

 秀衡はそういうことがよく見通せていただろう。だから、平氏政権の中で、義経を庇護した。源氏の勃興があったときの為の一種の保険であったろう。だから、頼朝が挙兵したとき義経を合流させ、自分の手の者も付けている。もしも頼朝が平氏を倒し奥州に牙を剥いた時に、頼朝政権の中に義経が居れば奥州安堵に働いてくれるに相違ない、と。しかし歴史は急展開を遂げる。
 義経があれほど早くに平氏を滅ぼさず、もう少し長引いていたらまた打つ手もあったろう。そして、義経がもっと戦略的理解がある男なら、鎌倉政権にも参画出来ただろう。しかし…。

 結局義経は奥州にとって爆弾と化して帰ってくる。もはや戦うしかない状況で、爆弾義経はそれでも戦争となれば切り札に成りえた。しかし…。

 平泉は今は昔の栄耀栄華は無い。秀衡の政庁であった柳之御所の広大な敷地が発掘されている。鎮守府将軍であった秀衡が開いた奥州自治の拠点。将軍と言う名において遠征地の司令部という名目で政庁を持つ。これは「幕府」という発想そのものである。「柳之御所」は即ち「平泉幕府」だったのだ。そうして、自治政権を持ち、言わば「半独立」していた藤原政権は、そのまま頼朝の幕府を開くという発想に繋がっていったと思われる。頼朝は平泉政権を参考にして鎌倉幕府を開いた、とも言える。しかし「平泉幕府」の名は歴史書には載ってはいない。
静まりかえる平泉は、まさに「兵どもが夢のあと」。



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もしも藤原泰衡が義経を討たなかったら

2005年02月23日 | 歴史「if」
 巷が義経で盛り上がっているせいか、僕も最近義経のことを考えることが多い。大河ドラマのいい視聴者ではないのだけれど、子供の頃に児童用の「義経記」を読んで以来の判官びいきでもあり、なんとなしに想いがその時代へ傾く。

 衣川で自決したはずの義経が、実は生き延びていたと言う話は、数多く語られている。「義経北行伝説」の史跡は東北、北海道にもたくさん残っていて、僕もいくつかの場所はまわった。そしてまた、義経が大陸に渡って、あのジンギスカンに成ったという話も有名。むろん歴史学者によって完全否定されている話であるが、荒唐無稽とも言い切れないと僕は思っている。必死に研究している人の著作を読むと結構なるほどなぁと思わされてしまったりするのだ。まああの大量虐殺のジンギスカンと義経を僕は完全に結びつけてしまいたくはないけれども、白旗や騎馬戦術などを見ると「ひょっとしたら…」と思えるのは実に楽しい。

 それもこれも義経が衣川で悲壮な最期を遂げた事に対する判官びいきによって、義経を殺したくない民衆の間で興った話なのだろうけれども、どうしても歴史ファンなら考えてしまうことは、「もしも義経が奥州藤原氏の軍を率いて頼朝と決戦していたら」という空想である。
 藤原秀衡は奥州の覇者として長い間君臨してきたが、そのもとには蝦夷であった安倍氏の血が濃く流れている。以前このブログで前九年の役について書いたが、安倍氏の血を引きながら敵の清原氏の子供として育った初代清衡は、後三年の役で巧みに源義家を操り(思い切って操ると書いてしまおう)、奥州藤原氏の基盤を築いた。 
 この清衡、後三年の役で妻を殺されているのだが、その後伊勢平氏の女性と再婚し、「平清衡」となった時期がある。辛酸を舐めてきた清衡は驚く外交戦術を使う。その後名乗りを藤原経清の遺子であるというところから(母は安倍氏)藤原氏となる。
 二代基衡は、自らは藤原氏であり母が平家である。このことを利用し、中央政府との縁を強め外交を徹底し、奥羽での政治的実権を得る。さらに三代秀衡は「鎮守府将軍」「陸奥守」となり、東北をほぼ手中に収めたのだ。こうして三代で藤原氏は東北に君臨し、奥州平泉文化が花開いた。しかしそれは、かつて安倍頼時、貞任が源氏との戦いで敗れたことを踏まえてその子孫がとった、戦わない徹底した外交戦術の成果であった。

 しかし、ここに外交が通用しない男が台頭する。鎌倉の源頼朝である。安倍氏にとって恨むべき源頼義の子孫がまた東北に牙をむいてきたのである。歴史は因果なものだと本当に思う。
 初代清衡は多くの血を見てきた。しかし、その後は奥州藤原氏は外交戦略によって繁栄を築いた。秀衡に至るまで長きに渡り東北は戦いをしていない。関東武者は戦乱を勝ち抜いてきた猛者であり、まともに戦えば勝ち目はない。しかし、戦い慣れしていないとは言え奥州には17万騎と言われる潜在能力がある。ここに、稀代の戦術家義経が加わったら、なんとか持ちこたえられるのではないか? 秀衡はそう読んだのではないか。関東と互角に戦えれば、関東の体力を消耗させられれば、後白河法皇を間に立て和睦し、奥州を安堵する。こういう青写真だったのではないか。

