凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも清河八郎が庄内に埋もれていたら

2006年03月19日 | 歴史「if」
 藤本鉄石という人を知る人は少ない。
 しかし幕末ファンであればこの人の名前をさすがに落とすことはない。あの天誅組の総裁である。幕末も大詰めの段階で、公卿中山忠光を奉じて義兵を大和に挙げ、さらに大和行幸の天皇を奉じようとしていた。しかし八月十八日の政変で梯子を外されたような格好となり、吉野山中で戦死した。享年48歳。しかしながら天誅組総裁という立場でありながらあまり有名ではない。天誅組と言えば、同志だった土佐の吉村寅太郎の方が坂本龍馬との関係から世間には知られている。ただ、藤本鉄石は幕末において実に重要な役割を果たしている。
 備前国岡山藩の出身である鉄石は、天保11年に24歳で脱藩し、京都で軍学を学び志士活動を開始する。あの黒船が来る10年以上も前のことである。まだ世の中に尊皇攘夷の嵐は吹き荒れていない。志士歴が長い。
 しばらくして鉄石は京都を出て全国遊説行脚に出る。西は九州から東は江戸、東北まで。こうして各地の志士と交流を深めていくのだが、弘化3年、鉄石30歳の折に、出羽国庄内藩の清川村であの清河八郎と出会うことになる。八郎当時17歳。
この出会いこそが、実質的な幕末のひとつの始まりだったのかもしれない。

 司馬遼太郎氏は、「幕末は清河八郎が幕を開け、坂本龍馬が閉じた」と言う。歴史の流れは清河八郎が居ても居なくても関係なかったかもしれない。しかし形はずいぶん変わっていたことになっていただろう。もしも清河八郎が幕末の風雲に身を投じていなければ。
 清河八郎は庄内清川村の大庄屋の長男として生まれた。そもそも武士ではない。しかし地元では神童として知られ、漢学を学び頭角を現していた。そして17歳で鉄石と出会う。この出会いによって、八郎は江戸へ出る夢を抱いたという。もしもこの出会いがなければ、八郎は庄内で大庄屋を継ぎ、地元で塾でも開きながら幕末を迎えたかもしれない。
 八郎は鉄石に感化されて江戸へ遊学に出る。そして10代で江戸の東条塾に入塾、その間に西国旅行もしている。梁川星巌らとも出会い、北辰一刀流で高名な千葉周作道場にも入門、剣術を磨き各地の留学生とも親交を深めた。あの土佐の間崎哲馬や幕臣の山岡鉄舟とも出会っている。また八郎は九州から蝦夷まで歩いている。その全国行脚をするバイタリティーは凄い。そうしているうちにペリーが浦賀にやってくる。
 八郎は江戸神田に開塾し、山岡らと「虎尾の会」を結成し本格的に尊皇攘夷運動に傾倒していくこととなる。ヒュースケン暗殺事件にも八郎が関わっている。

 しかし幕府に追われ、江戸から逃避することになる。この逃避行が結局全国遊説となり、各地で尊攘倒幕を訴えた。特に西国九州では八郎のアジテーターとしての才能がいかんなく発揮されて、志士たちが続々と京都へ上ってくることとなった。京都における尊皇攘夷の志士たちの嵐は八郎のアジから始まったと言えるのではないか。そうして京都に尊攘倒幕の志士が充満することになる。
 八郎はさらに、京都の志士田中河内介と組み、島津久光上洛を機に挙兵しようとした。あの真木和泉、平野國臣らと連絡をとり、薩摩藩の兵と尊攘浪士らを合流させようと画策する。しかし島津久光はその時点ではまだ守旧派であり、薩摩軍を抑え込んだため不発に終わった。この時薩摩の尊攘派が暴発しようとしてあの「寺田屋事件」が起ったのである。有馬新七ら薩摩藩士激派は鎮圧され田中河内介らも死んだ。八郎は江戸に戻り、次の驚くべき一手を打つ。

