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もしも明治維新が無血革命だったら

2007年11月27日 | 歴史「if」
 いわゆる学者ではない歴史好き、歴史オタクの中でよく論議されることに「明治維新は革命だったのか」という話がある。僕も今までの記事の中で少し書いたことがある。まず革命とは何か、という前提をどう定義付けるかで、この問いはかなり答えが変わってくるのであるが。
 革命というものを、例えば「産業革命」に用いられるように「急速な社会の変化」ととらえるのならこれは革命だろう。それまでの日本政府であった徳川幕府というものが倒れたのであるから。大政奉還をもって徳川幕府が終焉となり、太政官の中央集権政府が発足して明治時代の幕開けである。
 しかしながら、革命のもうひとつの解釈「支配者階級が握っていた国家権力を被支配者階級が奪い取って、政治や経済の社会構造を根本的に覆す変革(goo辞書)」と考えるならば、この徳川幕府に代わって支配者となった太政官政権は、もちろん支配者階級であった武士階級である薩長が主導したものであり、これではただの政権交代に過ぎない。したがってこれは「改革」であり革命と呼ぶべきではない、という意見がある。薩長幕府が出来たのとあまり変わりがない。
 では、革命はいつ起こったのか、となれば、それは明治四年の「廃藩置県」が本当の革命である、という考え方である。これを持って日本の封建制度の崩壊であるという解釈である。

 単純なようで難しい話だと思う。
 何故倒幕運動が起こり、幕府という統治機構が倒れなければならなかったかの理由として、いくつか挙げられることがある。
 ひとつは、幕府機構の疲弊である。これは、天保の改革の失敗から始まったとも考えられる。250年前に確立した統治機構は、社会の流れに合致しなくなっていたのだ。
 もうひとつは外圧である。黒船に象徴される世界的帝国主義の渦中で、日本が植民地化される恐れから、世界に通用する国家建設が必要とされた、ということである。
 主として以上二点であって、表面上には尊皇攘夷であったり、薩長の関ヶ原の恨みなどが表層的に現れたりするが、根本的な理由ではない。中央集権国家建設が大前提であり、そこに民衆革命の要素が無い。搾取されていた民衆が「どうにかしないといけない」と立ち上がった部分が見当たらないので、これは革命と呼ぶに相応しくないのではないか、という視点が明治維新を革命と呼びたくない考え方の肝である。

 さて、以上のことを考えつつ、僕はこの明治維新が本当に中央集権国家を目指して主導されたものか、ということに多少の疑問を持つものであるのだが、その前に「民衆革命」の要素が全く無かったのか、ということについて少しだけ考えてみたい。その機運は本当に無かったのか。
 遡るが、「大塩平八郎の乱」というものを考えると、民衆革命の萌芽を垣間見ることが出来る。大塩平八郎自身は大坂町奉行所の与力であり支配者階級とも言えるが、視点は完全に民衆の蜂起である。局地的であり大きな反乱とならなかったため直接結びつきにくいが、これは民衆蜂起のきっかけとも成り得た。実際は民衆蜂起は幕末に多く起ったものの、直接に封建制度打倒にまで結びつかなかったが、幕府の屋台骨を揺らしたことは間違いない。
 さらに「脱藩浪人」というものの存在も忘れることが出来ない。武士という支配者階級は、封建制の中で、マルクス史学的に言えば搾取により生計を立てている存在とも定義できる。脱藩はその支配者階級から抜け出る行為であり、それにより民衆側に立った存在に成り得る。実際脱藩すれば封建制のカテゴリの中では無収入の存在となり、搾取側ではなくなる。
 この「出自は武士」ではあっても民衆の立場に立ちえる脱藩浪人は、基本的には自ら武力革命を成し得ない。財力がなく戦力を持てないからである。したがって扇動者でしかありえなかった。脱藩者がわんさか居れば、それを組織して革命軍結成も可能だが、実際は武士は既得権をなかなか手放せず革命軍の創設は成しえなかった。ために清河八郎は幕府を踊らせ武州の農民を徴募し革命軍結成を試みたが失敗し、その革命軍の一部は新撰組となってしまう。また数少ない脱藩浪人を集めた軍隊も出来たが、その代表とも言える天誅組は吉野の露と消えた。彼らがもしも成功していれば、明治維新は立派な革命であったかもしれない。
 結局、脱藩浪人が武力革命を成そうと思えば、武力を所持するのは支配者階級であるから、支配者階級を支配者階級にぶつけるしかない。そのために幕府に対抗しうる雄藩を利用するしか方法が無かったとも言える。それを成そうとしたのが、土佐脱藩浪士たちであり、代表格は中岡慎太郎や土方久元、そして坂本龍馬である。そして、彼らは薩長同盟を画策し成功させる。
 この対幕府の雄藩連合については、むろん様々な思惑があり、革命を起し得る脱藩浪士の完全主導ではない。だが、片面においては革命の要素を含んでいたとも言える。盟約の裏書きが脱藩浪人の龍馬はんであったということはその象徴。

 さらに坂本龍馬という人物は、雄藩連合という戦力を担保にしたうえで無血革命を目指す。大政奉還構想である。
 これを言い出すと反論もあろうかと思うし、必ず「龍馬はんを買い被っている」という意見も出てこようが、坂本龍馬という人の活動の基本的な部分の解釈のひとつと思っていただければ有難い。

 坂本龍馬は、もしかしたら勝利者を武士階級から出させないことを念頭においていたのではないか。

 大政奉還構想のひとつの肝は、平和裡な政権移譲である。幕府が政権を投げ出すことによって、国内に戦争による消耗が少なくなる。諸外国列強は虎視眈々と植民地化を狙っているのではないか、ということは最大の恐れである。内戦は国力を低下させる。そして、その内戦の後援に列強が付くことは、侵略の第一歩と成り得る。だから武力討幕ではなく閉幕によって流血を最小限に抑えなければならない。これがひとつの考え方。
 さらに、雄藩連合は紛れもなく支配者階級である。ここで幕府と薩長が争って薩長が勝ったとしても、薩長幕府が生まれる可能性が非常に高い。薩摩も長州も藩という封建制に乗って存在することは間違いないのであり、薩摩軍も長州軍も基本的には自藩の発展のために倒幕をするのである。一部西郷隆盛や木戸孝允は日本全体を視野に措いていたかもしれないが、あくまで一部であり、全体像は藩が幕府を凌駕するための討幕である。これでは、勝利者が政権を握ることは避けられない。その勝利者はまだ封建制に乗っかった存在なのである。
 ここで封建制に依拠する雄藩を勝利者としてはいけない。それでは封建制の打破にはなりえないからである。商人にルーツを持ち郷士として支配者階級に虐げられてきた存在だった脱藩浪人坂本龍馬の大政奉還構想にはその視点があったのではないか。
 これは想像でしかないし、まだ民権運動の機運も存在しない時代の龍馬はんにそこまでの意識があったかという意見もあろう。だが、大政奉還後の政権をにらんだ彼の「船中八策」には、その萌芽が見て取れる。公議輿論。議会政治。憲法制定。
 いずれも封建制を一足飛びにした政体構想であるとも言える。横井小楠らの公共思想の影響下でもあるし、「将軍は入れ札で決める」等の耳学問もある。そして何より土佐には天保庄屋同盟もあった。坂本龍馬には、ルソーが日本に入ってくればすぐに同調できるだけの下地があったとも言える。民権的素地は充分であった。

 坂本龍馬の無血革命の第一歩とも言える大政奉還は、王政復古の大号令に先んじて達成された。これは特筆すべきことではないか。封建制に依拠した階級に勝利者を作らないことで革命足りうる。あとは革命準備政権を作り、民衆の機運高まりを待ちつつ民主国家を作り出す。その可能性を秘めた坂本龍馬の行動だった。事実、第一歩は成功したのだ。この時点で完全な勝利者となりそこなった薩長ら雄藩連合は、振り上げた拳を下ろさざるを得ない。
 そうして民主国家へ進みだすかに見えた日本であったが、坂本龍馬は中岡慎太郎とともに暗殺者の手によって斃れる。そして、その後武力討幕路線が復活し、戊辰戦争が勃発する。薩長を中心とした、封建制に依拠する雄藩連合は勝利者となり、それらを中心に新政府が編まれることになる。

 幕府を倒す=封建制度を倒す、ではないということである。結局、勝利者も封建制度に乗っかった藩なのである。この封建依拠の雄藩が、中央集権政府を作り封建制度に終止符を打つ、勝利者が自らハラキリをせねばならないこの事態というのは壮大な矛盾である。ここに、相当な歪みが生じる。
 坂本龍馬構想は、この矛盾を最小限にして暫時的な国家体制への移行を可能にしたかもしれなかった。しかし、時代は矛盾した勝利者を作り出してしまう。この矛盾を解消するために、また日本は多くの犠牲者と流血を生じさせてしまうことになる。

 以上は前置きのようなものである。次回、廃藩置県。


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もしも西陣幕府が成立していたら

2007年07月02日 | 歴史「if」
 前回の続きだが、表題の「西陣幕府」なるものは存在しない。僕の勝手な造語である。
 
 室町幕府が決定的に立ち行かなくなったのは「応仁の乱」が原因であるということは、どなたも異論はあるまい。そしてこの乱が戦国の世へと時代を押し流したということも然りである。そして、この大乱の主たる原因が、幕府8代将軍足利義政の優柔不断にあるということも、また通説である。
 応仁の乱の原因は、つまり義政が政治的混乱、飢饉、そして一揆の頻発で厭世的になり将軍職を投げ打とうとして、弟の浄土寺門跡義尋(還俗して義視)にかわりに将軍になってくれと懇願し、彼がしぶしぶ承知して管領家細川氏の後見で就任しようとした矢先に、義政の正室日野富子に後継男子が誕生(足利義尚)、我が子を将軍にと願った富子が有力大名山名氏の後見を得て義視に対抗した、それが端緒であるという話である。
 まったく義政も義視に譲ると決めたのなら男子が生まれたら困るということくらいわからなかったのか。ちゃんとコントロールしろよ、と下世話なことまで考えてしまうが、むろん大乱の原因はこれだけではない。これは単なるきっかけに過ぎず、もしも富子に男子が生まれなくともいずれこのような事態は起こっていたと想像は出来るのである。

 これは結局、室町幕府のコントロールが利かなくなっていたからである。パワーバランスが崩れた現象とでも言えばいいのか。僕はそう考えている。
 では何故パワーバランスが崩れたのか。これは籤引き将軍足利義教の専制がそうさせたのだ、ということは以前に書いた→。義持がせっかく我慢して作り上げた宿老政治、つまり日本式の平和の方程式である権威・権力の二元化を壊してしまったからである。独裁は、様々な不満分子を内包してしまう。その独裁の大元である義教が斃れた時は、後継の長男義勝は9歳である。こんなものどうにもならない。また義勝も早世してしまい、残された弟の義政が将軍職を継ぐのは8歳である。気の毒、と言ってはいけないのだろうが、有力守護大名連合である宿老政治も破綻してしまっている時に8歳の将軍にどうしろと言うのか。

 かつて室町幕府を支えた有力大名はこの時どういう状況だったのだろう。
 幕府には三管領四職と呼ばれる制度があった。その管領には畠山、斯波、細川氏が交代に就き政治を補佐する慣わしであったが、その三管領も義教の治世にずいぶん力を削がれている。
 義政が将軍に就任したときは畠山持国が管領だった。この持国は、かつて義教に家督を奪われ隠居させられていたが、義教死後復活した。しかし弟に家督を譲らされた後遺症がある。また当時持国には実子が無かった為に、後継に末の弟の持富を指名したのだが、後に実子が生まれてしまい(これが畠山義就)、持富の子(これが畠山政長)との間に確執が生じる(この弟を後継としたあとに実子が生まれるというパターンはもちろん足利将軍家で繰り返される)。分裂した畠山家、その義就と政長の確執は、応仁の乱の主軸ともなっていく。
 斯波氏は、管領であった斯波義淳が亡くなった後、やはり義教の横槍で嫡男相続を認められず、僧籍にあった弟の斯波義郷が継ぐのだが、この義郷が27歳で落馬で死亡(いきなり坊さんから武士にするからだ)、子の義健がわずか2歳で継ぐ。しかし義健も18歳で死んでしまうのだ。これには嗣子が無く、分家から養子として斯波義敏が継いだが、家臣との対立を生んでしまう(分家のボンとして本家家臣団は軽んじていたところにいきなりトップになれば確執も起きるわな)。結局合戦にまで発展し、義敏は追放され大内氏を頼ることとなる。跡目はやはり庶流の斯波義廉。この義廉と義敏の確執もまた応仁の乱に繋がるのである。
 管領家が皆分裂する中、細川氏は比較的安定していた。細川持之が義教治世時の管領であり、嘉吉の変後の赤松討伐の後は畠山持国に職を譲り死去した。わずか13歳で子の勝元が家督を継ぎ、後に持国に代わって16歳で管領に就任する。以後途中入れ替えはあるものの23年に亘って管領職に居た。

 四職は侍所長官で、赤松、一色、山名、京極の四氏(土岐氏を入れて五職とも)で構成されていたが、一色氏は当主の義貫が義教に殺害され勢力が縮小し、赤松氏は嘉吉の変で討伐されるなど弱体化し、この中で山名氏が、赤松討伐の功で播磨などの赤松旧属国を押さえ、山陽山陰で九ヶ国を領し、細川氏の畿内・四国八ヶ国と並ぶ勢力を保持することになるのである。時の当主は山名持豊(宗全)である。
 この細川・山名均衡の中で、若い勝元は山名宗全の養女を妻にし、子の豊久を養子・後継として協調路線をとった。しかし勝元が成長し実子(政元)も生まれると、養子を破棄し出家させる。また赤松氏復興を支援し、宗全の持つ播磨その他の赤松氏旧領を回復させようとする。こうして、細川・山名の間に緊張が走った。
 二大巨頭の両氏に武士団は分かれる。勝元は畠山政長と斯波義敏を支持し、宗全は畠山義就と斯波義廉を支持する。その他氏族も二手に分かれ、正に一触即発の状況となった。

 こんな政治状況の中で将軍義政はどうしていたのか。
 当初の義政は、父義教の独裁を目指し、畠山持国の家督争いに介入するなど守護大名の力を削ぐ政策をとった。しかしまだ義政は若く、実情は母の日野重子、執事の伊勢貞親、蔭涼軒季瓊真蘂らの側近政治だった。政治は混迷し、幕府財政を安定させるため分一徳政令など意味不明の法令を出したりしてどんどんややこしくなっていく。そして、義政は疲れ果て、前述の義視、義尚(富子)の対立を生じさせることになってしまうのである。
 義視は細川勝元が後見、義尚は山名宗全が後見する。そうしてついに上御霊神社で畠山政長が陣を張り挙兵、これを宗全や畠山義就らが攻め、ついに応仁の乱が始まってしまうのである。陣地の配置から、細川軍を東軍(室町第)、山名軍を西軍(五辻通大宮東の山名邸)と呼ぶ。
 義政は当初中立を保ち休戦命令を出すが、誰もそんな命令は聞いてくれないのである。義政はヤケ酒を呑んでいたとも言われる。詳しく書いているとキリがないが、そもそもこれは当初は畠山氏の私戦である。この私戦も元々は義政の優柔不断に起因してはいるが、義政だって脅されているのである。将軍なのに情けない限りであるが、将軍権威の失墜は義政だけの責任でもない。後に義政は、細川勝元にまた脅され牙旗(将軍旗)を授与させられてしまう。とうとう東軍を公方軍にしちゃった。そして細川東軍は後花園上皇、土御門天皇を迎え手中にする。上皇は「あくまで私闘」として錦旗を渡さなかったが、宗全に治罰院宣を発している。ここに至って東軍は官軍となる。
 さて、西軍はどうしたか。
 当初は西軍優位で戦闘が推移したが、西軍諸将の留守にしている地元を狙い打つという細川勝元の権謀術策によって、東軍が優位に立つ。そして東軍が天皇・将軍を手中にしたことで状況有利であったが、西軍にあの大内政弘の大軍が加わり、また戦局は分からなくなる。
 ここで、また説明し難い意味不明のことが起こる。そもそもこの戦闘は勝元=義視、宗全=義尚(富子)であったはずなのだが、なんと義視が西軍に投じるのである。このねじれ現象。これには伊勢貞親なども関わってややこしい事態から生じているのだが、もう説明も煩瑣であるし不要だろう。つまりこの戦闘に将軍の跡目争いなどどうでもよかったのである。

 義視はそれまで東軍の大将であった。もちろん将軍に成り得る資格を有している。山名宗全は義視を迎え入れ、これを西軍の将軍「格」とする。「格」というのは、つまり征夷大将軍には勝手になれるものではない。天皇が任命権者である。その天皇は東軍が手中にしている。任命なんぞしてくれない。そこで西軍は、驚天動地の策に出るのである。
 後南朝の皇胤を、西軍において天皇として立てようとしたのだ。
 南朝のその後については前回書いた通り。ほぼ壊滅状況にある。しかしここで、西軍は「南帝」を擁立したと記録には残っている。
 この南帝が誰であるのか。それははっきりとは分かっていない。誰の血筋なのか。小倉宮流(後亀山流)の嫡流とは考えにくいのだが、岡崎前門主の息子であると記す史料もあり、これは小倉宮流であると言う。もしかしたら小倉宮聖承の皇子で、教尊の弟にでもあたるのか。それならばもっと記録にしっかりと残っていても良さそうだが。末裔としても、庶流、傍系なのだろうか。わからない。
 ここは、義教のやり方(断絶方針)が功を奏しているのだろう。もしもここで、禁闕の変に連座して隠岐に流罪となり後行方不明となった、後亀山流の直系である小倉宮教尊が健在であれば、錦の御旗となったであろう。南朝正嫡として自ら即位も出来たかもしれない。神器もなしに儀式もせず即位出来るのか、とも考えられるだろうが、これには前例があるのである。足利尊氏と義詮は、かつて天皇ではなかった広義門院を治天の君として神器も無しに後光厳天皇を立てたことがある。
 さすれば義視は将軍に任命され、幕府として体裁を整えることが出来たやもしれない。この時ですら、西軍は東の管領細川勝元に対抗して、西の管領として斯波義廉を立てているのである。ここでしっかりとした南朝嫡流の皇子がいれば、義視将軍、そして管領を立てて宗全自らは執権格となって幕府を打ち立てる事も出来たやもしれない。宗全の狙いは正にそこにあったのではないか。「西陣幕府」である(なお当時は西陣という地名は存在しないが便宜的にそう言う)。

 もしもそのように対立軸がはっきりとして、双方に「旗頭」が立っていたとしたら。旗頭とは権威である。そうなればこれはややこしいことになっていた可能性もゼロではない。もしも小倉宮が健在であったならば。
 旗頭(権威)が明確であれば求心力が生じる。
 かつて、日本を二分した状況というのは幾度かあった。古くは壬申の乱。大友近江朝と大海人皇子である。これは旗頭がはっきりとしていた。なのでしっかりと決着もついたと言える。どちらかが勝利する(片方が権威を消失する)まで戦闘が続かざるを得ないのだ。
 源平合戦もあったが、あれは権威の所在がはっきりしていない(後白河があちこちに付くからだ)。なので、二分というより平氏、義仲、関東頼朝、奥州藤原氏などその時々で戦闘が生まれた。
 南北朝時代は言わずもがなの権威争いである。そして関ヶ原もあるが、あれも権威がはっきりしていた。家康と三成(のように見えて実は権威は秀頼である)。戊辰戦争は、片方の権威(慶喜)がさっさと恭順してしまったために不発に終わった。