 しかし、秀衡は死に、奥州は後継に託されることになる。
 カリスマ秀衡は、義経を全面に押したてて頼朝と決戦せよと遺言した。しかし、四代泰衡はそれに結果的に背くことになってしまう。
 泰衡は長子ではない。しかし、藤原基成の娘を母とし、血筋から家督を継いだ。
藤原基成という存在は、奥州藤原氏にとって大きい。藤原北家の出であるまだ若き頃の基成が鎮守府将軍に任じられて奥州に赴任するのはまだ二代基衡の頃。任期後も土着し、中央政府とのパイプ役となり、秀衡を鎮守府将軍そして陸奥守とした功労者である。この娘を秀衡が娶り、泰衡を生む。秀衡逝去の際も基成は健在で、孫の泰衡の後見として平泉に君臨していたのである。
 秀衡の長子に国衡という人物が居た。この国衡は、大変な武者だったと言われる。頼朝が攻めてきた時も堂々と渡り合った。この国衡が家督を継いでいればまた違った展開になったであろう。しかし秀衡は功労者基成を無視出来ずに泰衡を後継としたところが痛い。
 案の定、カリスマ秀衡亡き後は奥州は2派に分れる。基成・泰衡の「平和外交派」と国衡の「武闘派」とでも言えばいいのか。国衡は遺言遵守で義経を立てようとしたが、頼朝は基成・泰衡に揺さぶりをかける。「義経を討てば領地は安堵」。そんな訳はないのだが泰衡はそれに乗ってしまう。
 基成は、藤原北家で血筋はよく、自らが奥州藤原氏を発展させてきたと自負していたと思う。しかし、人脈はあっても政治力には疑問が残る。後白河法皇、平清盛・重盛、藤原秀衡、源頼朝といった凄腕政治家たちと比べれば、まだまだ二流であった。

 義経は討たれ、直ぐに泰衡も討たれ、頼朝は東北を支配下に入れる。それは頼義以来の宿願でもあった。そして、安倍一族から続いた蝦夷を始祖とする王国は終焉を迎えるのである。

 もしも秀衡がもう少し長生きしたら、或いは基成や泰衡に器量があったならば。
 奥州17万騎に平氏を滅ぼした戦術家義経。義経は平泉入りの際、既に対頼朝の青写真を携えていたと言われる。そして信夫郷の館などの軍事施設も整え始め、戦時体制を作ろうとしていた。この軍事的天才の義経を先頭に、武闘派国衡が騎馬を率い、巧妙な戦いを仕掛ければ。
 関東はまだ完全な一枚岩ではない。勝てない戦争を続ければ頼朝の立場も危うい。関東は疲弊し消耗する。そうなれば、後白河のタヌキが登場し和睦を進め、不可侵条約を結び、奥州の大地を安堵される可能性もないではなかった。どのみち攻められて滅びるなら、なんとか生き残りを賭けて戦えば道が開けた可能性があったのである。

 僕はどうも奥州の、安倍氏を頂点とする蝦夷の人々に肩入れする傾向がある。だから、この泰衡の弱さは残念で仕方がないのだ。せめて、義経が北行したという伝説に夢を託すくらいでなんとか溜飲を下げている。



  
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もしも平重盛がもっと長生きしていたら

2005年02月14日 | 歴史「if」
 前回、「頼朝、義経が生き延びてなかったら」の記事で、「平重盛が存命していたら」のifについて少し触れたのだけれと、もう少し書きたくなったので蛇足をつける。

 そもそも平氏政権とはどういうものだったのか。
 もちろんいろんな事柄があって一概には言えないのだけれど、重要なことは、「商業政策」であることだと思う。
 それまでの日本は、班田収受にせよ荘園にせよ、農業中心政策であり、貨幣経済は補助的役割しかなく、農業生産を上げることがすなわち「富」だった。そこに清盛は「商業的貨幣経済」を導入しようとした。それまでの物々交換中心の商業から貨幣へ。もちろんそれまでに日本に貨幣がなかったわけではないけれども、清盛は宋銭を大量に取り入れ、流通させようとした。
 「日宋貿易」は清盛の父、忠盛が先鞭をつけたもので、それにより忠盛は財をなし平氏の台頭の基盤を築いた。清盛はさらにそれを進めて貨幣経済を日本に定着させようとしたわけですね。
 だから福原に都を移し、貿易政権樹立へと向かったのだが、世の中はそれを理解しようとせず、結果このことが平氏滅亡の芽を生むこととなってしまった。
 清盛がやったことは早すぎたのかもしれない。日本は、弥生文化が入ってきて以来、米本位制の定着に全力を尽くした。大和朝廷はそういう政権であり、米を作らない縄文文化の人たちを駆逐してきた。坂上田村麻呂の東征とか、前九年の役とかはそうだ。そうしてようやく日本中が重農主義となったところで、時をおかずして清盛の貨幣商業主義が出てきたのだ。

