いわゆる学者ではない歴史好き、歴史オタクの中でよく論議されることに「明治維新は革命だったのか」という話がある。僕も今までの記事の中で少し書いたことがある。まず革命とは何か、という前提をどう定義付けるかで、この問いはかなり答えが変わってくるのであるが。
革命というものを、例えば「産業革命」に用いられるように「急速な社会の変化」ととらえるのならこれは革命だろう。それまでの日本政府であった徳川幕府というものが倒れたのであるから。大政奉還をもって徳川幕府が終焉となり、太政官の中央集権政府が発足して明治時代の幕開けである。
しかしながら、革命のもうひとつの解釈「支配者階級が握っていた国家権力を被支配者階級が奪い取って、政治や経済の社会構造を根本的に覆す変革(goo辞書)」と考えるならば、この徳川幕府に代わって支配者となった太政官政権は、もちろん支配者階級であった武士階級である薩長が主導したものであり、これではただの政権交代に過ぎない。したがってこれは「改革」であり革命と呼ぶべきではない、という意見がある。薩長幕府が出来たのとあまり変わりがない。
では、革命はいつ起こったのか、となれば、それは明治四年の「廃藩置県」が本当の革命である、という考え方である。これを持って日本の封建制度の崩壊であるという解釈である。
単純なようで難しい話だと思う。
何故倒幕運動が起こり、幕府という統治機構が倒れなければならなかったかの理由として、いくつか挙げられることがある。
ひとつは、幕府機構の疲弊である。これは、天保の改革の失敗から始まったとも考えられる。250年前に確立した統治機構は、社会の流れに合致しなくなっていたのだ。
もうひとつは外圧である。黒船に象徴される世界的帝国主義の渦中で、日本が植民地化される恐れから、世界に通用する国家建設が必要とされた、ということである。
主として以上二点であって、表面上には尊皇攘夷であったり、薩長の関ヶ原の恨みなどが表層的に現れたりするが、根本的な理由ではない。中央集権国家建設が大前提であり、そこに民衆革命の要素が無い。搾取されていた民衆が「どうにかしないといけない」と立ち上がった部分が見当たらないので、これは革命と呼ぶに相応しくないのではないか、という視点が明治維新を革命と呼びたくない考え方の肝である。
さて、以上のことを考えつつ、僕はこの明治維新が本当に中央集権国家を目指して主導されたものか、ということに多少の疑問を持つものであるのだが、その前に「民衆革命」の要素が全く無かったのか、ということについて少しだけ考えてみたい。その機運は本当に無かったのか。
遡るが、「大塩平八郎の乱」というものを考えると、民衆革命の萌芽を垣間見ることが出来る。大塩平八郎自身は大坂町奉行所の与力であり支配者階級とも言えるが、視点は完全に民衆の蜂起である。局地的であり大きな反乱とならなかったため直接結びつきにくいが、これは民衆蜂起のきっかけとも成り得た。実際は民衆蜂起は幕末に多く起ったものの、直接に封建制度打倒にまで結びつかなかったが、幕府の屋台骨を揺らしたことは間違いない。
さらに「脱藩浪人」というものの存在も忘れることが出来ない。武士という支配者階級は、封建制の中で、マルクス史学的に言えば搾取により生計を立てている存在とも定義できる。脱藩はその支配者階級から抜け出る行為であり、それにより民衆側に立った存在に成り得る。実際脱藩すれば封建制のカテゴリの中では無収入の存在となり、搾取側ではなくなる。
この「出自は武士」ではあっても民衆の立場に立ちえる脱藩浪人は、基本的には自ら武力革命を成し得ない。財力がなく戦力を持てないからである。したがって扇動者でしかありえなかった。脱藩者がわんさか居れば、それを組織して革命軍結成も可能だが、実際は武士は既得権をなかなか手放せず革命軍の創設は成しえなかった。ために清河八郎は幕府を踊らせ武州の農民を徴募し革命軍結成を試みたが失敗し、その革命軍の一部は新撰組となってしまう。また数少ない脱藩浪人を集めた軍隊も出来たが、その代表とも言える天誅組は吉野の露と消えた。彼らがもしも成功していれば、明治維新は立派な革命であったかもしれない。