 もしもこの応仁の乱で、権威が明確になり「南朝」により「西陣幕府」が開かれていたら、日本は完全に二分化した恐れがある。関東方面でも、堀越公方と古河公方が争っていた。これもどちらかの「幕府」そして「朝廷」に付いた可能性がある。九州も然り。そうなれば、どちらかが滅びるまで戦闘は続くことになる。日本を二分して決着がつくまで。
 しかし、もちろんそうはならなかった。
 これは「南帝」の権威付けがしっかりしなかったからだろう。義教が既に南朝をほぼ断絶させていたからだ。もしも長禄の変が無く南朝がまだ神器を所持していたら様相は変わったかもしれないが、もはや南朝に権威は残っていなかった。山名宗全の死とともに、この戦争は終結に向かう。大義名分の欠如が厭戦気分を助長したのだろう。
 こうして第二の「南北朝時代」は回避されたのだが、将軍の、ひいては幕府の権威が地に堕ちたのもまた周知のことで、この後日本は二分されることなくバラバラの戦国時代へと向かう。どっちがよかったのかなど分かるはずもない。

もしも後南朝が続いていたら

2007年06月30日 | 歴史「if」
 足利義教は、その治世が「万人恐怖」と恐れられたことは既に書いた。→ 
 その義教が行った政治のうち、重要なことが一点ある。

 「およそ南方御一流、今においては断絶さるべしと云々」(看聞日記)

 つまりこれは南北朝の「南朝」を完全に無くしてしまえ、という義教の政策のことである。南北朝問題は、足利義満の治世で「南北合一」を果たし、既に過去のものとなっていたと言われるが、実はまだ南朝皇胤がいなくなったわけではない。政治的生命はほぼ壊滅したように思われるが、隠然とまだ続いていたのである。
 義満の詐欺のようにも思える強引な「南北合一」の後、南朝はどうしていたのか。
 南朝が北朝に神器を譲るにあたっては条件があった。それは「両統迭立」である。とりあえず北朝の皇位を認めるが、次は南朝から天皇を出す。そういう条件である。鎌倉時代の持明院統と大覚寺統のようなものだ。それで南朝は矛を収めたのだが、足利義満と北朝はこの約束を反古にする。
 当然南朝は怒る。話が違う、と。後小松天皇が躬仁親王(称光天皇)を皇太子として南朝を無視する態度に出ると、北朝に皇位を譲った南朝の後亀山上皇は、あまりのことに住んでいた京都は嵯峨の大覚寺を出奔し、抗議のためにまた吉野へと籠った。
 すわ、また南北朝時代の始まりか。そう思った関係者もいただろうが、時は足利義持の治世であり、平和が望まれていた時代だった。後亀山上皇は説得に応じて京に戻った。
 しかし憤懣やるかたない御仁もいる。伊勢に居た北畠満雅は、この状況を見て南朝再興のため挙兵する。しかし味方がなく孤軍であったために、土岐氏によって鎮圧される。納得いかない北畠満雅は二年後再度挙兵するが、これも敗れて降伏する。
 これは、義持の治世が、ある種「平和」であったせいだろう。例えばこれが義満の前期であれば、山名氏清の明徳の乱や大内義弘の応永の乱と結びついていたかもしれない。そうなればまた厄介なことになっただろう。
 しかし危機はあった。後亀山上皇が大覚寺に戻った1ヶ月後、関東で上杉禅秀の乱がおこる。これは危なかった。乱をおこした上杉禅秀と足利満隆は、天皇になりそこねた義持の弟、足利義嗣と結託する。これに南朝が絡んでいたらどうなったか。かなりややこしいことになったのではないか。しかし、この反乱は畿内に飛び火せず鎮圧された。義持の安定した治世では、有力守護大名は誰も結びつこうとしなかったのである。

 しかし、義教が将軍となり「恐怖政治」が始まるとあちこちに火種が出来る。不満分子が多くなる。南朝にとっては、乱世がチャンスなのである。
 称光天皇は男子に恵まれず、後継問題が出る。当然南朝は「こっちに皇位を」と言う。しかし義教は、遥か崇光天皇流である伏見宮家から皇子を迎え、後花園天皇とする。後花園天皇は、崇光天皇の曾孫である。もはや遠縁と言ってもいい皇子の担ぎ出しに、南朝に怒りが積み重なる。ここに至って、後亀山院の孫である小倉宮聖承(聖承の父恒敦親王は既に死去)がまた伊勢の北畠満雅を頼り京から出奔する。満雅は幕府と対立関係にあった鎌倉公方足利持氏と連合し乱を起す。しかし、これは義教によって攻められ、満雅は討ち死にする。だが、小倉宮聖承は京へ戻らず抵抗を続けるのだ。
 ここに至って義教はついに、前述の「南方御一流断絶さるべし」の方針を打ち出すのである。
 義持時代も、南朝に対して施策は行っていた。しかしあくまでそれは緩やかなもので、出家は奨励したが根絶までは念頭になかったと言っていい。しかし義教は「根絶やし」を目指す。宮家は廃止し、皇子たちは出家もしくは臣籍降下、奉公人は召し上げる。さすがに死を賜うことまでは出来ないが、皇胤断絶政策である。ここで、主だった南朝皇胤は消えたと見ていい。長慶天皇流の玉川宮、後亀山流の小倉宮、その弟宮流の護聖院宮、上野宮などである。最後まで抵抗姿勢を見せた小倉宮聖承、そしてその皇子の教尊も出家である(教尊は後に流罪となる)。
 南朝(大覚寺統)が事実上滅びるのはこの時点である。義満の南北合一ではない。あれから40年以上経って後のことである。足利義教の政策というものは実に「道理」に照らすと納得できないものが多く、「万人恐怖」と言われた通りで、僕はこの義教が足利幕府の衰退を引き起こしたと見ているが、この南朝断絶だけはその無慈悲な性格が幸いしたのかもしれない。
 日本には「玉」は二系統あってはいけないのである。天皇という「玉」の存在は、藤原不比等が編んだ「日本書紀」以来、常に権威の象徴であり、時の権力者が恣意的に挿げ替えることが可能になると、実に災いの元となる。例えば、織田信長はもしも南朝が残っていればこれを担いだかもしれない。そうすればまた泥沼の南北朝の再来となる。江戸幕府も、徳川氏が新田氏の子孫であるという権威づけであり、水戸学は南朝を正統としている。もしも南朝がその時点でまだ残っていれば、尊皇攘夷運動はどちらを担ぐだろうか。極端な話ではあるが、尊皇攘夷というスローガンが倒幕を推進し日本の植民地化を救ったとも言えるのだが、南朝がもしも存せば志士の足並みが揃わない。歴史は実に混迷する可能性があったのである。

 しかしながら、である。
 足利義教は、嘉吉の変で赤松満祐に討たれて、南朝の完全断絶を見ずに死ぬ。もちろん主たる南朝皇胤は廃絶しており、もはや力もないはずだが、その権威の亡霊のような存在はまだ残り火があったらしい。
 北畠満雅亡きあと、直接的な南朝の戦力はもはや無いが、反幕勢力が担ぎだす場合が多々あった。その大きなものは、「禁闕の変」である。
 義教惨殺のあと、義教に虐げられた日野有光らが後花園天皇暗殺を狙い御所に討ち入り、三種の神器の剣と神璽を奪い、南朝の皇胤であるとされる通蔵主、金蔵主兄弟を担いで乱を起すという「禁闕の変」があった。通蔵主らは後亀山の弟宮流の護聖院宮出身であると言われるが実際はよくわからない。
 これは幕府が鎮圧したが、剣は戻ったものの神璽は南朝に持ち去られてしまった。神璽(八尺瓊勾玉のことか)は神器の中で最も価値の高いものである。その歴史が古く、さらに鏡は火事で破損し剣は壇ノ浦で沈んでしまい複製である。神璽こそが皇位の証明であったと言ってもいい。その神璽を南朝が以後所持していた。
 これが奪還されるのは、15年後のことである。嘉吉の変後に没落した赤松氏の旧臣らが、臣従すると偽って南朝勢力(当時は吉野よりかなり奥地にいた)に接触し、油断させてこれを襲って皇胤の宮を殺害した。赤松遺臣はこの行動にお家再興の約束を取り付けていたという。殺められたのは自天王、忠義王とも尊秀王とも言われる。どの血筋であるのかははっきりしていない。後に神璽も奪い返した。これを長禄の変と呼ぶ。
 既に史料が少なく、殺められた宮の系譜さえもはっきりしなくなっている。小倉宮の末裔とも言われるが、小倉宮が後亀山院直系であることからの後世の思いも含まれているのかもしれない。

 その他にもいくつか後南朝の記録は時の史料に散見されるらしいが、何れにせよあまりはっきりとしたことはわからなくなっている。義教の断絶政策が功を奏した結果だろう。こうして、長禄の変をほぼ最後として、南朝の末裔は歴史の波に呑まれて姿を消していくのである。
 正確には、このあともう一度歴史の表に出てくる。それは「応仁の乱」の場面においてであるが、それについては次回に。

もしも籤引きで足利義教が外れていたら 2

2007年05月29日 | 歴史「if」
 足利義持はその死に臨んで後継者を指名しなかった。
 これにはいくつもの理由があると思うがはっきりしたことはわかっていない。もう危ない、という段階において、宿老の畠山満家や山名時熙、護持僧の三宝院満済らがしつこく義持に尋ねたが、とうとう指名せずに没した。
 これは「無責任」であると言われる。後継問題は常に内紛の種だ。南北朝だって、元を正せば後嵯峨院が後継をはっきりさせなかったことから起こったのである。跡目問題は最も重要課題である。しかし義持は指名しない。通説では「自分が後継指名したところで、支持を得られなければしょうがない」と投げやりになって、宿老その他への壮大な皮肉として断固後継指名をしなかったのだ、とも言われる。
 これは一部は真実だろう。いくら「あいつがいい」と義持が思ったところで、支持が得られなければ潰されるだけだ。幕府実力者の支持が得られてこそ後継足りうるので、得られない人物ではまた揉め事が起こるだけである。
 しかし「投げやり」であったとは思えない。義持にも考えがあったのではないか。
 五代将軍義量は義持に先んじて死んだ。不幸だったがこれで直系はいない。あと考えられるのは鎌倉公方の持氏であるが、これを後継とすると勢力分布図が大きく変わってしまいおそらく管領その他重役の支持は得られまい。さすれば、義持の弟から、ということになるが、これはみんな出家している。適任者が居ない。なので決めかねた、という理由もあるだろう。
 もうひとつ大きな理由は、これは足利家の後継を決定するのではない、幕府の長たる将軍、「室町殿」を決定するのだということである。これは家の問題ではないのだ。
 決定権は自分にはない、と義持が考えてもおかしくないだろう。足利将軍は前回書いたように、絶対的権力を持つ存在ではない。有力者に押し上げられる「まとめ役」であり「調停者」という位置付けである。そこのところが義持にはよく分かっていたのではないだろうか。自分を顧みれば、義満から将軍職を譲られたものの、実権は全く無かった。義満は弟の義嗣を可愛がり、義満没後は義嗣が後継となるのでは、との見方すらあったのだ。だが、義持はそのまま将軍職に居座ることが出来た。それは、重役の斯波義将が子の義重を管領にして宿老として実権を握り、義持をサポートしたからだ。斯波義将が反義満の立場だった、ということが重要である。こうして宿老のバックで義持は力を発揮出来た、ということをよくわかっていた。
 重役、有力大名の支持があって将軍は権威を発揮できる。この室町幕府のシステムをよく義持は理解し、自分が後継を指名するより皆で決めたほうがうまくいく、と知っていた。安定のためには我を通すのは危険であるし無理は出来ない。皆で力を合わせて幕府を盛り立てて欲しい。そう願っていたようにも思う。義持はこの室町幕府というものの本質(もしくは、日本の政権というものの本質)を知っていたと思う。

 しかし、宿老も後継を一人に絞れなかった。候補者は出家でみな一線上である。なので、ついに「籤引き」という手法を採ることになる。ヒモ付きの持氏よりもこちらの方が安定するのではないか。畠山満家も満斉も考えた上での判断だった、と思う。「籤引き」とは神が選ぶことであるから。
 だが神は、とんでもない人物を選び出すことになる。 
 候補者は、青蓮院義円、相国寺永隆、大覚寺義昭、三千院義承。籤は厳密に公正に行われた。満斉が名前を書き、山名時熙が封に花押を書き(密封)、満家が引く。石清水八幡の威光をもって、青蓮院義円が当選する。還俗して足利義教。
 この籤にイカサマがあったのではないか、というのはよく聞く説だが、当時の考えからして難しいだろう。ただの籤ではなく神意を問うものであったわけだから、たがえれば神罰が待つと信じられていた。

 こうして足利義教が室町殿に就任するわけだが、僕はこの義教を、ずっと切れ者の敏腕政治家という見方をしてきた。幕府の中心である将軍に権力を集中させないと幕政は安定しない。なので思い切った手段で権力集中を図ったのだろうと。
 しかし、よく考えてみると室町幕府というものは、ギリギリの均衡の上に成り立っている存在である。三代義満は確かに権威、権力を集中させた。だが、それまで室町幕府というものは南北朝との対立軸の中で存在し、戦いに明け暮れ、義満に至ってようやく権威と権力が一元化したという、言わば義満が初代とも言うべき情勢だった。室町幕府は義満でようやく体を成したとも言える。そして、義持が二代目として義満の行き過ぎを是正し、なんとか均衡の上に安定を作り出したのだ。義持は自分の立場というものを身に沁みて知っていただろう。
 だが義教は、そんな先代である兄の苦労など顧みることはしなかった。自分が「神に選ばれた」という過剰な自負心で、再び権威と権力の一元化に臨むことになる。
 その考え方自体は、完全否定するものではない。権威と権力の二元化構造の安定など、後に歴史を知ってから分かることであって、始めはやはり一元化したいだろう。だが、どうもその手法に問題ありなのではないか、と僕などは思う。
 義教がとった手法は「恐怖政治」である。

 義教は、軍事力を持つ有力大名の後ろ盾で将軍になったのではなく、言わば「神に選ばれた」存在であるために、全く遠慮なしに政治を執った。
 初期こそ、宿老である畠山満家や山名時熙、また三宝院満済が健在であったために歯止めがかかっていた。まず鎌倉府の持氏討伐を企てるがこれを押し止められる。満家は義教と持氏をなんとか融和させたいと考えていた。しかし満家が没し、また時熙や「天下の義者」と称えられた満済が亡くなると、抑制者がいなくなり義教は思うがままに行動することになる。
 守護大名への相続に干渉を始める。三管領の家である斯波氏で、嫡男の相続を認めず出家していた弟に継がせる。今川氏も山名氏も、そして京極氏にも相続に口を出す。これは守護大名の統制・弱体化を狙ったものだろうが、こういうことは内紛の種である。確かに義満もこういう手法を使ったが、時代が違うとも思えるのである。さらに、自分になびかない大名に対し弾圧を加える。一色義貫や土岐持頼は、義教の命で大和国の抗争を終結させるために出陣し、三年もかけて沈静化させたのである。その凱旋間近の二人を、陣中で上位討ちである。
 こういうことは、政権発足時にはあることかもしれない。しかし、もう既に有力守護大名の連合政権という形が室町幕府には出来上がっているのである。それを、見せしめのような形で暗殺するとは。大名としては「やってられない」と思っただろう。

 そして、鎌倉府の討滅に着手する。権威・権力の二分化により政局が安定しないから、というのが大義名分ではあるが、何故に室町幕府は鎌倉府を置かねばならなかったかを考えると解せない。鎌倉公方はこのことによりさらに二元化し管領も分裂し、混迷を極める結果となる。関東平野は広い。そして武士の本場である。本来遷都(遷幕)でもしないと治まらない土地柄であり、ただ足利持氏を倒しただけで後のフォローを考えないとは困ったことである。
 これは、討滅よりも融和が望まれていたのではないか。満家や満済はこれを押し進め、関東管領上杉憲実は実際に奔走していた。なんとか日本的解決方法は無かったのか。このあと結城合戦が起こる。持氏討伐によりこの揉め事は必然だった。
 九州制圧は成功した。宗教勢力の弾圧も行いこれも一定の成果を上げたと言える。しかし、比叡山の統制は行うべき課題だが、 やり方は、叡山の主謀者たちに「罪を許すから」と言い出頭を求め、出てきた金輪院弁澄らの首を刎ねた。こういう騙し討ちはどうなのかな。叡山の僧侶たちは根本中堂に火を放ち抗議の自殺をした。
 朝廷関係に対し、天皇生母や関白経験者を容赦なく処罰して弾圧。日野義資は斬首である。止まるところを知らない。裁判に措いては、双方の言い分を勘案して裁断するのではなく、湯起請(昔の盟神探湯。熱い湯に手を漬け火傷した方が負け)や抽籤を多用した。神判にかけると言えば聞こえはいいが、これでは負ければ納得いかない。あげくは、「笑っただけで籠居」「枝を折って八人処罰」「料理がマズいと追放、許すと呼び寄せ斬首」。ついに「万人恐怖」「天魔の所業」と恐れられた。
 こうした出来事は敵対側、憎んでいた側の日記などから読み取れるもので、全てが真実とは断定できないが、全て捏造とも考えにくい。嗜虐的でヒステリックな様が浮かび上がる。
 いくら権威と権力を集中させたかったと言え、こんな政治をしていていいのか。
 この恐怖政治は、「次に粛清される」と目された赤松満祐の「窮鼠猫を噛む」式の義教暗殺で幕を下ろした。さもありなん、と思える結末である。

 義教は昨今評価が高い。崩れかけた室町幕府を引き締めなおそうとした、として中興の人物のように言われる。よく織田信長に擬せられる。暗殺で斃れたところも同じ。しかし僕にはどうもその評価に疑問がある。
 義持の治世は、比較的安定していたとも言われる。「応永」という年号は35年続き昭和、明治に次いで長い。これをもってただちに安定の時代とは言い難いが、ひとつの傍証にはなる。有力守護大名連合としての室町幕府。権威と権力が分散し、均衡が保たれた治世だった。様々な意見はあるだろうが、日本という国が編み出した平和のあり方の方式であったのではないだろうか。この均衡の上に乗った安定は、このまま続く可能性もあったと思う。宿老たちは平和を望んでいた。しかし義教はそのバランスを崩す。しかも手法は「恐怖政治」である。
 籤で義教が選ばれなかったとすればどうなったか。これは分からない。他の三名の候補者の政治力や性格がよくわからないからだ。大覚寺義昭は慈悲深く情があると評せられていたが、彼が将軍になれば善政が出来たかどうかは不明である。この大覚寺義昭は、後に南朝回復の旗頭として担ぎ出され、鎮圧され行方不明となる。義教は、義昭の人相書きを作って全国手配し、日向で自害に追い込んでいる。
 誰がなっても義教よりは…とつい僕などは考えてしまうが、籤で神に選ばれたという立場は人を変えてしまうのかもしれない。もともと義教も天台座主を経験し、慈悲深い政治を期待された人物なのだから。