 清盛は「暴君」と呼ばれ独裁者とされるが、こういう経済転換は独裁者でないとなしえないのかもしれない。しかし、機が熟さなかった。
 日本はその後も重農主義を採り続け、これに逆らうものは必ず消される。
 足利義満は日明貿易で重商主義を採ろうとするが、天皇家乗っ取りの渦中で死ぬ。暗殺説は数多く出ている。乗っ取りが原因だけでなく重商政策への反発もあったのだろう。後継の義持は従来路線に戻している。「天魔」足利義教はその貿易を再開させたが、赤松満祐に殺された。
 応仁の乱の後、日明貿易を掌握した大内義隆は、家臣の陶晴賢による謀反で滅亡する。
 織田信長は堺を押さえ南蛮貿易を握り、楽市楽座などの流通経済を促進したことはご承知の通り。しかしやはり非業に斃れる。秀吉は後を継いだが、やはり政権は保てず重農主義の家康にとって代わられる。
 龍馬はんは「世界の海援隊」を目指し、貿易し得る近代国家建設に奔走したが、やはり志半ばで斃れた。しかしここに至って、明治維新が興ってようやく日本は重農主義からの転換が図れたのである。
 これらの先駆者は清盛だ。しかし明治維新の約700年前であるから「暴君」と呼ばれるのも無理はない。時代は清盛を理解せず、平氏は滅びる。

 話が反れてしまった。
 平重盛は、清盛の第一子であるが、清盛よりも先に死んでしまう。
 鹿ケ谷事件(後白河法皇を中心とした謀反計画)の際、法皇の幽閉を決定した清盛を諌め止めさせた話で知られるとおり、清盛の専横を抑えることができる唯一の人物だったことで知られる。
 この重盛が平氏の棟梁となっていれば。
 重盛は温厚篤実な人柄であったと言われる。重盛がいなくなったことで、清盛は暴君ぶりをさらに進めるのだ。太政大臣はじめ多くの殿上人の官職停止、そして後白河法皇を軟禁。タガが外れたように暴走する(大和大納言秀長が亡くなった後の秀吉に酷似しているように思えてしょうがない)。こんなことも重盛がいればなかった可能性がある。平氏滅亡の萌芽を摘み取ることが出来たかもしれない。

 重盛は、亡くなるに際し清盛が宋の名医を向かわせたとき「異国の医師、都に立ち入れることならず。国の恥辱なり」と断ったという。史実かどうかはともかく、この逸話からかなり保守的な人物が浮かぶ。誤解を恐れずに言えば、重盛は家康型の人物だったのではないか。
 この重盛が「信長型」の清盛の跡を継げば、平氏政権がひょっとして続いていたと考えるのもあながち的外れではあるまい。二代目に調整型の人物が現われることで、初代の不平不満を吸収し、無理して貨幣経済を推し進めることなく、武家中心の長期政権の基礎が作れる可能性は高い。もともと人望は厚いのだから。
 そして関東に勃興した鎌倉政権に対して、重盛なら奥州藤原氏との連携も試みただろう。前にも書いたが、鎌倉幕府は豪族の共同政権であるためまだまだ不安定であり、西と北に脅威があればそうそう頼朝も全国制覇に向かえず、地盤固めに集中した可能性が高い。守護、地頭設置の勅許など当然下りない。さすれば、各々が独自に鼎立することも考えられる。平氏、源氏、奥州藤原氏のそれぞれが一国を成す。日本版「三国志」だ。極端だが、全く可能性がなかったわけでもないでしょう。
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もしも頼朝と義経が生き延びていなかったら

2005年02月12日 | 歴史「if」
 今NHKの大河で「義経」をやっていて、ちょっとしたブームである。僕はあんまり見ていないので、いろんな人から怒られているのだがまあ許して欲しい。 しかし大河ドラマというのはストーリーが全部わかっている話なのでいつから見始めてもいいという便利さもある。今週は見よう。

