凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも坂本龍馬があの日風邪を引かなかったら Ⅰ

2005年11月15日 | 歴史「if」
 11月15日は坂本龍馬の誕生日であり命日。なのでちょっと龍馬はんについて考える。

 坂本龍馬を大好きな人は実に多いと思う。僕もその一人。
 そもそもこの「歴史if」というカテゴリも、もしも龍馬はんが暗殺されなかったら、ということが書きたいがために設けたカテゴリみたいなものだった。しかし好きなのでなかなか書けずにいた。今日こそは書く。

 「坂本竜馬は維新史の奇跡」である、と司馬遼太郎氏が言った。維新という近代国家の幕開けは、龍馬はん無くして考えられない。この土佐の脱藩浪士は、常に視野を世界に向け、あくまでも度量大きく、未来を見つめ続けた。「尊皇攘夷・倒幕派」「開国・佐幕派」などという枠を超え、あの幕末の時代に株式会社を作り、黒船を手に入れ、北辰一刀流の剣の達人でありながら人は斬らず、心をいつも太平洋に向けていた男。

 「薩長同盟、大政奉還、あれァ全部竜馬一人がやったことさ」(勝海舟)

 もしも龍馬はんが居なければ明治維新はもっと変わっていたものになった可能性がある。いずれにせよ日本という国は近代化しなければ存立の危機であった。龍馬はんが居なくても近代国家の建設はなされていただろう。しかし、この国のかたちは大きく変わった可能性がある。龍馬は近代日本の青写真を書き、そして明治の世が訪れようとしたまさにそのとき非業の刃に斃れた。もっと長く生きて欲しかったと思う人は多くいるはず。

 あの日風邪さえ引いていなかったらなあ…。

 そう思う人は多いだろう。龍馬はんは無防備なようでいて、自分が危険に晒されていることは十分に知っていて、早いうちからピストルも携帯し、身の回りには気を配っていた。この時期の京都滞在も、福井出張から帰った龍馬はんは最初いつもの酢屋に入ったが、用心を重ね近江屋へ移動している。近江屋では土蔵で寝泊りしている。防御は万全だ。しかし、京都は冷え込み土蔵は寒い。風邪を引いてしまった龍馬はんは11月14日、土蔵から出て暖かい母屋の二階へと移った。
 このことが龍馬はんの命運を分けた。土蔵に居れば刺客も手を出せなかっただろうに。

 坂本龍馬は翌15日、中岡慎太郎、下僕藤吉とともに刺客の手にかかり絶命。享年33歳。

 さて、龍馬はんが生きていたら明治はどう変わったか、について書きたいのだけれど、その前にちょっとおかしなことに気がつく。実行犯については現在に至るまで特定されていない。見廻組が現在のところ定説だが、新撰組説、中村半次郎説、内ゲバ説と様々に推定されていて、これは邪馬台国の謎と共に日本史二大謎とも言われるが、ちょっとここでは置く。まずなんでこの運命の日に龍馬はんが近江屋の母屋二階に居た事が刺客にわかっていたのだろう? このことを知る人物は少なかったはずなのだ。なんせ風邪を引いて母屋に移ったのは前日であったはずなのだ。そもそも近江屋に移ったのも3日前であったはず。それまでは酢屋に居たのだから。見廻組は必死になって探索をしていたのに場所を特定できず捕縛さえ出来なかったはずなのに。

 知っていた人物はわかっているだけで、近江屋の主人と家族。下僕籐吉。中岡慎太郎。岡本健三郎。菊屋峰吉。そして海援隊では宮地彦三郎、長岡謙吉。淡海(板倉)槐堂(例の掛け軸をもってきた)。また当日龍馬はんが訪ねた福岡藤次も知っていた可能性がある。実に少ない。そこからの伝聞でもう少し知っている人物も居たと推測されるが、日数のこともあり(昨日の今日だ)、さほどには広まっていないとも思われる。
 この中に情報源となった人物がいる、と考えるのが常道というものだろう。しかし、ほとんどが龍馬はんの身内である。刺客に教えたとはとても考えられない。この中で唯一怪しいのは板倉槐堂である。一時期僕も槐堂を疑った。しかし動機付けが薄い。そして、槐堂が龍馬はんの元を辞したのが夜8時頃、そして岡本健三郎と峰吉が出たのが8時半、そして峰吉が戻ってきた9時にはもう惨事の後であった。刺客は槐堂が辞した時にはもう既に待機していたと思われ、関連性は薄いように思われる。まだ一考の余地はあるのかもしれないが。
 実はそれよりもっと怪しい人物は居るのである。もうお分かりの方も多いと思うが、伊東甲子太郎である。
 この元新撰組で高台寺党の代表である伊東甲子太郎は、15日の前々日ないしその前日に近江屋へ龍馬はんを訪ねている。そして新撰組が狙っていて危険である由を忠告している。この時には龍馬はんは土蔵に居たのだが、どこで伊東と応対したかがカギとなる。説は分かれるのだが、龍馬はんは伊東を全面的に信用していなかったので、アジトである土蔵に迎えることはあるまい、と僕は思う。母屋で応対したのではなかったか。もしそうだったとすれば、伊東は「龍馬は近江屋の母屋に居る」という情報を流した可能性がある。或いは実行犯ということも。
 ただ、本来龍馬はんは土蔵に居たのだ。母屋に刺客が入っても空振りだった可能性が高い。土蔵には逃げられる仕掛けも備わっていて、騒ぎを聞きつければ龍馬はんはすぐに逃げられたはず。

 あの日風邪さえ引いていなかったらなあ…。

 もうこれは愚痴でしかないが、土蔵であれば難を逃れた可能性が高かった、と思うのはこういう理由である。間違った情報に龍馬はんが合わせてしまったのかもしれなかったのだ。

 では伊東が実行犯なのか? それについてはまだ結論は出せない。次回に続く。しかし「龍馬はんが生きていたら明治はどう変わったか」という話にはなかなかいかないな。まだ実行犯も、黒幕についても考察したいところであるし。




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2 コメント

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パソ\コンとられちゃったので(T_T) (jasmintea)
2005-11-15 23:38:36
とりあえず龍馬生誕170年めでたい!めでたい(*^_^*)



先日自分のブログにも『風邪引かなかったら…』って愚痴ったばかり。

これは龍馬ファンなら誰しも思うところです。



うっ、今自分のブログじゃないのにペラペラ書きかけてやめました(^^;)

つい調子にのって…ごめんなさいm(_ _)m



龍馬が近江屋母屋にいたことを何故刺客が知ったか?偶然か必然か??(・_。)?(。_・)?

次回の記事を楽しみにしています(^^)v



PS:凛太郎さんが龍馬の話をして下さって本当に嬉しいです♪(*^ ・^)ノ⌒☆
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ペラペラ書いて下さい(笑) (凛太郎)
2005-11-16 22:43:01
このブログを立ち上げたとき、「歴史if」というカテゴリを作って第1回目に「風邪を引かなかったら」を一度書いてボツにした経緯があります。結局光秀の密書の話にしてしまいました。別に温めていたわけでもないのですけれどもね。一年経って日の目を見ました。

しかし、中身はおそらくjasminteaさんならご存知の話ばかり連ねると思います。あまり大したことは書けません。m(_ _;)m
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