 表題のifの結論は出ずじまいであるが、もしも赤松満祐が義教暗殺に失敗していたら。僕は運命論で歴史は考えたくないのだが、いずれ他の誰かが義教を誅した可能性が高いと思う。それほどこの暗殺による政変は、起こるべくして起こったと考えている。しかしそれもなかっとたとしたら。恐怖政治はさらに続いたであろうことも推測される。義教の周りには、骨のある人物はみんな排されイエスマンばかりが残るだろう。
 こんな、人材を失った状況で室町幕府は立ち行くのか。義教就任後まもなく正長の土一揆を始め民衆の紛争が勃発している。抑える人材も払底した幕府は弱体化し、応仁の乱を待たずに下克上の世の中が来る可能性もあると見ている。義教が室町殿になった時点で、幕府の崩壊は始まっていたのかもしれない。

もしも籤引きで足利義教が外れていたら 1

2007年05月25日 | 歴史「if」
 室町幕府は何故あんなに脆かったのだろうか。
 応仁の乱の勃発によって室町幕府は徹底的に弱体化する。これ以降はもはや統治機構としての幕府ではなく名ばかりとなり世は戦国時代に突入する。室町時代は(足利幕府は)237年続くが、それは鎌倉幕府や江戸幕府よりもずっと薄い。三代将軍義満の時代に確かに光った時代はあったが、全体的に見て統治機構としての形をちゃんと成していない部分があるのではないか。そんなふうにも思える。

 政権とはなんだろうか。そんな根本から考えたくなってくる。
 政権樹立には、絶対権力者が必要である、とも言える。発足には必ずそういう英雄が現れ、権威と権力を掌握して政権をスタートさせる。天武天皇、桓武天皇、源頼朝、徳川家康、みなそうだと言える。
 もちろん権威と権力はいきなり同時には握れない場合もある。頼朝は、権威先行で権力は徐々に握った。家康は権力に権威を後付けしたとも言える。しかし両者とも、結局はそれを手中にしている。
 しかし、日本という国は絶対的権力者を望まない。いずれ権威と権力は分離する。これは日本ならではの安全弁であるとも思う。奈良、平安時代は天皇に権威が存したが、権力は徐々に藤原氏が侵食し押さえていく。鎌倉時代は、もう既に二代将軍頼家の段階で将軍から権力が奪われ、その権力は徐々に北条氏が掌握する。いずれも当初は一元的であったものが二元的になって安定する。面白い国だと思うが、一元性に対する危険性を知っているとも言える。平安摂関時代は、藤原道長が頂点に達した後に崩れていく。鎌倉幕府は、元寇の後北条得宗家に力が集中して疲労し終焉を迎えた。
 江戸幕府はそういったことを踏まえ、徳川将軍に権威を集中させたが、権力は必ずしも握っていない。しかし特定の人物(家系)に権力を委ねることなく、権力的組織を作り上げた。これが凄い。なので、時の権力者として柳沢吉保や田沼意次、松平定信や井伊直弼が登場する。こうして安定政権が生まれた。

 政権を樹立し維持するためにはまず権威付けが必要、というのは日本ならではかもしれない。世界史の常道では、政権樹立にはまず絶対的軍事力を背景に制圧するのが当然だが、日本では必ずしもそうではないのではないか、とも思える。
 古代を除いては、軍事力で全国を制圧して政権樹立を果たしたのは、もしかしたら秀吉が最初なのではないか。
 鎌倉政権は平氏を滅ぼし奥州藤原氏を滅ぼして政権を握ったではないか、という異論もあるだろうが、頼朝が子飼いの部下を従えて関東を軍事制圧したのではなく、むしろトップに奉り上げられたのである。そして戦争を手段として徐々に朝廷から権利を取得して全国規模の政府を作り上げたのであって、軍事力というより政治力で政権を樹立したという見方を僕はしている。頼朝は周囲に非常に気を遣って政権を維持している。
 秀吉は、奉り上げではなく、史上初めて軍事力で全国制圧を果たしたのだ、と僕は思う。信長がそう成るべきだったのだが途中で斃れ、彼はその遺産を受け継ぎ、圧倒的軍事力を持って権力とし、そして関白になることによって権威付けをした。そして日本統一を成し遂げたのだ。
 もしも秀吉が卑賤の出自ではなく(無理な権威付けではなく)、後継者がその死に臨んでしっかりとした壮年であったなら、豊臣政権は続いただろう。だが歴史はそうはならず、家康がとって代わる。
 家康は軍事力を背景にして幕府を開いたが、次の明治政府はそうではない。戊辰戦争はあったが一部であり、政権はすんなりと移譲された。すんなり、と書くと白虎隊ファンから怒られるが、最小限で済んでいる。権威は天皇であり、権力は明治政府。しっかりと二元化している。これが後に統帥権というものの出現で一元化してしまう昭和初期を迎えるが、やはり政権は崩壊している。日本史の原則である。

 では、室町幕府はどうだったのだろうか。
 よくよく考えると、足利尊氏が幕府を開いた背景には、権威も権力も無い。無い、と言ってしまうと問題があるな。実に弱かった、と言えばいいだろうか。
 それより先、後醍醐政権が樹立される。これは権威と権力を一元集中させた強い政権だったが、あっという間に崩れる。一元化は駄目だ。なので直ぐに代わりのカリスマを求められた。それが尊氏だった、ということである。建武の新政に憤懣を持つ勢力が尊氏を奉り上げた。理由は、頼朝以来の源氏の末裔であったということと、親分肌であったという理由くらいである。有資格者は、まだ新田や斯波や武田などたくさんいる。尊氏が選ばれたのはつまり「消去法」みたいなものではなかったのか。
 そして、尊氏が幕府を開いた時は、まだ南北朝並立である。権威が実に弱い。後に幕府内での対立で、尊氏は南朝に帰順したりしている。こんなことでは絶対的権力者にはなりえない。また、その成立の過程上、守護大名という存在が現れる。彼らは実力を持ち、足利将軍はその上に形式上立つ「まとめ役」みたいなものである。頼朝が「大統領兼最高裁判事」のようであったのに。やっぱり弱い。まだ南北朝は続く。武士の本場である鎌倉にも幕府は置けず、代わりに「鎌倉公方」を置く。九州は全然支配が及んでいない。こんな不安定な政権はない。
 思えば、鎌倉政権というものは「御恩奉公」というものがはっきりとしていた。鎌倉政権を支えた武士たちは「御家人」と呼ばれ、政権維持のために忠誠を誓っていた。それはもちろん、今までの朝廷・公家政権の中で不安定だった武士の身分を確立させ、正当化した鎌倉幕府というものを支えないと以前に逆戻り、という恐れがそうさせていたのだろう。しかし勝ち取った武士の権益も、時間と共に当たり前になってくる。既得権の存続を願う武士たちは自己利益を第一に考える。そうして室町幕府の誕生である。これを安定させるにはよっぽどの権威と権力が必要となるが、足利将軍はそれを持ち合わせていない。

 これを安定させるのは至難の技である。尊氏にカリスマ性があったにせよ、無理がある。もともと源氏傍系でさほどの貴種とも言えない。
 安定させるにはいくつかの方法がある。ひとつは、後世の信長・秀吉のように軍事力で平定し従わせるやり方。しかしこれは相当の時間もかかるし当時は現実的では無かったとも思える。もうひとつは権威を借りてくるやり方。なので北朝を立てたり南朝に帰順したり中途半端なことを繰り返したのだとも言える。また、組織を充実させるやり方。これは、三管領四職や鎌倉府、探題などを置いたが、かえって権力分散による混乱をも生じさせてしまった。実に難しい。そもそも武士の本場である関東に幕府を置けなかったことが弱体化にも繋がっているとも思うが、それはひとまず措く。
 安定の為に最も良い方法は、「誰からも不満の出ない善政をする」ことであろうが、これは最も難しい方法だろう。人間の欲望は限りが無い。次善の策として「最大公約数の政治をする」ことがあるが、これもまた難しい。

 三代将軍義満は、南北朝の混乱や内部紛争の蔓延する中、徐々に権力を掌握する。有力守護大名の土岐氏や山名氏の討伐、そして応永の乱による大内義弘の討伐で、その権威を高め、また勘合貿易などで財源も確保した。実にやり手である。最大のものは詐欺のような手段で南北朝合一を成し遂げたこと。これで権威も一元化した。さらに義満はその一元化した朝廷をも手中にしようとしたが、工作途中で死んだ。
 義満に権力が集中したのもつかの間、四代将軍義持も当初は強気で政治を行ったが、やはり将軍の権力は守護大名の力添えが頼りという現実に、妥協の政治となっていく。
 しかし、義持はよくやったとも思う。本来権威も権力もさほどにない立場の足利将軍として、次々に起こる不安定要素を、対処療法ではありながらなんとか凌いでいる。確かに上杉禅秀の乱を制圧したものの関東を直轄的に支配することは出来ず、足利持氏によって関東が独立政権的な様相になるのを許したが、これはそうするより方法があるまい。そもそも京都に幕府があるからこうなるのであって、関東にはある程度の独立を認めないと運営出来ないのではないか。いっそ持氏を将軍にすれば、とも思うが、現実的ではない。これは遷都(遷幕?)でもしないと無理である。九州も今川了俊を義満が罷免した後に安定はしなかったが、義持の治世では大きな変動は起きなかった。泰平の世、とまでは言えるのかどうかは分からないが、義満の反動を最小限に抑えたという見方も出来るのではないか。前述した「最大公約数の政治」に近いものであったようにも思えるのだが。 
 だが、義持は病に倒れ、後継者を決める事も出来ず没することになる。後継も決められずに没した、ということで義持は「無責任」だの「弱腰」だのと言われるが、僕はそれは気の毒に思っている。何故気の毒かということについても言わなければならないが、とにかく後継はくじ引きで六代将軍に義教が就任する。そして、彼は再び一元化を目指すことになる。

 ここからが本文となるはずだったが、前置きが長すぎた。次回に続く。

もしも源義経が卓越した政治眼を持っていたら

2007年04月14日 | 歴史「if」
 源義経という人物は、近年本当に評価が変わってしまった。
 はっきりしたことはわからないのだが、少なくとも戦前は、彼はヒーローであったと思う。父義朝の敗戦と死亡によって、母である美しい常盤御前は敵である平清盛の寵愛を受けるようになる悲劇。幼少から鞍馬寺に預けられ、そこを抜け出し奥州へ。さんざん苦労をしたあげく徒手空拳で兄頼朝の挙兵に参じ、軍を率いて木曽義仲、そして憎き平氏を空前の戦術であっという間に滅亡に追い込む。しかし梶原景時の讒言によって頼朝に疎まれ、鎌倉へ入ることも叶わず追討を受け流浪の挙句奥州に立ち戻り、そして庇護者である奥州の王者、藤原秀衡が亡くなった後は、息子泰衡の裏切りに遭い31歳の生涯を閉じた。奇跡を起こした天才であり美男子でありながら悲劇的な結末。「判官贔屓」という言葉も生み、皆に愛された武将であったはずだ。

 しかし近年の評価は、どうも「義経は自滅」というふうに変わってきている。その戦術が天才的であるということは誰もが認めるものの、大局的視野に欠けて、頼朝の足を引っ張ったという説。
 その説の中核に、「義経検非違使任官事件」というものがある。
 頼朝はそのとき、関東独立を目指していた。当然独立であるから、その賞罰権は鎌倉にある。しかし義経は、勝手に後白河法皇から平氏討伐の恩賞として検非違使に任官してしまうのである。
 本来は、検非違使に任官するにせよ、頼朝が朝廷に奏上しての上でないといけない。関東独立とは言っても朝廷を否定する立場ではないから、官位は否定しないが、その任官権は鎌倉にある。関東軍は、頼朝の指揮下にあってこそ一枚岩でいられる、鎌倉の権威はそこにあるのに、鎌倉政府の承諾もなしに勝手に任官を受けるということは、鎌倉政府(幕府)の威厳を損ねることになる。頼朝の面目丸つぶれである。しかも弟なのだ。これを認めれば幕府の屋台骨が揺らぐ。
 後白河の狙いはまさにそこにあり、頼朝、つまり鎌倉政府の力を人間の名誉欲によって削ごうとしたわけで、相当後白河もしたたかだが、ホイホイと何の疑問も無く任官を受けた義経は実に重要な失態をしてしまったというわけだ。
 しかしそれが分からず、「何故源氏の名誉となる朝廷の任官を受けていけないのだ」と義経は反旗を翻し、後白河に頼朝追討の院宣を出させるのである。やってはいけないことをしてしまった。
 ということで、義経は鎌倉の存在意義を、長である頼朝の弟でありながら揺らがした、なんの戦略眼もない阿呆だったという説になるのである。

 阿呆は気の毒だとは思うが、僕もおおむねはその考えに賛同する。義経は残念ながら鎌倉政府というものの存在意義、そして頼朝の意図を理解してはいなかったのだろう。
 しかしである。
 頼朝は、このことによって相当得をしたのではないのか。
 歴史を結果論で言っては「if」などを書いていることの否定にも繋がってしまうので危険だが、頼朝はこのことによって後白河を脅し、全国に守護、地頭を設置する権利をもぎ取るのである。これこそが、鎌倉幕府が関東の独立政権ではなく全国規模に広がる政権へ向かう第一歩であり、「革命」の根幹であったのだから。
 頼朝は政治家としては本当に凄腕であると思う。鎌倉政府の基本は「関東政権」であり、関東の武士(地主)の権益を守ろうとしたところから出発している。頼朝の戦力の後ろ盾となった上総権介広常をはじめ、一所懸命であった武士たちは、それ以上のことは望んではいなかった。別に平氏を滅ぼさなくとも、自分たちが安定した領地運営を出来ればそれでよかったのだ、と推測できる。しかしながら頼朝は、それを一気に全国版へと押し上げたのだ。
 具体的には、反逆者義経を追討しなくてはいけない。後白河を脅して、義経に与えた頼朝追討の院宣を取り消させ、義経追討の院宣に切り替えさせる。そして、そのためには、どこに逃げたかわからない義経を探さなければいけない。なので全国的に「義経追捕使」を置く事を認めさせる。これが後に「守護」へと繋がっていくのである。そして、追捕には兵糧がいる。そのため頼朝は全国に「地頭」を置く事を認めさせたのだ。
 これが鎌倉全国政権の始まりである。頼朝の支配は全国についに及び、朝廷に奏上しなくてもいい「官職」をも手に入れたのだ。頼朝は後に「日本国総追捕使・総地頭」となる。
 これらは、義経が反旗を翻さなければ出来ないことである。そしてそのことで権謀術策に長けた後白河の上前を撥ねることに成功したのだ。義経様々である。

 もしも義経が、鎌倉政府の意図を実によく理解し、頼朝の忠実な部下という立場を守っていたならば。或いは、義経の資質に問題があったとしても、義経配下に有能な参謀がいてしっかりとした助言があったとしたなら。

 義経は平氏を滅亡させ、後白河に甘い任官の罠を仕掛けられても動ぜず、鎌倉に凱旋し、その功労として鎌倉政府の重職に就いていた可能性もある。侍所別当というのが相応しいかもしれない。平氏を滅ぼすということは関東政権にとってはさほど重要ではないことであったかもしれないが、それでも全国にその武力は鳴り響いたのだ。
 義経は、その後も頼朝の忠実な部下であろうとしたかもしれない。しかし鎌倉の実力者も一枚岩ではない。義経を担ごうとする武士団も出現するやもしれず、そうすると義経の意図することに反して鎌倉政府分裂の旗頭に押されてしまうかもしれない。そういう危険性を義経は孕んでいる。

 ここからは相当に穿った見方になるし、そんなアホなと言う人もいるだろう。僕もそんなアホなということを書こうと思っているのだが、義経は鎌倉政府樹立と全国支配のための人身御供となったという見方は出来ないか。

 義経が自ら進んで、頼朝のために何もわからんボンと化して、官職をわざと受けて追われて逃げ、頼朝を日本国総追捕使・総地頭に押し上げたのだ、と書けば、それはいかになんでもだろう。(これで僕は一篇の小説が書けるような気がするが)
 しかしながら、こういうこともある。これは平家物語なので史実とは違うと思うが、義経の立場として興味深い記述もある。義経が壇ノ浦で「自ら先陣をする」と言い、梶原景時が「あんたは大将軍じゃないか」と言ったら義経が「そうじゃない。頼朝様が大将軍であって、僕もあんたも同格の軍奉行だ」と言って梶原景時の先陣願いを退けたという。義経もよくわかっているじゃないか。自分の立場が。過剰な功名心はひとまず措いて、だが。

 実際はどうなのだろう。僕は、頼朝が義経を追い詰めた可能性があると思っている。
 まず、源氏一門を頼朝は引き上げる人事を行った。源範頼は三河守。平賀義信は武蔵守。しかし義経には何も与えない。一番の功労者であるはずなのに、である。これにはいろいろな見方もあるだろうが、頼朝の挑発ととれなくもない。
 そして腰越で義経を足止めし、追い返す。義経は実は鎌倉入りしたとの異説もあるが、それはひとまず措く。義経は所領を没収される。にもかかわらず平宗盛の処断をさせ、京に戻った義経に源行家追討を命じたりする。まだ使おうとしているのか。そして、ついに頼朝は土佐坊昌俊という刺客を送る。
 頼朝の鎌倉での立場もわかるし、そうせざるを得なかったというのが通説である。しかしこれは挑発と見られなくもない。ついに義経は謀叛へと向かうのである。

 頼朝は果たしていつから、鎌倉政府の全国支配を目論んでいたのだろうか。「惣追捕使・地頭設置」のアイデアはいつから持っていたのだろうか。大江広元のアイデアであると言われるが、これは義経が謀反人とならなければ成立しない。それにしては時間がなさすぎるのである。義経が壇ノ浦で平氏を滅ぼして後、謀反を起こすまでわずか半年に過ぎない。土佐坊が義経を襲って、義経がついに踏ん切りをつけて頼朝追討の院宣を出させたのが10月末、11月の初旬には頼朝は逆に義経追討の院宣を出させ、守護(追捕使)と地頭の設置を求めているのである。電話一本で連絡がつく時代じゃないのだ。早すぎる。

 この「守護・地頭」はもしかしたら、頼朝が平氏の残党狩りのための手段として大江広元に考え出させたのではないかとも思う。
 頼朝も、こんなに早く平氏が滅びるとは予想していなかったのかもしれない。まだまだ生き残ると思っていた。義経はやりすぎた。安徳天皇と三種の神器は奪還すべきだが、平家をまだ生かしておいた方がよかったのだ。頼朝は、後白河に三種の神器を捧げた上で、まだまだ戦力として残る朝敵平氏に対し、神器の恩に着せて「惣追捕使と地頭を置かせてくれ」と後白河に交渉する予定だったのではないだろうか。
 しかし平氏は滅んだ。なので、このアイデアの対象を義経に変換したのではないか。
 惣追捕使と地頭を設置するには必ず仮想敵がいなければならない。しかしもう平氏は滅んでいる。なので義経に謀反をさせるべく追い込んだのではないだろうか。仮想敵を義経とするために。
 と言って、土佐坊昌俊に討たれていたらもうそこで終わりじゃないか、との意見もあろうかと思うけれども、あの義経がそうやすやすと討たれるものではない。だから、その前に梶原景季に行家追討などを命じさせたりして警戒心を煽っていたのかもしれない。さすれば土佐坊は使い捨てだな。これも気の毒だが。

 そして、逃げた義経を頼朝は長い時間泳がすのである。せっかく全国に追捕使を置いたのに二年も捕まえない。それは、惣追捕使と地頭を既成事実(既得権)とするための時間稼ぎのためでもあるが、もうひとつ重要なのは、義経が奥州に逃げ込むのを待っていたのである。
 奥州は頼朝宿願の地である。それは以前に書いた。→もしも平氏と源義仲が手を結んでいたら
 頼朝の望みどおり、義経は奥州に庇護されるまでいったのだ。よくぞ義経奥州入りした、と頼朝が喜んだかどうかは知らないが、これを理由に頼朝は奥州征伐を敢行した。ちょうど都合のいい時期に藤原秀衡も死んでくれている。
 頼朝は奥州を手中にし、征夷大将軍を任官する。筋書き通り、と言えばいいのだろうか。