 源平の戦いというのは結局西日本と関東の豪族勢力の争いととらえてしまえば、旗頭である頼朝と軍事司令官義経が居なくても、別の旗頭を立てて鎌倉幕府は出来ているさ、という見方もないではないけれども、やはり頼朝というカリスマが居なければ、北条氏以下の東国連合が団結したかどうかは怪しい。また義経という天才が居なければ、平家没落があそこまで流れるように進んだかどうか。

 それにしてもこの源氏の貴種たちは運がいい。結局両名とも綱渡りであそこまでなったようなものだ。
 頼朝は3男なのだが母が正室だったため嫡男である。義朝が敗れた時点で絶対に命は永らえることが出来ないはずなのである。しかし、伊豆の蛭ヶ小島に流されるにとどまった。池禅尼の助命嘆願がもしもなかったら、あっても清盛が情に流されなかったならば。強運である。そして雌伏の後に北条時政の娘・政子と結婚。これも普通考えられない。詳細は言い出すとキリが無いが北条政子の胆力と先見性の賜物だろう。そして関東勢力の代表として旗揚げをする。しかしその挙兵も、緒戦の石橋山合戦では敗北する。この時平氏側の武将であった梶原景時が彼を助ける。史実かどうかはともかくとして洞窟に身を潜めている頼朝を景時が見つけたが、これを見逃したという。普通ならこの場面で終わりのはずである。強運だ。そしてさらに頼朝は兵を集結させ、富士川の戦いで勝利し関東平定、鎌倉入りするのだ。これも史実かはともかく、平氏軍は水鳥の飛び立ちを敵襲と勘違いして逃げたとも言われる。もしも本当であれば平維盛は実に情けない。これも頼朝の強運だろう。
 頼朝の評価が高い理由は、この後鎌倉を動かなかったことだ。地盤固めに集中している。むろん関東豪族の連合政権であった故、動けなかったという見方が正しいのだろうが、地元民重視の政策を採ったことでより関東が強固になったと言える。政治家としての視点が確立している。そして、打倒平氏はその後彗星のように現われた義経に託すことになる。

 義経も兄に劣ることなく強運だ。彼も末っ子とは言え源氏の血筋、消されて当然だが、清盛が常盤御前の色香に迷い(これはドラマ的視点だが)生きながらえている。また奥州へ行けたこともある意味奇跡である。武将として成長する可能性など鞍馬山に行った時点でほぼ無かったはずなのだから。
 そして、軍を率いては連勝街道である。源範頼だけであればこうなったかどうか。範頼は一の谷の後、瀬戸内を西に攻めてゆくがなかなかうまくいっていない。やはり義経あればこそである(しかし範頼がその後九州を制圧し背後を断ったから平氏は壇ノ浦で窮したことは忘れてはいけないが)。義経なくして平氏滅亡は無かったかと問われると難しいが、少なくとももっと時間がかかっていたに違いない。時間がかかれば平氏も盛り返し乱れていく。 

 もしも頼朝、義経が生き延びていなかったらどうなっていただろうか。
 「驕れる平家久しからず」であり、平氏政権は続かなかっただろう。木曾義仲が歴史どおり登場して平氏を打倒し、一時は源氏の世に移り変わっただろう。しかし、彼には頼朝の関東豪族のような強い軍事的後盾が無いため、平氏を滅ぼすまでには至らなかった可能性が高い。平氏は西で勢力を盛り返し、また京を奪い返すか。しかし平氏とて絶対的な力をもつ訳でもなく、乱世が続くだろう。
 さて、この時京には歴史上有数のタヌキ政治家が居る。「日本一の大天狗」後白河法皇である。
 後白河法皇は、源氏の旗色が強くなると平氏に肩入れしたり、義経に検非違使を与えて頼朝と仲違いを図ったり、権謀術策に長けている。法皇がパワーバランスを見ながら武士を操り、平氏も源氏も消耗させ、奥州藤原氏とも連携を図り、武士の力をどんどん削いで、結局京の院政の力を取り戻すことだって充分考えられる。後白河法皇に対抗できるのは清盛か頼朝くらいしか居ないだろう。彼らが居なければ武士は手玉に取られてしまうかもしれない。京の院政の時代は続き、鎌倉幕府はもちろん、武士の世が来るのがかなり遅れたことが充分に考えられる。室町幕府だって江戸幕府だってどうなったかわからない。

 もう一つ本当は「if」を加えたいところなのだ。それは、「平重盛がもう少し長生きしていたら」である。平宗盛では一門の棟梁はなかなか重荷だった。もし重盛が存命であれば、「驕れる平家」を引き締め組織力を強固にして、そうそう源氏に滅ぼされることなど無かったのではないか。
 頼朝、義経、重盛。この3つのピースの存在の組み合わせを考えると興味は尽きないが、それは次回
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もしも前九年の役で蝦夷が大同団結していたら

