凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも赤松円心が光厳上皇を担ぎ出さなかったら

2005年06月02日 | 歴史「if」
 南北朝問題は難しい。
 持明院統と大覚寺統の対立の原因までは前回記事に書いたのだが、まだまだこの問題は後を引く。亀山天皇即位から皇室の分裂が始まったとすれば、これが収束するのはなんと130余年後、となるのだ。
 しかし、まだ南北朝時代は始まってはいない。持明院統と大覚寺統問題はあくまで皇室の内部問題である。これが日本中を巻き込むのはこの後になる。
 後醍醐天皇は、即位すると両統迭立問題、そして任期10年問題から、自分の皇子に皇位を譲れない理不尽さにハラを立て倒幕を決意する。ちょうど幕府も疲弊していた時代だった。まず正中の変を企てるがこれは露見し失敗。しかし懲りずに今度は元弘の変を起こし、笠置山に籠り倒幕の兵を上げる。楠木正成の参戦もあり幕府を苦しめたが、結局後醍醐は捕えられ隠岐へ配流される。
 鎌倉幕府は後醍醐に譲位を迫り、勝手に持明院統の量仁親王(光厳天皇)を立てる。
 後醍醐は譲位を認めず、ここに至ってとうとう二人の天皇が同時に存することになってしまった。

 しかしながら、こういう事態は初めてのことではない。古代にもあったと言われており(欽明天皇時)、近い時代には平氏の擁立した安徳天皇に対して後白河院が後鳥羽天皇を即位させたこともある。この光厳天皇即位をもって北朝の始まり、とも言われるが、まだこれはプレ北朝だろう。ただし、光厳天皇は後に火種となる。
 鎌倉幕府は、足利尊氏、新田義貞らの寝返りで滅びる。後醍醐は即座に光厳を廃し、建武の新政を始める。

 この「建武の新政」は公家、武士ともに大不評だった。なかでも武士に対して、倒幕の恩賞が充分でない、知行権について態度が揺れる、などで問題が多かった。自分の領地安堵を願う武士連は、足利尊氏を頼るようになる。足利氏は源氏の名門であり、親分肌の尊氏自身にカリスマ性があったのだろう。尊氏は全国の武士の希望の星となっていく。
 そんな中、中先代の乱が起きる。これは、北条泰家と公家の西園寺公宗が、光厳天皇を立てて持明院統と鎌倉幕府の再興を狙った乱である。また光厳天皇が火種となったが擁立は未遂に終わり、信濃で北条時行が兵を上げる。時行は鎌倉に居た尊氏の弟の直義を攻めて追い払ったため、尊氏は後醍醐の勅許を得られないまま鎌倉へ攻め入り、時行を倒す。そしてそのまま鎌倉へ居座わることとなる。
 後醍醐は帰京命令を発するがこれを無視し、勝手に配下に恩賞を行った。

 ちょっと余談になるが、この時実は尊氏は後醍醐の命令に従って帰京しようとした、という説もある。これは興味深い「if」である。本来はこれでひと記事書きたいところだ。
 もしも帰京していれば囚われて殺されていた可能性は非常に高い。そうすれば、武家の不満分子は担ぐ神輿を失う。武士が集結するのはカリスマ性のある尊氏だからこそ、であるからだ。足利幕府が開かれなければ、武士たちは果たしてどうやって連帯していけばいいのか。あの時点で、尊氏以外に幕府を開ける器のある武将はいない。その後の歴史がえらいことになっていた可能性がある。
 帰京を必死で止めたのは弟の直義である。直義は先が読めていたに違いない。
 余談の余談だが、尊氏は実に親分肌で慕われる人物であったらしい。雰囲気として僕は平将門を思い出す。関東の風土はこういう大らかな人間を生み出すのだろうか。だが尊氏は戦争には強いが危なっかしい。人の良さが全面に出すぎている。頼朝のような冷徹な政治的眼力は持っていない。こういう人物は将門のように失敗するのだが、弟の直義がそれを補完している。直義はキレモノだ。しかし人間的にカリスマ性はなく戦争にも負けてばかりである。この時点では、二人でちょうど成り立っている。
 尊氏は、その後新田義貞が攻めてきてもなかなか腰を上げない。天皇に敵対するので気が重いのだ。全くお人好しにも限度がある。なので直義がニセの綸旨を作って、後醍醐が尊氏許し難きと言っているとウソをついて焚き付けた。そしてようやく尊氏は対後醍醐に本腰を入れて新田攻めに動いた、という話まである。
 しかし、尊氏が勝手に配下に恩賞を行ったという点で、もうこれは幕府であると言ってもいいのだが、直義もそこまでは尊氏に宣言させなかった。もしもしていれば、歴史はまた変わったかもしれない。鎌倉に本拠をおく足利幕府誕生となったかもしれないのだが。