 判官贔屓ではないが、昨今の義経の評価の暴落度合いは凄まじい。大河ドラマの主役をやったところで、さほど株が上がったようにも思えない。
 頼朝の全国制覇。これは義経あってこそであるという評価は可能であると思う。惜しむらくは有能すぎた。これで、義経がタイトルに書いたように卓越した政治眼を持っていたらどうなっていただろうか。任官もせず忠実な頼朝の配下としてふるまい、さらに戦術的にももっと有能で、安徳天皇と三種の神器を確保までしていたらどうなっていただろうか。
 鎌倉の政府は分裂するに違いない。頼朝が義経を後継とすることは北条氏が許さない。後白河法皇はここぞとばかり暗躍するだろう。そうして、鎌倉政府の主導権争いが激化することを企んだであろう。
 結果として、義経は鎌倉幕府成立のために身を投げ出したことになるのだ。結果論であることはわかっている。まさかこれが仕組まれた筋書きであるとまでは僕も思ってはいない。

 しかしながら…義経は大怨霊となってもいいのに、義経を大々的に鎌倉は祀ってはいない。何故だろう。義経は全て承知の上で踏み台になったのではないか。そんな荒唐無稽なことを夢想したりする。だから、綿密な計画の上に義経は死なず北行したのではないか。自らの役割を果たして。これはもちろん空想であるし、その大元に判官贔屓があるというのは百も承知である。

もしも源頼政の挙兵が成功していたら

2007年04月05日 | 歴史「if」
 源三位頼政の挙兵を考えるたびに、何ゆえこの老人は兵を挙げなければならなかったのかを思う。院政の時代から平氏の世までしっかりと生き延び、知行国も持ち、武士としての清和源氏としては破格の従三位まで昇進し、子供たちも栄進し満ち足りた晩年であったはずである。少なくとも客観的に見ればそうだ。

 埋もれ木の花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ哀しかりける

 この辞世から思うと、内心は無念の思いを秘めて生きてきた人のようにも見える。最後にひと花咲かせようとしたのだろうか。それにしても70歳後半である。なにもここまで来て大博打を打たなくてもよさそうなものであるのに。

 摂津源氏の棟梁である頼政は清和源氏の嫡流であると言っていい。頼朝が鎌倉幕府を成立させたため、清和源氏の嫡流は頼朝であると考えられがちだが、祖を辿ると清和源氏は、例の平将門の乱で逃げた源経基(清和天皇の孫)の子、源満仲(安和の変で有名)が武士として摂津に土着したことが始まりであり、摂津源氏が本流である。
 (尤も、清和源氏の嫡流は言い過ぎかもしれない。源経基の父貞純親王は六男であった。経基流清和源氏とすべきか。陽成源氏という説もあるが深入りしない。)
 源満仲には三人の息子が知られ、嫡男の源頼光(酒呑童子討伐や、部下に渡辺綱や金太郎さんがいたことで高名)は摂津を継ぎ、次男の源頼親は大和源氏、三男の源頼信は河内源氏の祖となった。この河内源氏が八幡太郎義家を生み頼朝に繋がるのでこっちが本流のようにも見えるが、あくまで形としては頼政が筋目である。
 争乱の時代のさきがけとなった保元の乱では後白河天皇方に付き、平治の乱では平清盛方に付いた。清盛方と書くのは正確ではないかもしれない。あくまで頼政は天皇方に付いたのであり(もっと言えば美福門院方)、源平という枠をはめるとややこしいことになる。そうして、平家全盛の時代にも当然の如く頼政は生き残った。これを遊泳術と呼ぶのはどうも当たらないようにも思う。頼政は筋目を通し、天皇方に立ち地位を向上させていったと見るべきであると思うのだが。源氏なのに平氏にすり寄り生き残ったとしては気の毒にも思える。

 こうして紆余曲折はあったものの頼政は摂津源氏の棟梁として、従三位まで上り安定した余生であったはず。その頼政が何故、突然に兵を挙げて平氏政権に噛み付いたのか。武家であるとはいえ兵力も十分ではなかったのに。
 これについては、様々なことが言われている。曰く、頼政の嫡子仲綱所有の名馬を平宗盛が強奪し、さらにその馬に「仲綱」という名を付けてムチを与え侮辱したことに端を発すると。しかしこれは平家物語であり史実かどうかはわからない。
 挙兵の主体は仲綱であったかもしれない。この挙兵の正当性を示すものとして「以仁王の令旨」があり、その令旨による全国蜂起の呼掛け人は仲綱である。しかし親父の頼政は無謀であると止められなかったのか。

 通説では、反乱を起こそうとした頼政が以仁王を担いだとされる。
 以仁王は、後白河の第三皇子。第二皇子である上の兄が出家したため二条天皇の次にあたる。だが、二条、そしてその子の六条天皇の後継として、清盛は憲仁親王(清盛の妻平時子の異母妹平滋子が母。二条、以仁王の弟)を推奨した。これは滋子を寵愛する後白河との共謀である。以仁王は親王宣下もされていない。しかし後白河と敵対していた美福門院系の天皇親政派は、美福門院の娘子内親王(八条院)が以仁王を自らの猶子として(六条天皇の養子という形か)次期天皇に擁立しようとした。が、敗れた。憲仁親王が高倉天皇となる(中宮は清盛の娘、建礼門院徳子である)。
 以仁王は出自のこともあるが、平氏によって即位も叶わず親王にもなれず弟が即位である。ボンクラであればしょうがないがどうも有能であり血気盛んな人物であったらしい。バックには後白河~清盛ラインに対する、膨大な荘園を持つ美福門院~八条院ラインがある。二条、六条と続いた天皇親政派の応援もある。
 次に、以仁王は高倉天皇の次を望んだ。しかし、高倉天皇譲位後、後継として徳子の生んだ安徳天皇が即位することになる。完全に以仁王は皇位の望みを絶たれたのだ。
 こうして考えると、クーデターの主体は以仁王と八条院周辺(閑院流藤原氏など)ではなかったのか。平家打倒ではなく後白河院政から天皇親政へ皇統を戻すことが主目的ではなかったのか。
 実際は、このすぐ直前に清盛がクーデターを起こして後白河を幽閉し平氏全盛の時世を築き、後白河と清盛の蜜月時代ではなくなっている。しかし後白河はこのとき失脚状態にあるが、八条院系が盛り返したわけでもない。実権を握るには清盛以下の平氏を排除しなくてはならない。そのための頭目として、ずっと天皇親政派を担ってきた武家勢力の頭目的存在の頼政、そして仲綱を以仁王が担いだのではないだろうか。

 こう考えると頼政はもしかしたら気の毒であったかもしれないとも思う。しかしながら、頼政も摂津源氏の棟梁であり源氏嫡流の矜持もあっただろう。そして、幾多の戦いを切り抜けてきた頼政が全く勝ち目の無いことを始めるとは思えない。仲綱が煽動したにせよ、ある程度の勝算はあったと見るべきであると思う。
 頼政単独の戦力では、とても太刀打ち出来ないことはわかっている。しかし、八条院は膨大な荘園を所持し、武士も多く抱えている。これは戦力としてかなり大きかったのではないか。彼らは後白河院政に不満を募らせていた。また、地方勢力の平氏政権への不満も蓄積していたであろう。日本のかなりの部分が平氏の知行国になり、それまでの既得権益を失った者も多い。それこそ坂東武者達はその先鋭である。また寺社勢力。高倉上皇の厳島御幸によって、本来最初にすべき石清水八幡宮や春日大社、日枝大社は虚仮にされた。当然興福寺や延暦寺は怒る。清盛クーデターで藤原氏は冷や飯を食わされ、氏寺の興福寺は怒っている。

 これらを束ねようと頼政はしていたのではないか。そうして十分に準備を重ねて一気に蜂起する。それなら勝ち目はある。そのための「令旨」であっただろう。であるから、令旨が全国に行き渡るまでは絶対に極秘の計画でなければならない。令旨を源義盛(行家)に持たせ連絡係とするのに、八条院の蔵人としたのはバックが八条院派であることの証明だろう。

 しかし、この計画は露顕する。
 このことは、熊野の別当湛増から知られたとされる。熊野と言えば源新宮十郎行家であり、この名誉欲の強かった人が相手を吟味せず漏らしたのか。真相はわからない。行家を悪者にするにはちょっと証拠が足らないが、いずれにせよ事前計画段階で平氏の知るところとなる。
 準備不足だよなぁ…。
 以仁王謀反の露顕時には、頼政が参画していることはまだ知られていなかった。討手には頼政の次男兼綱も命じられているのである。極秘裏に進められていたことの証だろう。
 結果、以仁王は園城寺に逃げ、頼政も手勢を率いて合流。抵抗を試みるがいかんせん戦力が少なく、以仁王を興福寺に逃がすことにして頼政以下は宇治で平氏の軍勢と対峙し討ち死にもしくは自害。以仁王も途中捕らえられ討たれた。

 結局小規模の乱で終わってしまったが、もしも計画がしっかりと水面下で遂行されれば、様相は少し違っていた可能性もある。情報漏れは源行家であると断定は出来ないが、このことは都ではなく熊野で露顕したとすれば、相当の情報統制が行われていたとみなす事は出来る。
 もしも、以仁王と頼政が十分に準備が整った上で挙兵していたとしたら。
 重要なのは後白河院の確保であったろう。もちろん高倉上皇、安徳天皇も同時に確保出来れば問題はないが、まず治天の君(に成りえる実力者ということ。実際はこの時点の治天の君は高倉上皇であるが、これは傀儡である)。後白河はこの後、安徳天皇が神器を持っているにも関わらず退位ということにして後鳥羽天皇を即位させた人物である。融通無碍だ。後白河院は流れで簡単に誰の味方にもつく。状況判断には長けているので、本当に全国が蜂起すれば、の話であるが。自ら院政を復活させ、治天の君に返り咲くだろう。
 そうした上で以仁王を即位させる。そしてその時点で後白河は用済み。武力を持ってでも院政を停止させなければならない。ここがこのクーデターの肝である。タヌキ政治家後白河のさらに上前を撥ねなければならないのはかなり難しいが、天皇親政としなければ八条院系の力が発揮できないのでは、と考える。二重クーデターであるが、そうしないと八条院系の荘園に属する武士たちは寝返ってしまう。頼朝は坂東武者をバックにしたが、頼政・仲綱は八条院系の武士たちを基盤にせねばならないのだから。

 以仁王の令旨にはその配慮が欠けていたようにも思われる。「仍って吾は一院第二の皇子たり」と後白河の皇子であることに皇位の正当性を謳っている。不満が鬱積している者達は、平氏とともに後白河院政にも虐げられてきているのだ。両方を倒さねばならないのである。八条院の猶子、六条天皇からの流れを大切にした方がいいのに。そして主体を「然れば則ち源家の人、籐氏の人、兼ねて三道諸国の間、勇士に堪うる者」と源氏と藤原氏とその他という扱いにしている。伊勢平氏でないものは全て味方に付けなければならないのに。坂東武者で清盛政権に不満を持つものは平氏が多いのであるから(平氏と言っても地方豪族だが、プライドもあるだろう)。
 細かな点かもしれないが、この令旨には少し不備があると言ってもいい。自らを天武天皇、聖徳太子に擬えているのは格好いいのだが。

 この令旨のせいであるかどうかはわからないが、畿内の勢力は結集したとは言えなかった。頼政の挙兵は準備不足のイレギュラーであったが、いったん挙兵すればもう少し戦力は集まってもよかったのに。
 ここをうまくやっておけば、畿内勢力は雪崩をうって以仁王側についた可能性があった。さすれば戦争状態は長引く。そうして後白河院を手中にして以仁王即位までいければ、全国の鬱屈した武士団は次々と蜂起したかもしれない。ちょうど北条政権末期に護良親王と楠木正成が踏ん張ったおかげで鎌倉の御家人がどんどん寝返ったように。こうなれば、とりあえず頼朝の必要性もなくなるのである。

 頼朝があそこまでなれたのは、いわば「後出しじゃんけん」のようなものに思える。最初に不発にせよ花火を打ち上げた頼政らが居てこそ、頼朝の出番が生じた。
実際の歴史の流れとしては、関東を中心とした武士団の鬱積は八条院・以仁王・頼政仲綱の政権では解消されなかった可能性も高い。以仁王は、天武天皇ではなく後醍醐天皇のような短期政権になってしまう可能性もある。やはり最終的には、関東を中心に労働組合的政権の樹立を目指す動きが生じたやもしれない。さすれば鎌倉幕府は歴史の必然とも思えるが、そこに頼朝の姿はあったかどうか。頼朝・北条氏・大江広元の政治力と行政能力は卓越しているとは思うが、歴史の流れが少しでも変わると、その姿を現すことが出来なかった可能性がある。頼朝は先に頼政蜂起時の一武将として使い減らされ、後に興る関東政権は別の人間が束ねていたことも考えられるのである。

 源氏の棟梁たる嫡流の頼政・仲綱そして嫡男宗綱はここで滅んだ。仲綱の次男有綱は伊豆に居たおかげで逃げ遂せたが、結局頼朝の蜂起に飲み込まれ、義経の与力として活躍はしたものの義経の失脚と共に消えた。この摂津源氏と頼朝の河内源氏の立場は、入れ替わっていた可能性もゼロではない。

もしも源頼朝が流されたのが伊豆でなかったら

2007年03月22日 | 歴史「if」
 源頼朝が鎌倉幕府を立ち上げ、日本の「中世」と言うべき時代の幕を開くことが出来たのにはいくつかの要因がある。
 むろん頼朝の卓抜した政治力と「貴種」であったということ、平氏の金属疲労、そして以仁王の令旨のタイミングなど様々な事が重なって、頼朝が関東を統一し武士の世の幕開けとなったのだが、まず第一に頼朝が「伊豆」に流人として居た事が大きな、いや最大の要因であったと考えられる。頼朝は伊豆に流人として居たからこそ、政子を介して北条氏と結びつき、これを初期設定として旗揚げ、そして関東武士団と結びついて膨れ上がり幕府へと繋がっていくのである。頼朝がもしも伊豆を流刑地とされなかったとしたら、また違った歴史が当然広がったはずである。

 頼朝は河内源氏の嫡流である。頼朝は三男であるのだが、長男義平、次男朝長は母親の出自が卑賎であると言われ、頼朝が嫡男とされた。頼朝の母は熱田大宮司家の娘である。
 余談になるが、この熱田大宮司家というのは藤原氏である。しかし本流ではない。どこかといえばそれは南家である。辿れば、あの藤原武智麻呂の四男である巨勢麻呂の流れであり、巨勢麻呂は藤原仲麻呂の弟にあたる。頼朝が藤原南家の血を引いているというだけで僕は大いなるドラマを感じるのだが、さらに言えばもともと熱田大宮司家というのは、古代の大豪族であった尾張氏なのである。尾張国造を祖に持つ尾張員職の娘職子が、藤原南家の季兼と婚姻して季範を生んだ。この藤原季範が外孫でありながら熱田大宮司家を継ぎ、その娘と源義朝との間に生まれたのが頼朝である。そういう背景を見るとこれは貴種中の貴種だと僕なんぞには思えてしまうのだが、それは後世の見方である。ここでは、河内源氏の嫡男であるということが重要。

 さて、平治の乱によって父義朝、兄義平、朝長は死に、頼朝は囚われの身となる。頼朝13歳、当然嫡男であり死罪となるところを、罪一等を減ぜられて流刑となる。
 これは、当時の律令制における「律」の部分による。律とは刑法だ。刑には教科書にも出てくる「笞・杖・徒・流・死」がある。ムチや杖で叩かれたり強制労働であったりなかなか厳しい罰だが、「流」というのは死刑の次に重い。だから罪一等を減ぜられて流刑なのだが、この流刑にも段階がある。それは近流・中流・遠流であり、近流は越前・安芸、中流は信濃・伊予、そして遠流は伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐と決められていた。当然頼朝は遠流であり、上記6国のいずれかに配流されるのだが、ここで何故か伊豆が選ばれているのである。

 何故伊豆が配流先となったのか。それがよくわからない。ご存知の方がいらっしゃればご教授願いたい。六分の一の確立であるから、当時の官僚が機械的に振り分けたのかもしれないが、それにしては場所が良すぎる。律令制が定められた当時は、それは伊豆と言えば畿内からは遥か遠い場所ではあったが、それから何百年と経ち、伊豆もずいぶんと開けた土地になっている。何か裏工作があったのかと勘繰る。これが隠岐や佐渡であったならどうなっていたか。頼朝の後の挙兵はちょっと考えにくくなる。現に頼朝の同母弟である源希義は土佐へ流されているのである。希義は土佐で成人して、やはり頼朝の挙兵を知り自分も旗揚げを目指したが、西日本であり地盤が無く平氏の手によって討たれている。やはり西日本である土佐では無理だったのだ。
 伊豆は当時どういう勢力図であったのだろうか。この国は平治の乱後、源頼政の知行国となっている。知行国であること長きにわたり、頼朝挙兵の段階でまだ伊豆は頼政の勢力圏である。国司は嫡男である仲綱。流罪の頼朝を伊豆へと護送したのは頼政配下の者であったとも言う。やはり何か裏があったとも思えてくる。もちろん当時は頼政は平清盛と繋がっていて、以仁王と兵を挙げることなど予想されていない。しかし既にこの時頼政には何か含みがあったのではないだろうか。

 しかし伊豆が頼政の知行国であり仲綱が国司、そして現地には仲綱の次男である有綱が在住しているとはいえ、実際は地元の豪族が強い。地盤を築いているのは地元武士団である。ここに北条氏が居たことが頼朝にとっては幸運であったということである。
 当時の伊豆の勢力分布はどうなっていたのか。伊豆においても北条は絶対的存在ではない。むしろ勢力としては小さい。伊豆の武士団の中でやはり勢力が大きいと考えられるのは伊東氏である。伊東氏は当時祐親が頭領で、頼朝を監視下においていた。
 そこで頼朝は、この伊東氏と北条氏両方にちょっかいを出すのである。祐親の娘である八重姫と、北条時政の娘である政子両方と契り、二人とも子供を儲けることになる。結果、伊東氏は平氏の目を恐れてその子千鶴丸を亡き者にする。北条時政は受け入れ、政子の婿として頼朝を庇護下におく。ここにも分かれ目がある。
時政はものすごい先物買いをしたことになる。このことによって後に鎌倉幕府執権となり、その後150年にわたる北条家繁栄を築く礎となるのだから。
 時政は頼朝が天下を取ることを見越した、千里眼を持った政治家だったのだろうか。歴史を見ればそうも思えてくる。ただし正史は北条氏の視点で描かれている。その北条史観においても、時政はビビッたらしい。隠蔽して政子を平(山木)兼隆の下に嫁にやろうとする。ここは政子の胆力を評価すべきであるかもしれないし、後付けの理屈だが子供が大姫であったこともある。男の子であればどう考えたか。また、時政が平頼盛(助命嘆願をした池禅尼の子)と関係が深かったという説もあるがよくわからない。とにかく時政は頼朝に乗ったのである。
 ifを考えるとすれば、伊東氏も北条氏になりえた可能性があったということだろう。不運は千鶴丸の誕生が大姫より早かった。刻々と情勢は変わる。頼朝が通じたのがもう少し遅ければ、平氏に陰りが見えた時代であればこれはどう祐親が判断したかはわからなかっただろう。伊東祐親は後に頼朝に捕らえられ、命は取り留めたものの自害して果てた。思うのは、伊東氏も藤原南家の流れであるということである。歴史の糸は縺れていく。