2005年02月01日 | 歴史「if」
 東北を旅していると、いろんなことが夢想されてしょうがない。三内丸山遺跡を見ても当時の隆盛が如実に現れているようだし、時代が下って亀ヶ岡遺跡を見てもそうだ。もしかしたら縄文帝国とも言える世界が東北にはあったのではないか。正史は常に征服者によって描かれる。大和朝廷は彼らを蝦夷、俘囚と差別的に表現するが、歴史がどこかで逆転していたら立場はまた別のものになったに違いない。
 インカ帝国やマヤ帝国、はたまたアボリジニやアメリカインディアンのように征服された民族には哀愁が漂いどうしても肩入れしたくなってしまう。日本にもそうした血塗られた歴史がある。弥生帝国である大和朝廷は、縄文帝国を支配下に治めようとして侵略を繰り返した。
 よく知られる坂上田村麻呂は征「夷」大将軍として東北地方を攻め、徐々に大和朝廷の勢力を拡大していった。アテルイとの壮絶な戦いの後、東北地方は律令制の下で陸奥、出羽の国として支配下におさまったようにも見える。しかしまだまだ縄文帝国は滅びず、反体制勢力として生きながらえていた。

 前九年の役はそのような状況で起こった。朝廷に従属していたかのように見えた蝦夷であるが、徐々に力を蓄え、地方豪族として国司に反旗を翻し、税を拒否し反乱を起こした。その中心が安倍頼時である。もともとは奥羽は彼らの大地であり、力をつければ征服者に対峙するのは当然のこと。
 対して朝廷は源頼義を征夷大将軍として差し向け、衝突することとなる。せめぎ合いが続き、一時は講和したものの安倍頼時の勢力は衰えないためにさらに戦端を開き、奥羽を勢力下におさめようと朝廷軍は攻めるものの、地元勢力は強く頼義も敗退を余儀なくされるところまできた。

 しかしここで、源頼義は戦時外交によって逃れる。安倍頼時のさらに北に地盤をもつ安倍富忠に工作し、味方に引き入れ内部分裂を図ったのだ。
 児童用の歴史マンガで前九年の役を読んでいた子供の頃の僕は、子供ながら本当に悔しかったことを思い出す。「血迷ったな富忠!!」という安倍頼時のセリフを今も思い出すことが出来る。
 安倍頼時は富忠を説得しようとしてわずか2000人の兵で赴き、待ち伏せされ流れ矢に当たって戦死してしまう。カリスマ頼時がここで討たれたのはあまりにも惜しかった。もしも安倍富忠が頼時と手を結んでいたら。

 しかし、息子の安倍貞任は優れもので、軍を建て直し源頼義をあと一歩のところまで追い詰める。もはやこれまで、と頼義が観念しかけたところへ、頼義の息子である源「八幡太郎」義家が援軍として現われ、朝廷軍は壊滅を免れた。
 このように、安倍一族は朝廷軍を圧倒している。このまま進めば安倍一族の勝利で、奥州共和国が誕生していた可能性は高いのだが、またも源頼義は外交工作に出る。出羽の国の豪族である清原光頼を味方に引き入れるのだ。
 また子供歴史マンガの安倍貞任のセリフを思い出す。「清原め! 蝦夷の者でありながら内民の味方になるとは!!」安倍貞任は打ち破られ、前九年の役は終わりを告げる。

 もしも安倍頼時や安倍富忠、清原光頼が大同団結していたら果たしてどうなっていただろうか。源頼義、義家軍はおそらく奥州を平定できまい。この前九年と次の後三年の役で源頼義の一族は力をつけたわけであるし、この清和源氏の家系が後の頼朝、義経に繋がっていくことを考えると、パワーバランスが狂っていくことが充分に予想される。果たして清和源氏がそこまで力をつけられたかどうか。
 そして、強固な奥州王国が実現していたことが夢想される。安倍氏はカリスマ的要素がある。このあと後三年の役があり、そこでの勝利者は清原清衡である。清衡は、母親が子連れで清原武貞に嫁したため清原氏になったが、実は安倍貞任に味方し前九年の役で敗退した藤原経清の遺子であり、その母親は安倍頼時の娘、貞任の妹だ。安倍の血筋は脈々と受け継がれたのである。
 清衡は旧姓の藤原を名乗り、ここに奥州藤原三代の栄華が始まる。
 清衡は外交で安倍氏が滅んだことを重々承知しており、朝廷工作を充実させた。しかし、四代目の泰衡に至って源頼朝に滅ぼされてしまう。あのとき蝦夷が大同団結して清和源氏を打ち破っていたなら、結末は違ったものになっただろう。日本の歴史に占める東北の位置づけももう少し変わっていた可能性がある。