結局、脱藩浪人が武力革命を成そうと思えば、武力を所持するのは支配者階級であるから、支配者階級を支配者階級にぶつけるしかない。そのために幕府に対抗しうる雄藩を利用するしか方法が無かったとも言える。それを成そうとしたのが、土佐脱藩浪士たちであり、代表格は中岡慎太郎や土方久元、そして坂本龍馬である。そして、彼らは薩長同盟を画策し成功させる。
この対幕府の雄藩連合については、むろん様々な思惑があり、革命を起し得る脱藩浪士の完全主導ではない。だが、片面においては革命の要素を含んでいたとも言える。盟約の裏書きが脱藩浪人の龍馬はんであったということはその象徴。
さらに坂本龍馬という人物は、雄藩連合という戦力を担保にしたうえで無血革命を目指す。大政奉還構想である。
これを言い出すと反論もあろうかと思うし、必ず「龍馬はんを買い被っている」という意見も出てこようが、坂本龍馬という人の活動の基本的な部分の解釈のひとつと思っていただければ有難い。
坂本龍馬は、もしかしたら勝利者を武士階級から出させないことを念頭においていたのではないか。
大政奉還構想のひとつの肝は、平和裡な政権移譲である。幕府が政権を投げ出すことによって、国内に戦争による消耗が少なくなる。諸外国列強は虎視眈々と植民地化を狙っているのではないか、ということは最大の恐れである。内戦は国力を低下させる。そして、その内戦の後援に列強が付くことは、侵略の第一歩と成り得る。だから武力討幕ではなく閉幕によって流血を最小限に抑えなければならない。これがひとつの考え方。
さらに、雄藩連合は紛れもなく支配者階級である。ここで幕府と薩長が争って薩長が勝ったとしても、薩長幕府が生まれる可能性が非常に高い。薩摩も長州も藩という封建制に乗って存在することは間違いないのであり、薩摩軍も長州軍も基本的には自藩の発展のために倒幕をするのである。一部西郷隆盛や木戸孝允は日本全体を視野に措いていたかもしれないが、あくまで一部であり、全体像は藩が幕府を凌駕するための討幕である。これでは、勝利者が政権を握ることは避けられない。その勝利者はまだ封建制に乗っかった存在なのである。
ここで封建制に依拠する雄藩を勝利者としてはいけない。それでは封建制の打破にはなりえないからである。商人にルーツを持ち郷士として支配者階級に虐げられてきた存在だった脱藩浪人坂本龍馬の大政奉還構想にはその視点があったのではないか。
これは想像でしかないし、まだ民権運動の機運も存在しない時代の龍馬はんにそこまでの意識があったかという意見もあろう。だが、大政奉還後の政権をにらんだ彼の「船中八策」には、その萌芽が見て取れる。公議輿論。議会政治。憲法制定。
いずれも封建制を一足飛びにした政体構想であるとも言える。横井小楠らの公共思想の影響下でもあるし、「将軍は入れ札で決める」等の耳学問もある。そして何より土佐には天保庄屋同盟もあった。坂本龍馬には、ルソーが日本に入ってくればすぐに同調できるだけの下地があったとも言える。民権的素地は充分であった。
坂本龍馬の無血革命の第一歩とも言える大政奉還は、王政復古の大号令に先んじて達成された。これは特筆すべきことではないか。封建制に依拠した階級に勝利者を作らないことで革命足りうる。あとは革命準備政権を作り、民衆の機運高まりを待ちつつ民主国家を作り出す。その可能性を秘めた坂本龍馬の行動だった。事実、第一歩は成功したのだ。この時点で完全な勝利者となりそこなった薩長ら雄藩連合は、振り上げた拳を下ろさざるを得ない。
そうして民主国家へ進みだすかに見えた日本であったが、坂本龍馬は中岡慎太郎とともに暗殺者の手によって斃れる。そして、その後武力討幕路線が復活し、戊辰戦争が勃発する。薩長を中心とした、封建制に依拠する雄藩連合は勝利者となり、それらを中心に新政府が編まれることになる。
幕府を倒す=封建制度を倒す、ではないということである。結局、勝利者も封建制度に乗っかった藩なのである。この封建依拠の雄藩が、中央集権政府を作り封建制度に終止符を打つ、勝利者が自らハラキリをせねばならないこの事態というのは壮大な矛盾である。ここに、相当な歪みが生じる。
