凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも足利直義が南朝に帰順していなかったら

2005年06月03日 | 歴史「if」
 前回、南北朝分裂の経緯について書いた。
 足利尊氏は、楠木正成、新田義貞、北畠顕家らを破り京都に幕府を開く。後醍醐は吉野に逃げ、後に崩御する。
 普通ならこれで、南北朝分裂状態は終わるはずである。戦力も弱体化し、檄を飛ばす恐怖の親玉後醍醐もいない。このまま推移すれば南朝は降伏し、北朝に吸収されてしまうことが考えられる。
 しかし、南北朝分裂は終わらない。なんとそれから50年以上も続くのである。いったい何故なのか。

 簡単に考えれば、圧倒的な戦力を誇るはずの足利幕府が押しつぶしてしまえばいいのだ。そして天皇から神器を奪い、配流して南朝を途絶えさせてしまえばそれで終わり。頼朝や信長ならすぐにそうしていただろう。
 しかし、尊氏はグズグズしてしまうのである。その原因はいくつか考えられるだろう。
 まず、南朝の戦力はかなりダウンしていたものの、まだまだ抵抗勢力としては侮りがたかったという点も確かにある。吉野は要害の地であり、簡単に殲滅は出来ない。
 そして、幕府の結束力も実に弱かったこともあげられる。これは、尊氏にやはり責任がある。尊氏は幕府を開くと、自分を絶対的権力者として君臨させることをしなかった。新しい政権の基礎作りの段階では、ある程度トップが恐怖政治をしくことも重用となる。頼朝や家康はそれをやって幕府の土台を築いた。だが尊氏は軍事指揮権は手中にしていたが、行政の大部分は弟の直義に任せてしまう。
 直義は聡明だがカリスマ性はなかったと言われる。行政官としては超一流だがトップに立つ器ではなかったのかもしれない。石田三成を想像してしまう。
 本来、親分尊氏が全面に出ないとおさまらない。結果、幕府の内部分裂がおきる。幕府の武力を担う高師直や佐々木導誉、土岐頼遠などと、直義派の官僚である上杉や畠山といった派閥の対立である。これでは南朝討伐まで出来ない。
 結果、南朝が放置されてしまうのである。これは後々えらいことになってしまうのだ。

 社会的背景がこれに輪をかける。この時代、武士社会は「対立」の時代だった。
 鎌倉時代の領地の「分割相続」が武家を零細化させ基盤を弱め、幕府崩壊に繋がった事はよく知られる。御家人は借金して幕府が徳政令、なんてことはよくありましたね。これではいかんと言う事で、武家は「惣領制」に移行していく。領地の分割相続を止め、嫡子の「単独相続」へと移行していったのだ。
 こうした変化は、過渡期には反発も呼ぶ。家督を継げなかった者は不満分子となり、南朝につく場合も多かった。そうして、徐々にあちこちで武士団の動乱が拡大した。足利幕府は安定しなかったのである。
 地方でも完全な統一はなされなかった。そもそも南朝があったおかげでその対抗手段として幕府を京都に置かなければならなかったことが弱点でもあったか。武士の本場はやはり関東。そこに幕府が置けなかったことが、関東武士の統制を充分にとれなかった原因となる。また奥州や九州も完全平定出来ない。九州は後に後醍醐の遺子、懐良親王の君臨を許してしまうのである。
 そうした中で、完全に南朝の息を吹き返させる出来事が起こる。それが「観応の擾乱」。

 これは、前述した足利直義と高一族の対立から始まる。幕府設立に武功があった高師直派と直義派。武断派と文治派と考えていいか。後の世で比すと清正・福島派と三成派みたいなものかもしれない。しかし、清正vs三成は秀吉の死後表沙汰になったことだが、尊氏はまだ現役の将軍なのである(尊氏しっかりしろよ)。
 まずこの勝負は軍隊を率いた師直のクーデターで直義が失脚し出家。直義派の上杉重能や畠山直宗は暗殺される。
 このあと直義はなんとかして盛り返そうとして、驚くべき行動に出る。

 それは、南朝への帰順(降伏)である。北朝による直義追討令に対抗してのことであり、直義はこれによって、錦の御旗を手に入れることになるのだが、これで、尊氏・師直(北朝)と直義(南朝)という新たな南北朝時代に突入してしまうことになる。
 完全に「死に体」だった南朝はこれで息を吹き返す。
 直義南朝は、天皇をバックに師直を朝敵とし、京都を占領し両派は全面戦争へ突入する。そして摂津の戦いで直義が勝ち、高一族を葬ってしまうのだ。尊氏は直義と和睦せざるを得ず、直義は幕政に返り咲く。
 しかし尊氏は、直義をそのままにしておくことは出来ず、義詮と共に直義討伐を始める。このとき、尊氏はまた信じられない行動に出るのだ。
 尊氏が今度は南朝へ帰順(降伏)するのである。
 直義は今度は錦の御旗を失い、落ち延びて鎌倉で死を迎えることとなる。