 さて、幕府宣言をしなかった尊氏は、新田を押しつぶしいったん京へ攻め込む。しかし楠木正成らの抗戦にあい、また北畠顕家の参戦もあって、敗れて西へ落ちのびることになってしまう。
 ここで、尊氏側の策士、播磨の赤松円心がえげつないアドバイスを尊氏にしてしまう。それは、例の光厳天皇(もう上皇)に院宣を出してもらう、という悪魔のアイディアである。こうすれば尊氏側にも錦の御旗が備わる。つまり、どっちも官軍となるのだ。
 赤松円心というのは稀代の策士である。戦前の皇国史観では北朝は正当でなく尊氏は逆臣とされたので、円心の注目度も低いが、本来は楠木正成と同等に評価されてしかるべき武将だと思われる。
 しかし、この円心のアイディアは結果として日本を長い戦乱の時代に導くことになる。だがそれを円心の責任、というには円心に気の毒のような気もする。後の指導者たちの責任だろう。
 こうして、持明院統と大覚寺統は南北朝という新たな時代に突入することになる。正式には、このあと光厳上皇が上皇の権限で弟の豊仁親王を光明天皇とした時から、天皇二人をそれぞれが錦の御旗として擁して対立する異常な状態に突入することとなる。

 こうなってはもうドロ沼である。しかし、軍事力に勝る足利方は楠木軍、新田軍をも下し(正成戦死)、ついに京都に幕府を建てる。追われて後醍醐は吉野に逃げ、ここで南北朝分裂時代となるのだ。
 しかし時代は完全に足利のもの。残る戦力の北畠顕家、新田義貞を破り尊氏は征夷大将軍となる。翌年、吉野にて後醍醐天皇崩御。これで、南北朝分裂状態は終わるかに見えた。鎌倉幕府滅亡から6年後のことである。

 しかし、南北朝時代は終わらないのだ。なんとそれから50年以上も続くのである。いったい何故か。尊氏は幕府を開き、もう一方の南朝方は親玉後醍醐も亡く、楠木正成、新田義貞、北畠顕家らもいない。あとは吉野に何とか残っている南朝を叩き潰すだけで済むじゃないの。なんでそれが50年もかかるのよ。
 それが今回のテーマのはずだったのだが、長くなりすぎて書けなかった。今回記事は歴史の分岐点はいくつかあるのだが、「南北朝if」としては弱いかもしれない。また次回に続く。
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2 コメント

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Unknown (はじめまして)
2010-05-26 05:23:07
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。隠岐から逃げてきた後醍醐天皇を楠木正成が迎えに来たところです。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。境内には
塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃寺さ
れましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりまし
た。また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在
は福厳寺に合併されています。
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>はじめましてさん (凛太郎)
2010-05-27 22:23:22
これはこれは。僕は今、兵庫県在住なのですが福厳寺のことは全然知りませんでした。そんなに遠くないので、そのうちに行ってみたいと思います。ありがとうございました。
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