 岩手や宮城を旅すると、この地に君臨していたかもしれない安倍一族のことを思い、いつも違った歴史のことに思いを馳せてしまうのだ。奥羽の覇者への思いは尽きない。
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もしも平将門の乱が成功していたら

2004年12月22日 | 歴史「if」
 最近平将門が気になっている。
 何かをひっくり返したいと思う願望なのだろうか。

 平安時代も中ごろ。10世紀半ばのことだ。藤原道長が関白になるのは11世紀初頭だからこれより以前。桓武天皇5代の孫である平将門は、同族の争いに勝利して力を蓄え、自らを「新皇(新しい天皇)」と称して関東八ヵ国を手中に収めて独立国家を作ろうとした。
 結局この蜂起は鎮圧されてしまうのだが、実に惜しいと思う。もう少し歯車が噛み合っていれば、武士の時代が早く到来し、日本歴史は2~300年早い展開を見せたかもしれないのだ。

 将門が頭角を現したのは、中央政府への反逆でもなんでもない。同族の争いからである。簡単に言えば、将門の亡父良将の領地を伯父たちが横取りしてしまい返さない。それが原因で戦が起こった。しかも将門は仕掛けられた方である。特に強欲であったわけではない。結果、将門は次々と勝利を治め、徐々に関東一円に勢力を伸ばしていくという寸法である。
 そして、親分肌であったのだろう。徐々に人が集まり出していく。また伯父達の勢力は京に働きかけ、追捕命令も出させている。その言い訳のため将門は京に上る隙に敵側は戦力を整え、また攻めてくるといったことで、将門は気の毒極まりないのだ。しかし、戦には強く、しかも負けた敵の平良兼を「親戚である」ということで逃がしたりしている。人情家と言おうかお人よしと言うか。しかし器が大きかった様子で、徐々にカリスマ性を発揮していくのである。

 ここまでは良かった。しかしカリスマとなった将門に様々な難題が持ち込まれる。武蔵国国司代理として赴任してきた興世王と地元豪族とのもめごとの仲裁。これは無事に治め、興世王は将門の食客となってしまう。さらに、常陸の藤原玄明という豪族が常陸国司藤原維幾と揉めて将門のところへ逃げ込む。将門はカリスマであるからしてこれを匿ってやる。やがて国司維幾と争いになり、これを打ち破ってしまう。ここに至って、将門は反逆者となってしまうのだ。

 将門の不幸はここから始まる。いったん反逆者となったからにはもう同じ、関東を制圧してしまえ、と言う興世王の口車に乗り、下野、上野と制圧し関東を手中にしてしまう。元来カリスマ性があり戦は強いのだ。ここに至って、将門は神のお告げにより「親皇」と持ち上げられ独立国家成立に向かう。

 誠に残念な歩み方だ。将門は間違ったレールの上に乗ってしまったのだ。もう少し地盤を固め、制度もきちんと整備した上で進めれば、中央政府に不満を持っている関東の豪族は大同団結し将門を担いで本当に独立し得たかもしれなかったのだ。
 不幸は、助言者がいなかった。実務者もいなかった。歴史上天下を取った人物は必ずそのカリスマ性を押し立てる人物、そして作戦参謀と優秀な官僚を持つ。源頼朝しかり、足利尊氏しかり、豊臣秀吉しかり。将門の場合はそれが都落ち貴族の興世王だった。この人物にはビジョンが無い。秀吉に対する弟の秀長、尊氏の直義のようにフォローする人物、そして盛り立てる北条時政的な人物、参謀となる黒田官兵衛、官僚の大江広元や石田三成のようなスタッフが居れば。
 時間さえあれば、これらの人物は出てきた。弟の将平や伊和員経は将門を諌めたが、その時は器量が足らずに抑えることは出来なかったが懐刀となる可能性はあった。また後に将門を討つことになる俵藤太こと藤原秀郷は、いったん将門に従属しようとしていたのだ。彼がもし将門と共闘していたら。もっと考えれば、もう少し時間があれば従兄弟である平貞盛とも手を組む事すら可能であったと思う。貞盛にとって将門は父の仇だが、歩み寄れる素地はあったのだ。将門は参謀が残念ながら興世王であったため、事を急ぎすぎた。新国家もビジョンが無かった。興世王にもう少し才覚があれば、「征夷大将軍」というアイデァまではいかなくてももう少し違った形で将門を君臨させることが出来たのではないだろうか。「新皇」ではなくて。

 将門は隙を突かれ、貞盛・秀郷連合軍に敗北し乱は平定される。将門は律令制の歪んだ世の中で、反中央政府の代表として世の中に出てきた。しかし時期が熟さず、関東王国は幻に終わった。もう少し将門に時間があったら、またいいスタッフが付いたなら、歴史は違った様相を呈していた可能性がある。