 さて、最初に戻るが、もしも頼朝の配流先が伊豆でなかったとしたら。
 前述したように、佐渡、隠岐ではまず可能性は針の穴のように小さくなってしまう。鎌倉幕府は関東武士団の労働組合であり、その上に乗っかったことが頼朝の成功であるのだから。同様に土佐では、弟の希義が駄目だったように歴史の闇に消えていただろう。
 では、残る常陸、安房であればどうだったか。ここであれば可能性がある。
 常陸であればそれは佐竹氏の地盤である。佐竹氏はかなり有力だ。佐竹氏は源氏であるが(それも河内源氏で新羅三郎の流れ)、当時は平氏側にいた。頼朝の挙兵には敵対し、後に攻撃されて敗れている。しかし歴史の流れを考えれば、絶対にありえなかったとは言えまい。佐竹氏が、自分が関東を宰領出来るチャンスであると思い定めれば頼朝を旗頭にしないとも限らない。関東武士団の機運は高まっていたのであり、安達盛長も頼朝の乳母であり支援者であった比企尼の指示で常陸の頼朝の下へ通っていただろう。同じく比企尼の娘婿である平賀義信も河越重頼も同様である。比企能員も然り。三浦義澄や千葉胤頼といった有力武士団の長もはせ参じるだろう。ただし北条時政がどういう立場に出るかは微妙である。北条も関東武士団の流れに乗ったとしても、それはワン・オブ・ゼムでありいくら政治力を発揮しても執権までは到達しまい。
 安房ではどうか。ここでは安西氏が庇護者になった可能性がある。頼朝は、石橋山の合戦で敗走し海に逃れて房総にたどり着いた。そこに安西氏が居て頼朝を迎え入れた。安西氏と三浦氏は姻戚関係にある。三浦氏は最初から旗幟を鮮明にしており頼朝派だった。安房にいたもうひとつの勢力、長狭氏は頼朝を攻撃し、三浦氏に掃討されている。安西氏を北条氏、長狭氏を伊東氏に置き換えることも考えられるのである。
 さらに房総半島には平広常が居る。上総権介広常。房総では圧倒的な勢力である。この平広常と言えば、祖に平将門の叔父である村岡五郎良文を擁し、第二の将門とも言われ房総に乱を起こした平忠常も祖に数えられる。広常は義朝の郎党としても活躍した。広常は頼朝の旗揚げに二万騎をもって参じた。この広常の勢力が無ければ、頼朝の旗揚げは成功したかどうか。それまでの頼朝の勢力は三浦、千葉を合わせた三千騎であったとも言われ、広常の圧倒的勢力によって鎌倉幕府が成立したとも言える。
 広常は旗揚げに遅参して頼朝になじられたとも言われる。しかしもともと頼朝が房総から出たとすれば、そんなことはなかったはずだ。広常は洞ヶ峠をやったのだとも言われるが、そもそも関東独立を目指した将門や忠常の流れである。人一倍視線は確かだっただろう。当初から広常の後ろ盾で頼朝が世に出ていたら、鎌倉幕府の勢力図はガラリと変わってしまう。北条氏は相当の政治力は所持していたとしても、とても出てはこれまい。北条氏は、頼朝の姻戚であり初期勢力であったという値打ちがあって政治力を発揮出来たのだから。

 北条氏は、鎌倉幕府成立の後、トップに立たんとして他氏を滅ぼしにかかる。上総広常の謀殺は頼朝の時代だが、後に比企氏を筆頭に、梶原氏、畠山氏、和田氏、と次々に滅ぼし、ついには三浦氏や安達氏までも倒して独裁政権を築く。もちろん時政、政子、義時の卓越した能力があったのは間違いないが、それも全て頼朝が伊豆に配流されたことから始まったのだ。

もしも平治の乱で源義朝が勝っていたら

2007年02月03日 | 歴史「if」
 前回の続き。

 藤原信西という人物についてまだ考えている。彼はいったい何を目指したのか。
 信西の頭脳明晰さ、博学さという点においては、いくつも逸話がある。鳥羽上皇がふと日本故事について尋ねた際、信西はスラスラとアンチョコなしで即答したという。さすがの悪左府藤原頼長もこのときにはシャッポを脱いだらしい。歴史に通暁し、「本朝世紀」を始め史書を編纂した。また法律の専門家で「法曹類林」も著している。さらに中国語がペラペラで宋人と通訳なしで話したという。後に聞かれて「自分に遣唐使の命が下ったときの用意だ」と答えたという。菅原道真が献策して遣唐使が廃止されてから既に百年以上経っているのに。
 このことから分かることは、信西は中国に憧れ、律令に精通していたということ。そしておそらくは奈良時代に中国に倣って制定された律令制が骨抜きとされ、摂政関白といった令外の官が幅を利かせていることを憂いていたのではないかと想像できる。
 そう考えると、信西の目指す方向性ははっきりしていたと思われる。それは天皇家親政による中央集権国家の復活であろう。
 保元の乱後、信西は死刑を復活させ、源為義らを斬刑に処した。これは一種の遵法精神である。祟りを恐れ死刑に値する罪であっても必ず罪一等を減じて遠流等に止めていた今までのあり方に釘を刺したのであろう。
 また、それだけではないところに信西の策謀家たるところが見える。この死刑復活でダメージを負ったのは間違いなく源氏である。源氏は一族郎党斬られ、残ったのは義朝とその息子だけである。平氏にはさほどのダメージはない。これはやはり源氏の力を削がんとしたからだろう。平氏は正盛、忠盛以来院政と深く結びついていた。対して源氏は義家以来摂関家との繋がりが深い。この斬刑は摂関家の力を削ぐことにも繋がるのである。乱の恩賞も、当然先頭に立った義朝に厚くしてしかるべきところを、清盛に播磨守、大宰大弐を与え義朝には左馬頭である。明らかに差をつけている。
 摂関家にもさらにメスを入れる。藤原摂関家は、関白が忠通、氏の長者が頼長という分裂状態であったが、頼長敗死により氏の長者を忠通とする命を出した。これは、一見摂関家の建て直しにも見えるが、氏の長者というのは公的官職ではなく藤原家の私的なものである。その人事に介入という前例を作ったのだ。
 そして、信西は荘園整理令を出す。荘園とは私領であり、藤原摂関家の財力の源である。これも本来の律令制を逸脱した存在である。律令制では公地公民のはずであるから。
 この荘園整理令は今までにも幾度も出されてきた。しかしその度に骨抜きとなる。為政者が摂関家であり最大の荘園保有者であったからには当然だ。信西は記録荘園券契所を設置し、後三条天皇の時に成果を上げた延久の荘園整理令の再来を目指した。これらは摂関家の抑圧、そして寺社勢力をも対象としている。
 その他朝廷の諸儀式の再興、また大内裏の復興など矢継ぎ早に政策を進めていく。内裏復興では、信西は建築技術までも指導し短期間で完成させてしまう。このあたり理系の頭も持っていたのだろう。藤原仲麻呂を彷彿とさせる部分である。だがやっていることは、後の後醍醐天皇に近い。

 こうして天皇親政の政策を着々と進めていく。官僚としてはかなり優秀な人物だろう。理想とする政治体型に邁進する様子は、ある意味石田三成を連想させる。しかし三成が武断派の恨みをかったのと同様、信西も敵を多く作ることとなってしまう。
 最初の挫折は、後白河が保元の乱より三年経って、勝手にさっさと守仁親王に譲位してしまったことである。何でだ? 確かに後白河即位当初は「繋ぎ」であるとされていた。有能である守仁即位のために繋ぎで天皇になったと。しかしそう路線を引いた鳥羽院はもういない。鳥羽、崇徳が居なくなりせっかく権力が天皇親政によって一元化したのに、これで即位した守仁(二条天皇)と二元体制となってしまう。信西を快く思わない勢力は二条に付く。せっかく信西が天皇親政(王政復古)、中央集権の国家体制を目指していたのに。
 後白河は面倒だったのだろうか。今様で遊びたかったのかもしれない。信西は後白河を暗主と罵っている。気持ちはよくわかる。
 さらに、院政勢力内でも分裂が起きる。藤原信頼の存在である。
 信頼は後白河に近侍し寵愛を得ていたが、政治家としての能力には疑問符がついた人物だったとされる。だが後白河により順調に出世し、ついに右大臣、右大将の任官を望んだ。後白河も乗り気であったが信西がこれを差し止めた。能力主義の信西らしいが、これにより信頼は信西に深い恨みを抱くこととなる。
 さらに武家勢力である。信西によって勢力を削がれる形となった源義朝は、それでも信西に近づこうと縁組を試みるが、信西によってはねつけられる。その後まもなく信西は清盛と縁組をしたため、義朝は信西に対し怨恨を持つようになる。武士というものの存在を掌握しきれなかったところに、信西の弱さがあったのかもしれない。

 年号が替わり平治、ついに信頼と義朝は手を組みクーデターを起こすこととなる。
 二条天皇派の連携も成し得た信頼と義朝は、信西の一種近衛であった清盛が一族を引き連れ熊野参詣へ出発したのを見計らい、後白河院と二条天皇を拘束して院の御所である三条殿を焼き払い、お手盛りで信頼は右大臣右大将、義朝は播磨守を任じ朝廷を占拠した。こうしてクーデターは成功したが、清盛は熊野に無傷で居る。この戦力が京へ折り返せば必戦である。
 その頃鎌倉より参上した義朝の長男である悪源太義平は、「直ぐに大阪に出陣して清盛を待ち伏せ、まだ武装していない白装束であるはずの清盛一行を殲滅すべきだ」と奏上する。
 しかし、信頼は「大阪まで行くのは疲れるぞ」と訳のわからないことを言い、清盛は京都に入ってから成敗すればいい、と義平の献策を退けたのである。
 歴史は繰り返す。これは三年前の保元の乱で源為義(及び為朝)の献策を退けて滅亡した藤原頼長と同じことである。結局源氏は公家にずっと煮え湯を飲まされているのである。
 ここでもしも、義平の進言を受け入れ平氏追討の進軍をしていたならば。
 清盛一行は熊野参詣の途中である。これは真実かどうかわからないが、御所占拠の報を受けても、清盛はまだ熊野へ参っていないことに未練を持ち、「熊野参詣を先に済ませるか」などとのんびりしたことを言っていたとも言う。それを長男重盛が一喝し、急ぎ京への道をたどったと言う。ここにもifがある。この時清盛ら平氏一行がのんびりしていたならば。そして義平の軍勢がやってきたならば。
 清盛一行は平治物語によれば、ある程度の武装の用意はあったと言う。しかし完全ではなかった。清盛は一計を案じ、四国に渡って軍勢を整えてから京へ押し出そうとも考えたと言う。しかしそれも重盛が反対して、急ぎ京へと向かう算段になったとも言われる。
 平氏に重盛が居てよかったなあ。ともかく平氏は急ぎ引き返す。そしてやすやすと六波羅へ入ってしまうのである。

 もしも大阪で義平が待ち伏せをしていたら。平氏一行はある程度の武装は整え、紀伊で戦力を増強したとしても、少なくとも清盛はそう簡単に京都へは入れまい。清盛を京都に入れないことが重要なのである。清盛がのんびりして熊野参詣を先に済ませたり、また四国へ渡って戦力を整えたりしていたら。京都に入るのがぐっと遅くなるのである。その間に、後白河、二条を手中にしている信頼・義朝は、平氏追討の院宣や綸旨を出させることも可能であったはず。そうなれば平氏は朝敵となる。
 こうなってしまえば、流れが出来てしまうのである。平氏滅亡の時期が早まったかもしれない。そこまでは難しくても、この後の平氏の隆盛に待ったがかかった状態になるだろう。ここから先は無限に考えられる。信頼は器量がなく義朝は視野が広くなかったので、義朝が清盛のように太政大臣にまで上り詰めるとは思えないが。しかし平氏と源氏が逆の立場に立ち、「源氏でなければ人ではない」という世の中がやってきて、それに不満を抱く武士が重盛を中心に巻き返し「福原幕府」「安芸幕府」を開くというところまで想像しようと思えば…難しいか。そもそも将軍職を開拓したのは頼朝だしねぇ。ただ歴史は変わっていたことは間違いないだろう。

 実際は、六波羅に入った清盛一行は、抵抗しないと見せかけて油断させ、一気に反撃に出る。信頼側の人間に工作し、後白河、二条を脱出させる。そして即座に信頼・義朝追討の宣旨を出させるのである。
 もうこれで勝負はついたと言ってもいい。有名な義平の奮戦はあるものの、朝敵となった源氏には裏切りも出て、結局平氏方の勝利に終わるのである。信頼は斬首、義朝も騙し討ちにあい非業の死を遂げる。こうして、平氏隆盛の時代がやってくるのである。

 さて、信西はどうしていたか。
 話は遡るが、信西は信頼と義朝の軍勢が攻め入る直前に逃げているのである。平治物語では天変を見てこのことを予見したことになっているが、情報網をある程度持っていたのかもしれない。
 そのまま逃げ延びることは可能だったかもしれないと思っている。しかし京都の情勢を知り、もはやこれまでと観念してしまった。自らが目指した王政復古、中央集権国家の道は水泡に帰した、と。義朝が平氏を討ってしまえばそれで終わりだ。そう予測しただろう。まさか「大阪まで行くのは疲れる」などと信頼が言ったなどとはさすがに明晰な信西は想像出来なかったのではないか。
 信西は出家らしく「入定」という方法をとる。土中に自ら埋まり、空気穴だけを造り、断食して即身仏(ミイラ)になるということである。僧らしく衆生救済を目的とした死に方を選んだ。潔いとも思える。平治物語によれば、「忠臣君に代わり奉る」と、後白河の身のために自らを滅ぼす道を選んだと記されている。
 信西が気の毒なのは、これがまだ息のあるうちに見つかり掘り返されてしまったことである。もう瀕死の状態であったかもしれないが、まだ虫の息があった。そして首を斬られて絶命。その首は引き回され獄門に処されたという。絵巻物にその時の信西の首を写したものが存する。

 後白河は、天皇親政時代は政治はほぼ信西に任せきりであったらしい。
 信西の政治は、虚飾を排せばとても奸臣とは思えない。一本筋が通っている。成り上がりで出世だけを望んだとも言われるが、理想を追い続けた人物であったようにも思う。しかし人の気持ちは判らなかったようで、同時代に居たら僕もとても信西を好きにはなれなかっただろう。冷徹すぎたキライがある。そこいらへんも三成を思い出す。
 その信西の政治を後白河はずっと見ていた。政治というもののやり方を失敗例も含めて学んだに違いない。その強者の間の立ち回り方までも、信西の失敗から学んだことだろう。暗愚と言われ今様にうつつを抜かしていた後白河は、いつのまにか大政治家となっていく。人を操り、戦わせ栄枯盛衰を何かの影に隠れて見ている。源義仲も平宗盛も源義経も後白河に翻弄されて滅びていく。頼朝をして「日本一の大天狗」と言わしめた、稀代のタヌキ政治家となった後白河。しかし後白河は権謀術策だけに頼り、結局武士の時代を成立させてしまう。後白河に保身はあってもポリシーが感じられない。後白河が目指したものは何だったのだろうか。天皇親政、中国型の中央集権の律令政治を目指した信西が見れば、いったいどう評価するだろうか。



もしも保元の乱で上皇方が勝っていたら

2007年01月30日 | 歴史「if」
 平安も末期、摂関政治は陰りを見せ、院政による「天皇父方の政治」の時代になっていた。これは、藤原氏と外戚関係を直接持たない、つまり摂関家がおじいちゃんでない後三条天皇の出現を契機として、その後継の白河天皇によって始まる。ちょっとした血脈の途切れがこういう事態を生むことに、藤原氏の権力基盤の脆さを思う。結局藤原氏は権力は手中にしても、権威は持てなかったのか。

 さて、藤原通憲。入道して信西。この人物が気になっている。
 彼は摂関家の出ではない。傍流である。
 藤原氏は、祖である藤原不比等の息子のうち、房前より始まる北家が主流となっている。あの藤原仲麻呂の凋落により南家が没落し、またその後権力を握った式家は薬子の乱で力を失った。そして残った北家が、天皇家と巧みに姻戚関係を結び摂関の地位を占めてきた。藤原道長の時代に栄耀栄華は頂点を極めたとも言える。
 信西は北家ではない。あの仲麻呂を生んだ南家の末裔である。彼は博覧強記、そして切れ者であったが、南家は政治の主流からはじき出されて久しい。なので信西は学問によって身を立てようとした。鳥羽天皇に仕え、「本朝世紀」などの史書の編纂も手がけた。鳥羽天皇の第四皇子である雅仁親王の乳母の紀伊局と結婚したことから、人脈的にも鳥羽天皇の信頼を得ていったと考えられる。しかし、それ以上の出世は家柄から言って望めない。政治に関わることも難しいポジションである。頼みの雅仁親王は暗愚と言われ今様(流行歌謡)ばかりやっている。
 ところが、不思議な時代がやってくる。摂関家の弱体化もそうだが、天皇家のお家騒動によって雅仁親王に即位のチャンスがまわってくるのである。

 何故こうなったかを簡潔に述べるのは難しい。事は白河上皇にまで遡るからである。
 白河天皇は「院政の祖」である。端的に言えば自分の息子とその系譜に天皇位を継がせたいため、皇太弟が居たにも関わらず8歳の自分の息子を即位させ、上皇となり自らがその後見についた。これが院政の始まりである。幼帝を後見する役割であった摂政の位はこれで力を失った。8歳の堀河天皇が後に成人してもそのまま政治をとり続け、堀河が先に逝き孫の鳥羽天皇の代に至っても政権を手放さず、恐るべきことに曾孫の代の崇徳天皇まで43年間その地位に居座った。77歳で崩御。
 さて、この曾孫の崇徳天皇が曰くつきなのである。崇徳天皇は、鳥羽天皇と待賢門院璋子との間の第一皇子とされている。ところが、崇徳は白河院主導により5歳で即位したのだが、父である鳥羽からは疎んじられた。これは真実であるかどうかは不明だが、待賢門院は鳥羽と結婚する前に既に老白河院の「お手つき」であったと言われる。つまり崇徳は白河院の子供だという話。白河の孫である鳥羽から見れば、公的には子供でありその実、叔父であるというのだ。ややこしい。
 なので鳥羽は白河崩御の後、自分が院政を引き継ぐにあたって、寵愛していた美福門院との間に生まれた近衛に譲位を強要し崇徳を退位させる。崇徳は上皇となるが、もちろん鳥羽が健在であり政権はない。
 ところが、近衛が早世してしまうのである。崇徳は自分の再度の登板、或いは長男の重仁親王の即位を期待した。しかし美福門院は「近衛の早世は崇徳の呪詛だ」と鳥羽院に訴え、崇徳系外し工作をする。ここで雅仁親王が浮かび上がるのである。
 雅仁親王は鳥羽院と待賢門院の子であり、崇徳と同母だが、雅仁は間違いなく自分の血を引いている。鳥羽も「叔父子よりはマシ」という感覚だっただろう。
 暗愚と言われた雅仁親王だが、その子の守仁親王が優秀であると言われ、雅仁親王は守仁立太子を見据えて、中継ぎを前提として即位した。これがあの後白河天皇である。

