凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも…番外編・龍馬はんの見た未来 Ⅳ

2005年11月23日 | 歴史「if」
 さて、前回からの続きです。もう第七話なので、本来の「歴史if」に戻りたい。果たして坂本龍馬が死ななかったら、日本はどういう未来を迎えたのだろうか。この話はもちろん龍馬ファンとしての遊びである。

 よく言われることは、坂本龍馬が居れば戊辰戦争は起こらなかったのではないか、という話。これについてはもちろんわからないのだけれど、戊辰戦争にあまり意味がないとおそらく考えていたであろう龍馬はんは、鳥羽、伏見の戦いには大きく手を広げて反対しただろう。国内戦争などをやっていては「世界を相手に貿易」どころではない。しかし龍馬はんと違って凡人である僕には、その戊辰戦争を止めさせる手段が思いつかない(汗)。ただ「そういうムダな戦争はなんとしてでも龍馬はんが止めたんじゃないの?」と夢想するしかない。しかし、龍馬はんの思想的同盟者である勝のとっつぁんは見事に江戸総攻撃を西郷に見送らせている。ここに戦争を止めるひとつの方策が見て取れる。西郷は「日本を焦土にする」といいつつ、かつて長州征伐の総大将だった時に穏便に済ませたりした経験もある男。話せばわかるのだ。やはり龍馬はんならなんとかしたんじゃないかと(希望的観測)。そうして戦争は起こらず、河井継之助のことも、白虎隊の悲劇ももしも無かったとすればそれは素晴らしいことである。

 本当の革命的階級闘争は後に起こるのだ。佐賀や神風連、秋月、萩の乱。そして西南戦争。これが本来の革命戦争である(と、僕は思う)。これは戊辰戦争と違って歴史の必然のようにも思う。しかし龍馬はん存命であれば、これも未然に防げたかもしれない、と夢想する(僕のような龍馬信者はなんでもこういうふうに思うのだ)。
 武士階級をどうするか、ということがひとつのポイントである。かつての支配者層の反乱は当然ある。この階級に仕事を与えガス抜きをすればよかったのだ。ひとつのヒントとして、龍馬はんは北海道開拓を夢見ていた。北添佶磨らとともに実現したかっただろう。そこに過激浪士を送り込むという方策を龍馬はんは考えていた。明治の世になってその方式は使えないか。北海道に限らず殖産興業の過程の中で、うまく武士階級を取り込むことが出来たなら…不満分子をなし崩しにしてしまうことが出来たかもしれない。まあ本当に夢想だが。

 さて、龍馬はんが生きていれば、明治の世でどんなふうな位置に居ただろうか。
 当然「世界の海援隊」であろうが、当初は新政府に名を連ねざるを得なかったかもしれない。しかしある程度国の形が見えれば、政府から手を引き、経済界で生きる道を選んだだろう。龍馬はんは儲けたいのだ(笑)。或いは陸奥宗光を新政府に送り込んでそのフィクサーとなり、政商として活躍したかもしれない。龍馬はんは○○大臣よりも、現在で言えば経団連会長といった位置づけが似合う。官に入らず民から明治政府に影響を与え、国家の設計をリードする。そんな存在になっていたかもしれない。
 例えば福沢諭吉は学校を作り人材育成を進めると共に、明治政府に意見を言い続けた。そういう立場に立っていたかもしれない。学校ではなくて企業の立場から影響を与える。僕は福沢諭吉が本当に好きではないので(慶応の方すみません)、もしも龍馬はんが居たら福沢など青菜に塩(by陸奥宗光)だっただろう。

 西郷は明治政府の青写真を本当に持っていなかった。どうしていいのかわからなかったのだろう(だから紀州の津田出に真剣に教えを乞おうとした)。龍馬はんが居ればいちいち聞いたに違いない。龍馬はんは「早く憲法を作りなさい」「早く議会を開きなさい」とどんどん追い立てただろう。龍馬はんは得意の「耳学問」でルソーの民約論などを聞き齧って、「それじゃそれじゃ」と言って海援隊で出版し、基本的人権の確立と民衆の政治参加を訴え、エヘンエヘンとばかりに明治政府の方向をそちらに曲げてしまったかもしれない(楽しいなあ)。龍馬はんが居なかったから、明治政府はヨーロッパへ付け焼刃の勉強に出かけて、結局ドイツ式の立憲君主制で重い国家を作ってしまったのだ。こんな行政権の強い国家、龍馬はんなら作らせなかったかもしれない。共和制の、象徴天皇制と明確な三権分立。そういう国家になっていた可能性もゼロではない。重い国家を作った山県有朋など青菜に塩(by陸奥宗光)。そうすれば統帥権などというものは出てこず、太平洋戦争まで未然に防げたかもしれない(どんどん筆が滑る)。