 この一連の騒動で、完全に南朝は復活し、以後40年にわたり第二次南北朝激突時代が続くことになってしまう。直義は死んだが、養子の直冬(実は尊氏の実子)が反抗を続け、日本は南朝、尊氏(幕府)、直冬の三つ巴の争いが続く。非常にややこしい状況となる。
 直義は聡明だが、長期的視野に欠けたのか。南朝を担げば確かにその場は凌げるし、自己正当性も唱えられる。ただこれは、パンドラの箱だ。おかげで以後40年も戦乱が続いてしまうのである。もし南朝を担がなければ、南朝はジリ貧だったであろうに。
 もっと困るのが尊氏である。さらに混乱を助長させた。そもそも足利幕府は北朝を担いでいるのだ。南朝に帰順すれば北朝はどうなる。やはり南朝の北畠親房は尊氏が直義追討で鎌倉へ行った際に北朝の光厳上皇以下を拘束してしまうのである。焦った義詮は神器も上皇もナシに傍系の皇子を後光厳天皇として擁立する。糸はさらに縺れる。
 こんな傀儡もいいところの天皇がどうして必要なのか。それが天皇制の摩訶不思議なところであるのだろうか。無理やり北朝を再興させた足利幕府はなんとか正当性を確保しようとする。おかげでまた南北朝時代が延びた。
 いったい天皇の正当性とは何だろうか。

 この南北朝騒動は、足利幕府に出た稀代のタヌキ政治家、足利義満によって終結する。義満は、簡単に言ってしまえば南朝にカラ手形を切って神器を北朝に渡させる。今までは南朝が正統でしたよ、北朝はニセですよ、しかしおさまらないから北朝に一度譲位してください、そのあとはまた両統迭立でいきましょう、悪いようにはしませんから、と言って譲位させ、二度と南朝に皇位を渡す事はなかった。
 尊氏も直義も、こうやってやればよかったのに。それが出来ないのが、天皇というものへの畏れなのか。神をも畏れぬ豪腕義満だから出来たのか。難しい問題である。


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11 コメント

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こんばんは♪ (jasmintea)
2005-06-04 00:17:04
先にお断りですが携帯から書いてます。凛太郎さんの文章を見ながら書けないので話がズレたり飛んでいたらすみませんm(_ _)m

私は直義をかってるのですが。高氏の弱いところを支えたのが直義だと思ってます。

(まぁ兄弟仲が悪くなるのは某親方も古今東西一緒??)

義満がうまくまとめられたのは時期的問題で三種の神器が放浪したり偽物を作ったりすることにお互い嫌気がさしてたんじゃないでしょうか?

潮時だった??

あれ?やっぱり始めの方忘れてるm(_ _)m携帯では不便ですね。

また明日参ります
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>jasminteaさん  (凛太郎)
2005-06-04 04:27:56
これは…申し訳ありません。m(_ _;)m

jasminteaさん直義贔屓でらっしゃいましたね。^^; 

怒ってらっしゃいます? m(_ _;)m



尊氏は確かに抜けているところが多くて…。直義がいなければ決して天下は取れませんでした。まあその人の良さが尊氏のいいところではあるのですが、直義ナシでは機能しなかったというのが正解です。ちょっと辛く書きすぎましたね。ヾ(_ _。)ハンセイ…



うーん、南北朝合一も時期的問題か。確かにそうだとは思います。しかし、嫌気がさしたくらいで引っ込みがつかないのが天皇、錦の御旗の恐ろしいところでありまして。義満という稀代の政治家がもし居なければ南北朝は100年でも続いていた可能性があると僕はおもっています。といいますか、足利幕府ではこの事態を収束できたのは義満か義教くらいしか居なかったのではないでしょうか。強引にやらないと無理、でしたでしょうね。一方を廃さないといけない、ということは「畏れ」という敵とも戦わなくてはいけませんし。天皇という存在は怖ろしいものだと思います。
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おはようございます (Mami)
2005-06-04 10:28:33
凛太郎さん、おはようございます。



歴史に「if」はタブーとされると、以前聞いたことがありますが、こちらに来ると、そんなことはもうどうでもよくなりますよね。



それにしても、兄弟とは、どうして不仲になってしまうのでしょうね。



で、記事とは関係がないのですが、教科書なのでおなじみの「源頼朝」の肖像画が、実は、この足利直義では?と、言われているらしいですよ。



あ、これってエントリしちゃおうかな?