 後白河即位によってついに信西が浮かび上がる。この即位にもかなり信西は暗躍したと言われる。信西は少納言ながら後白河を後見し「影の宰相」と呼ばれた。
 この状況に、排斥された崇徳側は憤懣やるかたない。一触即発の状況である。
 これに藤原摂関家の内紛が加わる。関白は藤原忠通であるが、忠通も父忠実と折り合いが悪く、忠実は忠通の弟で有能と言われた頼長を寵愛し、ついに忠通は「氏の長者」職を頼長に無理やり譲らされることになる。無論忠通と頼長の対立は深まっていった。
 この忠通が鳥羽院及び後白河、頼長が崇徳に付くのである。摂関家も真っ二つである。対立を深める中、武力として後白河側は平清盛、源義朝を登用する。極まった崇徳側は義朝の父為義や清盛の叔父である平忠正らを呼ぶ。もはやギリギリのところまで来た。

 鳥羽院がそういう緊張の中ついに亡くなり、箍が外れた。一気に武力による決着へと流れる。これが保元の乱である。
 さてこの対決、平清盛と源義朝という両家の精鋭を擁した後白河側が戦力的にはかなり優勢であったと言われる。普通に戦えば後白河側の勝ちである。
 ということで、崇徳側の源為義は献策する。
一、宇治へ退き、宇治橋を落として防戦する。
一、近江へ退き、甲賀に立て籠もる(この間に坂東武者を呼ぶ。或いは間に合わなければ関東へ退く。足柄山を切り塞いで戦う)。
一、夜討をかけて奇襲作戦に出る。
 「保元物語」では夜討を為義の息子、あの鎮西八郎為朝が献策したことになっている。それはどちらでもいいだろう。考えればこれしかなかったようにも思える。しかし、藤原頼長はこの献策を退けてしまう。
 「悪左府」と呼ばれ切れ者であったとされる頼長もやはり公家であったのか。
 頼長には勝算があったとされる。翌日には興福寺他の僧兵の援軍が得られるとの読みがあった。しかし「先手必勝」の理もある。もしもこの時の源氏の献策を頼長が受け入れていれば、状況は変わった可能性がある。為義は状況がよくわかっていた。兵力の不足は自分の地盤に引きずり込むことで解消する。関東は八幡太郎義家以来の源氏の地盤である。或いは先手必勝の夜討。いずれにせよ策を弄さねば勝てない状況であった。しかしそれを見送ってしまう。必勝の策をプライドから見送った例として、関ヶ原の島津の進言、また大阪夏の陣も思い出される。千載一遇のチャンスであったかもしれないのに。

 後白河側には信西がいた。
 源義朝は軍議の折、やはり為義と同様に夜討を献策する。僧兵が来る前に、という腹だろう。しかし藤原忠通はその決心が出来なかったという。そこで信西が忠通に迫り、「戦は武士に任せるのが得策」と言い切り義朝の案を採用したという。信西には状況が見えていたのだろう。
そして義朝は未明に崇徳側に攻め寄る。それみたことかと為朝が地団駄を踏むが時既に遅い。
 しかし、崇徳側は奮戦するのである。特に為朝の弓の威力は凄まじかったらしい。一気に勝負がつくかと思われたのだが後白河側は苦戦するのである。もしも崇徳側が夜討を仕掛けていたら勝敗は本当に分からなかったかもしれないなあ。
義朝はここでさらに奏上する。「火を放ってもよいか」と。
 信西は即座にOKを出す。これが忠通であったら、風下にある法勝寺などを思いやって首を振らなかったかもしれない。この火攻めにより、崇徳が籠もっていた白河殿は陥落する。

 崇徳は捕えられ讃岐に流される。後に怨霊となるがそれはまた後の話。頼長は流れ矢に当たり討ち死に。源為義や平忠正ら主だった将は捕えられ、斬首の刑に処せられる。
 あの薬子の乱の藤原仲成以来絶えていた死刑がここに復活する。これは信西の処断であると言われる。厳しい。そうして後白河天皇の政治を磐石なものにしようと信西は以後動くのである。

 もしも崇徳上皇側が有利に戦いを進めていたらどうなっただろうか。夜討はある程度成功した可能性がある。少なくとも翌日まで優勢なままで持ちこたえれば、もしかして日和見をしていた可能性のある僧兵が動き出すかもしれない。そうなれば本当に分からない。後白河天皇側が仮に負けていたとして、崇徳側には信西がいないので結局清盛、義朝は死罪とはならないだろうが、清盛の勢力は相当に削がれる結果になった可能性がある。
 為義の献策どおり退いて戦っていればこれは長期化する可能性がある。或いは関東に引きずり込めば、関東での内乱が勃発し源氏双方(為義側と義朝側)の潰し合いになったかもしれず、地盤が西である平氏の関与の仕方によっては、清盛は漁夫の利を狙う策に出る可能性もある。それはわからない。歴史が変わることになるのは確かだ。一足先に乱世、ということもあり得る。
 天皇の位は崇徳の息子である重仁親王が次ぎ、崇徳院政、後白河は引退させられる。この後白河が居なくなるだけで相当歴史は変わるのである。後の源平合戦の影の指揮者となるわけであるから。

 保元の乱の後、ほどなくして平治の乱が起こる。信西のその後の政治姿勢についても書きたいが、それはまた次回

もしも…番外編 奈良時代とは何か

2006年10月26日 | 歴史「if」
 以下に書くことはSFだと思っていただいた方がいいかもしれない。

 SFと言えば僕は光瀬龍の小説が好きなのだが、その代表作に「百億の昼と千億の夜」がある。この、宇宙全体を舞台として過去から未来の数百億年にわたる複雑な小説のストーリーを書くことは僕の手に余るので書けないが、テーマのひとつは、世界は何故滅びの道を歩むことになるのか、ということである。
 宗教はそう予言する。キリスト教は、今の世界は滅びて「最後の審判」で神による王国が始まるとされる。仏教では末世が来る。56億7千万年後に滅び、その時弥勒菩薩が如来となって現れると説く。
 それに抵抗する主人公の一人、阿修羅王は、ひとつの真理を知る。
 「神は、造物主は、生命誕生のそのときから滅びへの因子を既に埋め込んでいるのだ」と。
 生命の発展の各段階に、遠い未来における滅亡への必然性を加えておく。超越者はそうやって、滅ぶことを前提に生命を生み出したのだ。

 さて、SF小説の話を書いていてもしょうがないのだが、この小説で、阿修羅王が初めて登場するシーンが秀逸なのだ。こういうシーンにめぐり合えると「ああ小説を読んでよかったな」と本当に思える。
 「濃藍色の天空から、壮大なドームの一部が崩れ落ちていた。その無数にひびわれた美しい模様を透して、はるかにまた、単彩の極光(オーロラ)がかがやいた。」
 廃墟だった。そして、地平線の向こうでは光球が乱れ飛び、閃光が立ちつぎつぎと新しい火光が天に這い上がる。その惨憺たる戦場の夜景を借景として、悉達多太子(釈尊)は見る。
はためく極光を背景に一人の少女が立っていた。
「阿修羅王か」
少女は濃い小麦色の肌に、やや紫色をおびた褐色の髪を、頭のいただきに束ね、小さな髪飾りでほつれ毛をおさえていた。
「そうだ」
 凛然として廃墟に立つ阿修羅王の美しき姿には鳥肌が立つが、この阿修羅王の描写のモデルはもちろん興福寺の「阿修羅像」であろう。この眉をひそめ哀しい決意を胸に秘めているかのような凛とした表情は、怒髪憤怒の荒々しい天の姿ではない。どうしても少女を連想する。伝承では、この当時16才の阿倍内親王(後の孝謙天皇)の姿を借りたものだとも言われている。
 これは伝承であって、本当に阿倍内親王がモデルかどうかはわからない。ただ、こういう伝承が残るということに耳を傾けたい。何故こんなに思いつめた表情の阿修羅が阿倍内親王であると言われ続けてきたのか。
 それは、阿倍内親王が「滅びへの巨大な意志」にたったひとりで抵抗していた歴史というものが表情に投影されていると考えられてきたからではないか。

 奈良時代。それは結局、壬申の乱で勝利して覇権を握った天武天皇の血筋をただ絶やすだけに費やされた時代だった。
 前時代の天智王朝。隣国である百済を常に意識し、唐と新羅に滅ぼされゆく国を守ろうと派兵し破れ、その移民を抱え込んで政権を運営した。その親百済王朝とも言える政権を、天武は豪族連合の力で倒し、国際情勢を意識しながら皇親政治を行い統べる国家建設を目指したはずだった。
 だが、そのバックボーンとなるべき強力な豪族たちは、律令制で力を失っていく。中央集権制をとればとるほど、自分たちの力が削がれていくという矛盾。そのコンダクターは天智朝の遺臣、藤原不比等だった。
 それでも天武には10人の皇子が居た。彼らが力を合わせればまだまだ天武朝は安泰のはずだった。しかし、その朝廷の後継者を鵜野皇后直系だけに絞る、という大枠をはめられてしまう。その大枠をはめたのも不比等。全てが「破滅へのプログラム」に沿っていた。
 早期に粛清された大津皇子以外にも、高市皇子をはじめ天武の息子たちがいた。そしてその子たちは子孫を増やしていく。しかし彼らを朝廷の後継にはしない。後継となったのは、鵜野皇后の子孫だけだ。その鵜野皇后にはひとりの男子しか居ない。何故か。産児制限、とまで考えるのは早計だろうが、身体の弱い草壁皇子だけしか残さない。そして草壁は早く逝く。
 その草壁の実子で後継者の文武天皇。彼も早世する。たったひとりの首皇子を残して。そしてその首皇子も虚弱だったとも言われる。だが文武の他の皇子はステージにも上げさせてもらえない。
 ここで再び文武の母(元明)、姉(元正)が即位し、病弱とも言われた首皇子だけを正当な後継者として成長を待ち、首皇子は聖武天皇として即位となる。この細々と続く天武・持統の直系。他の天武の皇子達の系譜は膨張していくと言うのに、この直系のひ弱さはどうだ。
 文武の夫人、藤原宮子。聖武の后、藤原光明子。彼女らは不比等の娘だが、この娘らの役割は、天皇後継者を生み外戚としての藤原氏の力を強める役割を担っていたと言われる。確かにそうだろう。
 しかし、本当の目的はそこにはなかったのではないか。
 実はもうひとつ課せられた目的があった。その隠れた目的とは「直系の子孫を多く残さない」ということにあったのではないだろうか。
 こういうことはタブーとして書いてはいけないことなのかもしれないが、宮子も光明子も、男子は一人づつしか生んでいない。もしかしたら、男子は一人しか生むことを許されなかったのではないのか。宮子と光明子の父である不比等が、そのように計画し仕向けたとすれば。
 宮子は首皇子(聖武)を生んですぐ、一種の隔離状態に置かれてしまう。心的病いであったと言われるが本当だろうか。これには、やはり思惑があったのではないだろうか。
 もちろん、すべて想像である。
 しかし、この特別に男子後継者が少ない天武・持統の系譜を見ると、どうしてもそのような見方をしてしまう。そして、その選ばれた男子後継者である草壁・文武・聖武はみな身体が弱い。

 そしてついに聖武・光明子の代で男子継承者が途切れる。光明子が生んだ基皇子は早世した。この早世にもついうがった見方をしてしまうのだがそれは措くとしよう。他に男子継承有資格者はもちろん、聖武光明子の間にはいない。
 ここで光明子の娘である阿倍内親王が立太子する。内親王に、もはや結婚は許されていない。ここで確実にこの天武・持統の系譜は途絶えることになった。
 藤原氏の鬼っ子である仲麻呂は、ここで他の天武系の皇子たちの粛清に乗り出す。
 正統とされた天武・持統の系譜が途絶えることが確実となったこのとき、皇位継承の可能性がある天武系皇子たちを次々に消していく。後顧の憂いを絶ちきるかのごとく。
 聖武の傍系の皇子である安積皇子を皮切りに、高市・長屋系、新田部系を追いやり、最後に自爆して舎人系を抹消する。阿倍内親王(孝謙天皇)はどう感じていたのだろうか。破滅へのプログラムが完成していくのを見つめながら。

 孝謙天皇は、天武の血の系譜を限りなく意識していた人であったように思えてしょうがない。それは、この「破滅のプログラム」に抵抗した父である聖武天皇の姿を見ていたからだろう。聖武は新田部系の道祖王を後継にしようとした。しかしそのことも自らの死後、仲麻呂によって潰されている。
 しかし孝謙天皇が辛いのは、結局、父聖武を意識するがあまり「天武の血=聖武の血」と考えてしまったことにある。その考えは結局「破滅のプログラム」にとらわれてしまうことになるのに。
 仲麻呂が大炊王を立てた時に、その気持ちがさらに強まったのかもしれない。皇統を取られてしまう様な感覚に陥ったのではないか(想像だが)。これが父の言うとおりそのまま道祖王が後継であれば、「聖武の遺志を継ぐ」ということでさほど皇統がかわる事に抵抗感がなかったのかもしれない。しかし仲麻呂傀儡の大炊王では「のっとられた」感覚が強くなる。ここで孝謙は「天武の血」そして「聖武の血」を以前より強く意識するようになったのではないか、と思っている。もう父の血以外の人に継いで欲しくない。道祖王も大炊王も同じ天武傍系にはかわりはないのだが、大炊王=仲麻呂であったために、天武傍系はみんな敵に見えてしまったのではないか。それは結局破滅のプログラムの道なのだけれども。
 彼女は仲麻呂派の皇子たちを徹底弾圧の後、重祚し称徳天皇となった。そして、前天皇の淡路廃帝(淳仁)を死に追いやり、そして唯一皇位継承の可能性が薄くながら残っていた和気王(舎人皇子直系の長男で恵美押勝の乱に一人だけ連座しなかった)を謀反の疑いで排してしまう。さらに、もう可能性はほとんど無かったと思われる塩焼王(恵美押勝の乱で斬殺)の遺児氷上志計志麻呂をも呪詛の疑いで排する。
 これで本当に、誰もいなくなった。結果自らの首を絞めてしまったとも言える。
 称徳天皇は道鏡に禅譲するつもりだったとされる。しかしこのウルトラC的発想も、藤原氏とその意を受けたかもしれない和気清麻呂によって潰された。たった一人で天武の系譜を受け継いだ称徳天皇は、ついに最後の天皇として孤独に53歳で崩御する。滅亡の因子を埋め込まれた天武朝は終わった。「滅びのプログラム」に敗れたのだ。

 この称徳天皇の死にも暗殺説が残る。それは、実にいいタイミングであったからだ。これ以上称徳に長生きされては困ったからである。
 根回しを十分にしていた藤原不比等プログラムを継ぐ式家藤原百川は、ここでついに天智系の白壁王を担ぎ出す。天智系復活である。
 この白壁王は、よくぞ生き残ったとも思われる。天智の孫だが、ここまで酒に溺れ凡庸を貫いてきた。つまり世を欺いてきたのだろう。しかしもう62歳。ギリギリの年齢であった。称徳がこのタイミングで崩御してくれないと、これ以上高齢になると皇位は難しい。しかし白壁王の子の世代だと四世孫となりかなり薄いと判断されてしまう。
 白壁王は即位し、光仁天皇となる。しかしこの即位には天武系への配慮もなされていた。白壁王は井上内親王(聖武の娘)との間に他戸王をもうけていた。女系ではあるがこの唯一残った聖武の系譜である他戸王を皇太子とすることが即位の条件であったとも思われる。
 しかし、即位してしまえば流れは変えられる。また呪詛の疑いで井上皇后と他戸皇太子は廃されてしまう。後にさらに疑いを掛けられ幽閉そして変死。とことんまで天武系を排除していく。そして山部親王の立太子。山部の母は高野新笠(百済系渡来人)である。皇統を完全に百済天智系に戻したのだ。藤原氏の執念とも言える。

 山部王は即位し桓武天皇となる。そして天武朝の痕跡を一切消すように、遣新羅使の廃止、そして平城京からの遷都を敢行する。そうして「破滅のプログラム」が完遂され奈良時代が終わるのだ。
 藤原氏も大きな犠牲をはらった。次々に天武系皇子を粛清した仲麻呂の南家は滅び、無理やり天智系に皇統を戻した式家も後に没落する。藤原四兄弟のうち、生き残ったのは陰謀の表に立たなかった北家だけ。しかしこの北家は摂関政治を生み、道長を頂点とした栄華を極めた。また武家の世にも生き続け、歴史の節目節目に重要な役割を果たしてきた。例えば鎌倉期の九条兼実。桃山期の近衛前久。幕末の二条斉敬。三条実美や岩倉(堀河)具視もこの系譜である。そして明治以降も西園寺公望らの総理大臣を生んだ。藤原氏の栄華は、見方によっては現在も続いているとも言える。

 天武系最後の天皇である阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の心中はいかばかりであっただろうか。彼女の時代はまさに修羅の時代だった。巨大な力に押し潰されそうになりつつも懸命に生きたこの女帝に、阿修羅像の凛然とした表情、愁いを帯びた瞳が投影されるのもまたよく理解できることなのである。


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2006年10月23日 | 歴史「if」
 藤原仲麻呂は父の死を見ていたはずだ。
 仲麻呂の父である武智麻呂は、長屋王を死に至らしめたその祟りで死んだ。今の科学万能の世の中であれば「そんな祟りなんて迷信、あれは天然痘の流行」と切って捨てられるだろうが、当時はそうではない。人々は怖れ慄いたはずだ。皇族を手にかけるとその先に滅びが待つ。そのように信じられていた。
 にもかかわらず、仲麻呂は天武系の皇子を次々に粛清していく。これは怖くなかったのだろうか。そんなことはあるまい。しかし仲麻呂は何かに憑かれたかのように皇子を消していく。その先には自らの滅びがやってくると言うのに。
 彼にどんな使命感があったのだろうか。自らを賭してまで天武系皇統を消去しようとするその使命感とは。権勢欲だけでは計り知れない「巨大な意志」というものが背後にあるように思えてしょうがない。

 仲麻呂が台頭する時代は、父の代である藤原四兄弟が長屋王の祟りで全て絶え、藤原氏の力が低迷している時。壬申の乱に功績があった栗隈王の孫である橘諸兄が政権を握っていた。藤原氏は、ときの聖武天皇の皇后である藤原光明子によってかろうじて命脈を保っていた。
 諸兄は吉備真備や玄ら反藤原勢力を多く登用し、これに反発した藤原広嗣は乱を起こすが鎮圧される。そういう藤原氏低迷の切り札として光明子が引き上げたとも言われる。
 仲麻呂は、参議であった時代に安積皇子を死に至らしめた可能性がある。安積皇子とは聖武唯一の皇子だ。尤も光明子の子ではない。光明子の子である基皇子は早世し、夫人県犬養広刀自が生んだ安積皇子は当然有力皇位継承者(というか男子は彼しか居ない)である。この皇子が、難波行幸の途中脚病により恭仁京に引き返し、2日後薨去した。脚病でたった二日で。なんとも不自然だが傍に仲麻呂が居た。
 当時、光明子の娘、阿部内親王が立太子していた。しかし唯一の男性である安積皇子は皇位を継げる立場で、橘諸兄の切り札であったろう。しかし消された(可能性がある)。
 かつて同様のことがあった。聖武天皇(首皇子)には異母弟広成、広世皇子が居た。しかしこれを排除するのに皇籍剥奪、臣籍降下ということにしてライバルを排除している。まだ穏便な方策である。しかし、仲麻呂は(仲麻呂がやった証拠はないが)消すという手段をとる。臣籍降下程度ではいつ担ぎ上げられるかわからないので非情の手段をとっている。そして、これが仲麻呂の粛清劇の第一幕ではなかったか。