 龍馬はんがもし明治に居れば、憲法、参政権、そして法治国家の建設を急いだに違いない。そして政党政治を目指したかもしれない。議会制民主主義の行き着くところはそれだ。党首としての活動ではなくフィクサーだっただろうが、その方向性は様々に残され、片鱗を伺う事が出来る。
 まずその思想は、中江兆民が後を継いだ。龍馬はんに「中江の兄さん煙草を買うてきておうせ」と頼まれたことをずっと誇りにしていた兆民は龍馬はんを尊敬し、第二の龍馬を目指そうと頑張った。革命は民衆から。ルソーを紹介して明治期の自由民権運動の理論的背景となった。
 その行動は、板垣退助ら土佐の後輩達が自由民権運動を起こして進めた。しかし結局尻つぼみとなってしまった。龍馬はんがもしも居れば、兆民も板垣も従えて大きな政治的うねりを起こしたのではないかと夢想されてならない。この自由民権運動には柱が居なかったのだ。飽きっぽい板垣では成就しなかった。惜しいことである。
 国家の法整備は、江藤新平が必死になってやった。しかし大久保との政争に破れ梟首となる。もしも、近藤長次郎さんの件で人材を死なすことに懲りている龍馬はんが居ればこんな優秀な人物を死なしめることはなかっただろうに。

 先に行き過ぎたが、龍馬はんが居ればもしかしたら「征韓論」などというものも存在したかどうか。龍馬はんは師匠の勝のとっつぁんと共に「日本・朝鮮・中国の東アジア三国同盟」を理想としていた。西欧の侵略主義に対抗するにはこれしかないぜよ、と言わんばかりに。この方針で行けば、征韓論など青菜に塩(by陸奥宗光)だっただろう。征韓論どころか、伊藤博文の朝鮮併合もない。日清戦争だって勝海舟は最後まで批判していた。なのに日本は西欧の悪しき真似をして帝国主義に走り、長州の山県有朋などは吉田松陰の「朝鮮、満州、支那を切り随へ」という前時代的思想に凝り固まって日清戦争を起こした。福沢諭吉は「脱亜論」で「亜細亜東方の悪友を謝絶せよ」とそれに拍車をかけた。勝海舟には評論で「旧幕臣が口を出すな」と牽制した(福沢め!)。商売の視点から見ていた龍馬はんが居たならこんな明治はなかったかもしれなかったのに。今でも靖国や教科書問題、拉致問題でこのことは遺恨を残している。龍馬はんありせば…。

 さて、龍馬はんの海援隊は、明治の世にどう発展しただろうか。
 その方向性は、ある程度は現在の三菱に伺うことが出来る。しかし岩崎弥太郎がいろは丸の賠償金と人材を用いたとは言え、龍馬はんなくして三菱は無い、と言えば三菱の人に怒られるだろう。海援隊の残務整理をした等々、様々な経緯はあるにせよ、堅実に事業を発展させた岩崎三菱は龍馬はんなくても存在しただろう。龍馬はんは土佐藩営事業から発展した三菱とは別に、独自に海援隊を運営したであろうから、三菱と海援隊はライバル関係になったと想像するのが正しいかもしれない。堅実に手堅く商売をやる三菱。吉岡銅山や高島炭坑を入手し、金融業を興し造船~後には重工業に着手する三菱には龍馬はんも手を焼いただろう。しかし北海道開拓事業や鉄道などの分野には龍馬はんは手を染めそうだ。どちらかと言えば、阪急の小林一三や西武の堤康次郎的なこともやったかもしれない。海運業、商事会社、そして開拓事業方面への進出。成功したかどうかは…それは分からない。
 三菱商船学校(後の東京商船大学)などの人材育成機関は、海援隊がやっていたかもしれないなあ。人材育成には力を入れて欲しい。三菱は福沢の学校から人材をずいぶん引っ張ったが、龍馬はんには独自の学校を打ち立てて欲しいな、とも夢想する。

 戊辰戦争は、無念に斃れた龍馬はんの執念と勝のとっつぁんの活躍で最小限に終わった。そのせいで「戦争は4年は続く」と目論んでいたグラバー商会は倒産してしまう。その後グラバーは三菱の傘下に入りビール会社経営にあたった。これがキリンビールである。さて、何故麒麟なのか。長崎のグラバー園には麒麟のモデルとなったとされる狛犬が展示されているが、この狛犬と麒麟はあまりにも似ていない。よくこの麒麟の目は西洋人でありその髭とともにグラバーを象徴していると言われる。しかしさらによく見ると、麒麟という想像上の動物の中には龍と馬が見え隠れする。このデザインには様々な意味が込められているのであろう。今の三菱には龍馬はんの影はない。龍馬はんの痕跡を現在の企業に探すとすれば、この麒麟くらいなのかもしれない。
 かと言って僕は龍馬はんゆかりとも言われるキリンビールを特に愛飲したりはしていない。酒はまた別である。