坂本龍馬構想は、この矛盾を最小限にして暫時的な国家体制への移行を可能にしたかもしれなかった。しかし、時代は矛盾した勝利者を作り出してしまう。この矛盾を解消するために、また日本は多くの犠牲者と流血を生じさせてしまうことになる。
以上は前置きのようなものである。次回、廃藩置県。
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しかしながら、革命のもうひとつの解釈「支配者階級が握っていた国家権力を被支配者階級が奪い取って、政治や経済の社会構造を根本的に覆す変革(goo辞書)」と考えるならば、この徳川幕府に代わって支配者となった太政官政権は、もちろん支配者階級であった武士階級である薩長が主導したものであり、これではただの政権交代に過ぎない。したがってこれは「改革」であり革命と呼ぶべきではない、という意見がある。薩長幕府が出来たのとあまり変わりがない。
では、革命はいつ起こったのか、となれば、それは明治四年の「廃藩置県」が本当の革命である、という考え方である。これを持って日本の封建制度の崩壊であるという解釈である。
単純なようで難しい話だと思う。
何故倒幕運動が起こり、幕府という統治機構が倒れなければならなかったかの理由として、いくつか挙げられることがある。
ひとつは、幕府機構の疲弊である。これは、天保の改革の失敗から始まったとも考えられる。250年前に確立した統治機構は、社会の流れに合致しなくなっていたのだ。
もうひとつは外圧である。黒船に象徴される世界的帝国主義の渦中で、日本が植民地化される恐れから、世界に通用する国家建設が必要とされた、ということである。
主として以上二点であって、表面上には尊皇攘夷であったり、薩長の関ヶ原の恨みなどが表層的に現れたりするが、根本的な理由ではない。中央集権国家建設が大前提であり、そこに民衆革命の要素が無い。搾取されていた民衆が「どうにかしないといけない」と立ち上がった部分が見当たらないので、これは革命と呼ぶに相応しくないのではないか、という視点が明治維新を革命と呼びたくない考え方の肝である。
さて、以上のことを考えつつ、僕はこの明治維新が本当に中央集権国家を目指して主導されたものか、ということに多少の疑問を持つものであるのだが、その前に「民衆革命」の要素が全く無かったのか、ということについて少しだけ考えてみたい。その機運は本当に無かったのか。
遡るが、「大塩平八郎の乱」というものを考えると、民衆革命の萌芽を垣間見ることが出来る。大塩平八郎自身は大坂町奉行所の与力であり支配者階級とも言えるが、視点は完全に民衆の蜂起である。局地的であり大きな反乱とならなかったため直接結びつきにくいが、これは民衆蜂起のきっかけとも成り得た。実際は民衆蜂起は幕末に多く起ったものの、直接に封建制度打倒にまで結びつかなかったが、幕府の屋台骨を揺らしたことは間違いない。
さらに「脱藩浪人」というものの存在も忘れることが出来ない。武士という支配者階級は、封建制の中で、マルクス史学的に言えば搾取により生計を立てている存在とも定義できる。脱藩はその支配者階級から抜け出る行為であり、それにより民衆側に立った存在に成り得る。実際脱藩すれば封建制のカテゴリの中では無収入の存在となり、搾取側ではなくなる。
この「出自は武士」ではあっても民衆の立場に立ちえる脱藩浪人は、基本的には自ら武力革命を成し得ない。財力がなく戦力を持てないからである。したがって扇動者でしかありえなかった。脱藩者がわんさか居れば、それを組織して革命軍結成も可能だが、実際は武士は既得権をなかなか手放せず革命軍の創設は成しえなかった。ために清河八郎は幕府を踊らせ武州の農民を徴募し革命軍結成を試みたが失敗し、その革命軍の一部は新撰組となってしまう。また数少ない脱藩浪人を集めた軍隊も出来たが、その代表とも言える天誅組は吉野の露と消えた。彼らがもしも成功していれば、明治維新は立派な革命であったかもしれない。
結局、脱藩浪人が武力革命を成そうと思えば、武力を所持するのは支配者階級であるから、支配者階級を支配者階級にぶつけるしかない。そのために幕府に対抗しうる雄藩を利用するしか方法が無かったとも言える。それを成そうとしたのが、土佐脱藩浪士たちであり、代表格は中岡慎太郎や土方久元、そして坂本龍馬である。そして、彼らは薩長同盟を画策し成功させる。