 京に尊攘浪士が満ちて(八郎が集めた志士たちだが)幕府はかなり手を焼いた。その鎮圧のため八郎は松平春嶽(当時政事総裁)に浪士組編成を建白し、これが採用されるに至る。マッチポンプとはまさにこのことだと思うが、八郎主導で(むろん幕臣でないお尋ね者の八郎は黒幕だが)腕自慢の浪士を徴集し浪士組が結成される。
 この浪士組を率いて八郎は上洛。京都に到着し、ここで八郎は浪士に向って結成の本当の目的を明かす。「この浪士組結成は幕府警護でなく、尊王攘夷の実現にある」浪士たちはあっと驚いた。
 さらに八郎は、尊皇攘夷の実現のため浪士組を回れ右させて江戸に向うよう指示したが、「話が違う」とこれに反対して京都に残留したのが芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らであった。これら残留組が新撰組へと発展していくのである。

 結局、京都に勤皇の志士を集め不穏な行動を充満させたのも清河八郎なら、またそれを抑えるために出来た新撰組もまたタネを蒔いたのは八郎なのである。あの寺田屋事件も八郎。そして「明治維新を3年遅らせた」と言われる池田屋事件も、討たれる側も八郎が関わっているとすれば討つ新撰組もまた八郎である。あくまで極端に言えば、の話であるが。宮部鼎蔵、大高又次郎、吉田稔麿、松田重助、そして北添佶摩、望月亀弥太。これらの人々は死なずに済んだかもしれない。
 みんな、八郎が若き日に藤本鉄石と出会って、中央に出てきたときから始まったのである。彼が出てこなければ、明治維新は無かった、とまでは言わないが幕末の景色はずいぶん変わっていたはずだ。

 清河八郎は、江戸に戻った後も野心衰えず、次の攘夷として横浜外人居留地焼打ちを計画する。しかしこの計画は実現しなかった。決行の二日前、八郎は謀られて、佐々木只三郎により斬殺された。享年34歳。

 清河八郎という人物は、結局何を目的としていたのだろう。そこが少し読み取りにくい。志はどこにあったのだろうか。小説では「清河幕府」を目指した、などとも書かれているが本当のところはよくわからない。ただ、やはり「やむにやまれぬ気持ち」は持っていたのだろう。そこに、明瞭過ぎる頭脳からくる行動が「策士」と呼ばれ、また功名心や、煽動家としての才能、出自が武士ではないコンプレックス、藩士ではないという一匹狼的要素も加わって、嵐を呼ぶ幕末の起爆剤となってしまったとも言える。
 ただひとつ言えるのは、天皇を奉じて事を起こすという発想をずっと持ち続けたことは事実で、寺田屋事件も浪士組結成もそのことが背景にあった。勤皇家は数あれど、具体的に天皇の名で事を起こそうとしたのは八郎が嚆矢である。この発想は「玉を擁く」という戦略となって、先輩格の藤本鉄石は天誅組で天皇を奉じようとし、後には薩長の討幕運動の支柱となり、錦の御旗、官軍へと繋がっていったとも言える。
 藩士ではない人間が尊攘浪士と幕臣の間を行ったり来たりする状況は、ある部分では坂本龍馬を連想させる。バックボーンを持たない「徒手」の人間だったことも同じだ。ただしやったことはずいぶん違うが。
 歴史に現れた時期、というものもあるのだろうか。八郎が世に登場したときは、まだペリーも来ていない。なので、自らが幕末の火付け役とならざるを得なかった。もう少し事態が変わってきてからの登場であれば、違う活躍の仕方もあったかもしれなかったのだが。

 幕末の火付け役清河八郎も、終息的役割を果たした坂本龍馬も、同じ幕府見廻組佐々木只三郎によって命を落とすことになる(龍馬はんの場合は推測)。この佐々木只三郎という人物の運命もまた数奇である、と言える。

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« フェイスバスター | トップ | 杉田二郎「八ヶ岳」 »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
清河八郎 (ヒロリン)
2006-03-22 22:27:10
「策士」という表現がぴったりな人ですよね・・・。どっちかというと、



「策におぼれる。」



という感じはしますが・・・。
確かに「策に溺れる」ですね。 (凛太郎)
2006-03-23 22:56:01
清河八郎という人を蛇蝎の如く嫌う人も多いので、「ある部分では坂本龍馬を連想させる」と書くと反論を食らうかもしれないと思っていました。もちろん「ある部分で」だけなので、大いに違うとは思っていますが。



僕は八郎のことを、非常に自己顕示欲が強かった人だと思っているのですね。一面嫌いではないです。その「自分さえよければあとはどうでもいい」的な発想には閉口しますが。こういう人は残念ながら成功はしないですね。

コメントを投稿

歴史「if」」カテゴリの最新記事