長々と大変失礼しました。贔屓の引き倒しの龍馬はんの話を終わります。

※ブログを始めてよりの念願であった坂本龍馬の話を開設一年経ってようやく書くことが出来ました。読んでくださった方には本当に感謝します。

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4 コメント

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随分遠回りしちゃったよね‥ (jasmintea)
2005-11-24 21:26:07
昨日ヒロリンさんblogでも思いましたが龍馬ももちろんすごかったけど、彼を育んだ人達も度量が広い素晴らしい人達ばかりでしたよね。



関係ない話ですが自民党の総裁選で伊東正義さんと阿倍晋太郎さんの争いになった時会津出身の伊東さんは長州の阿倍さんがキライって本当に言ったかどうかわからないですがそんな話が出ましたよね。



明治維新から、こんな年がたってもその恨みが語り継がれる(薩摩でも西南戦争で薩摩同士が戦いに及んだことの無念さもですよね)

人間のマイナスの感情ってそうやって尾を引いていく‥

もし、龍馬がいたらってやはり思わずにはいられません。



PS 龍馬はんシリーズ、大変楽しませて頂きました。

凛太郎さんに感謝、感謝です。

お疲れ様でした



PSのPS!!

でも、これで終わりって寂しいです

また違う機会にぜひお話お聞かせ下さいね
返信する
感謝です♪ (凛太郎)
2005-11-24 23:22:16
長ったらしい続き物の話をみんな読んでくださって本当に感謝しています。途中感情が揺れたり疲れたりされていたと思うのにひとつひとつコメントを頂いて…。本当にありがとうございました。



>随分遠回りしちゃったよね



本当に上手く表現なさる。素晴らしい。

「歴史のif」としていろいろ考えますと、司馬さんは「死者の歳を数える愚」とおっしゃいますが(笑)、龍馬はんがもし生きていたら、上記に書いたこと全てとは言いませんがひとつくらいは成就しているような気がするのです。そして、ここが重要なことですが、ひとつでも成就すると必ず不幸を取り除かれる人が増え、歴史が好転していくように思えるのです。贔屓の引き倒しかもしれませんが「信長が生きていたら」などとは全く視点が異なります。幸せがもっともっと増えたかもしれない。そこが龍馬という人の魅力の源泉なのです。ありがとうございました。



P.S. 一応龍馬話は終わりますけど、ブログ、そして歴史ものを書いているとまた登場してくるでしょうね。僕は歴史カテゴリで初めて幕末を扱いましたが、幕末はもうifだらけ(笑)。龍馬はんの活躍に僕も期待します((爆))

jasminteaさんも機会をみつけてまた語ってください。好きな人のことは書きにくいですけどね♪

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最高でしたよ! (ヒロリン)
2005-11-27 23:50:29
こちらにおじゃまさせていただきました。



「龍馬が生きていたら・・・」は龍馬ファンの夢ですよね。



 やっぱり、まず最初は「北海道開拓」に始まり、いずれは「世界の海援隊」へ。



 まだまだ、死なせるには惜しい人でした。



 私の方は、結論を迷いつつ話を進めています。



 凛太郎さんの龍馬話、また読みたいです!

また、よろしくお願いします。
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これは恐縮です(汗)。 (凛太郎)
2005-11-28 22:30:52
専門家のヒロリンさんに見ていただいていたとは…汗顔の至りです。ありがとうございます。

坂本龍馬の話になると、僕もファンなので思い入れがあるのでしょうか、当初3回程度で終わらせる予定が延びてしまって…。

「龍馬if」というのは誰しもファンなら考えると思いますが、海が好きな龍馬が陸運業に携わるとはちょっと考えにくいのですが、事業としてはなんとなしに鉄道ってのもやったような気もするのです。フロンティア精神でしょうかね(笑)。商船学校も是非やって欲しかった。政治に関しては、政府高官はみんな「青菜に塩」でしょうから(笑)。



ヒロリンさんのブログも佳境に入ってきましたね。この5ヶ月のもっとも活躍した時期が実は「晩年」だったなんてとても考えたくはないのですが。

濃密な5ヶ月、楽しみにしています。出来るだけゆっくりと語ってください。
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