この対幕府の雄藩連合については、むろん様々な思惑があり、革命を起し得る脱藩浪士の完全主導ではない。だが、片面においては革命の要素を含んでいたとも言える。盟約の裏書きが脱藩浪人の龍馬はんであったということはその象徴。
さらに坂本龍馬という人物は、雄藩連合という戦力を担保にしたうえで無血革命を目指す。大政奉還構想である。
これを言い出すと反論もあろうかと思うし、必ず「龍馬はんを買い被っている」という意見も出てこようが、坂本龍馬という人の活動の基本的な部分の解釈のひとつと思っていただければ有難い。
坂本龍馬は、もしかしたら勝利者を武士階級から出させないことを念頭においていたのではないか。
大政奉還構想のひとつの肝は、平和裡な政権移譲である。幕府が政権を投げ出すことによって、国内に戦争による消耗が少なくなる。諸外国列強は虎視眈々と植民地化を狙っているのではないか、ということは最大の恐れである。内戦は国力を低下させる。そして、その内戦の後援に列強が付くことは、侵略の第一歩と成り得る。だから武力討幕ではなく閉幕によって流血を最小限に抑えなければならない。これがひとつの考え方。
さらに、雄藩連合は紛れもなく支配者階級である。ここで幕府と薩長が争って薩長が勝ったとしても、薩長幕府が生まれる可能性が非常に高い。薩摩も長州も藩という封建制に乗って存在することは間違いないのであり、薩摩軍も長州軍も基本的には自藩の発展のために倒幕をするのである。一部西郷隆盛や木戸孝允は日本全体を視野に措いていたかもしれないが、あくまで一部であり、全体像は藩が幕府を凌駕するための討幕である。これでは、勝利者が政権を握ることは避けられない。その勝利者はまだ封建制に乗っかった存在なのである。
ここで封建制に依拠する雄藩を勝利者としてはいけない。それでは封建制の打破にはなりえないからである。商人にルーツを持ち郷士として支配者階級に虐げられてきた存在だった脱藩浪人坂本龍馬の大政奉還構想にはその視点があったのではないか。
これは想像でしかないし、まだ民権運動の機運も存在しない時代の龍馬はんにそこまでの意識があったかという意見もあろう。だが、大政奉還後の政権をにらんだ彼の「船中八策」には、その萌芽が見て取れる。公議輿論。議会政治。憲法制定。
いずれも封建制を一足飛びにした政体構想であるとも言える。横井小楠らの公共思想の影響下でもあるし、「将軍は入れ札で決める」等の耳学問もある。そして何より土佐には天保庄屋同盟もあった。坂本龍馬には、ルソーが日本に入ってくればすぐに同調できるだけの下地があったとも言える。民権的素地は充分であった。
坂本龍馬の無血革命の第一歩とも言える大政奉還は、王政復古の大号令に先んじて達成された。これは特筆すべきことではないか。封建制に依拠した階級に勝利者を作らないことで革命足りうる。あとは革命準備政権を作り、民衆の機運高まりを待ちつつ民主国家を作り出す。その可能性を秘めた坂本龍馬の行動だった。事実、第一歩は成功したのだ。この時点で完全な勝利者となりそこなった薩長ら雄藩連合は、振り上げた拳を下ろさざるを得ない。
そうして民主国家へ進みだすかに見えた日本であったが、坂本龍馬は中岡慎太郎とともに暗殺者の手によって斃れる。そして、その後武力討幕路線が復活し、戊辰戦争が勃発する。薩長を中心とした、封建制に依拠する雄藩連合は勝利者となり、それらを中心に新政府が編まれることになる。
幕府を倒す=封建制度を倒す、ではないということである。結局、勝利者も封建制度に乗っかった藩なのである。この封建依拠の雄藩が、中央集権政府を作り封建制度に終止符を打つ、勝利者が自らハラキリをせねばならないこの事態というのは壮大な矛盾である。ここに、相当な歪みが生じる。
坂本龍馬構想は、この矛盾を最小限にして暫時的な国家体制への移行を可能にしたかもしれなかった。しかし、時代は矛盾した勝利者を作り出してしまう。この矛盾を解消するために、また日本は多くの犠牲者と流血を生じさせてしまうことになる。
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