 聖武天皇の譲位により阿倍内親王が即位(孝謙天皇)、仲麻呂は光明子に引き上げられ権勢を振るうようになる。諸兄は失脚。
 聖武が崩御すると、遺言により道祖王(新田部親王の子)が立太子する。だが道祖王は不行跡があるとしてすぐに廃され、仲麻呂が推す大炊王(舎人親王の子)が立太子される。大炊王は仲麻呂の傀儡である。
 これに反発して諸兄の息子、奈良麻呂が仲麻呂を排すべく乱を起こそうとするが露見して失敗。連座して、道祖王、黄文王(長屋王の子)は獄死、安宿王(長屋王の子)は配流。有力皇族をことごとく潰していく。仲麻呂は祟りが怖くなかったのだろうか。

 ここで、仲麻呂の行動に疑問が生じるのである。
 前回、僕は持統、葛野王による天武系皇統の「先細りプログラム」について書いた(→前記事)。天武・持統直系だけで皇位継承していくという大枠をはめ、最終的に後継者が絶える結果にもっていく、という計画である。不比等による策謀であると推測している。その計画は、この時点でほぼ完遂しようとしていた。本流である聖武天皇は亡くなり、その兄弟は臣籍降下。そして聖武に男子継承者が居ないのである。基皇子は亡くなり安積皇子は消された。娘の阿部内親王が皇位を継ぎ、跡継ぎは望めない。
 他の天武系皇族は、もう既に二世の時代ではない。三世、四世孫の時代である。天武は皇子を多く残し、それら二世も子沢山である場合が多い。草壁皇子系統だけが例外なのである。しかし多い三世孫らは、位階は高くても官位は貰えていない。高い位階が災いして役職に就けないとも言える。徐々に臣籍降下も始まっている。
 ここで大炊王を推戴すれば、また天武系皇族が力を盛り返すのではないか。それは不比等のプログラムに反する行動ではないのか、という疑問である。
 仲麻呂は権力に溺れたのだろうか。
 しかしこの仲麻呂の行動が、最終的に天武系に壊滅的打撃を与えることになる。これは結果論だ。だが仲麻呂が大炊王を立てなければ、まだ天武の血筋は生き延びた可能性があったのだ。

 この時点でまだ皇位継承の力を持っていたのは高市皇子・長屋王系、舎人皇子系、新田部皇子系である。このうち高市系は黄文王、安宿王を排除した。新田部系は道祖王を排除。そして舎人系から大炊王を立てたが、彼は舎人皇子の七男なのである。もう舎人系は四世世代に入っていた。
 この残った有力皇子たち。これらを壊滅させるのは、自らが起こした反乱「恵美押勝の乱」によってである。
 大炊王が即位、淳仁天皇となる。仲麻呂は太保(当時仲麻呂は官職を唐風にしていた。これは右大臣相当)に任ぜられ、恵美押勝の名を賜る。ここで仲麻呂は藤原氏から恵美氏となる。
 これは仲麻呂の驕りのあらわれのようにも見えるが、僕には「もう私は藤原じゃないですよ。従ってこれからやる事は恵美氏がやることで藤原に係累は及びませんよ」という意思表示にも見える。うがち過ぎだろうか。
 仲麻呂は太師(太政大臣)となるが、ここで後ろ盾である光明子が亡くなる。そして前天皇である孝謙は、弓削道鏡を重用し始める。仲麻呂との対立構造が生じる。同時に孝謙が権力を強め、仲麻呂は凋落していくこととなる。

 仲麻呂は孝謙天皇の政道の過失を訴え、挙兵を計画するが、それは孝謙へ筒抜けであった。孝謙は淳仁天皇の所持する鈴印(軍動員に必要)を確保する。しかし同時期、仲麻呂も鈴印を欲していた。そしてついに争奪戦となるが、これは孝謙に軍配が上がった。孝謙の将は坂上苅田麻呂(田村麻呂の父)。仲麻呂の三男訓儒麻呂は敗れ、戦死する。
 仲麻呂は愕然としただろう。孝謙が軍事力で対抗するとは思っていなかったのではないか。ここに至って太政大臣仲麻呂は、逆臣となる。
 仲麻呂は地盤のある近江へと脱出する。彼は近江守を兼任していた。しかし一足早く孝謙軍は近江へ急行し瀬田の橋を焼き落とし、行く手を阻む。孝謙側は、日本の諸葛孔明たる吉備真備が作戦を担当していた。以後全て仲麻呂の動きの先手を打つことになる。
 仲麻呂は琵琶湖東岸(近江国府がある)へ渡れず、西岸を辿って越前へと向かう。仲麻呂の頭には近江、美濃の勢力結集があっただろうがそれは潰えた。越前は息子の辛加智が国守である。もうそこしか力が残っていない。
 しかし孝謙軍は、先に越前にも手を打っていた。辛加智は既に斬られ、愛発の関は封鎖されている。最早打つ手がなくなった仲麻呂軍は、連れて来ていた塩焼王(新田部皇子の子。道祖王の兄)を立てて、これを天皇とした。そして仲麻呂が持ってきた太政官符をもって諸国に勅書を下した。これは一種の南北朝状態である。しかし頼りの近江、美濃、越前の勢力結集は出来ない。寺院勢力も道鏡によって既に手を打たれていた。
 越前への道を阻まれた仲麻呂軍は南下し、瀬田を落とし北上した佐伯三野らの軍勢と対峙することになる。
 しかし仲麻呂の次男真光率いる軍は屈強で、孝謙軍は押され、あわや突破かと思われた。ここで孝謙軍を打ち破れば、或いは情勢が変わった可能性がある。仲麻呂軍も天皇を推戴し、情報の乱れから塩焼王による勅書も全て偽だと決め付けられない地方もあったのだ。勝った方が官軍になった可能性もあった。この仲麻呂軍の抵抗は予想できなかった範疇だろう。
 しかしここで、平城から藤原蔵下麻呂を将とする官軍が到着し、形勢は逆転する。ついに仲麻呂軍は敗れ、仲麻呂、塩焼王以下主だった者は全て斬られた。

 仲麻呂は破れかぶれだったのだろうか。僕はそうではなかったと思っている。
 仲麻呂にはしっかりとした勝算があった。鈴印奪取の段階で歯車が狂ったが、新羅出兵の準備に伴って兵力も増強し、三関にも手を打っていた。これは吉備真備の方を称えるべきだろう。真備の打つ手がいずれも迅速かつ的確すぎた。それでも、蔵下麻呂の到着の時期によればまだどうなったかはわからない。
 では、仲麻呂は何を目指したのか。自らが皇位に就くことか。いやそうではあるまい。淳仁天皇を連れ出せなかった段階でスペアとも言える塩焼王を帯同している。あくまで「政道を正す」目的であったと思われる。しかし。

 結果論から歴史を解釈してはいけないと思うし、そもそも「if」にも繋がらないが、結果としてこの乱は舎人皇子系、新田部皇子系の系譜を壊滅させる。舎人系は乱に連座して船王、池田王らは配流。その他第四世代まで全て処断された。残ったのは和気王だけである。新田部系は塩焼王が斬られ、わずかに不破内親王(聖武天皇の娘)の子である志計志麻呂、川継だけが残った。しかし、これらの生き残りにも、この後厳しい運命が待つのである。
 舎人系は淳仁天皇を出し、このまま孝謙天皇が崩御するのを待てば確実に皇位は転がり込んで来ただろう。仲麻呂が失脚しても放置すればよかったのである。なのに勝負に出て自らの首を絞めてしまった。また舎人系は仲麻呂反逆に加担しているし、淳仁天皇のこともあり処断は免れないが、仲麻呂が連れ出したのは新田部系塩焼王である。何故か。たまたま近くに居た、とも言われるが、これによって新田部系をも葬ったのである。結局二つの皇統を潰し、これで天武系の皇位継承権利者はほぼ居なくなってしまった。

 結果論から言えば、仲麻呂は天武系断絶を完遂したのである。これは、不比等の定めた「先細りプログラム」に完全に合致している。仲麻呂がそう目論んでわざと舎人・新田部系を巻き込んで乱を起こした(自爆テロをした)と考えるのはあまりに空想的過ぎるが、結果的には有力者を排除し孝謙天皇の後継者を無くしたのだ。
 僕には、仲麻呂が不比等の巨大な意志に基づいた「天武系断絶計画」の鉄砲玉であったように見えてしょうがない。みんな不比等の手の中で踊っていたのか。

 残されたのは子供を生むことが許されない「巫女天皇」である孝謙。天智系復活までもう秒読みに入っていた。
 次回に続く。


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もしも長屋王の変がなかったら

2006年10月20日 | 歴史「if」
 前回に書いた高市天皇、長屋親王のことであるが、もしも本当に高市皇子が即位していたとすれば、その長男の長屋はピカイチの皇位継承候補であるはずである。
 正史によれば、天武天皇の後は皇后であった鵜野皇女が持統天皇となって継ぐ。この持統即位は、彼女の孫(天皇になれなかった草壁皇子の子)である軽皇子を将来皇位に就けるための「つなぎ」の意味合いが濃いとも思われる。なので当然次期皇太子には軽皇子でなければならない。
 しかし、高市皇子が亡くなった後に、皇太子決定の会議が皇親で開かれたことになっている。これは何故だろうか。
 考えるに、高市は譲位の際に条件付ではなかったのだろうか。持統天皇の圧力から譲位はしたものの、すんなりと軽皇子立太子には賛成しなかったのではないか。持統は高市より約10歳年長である。もしも持統が先に崩御すれば、まだ自分、或いは自分の系譜に皇位を持ってくることが可能かもしれない。なので軽皇子立太子は留保させていたのではないか。
 だが高市は持統より先に死ぬ。これには暗殺説もあるのだが、これによって重石が取れた状況になったのかもしれない。これですんなり軽皇子立太子と持統はいきたかったのであろうが、やはりこの無理な皇位継承には反発も多かったのだろう。当然高市の遺児長屋もいれば、高市の兄弟たちも脂の乗り切った時期である。正史にはこの会議は書かれていないが、「懐風藻」にはその会議の模様が記されている。
 それによると、高市の異母弟である弓削皇子が兄弟相続を主張した際に葛野王が弓削を一喝したと言われる。理由は「兄弟相続は争いのもとであり直系相続が正しい」と。
 考えてみればおかしな話ではある。当時の天皇は持統であるはずで、持統の兄弟相続を論議しているのではない。これはやはり高市を指している。それに、当の葛野王というのは、天智の孫、大友皇子(弘文天皇)の遺児である。本来ならば天皇直系のはずで、天智と天武の兄弟争いの末に自分は路線から外れてしまった人物。その彼が「兄弟相続はいけない」と言うのは巨大な皮肉にしか聞こえない(その皮肉に説得力があるのだが)。
 そして、何故この皇親会議の席に葛野王が居るのか。本来であれば参加資格など無いはずであるのに。

 しかしながら、葛野王が直系相続を主張し、軽皇子立太子としたのは、後に大きな意味を持ってくる。
 これはつまり、草壁→文武(軽皇子)→聖武と続く、天武と持統の直系にしか皇位は認めないという宣言でもある。今で言えばその系譜以外に「宮家」を認めないという立場になる。多くの皇子を残した天武天皇であるが、その中の一系統しか皇位に就けない。
 しかしひとつの血筋の直系だけで繋ぎ他の傍系を排除すると、子孫が絶える可能性が高まる。これはその危険性を内包した、天武系先細り宣言でもある。
 これを天智の直系孫が主導したというところに、巨大なプログラムの開始が読み取れるのではないか。これは天武朝滅亡への第一歩となる。そして、このプログラムを描いた人物の影が葛野王、そして持統天皇の背後に見えてくる。
 もちろんそれは藤原不比等であると僕は考えている。
 持統、葛野、そして不比等の上の世代は、もちろん最強タッグだった中大兄皇子と中臣鎌足。彼らはかつて蘇我氏を倒して権力を手中にした。しかしその権力構造は二人が亡くなった後に大海人皇子(天武)に奪われてしまう。不比等そして天智の遺児たちは、この天武朝を最終的に壊滅させるために、気の長い大枠をはめたのだ。これは、現在武力に訴えることの出来ない、天武朝に追いやられた百済系の巨大な意志を背景にしているとも僕には思えるのだが、それはひとまず措く。

 さて、この先細りプログラムの大枠を確定した段階で、陰謀(と書いていいのか迷うが)は次の段階へと進む。そのひとつは藤原氏による先細り系譜への自らの「血の混入」による権力掌握。そしてもうひとつは、他の天武傍系皇子の粛清である。
 その最初の事例は「大津皇子事件」であったかもしれないのだが、プログラム確定後にまず手がつけられるのは「長屋王の変」だった。

 軽皇子立太子のあとの歴史は比較的穏便に進む。不比等はその権力を徐々に増大させた。その功績は、大宝律令の制定である。これにより日本という国家が成立したとも言える。朝廷による支配・統治が完全になったとも言えるからだ。この律令制は結局は明治まで続く。細々とではあるが幕府の時代も生き延びた。驚異的な生命力と言える。江戸時代でさえ越前守とか前中納言とかが幅を利かせた。現代でも、ついこの間まで大蔵省とかがあったなあ。ありゃこの時期に作られた律令制である。
 また、影の部分では日本書紀の制定も大きい。これにより「万系一世」の神聖にして侵されることのない天皇制度を作り上げた。この万系一世の神勅は先細りプログラムの正当化から始まったものだと思うが、この裏づけとして編まれた日本書紀の呪縛は天皇制が残る現在も生きていると言える。僕はよく「不比等の魔法」と表現するが、これほど千何百年も日本人を呪縛しているこの不比等が編み上げた政治体制と宗教性はもはや魔法としか呼べない。日本史上最大の政治家ではなかったか。
 さて、この大政治家はこうして自らが作った律令制の中で権力を握っていくが、その側面で天武朝に藤の蔓の如く巻きつき始める。軽皇子(文武天皇)に自らの娘(宮子)を入内させ後の聖武天皇の外戚となる。そしてその聖武にはまた自らの娘光明子を送り込む。徹底している。
 こうして着々と地位を築いた不比等であったが、正二位・右大臣として人臣を極めて63歳で死ぬ。
 その後に、あの高市皇子(天皇?)の長男である長屋王が頭角をあらわしてくる。

 長屋王は天皇の血筋(高市天皇はともかく天武の長男の子ではある)であり母は御名部皇女(天智の娘であり持統の異母妹)である。血統がいい。それにもしも高市天皇が存したとすればそれは折り紙つきの存在となる。
 不比等も長屋王を警戒し、娘(長蛾子)と娶わせていた。懐柔しようとしていたのだろう。不比等は政治的に動き、強硬手段はさほど用いていない。しかし不比等には四人の息子が居たが、不比等が没したときは、息子たちはまだ若かった。したがい、すんなり権力の移譲とはいかず、その間隙をぬって長屋王が台頭することになった。
 長屋王は有能であったのだろうと思う。これがボンクラであれば放置してもいいのだろうが、そうでなかったことが不幸とも言える。さらに、妃は草壁の娘吉備内親王で、文武、元正天皇と兄弟である。瞬く間に長屋は大納言から右大臣、さらに左大臣となった。長屋内閣である。
 天皇はこの時、元正。あの苦労して立太子し即位させた文武(軽皇子)は早世し、その文武の遺児である首皇子(後の聖武天皇)は幼く、持統の時と同じような状況になっている。文武崩御の後、その母である阿閉皇女が元明天皇として起ち、それでもまだ首皇子が若いので娘の氷高皇女(元正天皇)に譲位した。この不自然な皇位継承状況から、長屋王待望論も出てくる。長屋は妹(吉備内親王)の夫であり従兄弟にあたる。
 これは不比等亡き後の藤原氏には忌々しきことであっただろう。また、長屋王は親新羅的な態度も見せていて、コントロールの効かない存在になっていたかとも思える。
 長屋王が昇進するのはしょうがない。しかし、権勢を振るったとも言われるのは惜しい。本来はどうであったかはわからないが、藤原氏に敵対するような動きをしたのは事実のようだ。聖武天皇は即位した際、母である藤原宮子夫人に大夫人の尊号を贈ろうとしたのだが、長屋の反対で勅を撤回させられている。藤原氏牽制の意味もあるだろうが、長屋の言う事は正論なのである。このことで藤原四兄弟との対立が明らかになったとも言われる。
 藤原氏としては、光明子を皇后にしたい。しかし長屋健在であればそれは通らないことであろう。皇族でない臣が立后するなどあり得ない。
 ついに藤原四兄弟は粛清に乗り出す。「長屋は密かに左道を学んで国家を傾けようとしている」との密告を受けて邸を軍勢で囲む。おそらく讒言であったのだろう。そして糾弾の結果長屋王は自殺に追い込まれる。

 長屋王は皇位を狙っていたのか。それはわからない。しかし対抗勢力の旗頭に十分なり得る人物であった。もう少し情勢をよく見ていたらこんなことにはならなかったのかもしれない。しかし長屋王は藤原氏によって危険人物と見なされてしまった。
 こういう事件がおこらずもう少し穏便に歴史が進行していたら、あるいはこの後に続く「血の粛清」は起こらなかったかもしれない。歴史はどんどん危うい方向に動き、「血塗られた奈良時代」となってしまうのである。
 この後、この長屋王の変を起こした首謀者である藤原四兄弟があいついで死去するという異常事態が発生する。これは天然痘であるといわれているが、当時の人間は「祟り」であると認識した。
 これ以降、藤原氏も弱体化する。天武の子孫はまだまだ居る。祟り怖さにもう皇族には手が出せなくなるかと思えばそうではなかった。弱体化した藤原氏は、ここに至って畏れを知らない鬼っ子を生み出す。それは、藤原仲麻呂である。
 この仲麻呂の台頭には、長屋の祟りで死んだ四兄弟による藤原弱体化の切り札としての意味がある。これにより粛清の嵐が吹き荒れるのであるが、それは次回




もしも高市皇子が即位していたら

2006年10月17日 | 歴史「if」
 長屋王そして高市皇子についてずっと書きたいと思っていたのだが書けずにいた。
 何故ならば、この時代に「if」が成立しないからだ。それほど藤原不比等が描いた歴史図会というものが完璧で、なかなか「もしもあのときこうしていたら…」という歴史のパラレルワールドが思いつかない。
 しかしながら、書きたいことがたまっているので書いてしまうことにする。それは一片の「木簡」についてである。

 「長屋親王宮鮑大贄十編」

 長屋王の邸宅とされる場所から発掘された木簡にはこのように記されている。
 長屋王は高市皇子(天武天皇第一皇子)の長男である。天武天皇薨去の後は皇后であった鵜野皇女が持統天皇となり、その後は持統の直系の孫である文武が即位しているので、高市皇子は天皇になっていない。従って律令によって長屋は「王」であるのだが、発掘された木簡には「親王」ということになっている。
 親王とは、基本的には天皇の子供で男子を指す言葉である。これはおかしい。
 これについては諸説ある。これについてはjasminteaさんの歴史探訪の記事に詳しい。
 かいつまんで簡単に言うと、
①木簡は宅配便の送り状みたいなもので、「親王」と記されていても史実かどうか信用できない。
②特別扱いで「親王」の称号を得ただけ。「親王待遇」という意味。
③高市皇子は実は皇太子であって、長屋王は皇孫男子であり「親王宣下」を受けていた。
④高市皇子は実は即位していた。なので高市天皇の皇子の長屋は「親王」である。
 これらのことが考えられる。