 この後地方豪族は力を蓄え、武力を持ち、関東王国は実現に向かう。ただし、旗頭となる「貴種」源頼朝を擁して鎌倉幕府が成立するのは、将門から約250年後となってしまうのだ。

 早く生まれすぎた英雄。時代は彼を活かしきれなかったとも言える。
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もしも大化の改新のクーデターが失敗に終わったら

2004年12月14日 | 歴史「if」
 NHKが「大化の改新」をドラマ化するらしい。普段は滅多にNHKなぞ見ないが、どういうつくりにするのか少し気になる。新解釈でも入れるのだろうか。先駆けて放映した「その時歴史が動いた」では「軽皇子黒幕説」を出していた。頷けるところもあるが果たしてどうか。

 大化の改新は645年(蒸し殺「645」ろされた蘇我一族と覚えました)に当時権勢を誇っていた蘇我蝦夷、入鹿親子を謀殺して中大兄皇子が天皇専制の治世を確立し、律令制の世の中にした、というもの。公地公民、班田収授法、租庸調…懐かしいですな。
 これは中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原)が仕組んだクーデターであったわけだけれども、史書によるとうまく行き過ぎるくらいにうまく成功している。
 その時、韓国からのの使者が天皇に謁見する行事があり、入鹿も出席することになっていた。鎌足らは宮中の俳優(盛り上げ役。ピエロだな)に図って、柔らかな祭りの雰囲気の中で入鹿の剣を取り上げることに成功する。用意周到なはずの入鹿の一瞬の油断。この時入鹿の警戒心がピエロによって薄れてしまうのだ。この歴史に名を残さない俳優がクーデターの功労者である。この時入鹿が警戒を強めていたらおそらく成功しなかったに違いない。
 この後も危なかったのだ。韓国の使者に代わって上表文を読んだのは鎌足の仲間となった蘇我石川麻呂。しかし彼は気が弱く、読む声も震え、明らかに緊張しているのを入鹿に見抜かれる。韓国の使者に対する緊張だと言い訳をするのだが入鹿は不信感を持つ。斬り込むはずの武者はビビってなかなか前に進めない。このまま未遂に終わる可能性もあったのである。
 そうして式典が進む中で、業を煮やした中大兄皇子が自ら突然入鹿に斬りかかり、ようやく入鹿暗殺が成功した。こうなってしまえばあとは流れるまま。父親の蝦夷は自宅にいるところを攻められ自殺。政治は中大兄皇子と藤原鎌足のコンビが主導権を握ることとなり大化の改新が始まっていく。

 この企てがもし未遂に終わっていたらどうなったのか。
 入鹿は、聖徳太子の息子である山背大兄王を殺したことで極悪人となっているが、最近の説では入鹿が首謀者ではない、とも言われている。有能な人物としての評価も高い。
 日本書紀が入鹿を悪者にするのは当然で、これは入鹿を倒した政権が成立させた史書である。自己正当化の論理が働いたことは十分想像がつく。それまでの歴史書は、蝦夷が自殺した折に焼けてしまったとされる。この焼けてしまった歴史書がもし残っていたら…と思うと誠に残念なのだが、これは一種の焚書とみていいだろう。
 入鹿が存命なら、中大兄皇子は天智天皇とはならず、鎌足も藤原氏となることはない。おそらく入鹿が推していた古人大兄皇子が即位し、入鹿が摂政のような役割についていたと考えられる。入鹿は既に自分の領有地では戸籍を作ったり、渡来人も多く登用していたため、おそらく律令制の世の中は入鹿でも来ていたと考えられる(実際律令制度は蘇我氏が導入したものという説もあり、藤原氏が手柄を横取りしたと唱える説も有力)。蘇我氏が、ちょうど後世の藤原氏のように、天皇の外祖父となって摂関政治を行い、歴史の流れはさほど大きく変わらなかったことも考えられる。

 しかし、同じ歴史を歩んだとは考えにくい。まず、天皇家の血筋がガラリと変わる。ということはその後の壬申の乱もないし、遷都も違った形になった可能性が高い。蘇我氏の地盤である奈良を離れることはなかったかもしれないし、あっても明日香から竹内街道を越えた河内、和泉の国あたりに首都がおかれた可能性がある。交通の便を考えればそちらのほうが自然だ。京都は田舎のままだったかもしれない。
 そして、白河・後白河上皇も、後醍醐天皇も出てこない。鎌倉幕府や室町幕府もどうなったことか。当然江戸幕府なんて想像がつかない。