よろしければ、フォローお願いしますね。
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おはようございます! (jasmintea)
2005-06-04 11:09:01
何だか昨日は散漫な文章ですみませんでした

はい!直義、好きですでもこの2人はどっちがどうじゃなくてお互い足りないところをうまく補っていましたね。

最近、南北朝時代に作られた三種の神器のニセモノ、ホンモノを読みました。なかなか面白かったです(ちなみに北条氏の叡知はほとんど政子と義時にスポットが当たってて期待はずれでした

で、義教は有能な政治家ですよね。何故歴史的にあまりスポットが当たらないのか不思議です。

確かにおっしゃる通り義満じゃなかったら続いている可能性もあったですね。



で、思いっきり横レスですみませんが(先に謝ってる!!)Mamiさんがコメントされてたの最近では信憑性が高くなってきたんですよね。

高氏とされてるのも家臣の1人ではなかったか?も出てきてるし。あと誰だったかの肖像も違う(実朝だったっけかな??忘れてしまいました)って。

研究が進んでくるといろいろ出てきて面白いですね。



ちなみにこの前読んだ本の中では龍馬と勝のおじさんの蜜月関係は短い期間だったのでは?って出てました。これも読んでるとウンウンってうなづける説でしたが、、真偽のほどは如何に????
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>Mamiさん  (凛太郎)
2005-06-04 13:38:40
こんにちは♪



歴史の「if」を何故考えることがタブーなのか僕には全く理解出来ません(汗)。アタマの固い学者先生は困りものです。しかし、それにつられて「ifはタブー」という風潮が浸透しているのは実に考えものだと思います。( -.-)=зフウー



頼朝の肖像画が足利直義のもの、というのはjasminteaさんのおっしゃるようにかなり信憑性が高いようですね。一緒に神護寺にある平重盛像が尊氏、藤原光能像が義詮、ということらしい。そうやって見ると、直義の方がカッコいいですね(笑)。

他にも尊氏の刀かついだ肖像画が高師直もしくは息子の高師詮、また武田信玄の肖像画が畠山義総、など近年研究が進んでいるようです。ぜひエントリしてください。(^-^)
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>jasminteaさん  (凛太郎)
2005-06-04 13:56:51
直義という人はおそらく真面目な人だったのでしょうね。そういう意味では、三成に擬すよりは江藤新平のような人だったのかもしれません。理解されずに消された孤高の人というイメージもあります。←フォロー(笑)

南朝に帰順したのは痛恨のミスですが。別にキライというわけではありませんよ。^^;

将門にも直義のような人物がついていたらなぁ…と夢想することはよくありました。

それにしても尊氏を「高氏」としか書かないjasminteaさんの姿勢には感じるものがあります(笑)。



僕は歴史上の人物で、シンパシーを感じる人は居ても(宗盛や泰衡や高時ね 笑)、特に誰かのファン、という視点ではあまり見ていません。みんな実際には会ったことのない人たちばかりですからね(笑)。その唯一の例外でリスペクトしているのが龍馬はんですが、龍馬はんと勝のおとっつぁんとは実際の接点は実に少なかったと思います。結局勝おとっつぁんの考えを具現化したのが龍馬はんなので、師匠と弟子、みたいに言われますが実際はさほどではなかったのか、とも。

勝おとっつぁんは龍馬の死後、いかにも自分の弟子だったかのように吹聴したので(とっつぁんは人の手柄を自分の影響としたいという自己顕示欲の強い人だったという噂 笑)、凄く密接な繋がりをみんな考えてしまうのでしょうね。あ、これはあくまで僕の意見ですよ(汗)。
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フォローありがとうございます(^_-) (jasmintea)
2005-06-04 14:36:35
江藤新平のよう!良いたとえですね\(^o^)/



今日自分のblogで歴史常識の本当?って感じで書いて見ました。(鎖国のことです。外交に詳しそうな凛太郎さんのお考えを教えて下さいね)そこではちゃんと「尊氏」って書きましたから!やっぱりりょうまは龍馬、尊氏は高氏、入鹿は鞍作!ってヘンに拘る偏屈者でございます



で、その龍馬と勝のおとっつあんのこと私が読んだ本も凛太郎さんと同じことが書かれていました。

さすが!凛太郎さん!!!やっぱり小説書けるじゃん!と、コメントを残したく何度も書き込んでいます。

すみませんm(_ _)mm(_ _)m
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歴史のヒーロー (NAO)
2005-06-04 16:56:37
歴史上の英雄というと、カリスマ性があって軍事的な才能があった人を思い浮かべがちですが、彼らは時代を動かした人で、時代を作ったのは、長期的な視野にたって政治を行った人なんですよね。もっと歴史上の政治家としての評価が正当に成されるようになると、今の政治家もかわってくるのかも☆
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>jasminteaさん (凛太郎)
2005-06-05 15:56:01
龍馬はんは竜馬、と書くと間違い。あれは司馬さんの小説の話。

と、ずっと思ってきましたが、もしかして漢字なんてどうでもいいのかしらん、という事例はいっぱいありますね。坂本だって、「阪本」とか「坂元」とか当時は書かれたりしている(笑)。

ただし、入鹿は鞍作林太郎、というのは賛成です(笑)。おっと、勝のおとっつぁんも麟太郎。((爆))



鎖国については…これからそちらに伺います(汗)
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>NAOさん (凛太郎)
2005-06-05 15:57:46
種をまく人、育てる人、収穫する人、みんな別なのですよね。

政治的能力と軍事能力が異なる才能であるということが如実に現われたのが尊氏と直義兄弟であったのかもしれません。

長期的視野に立つ、見通せるということは本当は一番難しいことなのでしょうね。僕なんか明日のこともわからない(笑)。
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