 正史にはもちろん高市天皇も長屋親王も登場しない。なので考えられるのは①か②であるのだが、これは正史が絶対に正しいという前提である。ところがこの正史というやつがどうも怪しい。どう怪しいかは書くと長くなるので省略するが、為政者は自分の都合のいいように歴史書を編む、ということを前提として考えなければいけないということに止めておく。

 そもそも高市皇子とはどういう人物か。
 高市皇子は天武朝発足の第一功労者と言っていい。天武が即位出来たのはもちろん「壬申の乱」に勝利したからであるが、そのとき天武軍を全軍指揮し近江軍を打ち破った将軍である。しかも天武の第一皇子。普通に考えれば天武朝の後継者としては№1であり、当然次期天皇のはずだが、何故か№3の位置に留め置かれる。
 この説明として、高市皇子の出自から普通は説明がなされる。高市皇子の母は胸形君徳善の娘の尼子娘である。胸形(宗像)氏は九州、特に北九州の海域を支配した大豪族であるが、天智天皇の娘である大田皇女(大津皇子の母)、鵜野皇女(草壁皇子の母)に比べて劣るため、草壁№1、大津№2とされた。大田皇女は鵜野の姉だが早逝したため鵜野皇女の力が強く、三男である草壁皇子が後継とされたという。
 素人が考えれば不自然だ。天智の娘で天武の妻はまだ大江皇女や新田部皇女がおり、その子に長皇子や弓削皇子、舎人皇子もいる。年齢のこともあってこれらの皇子の序列が下がるのもわかるが、非常に恣意的であるとも言える。この序列は、鵜野皇女(後の持統)にとって実に都合がいいように仕上がっている。
 草壁皇子が立太子したのは天武の在命中のこととされている。そこまで鵜野皇女の力は強かったのだろうか。彼女の立場は、天武と敵対していた天智の娘であり、異母弟は壬申の乱の敵方大将であった大友皇子。独裁者的権勢を振るったとされる天武が、そこまで天智天皇の血に気を遣うだろうか。倒したとはいえ天智朝の残党はあちこちに居る。天智の血を引く皇子たちをそこまで厚遇することは、逆に危険ではなかったのだろうか。
 これについてはもちろんしっかりとした説明もなされている。が、どうも腑に落ちない部分もある。
 天智の血を引いていることがまず皇継の条件であったとも言われる。これを疑う人はあまり居ないが、壬申の乱の原因が何であったかを考えればどうもおかしい。これは大海人皇子が私利私欲で皇位に就きたくて起こした内乱ではない、と言われている。白村江の戦いによる負担の増大。そして大敗による防衛のための城郭その他建築の負担。近江遷都に対する負担と不満。大化の改新政策による公地公民で私有地を献上させられた不満。地方豪族の軽視。そういったものが鬱積して「錦の御旗」をもって天武は立ち上がったとされる。
 ということは単純に図式化すれば、天武が善で天智(近江朝)が悪だ。こうであれば、その天智の娘であるところの鵜野皇女などは、いくら天武に従って近江朝を倒したとしても、一段引き下がらなければいけない立場ではないのか。
 天武は天智の弟であるので、結局これは身内の戦いであって鵜野皇女が引け目を感ずる部分はないと考えられるかもしれないが、これはかなり大きな内乱だった。地方豪族を巻き込んだ天武としては、天智の血を濃く残すことは「反天智」の立場として豪族の協力を得た手前まずいのではなかったのだろうか。
 こんな場合は普通の考えでいけば、天智の孫にあたる草壁皇子や大津皇子を推すよりも、地方豪族でありおそらく壬申の乱にも功績があった宗像氏の血を引く高市皇子を後継とした方が一新イメージが強いように思うのだが。
 出自の点でいけば前天皇の弘文(大友皇子)などは母が采女であるのに即位できたとも言われる(少なくとも後継者だったことは間違いない)。ましてや宗像氏は、天武に強い助力をしたと考えられる海人氏(壬申の乱に最大級の活躍をした尾張氏と同族とも。大海人皇子の海人である)との深い繋がりも推定されている。
 また、天武と天智は血縁関係がなかった、とも言われ簒奪王朝である天武は天智の血が正当化には必要だった、とも言われるが(僕も兄弟ではなかったと思っているが)、そうであればそれは正史を疑ってかからなければならない立場である。であれば「日本書紀」「続日本紀」の記述よりも、一次史料である木簡の方を優先して論じなければならない。
 その木簡には「長屋親王」と書かれていたのだ。

 「長屋親王」である以上、やはり高市皇子は即位していたのではないか。そして、正史はそれを覆い隠したのではないか。僕は(あくまで僕は、だが)十分考えられる事だと思う。その他の理由で親王宣下されたのであれば正史はそう書くだろう。「高市皇太子」も考えられなくはないが、それでも正史は隠し事をしていることになる。
 しかし木簡では史料としては弱いかなあ。陵墓発掘、墓誌発見でもないと正史はくつがえらないであろうから。

 さて、高市皇子が即位したとすればそれはいつか。
 壬申の乱の大活躍以来、高市皇子は書紀から姿が乏しくなる。天武五年に「癸卯 高市皇子以下小錦以上太夫等賜衣、褲、褶、腰帶、腳帶及机、杖 唯小僅三階不賜机」との文言が見え、これだけで見ると臣下としてトップの位置にいるようにも見える。ただ、草壁、大津皇子は別枠だったとも考えられるため皇族トップであったかどうかはわからない。
 天武八年に有名な「吉野の盟約」がある。鵜野皇后以下、草壁、大津、高市、河島、忍壁、芝基皇子が「お互い助け合うように」と誓い合ったとされるが、ここでは序列は三番目になっている。なお、この皇子6人の中に河島、芝基皇子が何故入っているのか。彼らは天智の息子である。解せない。
 天武は686年に崩御する。その後正史では、草壁皇子が5年前から皇太子であるはずにもかかわらず、3年ほど天皇位は空位だったとされている。
 これについても様々な説明はなされているが、実に不自然である。とっとと即位すればいいのに。天武崩御の翌月に大津皇子が謀反の罪で処刑されている。草壁最大のライバルであり鵜野皇后がやったこととされるが、草壁が即位していればそんなに直ぐに排除の動きをせずともいいのに。
 やはりこの時、草壁はまだ立太子していなかったのではないか。
 正史解釈では、この大津排除の風当たりも強く草壁は皇太子のままなかなか即位できなかったことになる。草壁が皇太子であるのなら、先に即位してしまえばいいのだ。なのにそうせず時間が経過し、そして草壁は結局、即位することなく早世してしまう。
 正史では草壁の死を受けて、鵜野皇后は草壁の子(つまり孫。軽皇子)に皇位継承させる方向に動き、しかしまだ幼いので自らが即位し(690年)持統天皇となったとされる。
 高市皇子はどうしていたのか。正史では、この持統即位に伴って太政大臣に任命されて、696年に亡くなるまで臣下トップとして持統政権を支えたということである。

 鵜野皇后(持統天皇)の力のバックボーンはどこにあるのか。皇女が力を持つのはその実家の影響力であることが多いが、父は天智であるからもう滅びている。が、母方の実家は蘇我氏である。蘇我は蝦夷・入鹿事件の後もまだまだ力を持っていたとは思われるが、それでも当時の天武より力が上であったとは思えない。力が発揮できたのはやはり天武死後ではあるまいか。
 となれば、天武在世中に立太子したのは草壁皇子ではなく、天武の信任厚い高市皇子だったのではないか。そして、天武崩御とともに即位していたのではなかったのか。
 もちろんこれは想像である。妄想と言ってもいいかもしれない。この時点で即位していたのであれば在位10年にも及ぶ。いかに古代とは言え、在位10年の天皇の事跡が全く消えているということはちょっと考えにくいからだ。もう少し短く、正史で言う高市が太政大臣になったとされる690年に即位、という考え方もある。では何故、高市皇太子であったなら天武崩御と共に即位出来なかったかがよくわからない。鵜野皇后が力を蓄える以前の方が即位しやすかったのではとも考えられるからである。
 むしろ、690年に高市は譲位したのではないか。
 天武崩御の686年、高市皇子は皇位に就く(正史では鵜野皇后称制時代とされる)。しかしその後には草壁皇子という規定路線が出来ていた。まず鵜野皇后は大津皇子を粛清した。力を蓄える鵜野皇后は高市にも譲位を迫った可能性がある。強い後ろ盾を持たない高市は草壁に皇位継承をして太上天皇(上皇)となることにした。しかし草壁はその時点で早世してしまう。
 どうしても高市長期政権を望まなかった鵜野皇后は、それでも草壁の遺子で自らの孫である軽皇子路線にしたかった為に草壁のかわりに即位。この時点で高市は太上天皇となった。実は太政大臣ではなく太上天皇ではなかったのか。

 この皇位継承は相当不自然である。義理ではあるが息子から母への皇位継承とは。しかし、すぐその後の時代にも同例のことはある。文武から元明への継承。そして、元正天皇を挟んで孫(聖武)への継承である。この奈良時代の皇位継承の不自然さの先鞭であったのかもしれない。
 しかしながら、高市は没したわけでもない。この場合は持統が皇位を奪い取ったことになる。相当にえげつないこともあったのではないか。なので正史には書き残せなかったのではないかと思っている。正史には高市皇子が亡くなったとき「庚戌、後皇子尊薨」と記されている。後皇子尊とは何か。それは、前に天皇であった高市がその後には一皇子に戻ってしまったことを指すのではないのか。「前天皇後皇子尊」である。こんな解釈をしている人は居ないと思うけれども。
 正史は、この後藤原不比等が日本書紀を編み、高市即位を包み隠して、アマテラス神話によって女帝から皇孫への継承を正当化した。高市が即位したという足跡は全く無い。わずかに「木簡」がその可能性を語るのみである。
 話が長くなったが、この話の「if」は結局成立しない。高市皇子が即位していようがしていまいが、歴史には全く変化がないからである。

 書ききれなかったことは次回

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もしも浅井長政が信長との同盟を堅持していたら

2006年09月18日 | 歴史「if」
 信長はもちろんすんなりと天下統一への道を歩んだのではない。桶狭間で今川義元を破って後、苦闘の歴史が続く。周りは敵だらけ。そしてこの時点での最大の敵は、美濃の斎藤だった。
 美濃を平定した斎藤道三は、信長の岳父だった。しかし、息子の(血縁はないとも言われる)斎藤義龍は道三を討ち、信長にとっては脅威の存在となる。ここいらへんを書き出すとキリがないので端折るが、道三の死により斎藤家との盟約を破棄した信長は美濃へ攻め込むこととなる。
 これも、「清洲同盟」があったればこそである。今川義元の死により、その傘下にあった徳川家康は、今川側から寝返り信長と同盟を結ぶ。これで後顧の憂いがなくなった信長は美濃平定に集中できたとも言える。
 信長にとって幸運であることに、義龍は程なく没する。そして息子の龍興が継ぐこととなる。しかし信長が美濃を手中にしたのは桶狭間から7年経った永禄10年だった。そして信長はついに天下を意識し始め、「天下布武」の印章を用いるようになる。

 さて、少し時間を遡って、浅井長政である。長政は北近江を領する戦国大名である。父久政は弱腰であり、南近江を領する六角家に半ば臣従していた。しかし15歳で元服し父久政を隠居させ家督を相続した長政は、六角氏から離反しこれを打ち破る。そして北近江を磐石にし、隣接する美濃の斎藤龍興と戦闘を繰り広げていた。
 この長政に注目したのが信長である。まだ斎藤との戦争に決着のついていない信長は、若いのに勇猛果敢で将来性のある長政と同盟を結ぶことにした。そして、信長の妹で絶世の美人とされるお市の方を輿入れさせる。
 これはよっぽど長政を買っていたのだろう。信長はめったに身内を政略結婚に使わない。使っても養女とかである。その信長にとってお市の方は切り札とも言える存在。これは、美濃攻略、そしてその後に控えていた上洛の安全だけを考慮してのことではないようにも僕には思える。15歳で父を隠居させ六角氏と縁を切りこれを退け、戦国大名に成り上がった長政に自分を見ていたのかもしれない。斉藤道三が娘の濃姫を信長に輿入れさせたのと同様に、長政を自分の同盟者として手を携える。東に家康、西に長政。そうすれば、天下への道が見えてくるように信長は確信したのだろうと思う。

 しかし、この政略は後に破綻することになる。
 信長は美濃を平定し、稲葉山城に入り城下を「岐阜」と改名しここを本拠地とする。同時期に伊勢にも出兵しこれを降す。そしてついに足利義昭を奉じて上洛する。背後には武田その他の脅威があるが家康が歯止めになる。心配は越前に居る朝倉氏であったが、北近江には同盟者である長政が居るため安心である。通り道である南近江には六角氏がまだ居たがこれは蹴散らす。そして信長はついに京で天下に号令することになるのである。美濃を平定してまだ一年。そのスピードに加速がついた。すぐに三好三人衆その他を駆逐して畿内平定。松永久秀も投降した。
 義昭を将軍職に就け、岐阜に引き上げる。ここまでは順風満帆である。
 さて一年後。伊勢の北畠氏も降伏し、三好三人衆の残党も平らげ、再び京に上った信長はついに、「天下静謐執行」という名目で統一に乗り出す。その第一弾は、越前の朝倉義景征伐である。
 このため信長は全国の(実際は周辺の)戦国大名に集合令を出す。もちろん建前は朝廷と幕府のため、ではあるが信長の戦略であることは見え見えだ。この命令に従わなければ敵となる、ということ。後の秀吉の「惣無事令」の原点を見て取れる。
 朝倉義景がこんな命令に従うはずもなく、信長は3万の軍を率いて越前征伐に乗り出すこととなる。
 これが成功していれば、信長は朝廷と幕府の名の下に「天下静謐令」をもって戦国大名を次々と平らげていったに違いない。ひとつ成功すれば次のステップが見える。戦力も増える。加速がつけば、戦わずして降伏する大名も増えるだろう。そして天下統一への道は早々に見えていたかもしれない。それは後の秀吉の「惣無事令」を見ればよくわかる。

 しかし、信長にここで思いもよらぬ出来事がおきる。信頼していた「義弟」の浅井長政の裏切りである。
 手始めに信長は敦賀を攻め、たった二日で天筒山城、金ヶ崎城を陥れ、木の芽峠を越えて朝倉を追い詰めようとした。しかしここで信長に「浅井裏切り」の一報が入る。
 信長はなかなか信じなかったと言う。よっぽどこの義弟を信頼していたのだろう。しかし事実は事実。信長は挟み撃ちの状況となった。
 この状況は圧倒的不利で、信長は討死していてもおかしくない状態だった。しかし、ここから信長は逃げに逃げる。北近江は浅井の本拠地であり封鎖されているため、若狭から朽木を通って脱兎の如く退陣した。ここにも多くの「if」があるが(松永久秀や朽木元綱のこと)、とにかく信長は生き延びた。京にたどり着いた時信長の周りには10騎ほどしか残っていなかったという。

 ここから信長の足踏みが始まる。再び信長は朝倉・浅井連合軍を攻めるが倒せず(姉川の戦い)、そうしているうちに造反勢力がどんどん結集し出す。呼応するように阿波から三好三人衆が(またか)、そして石山本願寺をはじめとする一向宗の決起が、そして比叡山延暦寺が朝倉・浅井と結び、ついに甲斐から武田信玄までもが動き出した。もぐら叩きのようにあっちを叩けばこっちが顔を出す。
 この「信長包囲網」の背後には足利義昭が居たという。年号で言うと「元亀」の三年間は、実に信長にとって疲れた年月だっただろう。比叡山を焼き討ちしたが一向一揆には苦しめられ、信玄には三方原で散々に打ち破られる。これで信玄が死んでいなかったらどうなったか。義昭主催の「包囲網」が成功した可能性もある。

 この浅井の裏切りに端を発する一連の動きは、信長の天下統一を完全に足止めした。
 それまで信長は順調だった。桶狭間で今川を倒した後、美濃平定には時間がかかったものの、それ以降は伊勢平定、六角氏を蹴散らし畿内平定。将軍義昭を奉じた信長という新興勢力は相当の早さでここまでやってきた。この勢いで越前も平定すれば、日本のかなりの部分が信長に靡いただろう。しかし、「天下静謐」のための最初の戦でつまづいたために信長はかなりの回り道を強いられることとなる。信長も敗れるのだ。このことは足利義昭にチャンスと思わせ、武田信玄までその気にさせた。
 結局信長の統一の道は、ひとつひとつ抵抗勢力を潰していくという方法しかなくなる。威光で信長に靡かせることは叶わなくなったからだ。苦しい元亀年間が過ぎ、年号は天正に代わってようやく天下統一も軌道に乗り出したが、最後まで戦に明け暮れた。そして天正10年、本能寺に斃れる。

 あの裏切りがなければ、すんなりと越前を平定していたら、もう少し天下統一事業は加速したのではないか。包囲網を形成する間もなく、武田、上杉、毛利も靡いていた可能性もある。少なくとも元亀年間の3年は完全な足踏みだ。あれがなければ、信長の統一は40代半ばで達成されていたかもしれない。少なくとも信長の青写真はそうだっただろう。そして唐入りも、信長の手で行われていたか。
 そうなれば、本能寺もあったかどうかは難しい。
 浅井長政は、おそらく信長の同盟者として徳川家康と並ぶ両輪となっていただろう。
 越前は朝倉滅亡後、長政に与えられていたかもしれない。そして家康が信玄の歯止めとなった如く、長政は謙信の歯止めとなる。そして、上杉謙信も信玄同様に早く死ぬ。これも、家康と同じ状況。つまり信長についていけば、後に相当の存在に成りえただろう。
 想像が羽ばたけば、天下の芽もあったかもしれない。
 信長の死後、紆余曲折を経て家康が最終的には天下人となった。家康と長政は同等とみて良いとすれば、可能性はある。長政は若かったのだ。歴史はどう転ぶかわからない。

 浅井長政は何故裏切ったのだろう。
 父久政は六角家との抗争で朝倉家には恩がある。なので義理立てした、というのがかつては定説だったが、しかし隠居させた父親の言うことを長政が聞くだろうか。また、長政本人はお市の方を娶ったことで既に朝倉とは一線を引いているともとれる。織田と朝倉の関係はとてもいいものではなかったからだ。近年は、裏で足利義昭が糸を引いていたという説もあるが、それもどうだろうか。義昭と信長は既に不仲ではあったが、まだ双方に利用価値を認めていた。勝ち馬に乗る義昭は、信長敗戦の後に包囲網を仕掛けたと思っている。また義昭が仮に長政を唆したとしても、長政が乗らなければ終わりである。いったい何があったのか。

 朝倉は最終的に信長に破れ滅亡。既に叡山は落され、信玄も没しており、長政は孤立無援となり小谷城に籠城した。このとき信長は降伏を勧め、秀吉も使者として説得にあたり、一命を助けるだけでなく領地換えで許そうとした場面もあったと言う。どこまで本当か知らないが、信長は長政を認めていて、惜しいと思ったのではないかというのが僕の想像である。
 しかし長政は首を縦に振らず、お市の方と3人の娘を投降させて自らは切腹して果てた。享年28歳とも29歳とも言われる。
 その後の浅井の血が数奇な運命を呼び、その娘は淀殿と秀頼、崇源院と家光とになって天下を分け、最終的に徳川将軍に血を残したのは有名な話。浅井の血は天下に深く絡んだのだ。