 歴史がガラリと変わる可能性を秘めていたのである。入鹿に警戒心を起こさせなかった名もなきピエロの存在が日本史の分岐点だったと言えば面白話に過ぎるが。

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もしも光秀の使いが毛利に届いていたら

2004年12月05日 | 歴史「if」
 僕は専門に歴史を勉強したことは無く高校日本史までで終わっているのだが、「もしもあのとき」を夢想するのが好きで、だから時間SFも好きなのだとは思うが、ブログなので少し書き散らしていきたい。

 さて、僕が一番気になるのは「もしも本能寺の変を知らせる光秀の使いが、間違えて秀吉の元に届かずちゃんと毛利に届いていたら」である。
 当時秀吉は信長の天下統一のための一人の武将として、中国地方の覇者、毛利氏との戦いの最先端に居た。備中高松城の清水宗治と対峙し、水攻めの真っ最中。陥落までようやくこぎつけたが毛利の大軍が備中に向かっており、そのため信長本隊の出馬を要請していた。
 そのときに本能寺の変。秀吉にとって天が味方したのは、光秀が毛利に宛てて、信長へのクーデターの成功を知らせて同盟を結ぼうとしたその使者が、毛利の陣と間違えて秀吉の陣に姿を見せてしまったと言う事である。おかげで毛利は信長の死を直ぐに知ることは出来ず、秀吉は講和を有利に結び、急ぎ光秀討伐に向かった。この使者がちゃんと毛利、その前線の吉川の陣にちゃんと届いていたら、秀吉は信長死亡の知らせを毛利氏より後で知ることになり、後手にまわって講和も結ぶことが出来ず、当然中国大返しも出来なかったであろうから、光秀との天王山の戦いに臨むことも出来ず、天下はどうなったかはわからないのである。使者のちょっとした間違いで歴史が大きく動いた場面である。

 果たしてちゃんと使者が吉川の陣についていたら果たしてどうなったか。
 秀吉は中国で釘付けであろう。秀吉のことだからうまく立ち回ったとしても、一番に明智追討の軍は出せまい。そうすると明智光秀を討つのは誰か。
 光秀が天下を取るという考えもあるだろうが、彼はもっとも近しい存在であった細川氏にも同盟を拒まれている。戦力も整わず天下が継続するのは難しい。となると、討つ可能性があるのは、秀吉以外では信長の配下の武将、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益である。このうち滝川は関東の北条対策で上野(こうずけ 群馬県)に出陣しており苦労していてとても帰ってはこれまい。近くに居たのは丹羽長秀で、四国の長曾我部討伐で大阪に居た。しかし戦力が整わず光秀を討てないだろう。
 最有力は柴田であるが、彼は越後の上杉攻めの最中で、本能寺を知ったあと「北陸大返し」を始めようとしていた。順当にいけば柴田が光秀を討つことになるだろう。
 柴田が光秀を討てば、その後の清洲会議も秀吉ではなく柴田がリードし、秀吉の天下の目は薄くなっていた可能性が高い。だが、いずれ秀吉vs柴田はおきると見ていいのではないか。そうして秀吉が勝利を治め、天下の流れはさほど変わらなかったとも予想される。

 しかしもう一つ可能性がある。そのとき織田信長の同盟者徳川家康は、堺で物見遊山の真っ最中。本能寺の変を聞き、急ぎ山越えをして自分の国である三河へ逃げ帰った。そして、光秀を討つべく軍を整えたのであるが、秀吉が先に光秀を討ったため不発に終わった。
 柴田勝家が手間取れば、家康が光秀を討っていたかもしれないのである。そうなれば、歴史はガラリと変わっていただろう。
 秀吉や柴田と一戦まじえたかもしれないが、おそらくは信長の天下統一路線を継承したのではあるまいか。そうすれば、覇者は家康となり、徳川幕府がもっと早く成立したやもしれない。極論だが。

 そうするとどうなる。かなり歴史は変わる。いちばん大きく変わるのは、家康を関東八州の主としたのは秀吉だということ。家康は当時三河から遠江、駿河を拠点としており、それを無理やり国替えさせたのである。秀吉がいなければ関東に拠点を移すことはない。当時関東は鎌倉、そして北条氏の拠点小田原などは知られていたが、江戸など太田道灌が城を作っただけの漁村にすぎない。
 だから、家康は信長が進出しようとしていた大阪か(だから信長路線の秀吉は大阪城を作った)、あるいは岡崎、浜松、静岡あたりに幕府を開いたと考えるのが妥当である。
 したがって、東京は首都になっていない。首都は京都か大阪か、もしくは東海地方にあったことが想像されるのである。毛利に一報を届け損なった光秀の使者はそんなことまで想像するわけはないが。
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