★Delaney & Bonnie On Tour With Eric Clapton
1. Things Get Better
2. Por Elijah-Tribute To Johnson Medley: Poor Elijah/Tribute
3. Only You Know And I Know
4. I Don't Want To Discuss It
5. That's What My Man Is For
6. Where There's A Will, There's A Way
7. Coming Home
8. Little Richard Medley:Tutti-Frutti/The Girl Can't Help It/Long Tall Sall/Jenny Jenny
年末年始をはさんで間が空きましたが、スワンプ名盤の系譜を続けます。
エリック・クラプトンのソロ作のレコーディングを経て、いよいよデラニー&ボニー(以下デラボニ)のツアーが本格化し、それはエリック・クラプトンがフレンズを引き連れて故郷イギリスのファンに新しいトレンドを披露するという形で展開します。デラニー&ボニー&フレンズ・ウイズ・エリック・クラプトンがそれです。このツアーに同行したのは、ボビー・ホイットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードン、ボビー・キーズ、ジム・プライスのフレンズのレギュラーと、クラプトンのセッションには外れていたデイブ・メイスンが加わり、公演によってはもともとクラプトンにデラボニを紹介したジョージ・ハリスンが参加したと聞きます。素晴らしく豪華な面々ではないでしょうか。
このツアーを記録したアルバムが「オン・ツアー・ウイズ・エリック・クラプトン」な訳です。当時はクリーム→ブラインド・フェイスと人気バンドで活躍を続けてきたクラプトンの新バンド的な受け取られ方もあったのでしょう、彼らのツアーは熱狂的な歓迎を受け大成功します。このアルバムを聴いてもその熱狂ぶりは良く分かります。ただ、このアルバムは音楽的にスワンプのショーケース的は位置付けになっているかと言うと、やや違う肌触りでもあり、どちらかというとロックンロールやブルーズを下敷きに南部やゴスペル感覚を若干加味し、クラプトンが弾きまくるという感じかなと。この辺の中途半端なやり方が、後々デレク&ドミノスのアルバム「レイラ」へのファンの理解を得られず、酷評される下地になったのではないかと思われるのです。
同じ頃ジョン・レノンがピース・イン・トロントで、チャック・ベリーやリトル・リチャードを招いてロックンロール・ショーをやっていたりして、ジョンも「デイジー・ミス・リジー」とか「ヤー・ブルース」なんていう、ストレートなロックンロールやブルーズ・ナンバーをやっていたのが、妙にこの「オン・ツアー」と符合していておもしろいなと思わさられます。この当時のルーツ志向はいろいろなところで巻き起こっていたのだなぁと今になって気がつかされることも多くあり、特に60年代から70年代への橋渡しはビートルズの解散を肌で感じていた音楽シーンがビートルズ自身をも巻き込んでビートルズ以前の音楽への回帰から、新しい何かをつかみ取ろうともがいていた様子が浮かび上がってくるのです。
さらに個人的な話ですが・・・
私が洋楽にハマり始めた73~74年当時、クラプトンは日本の“不良ロック少年”(当時ロックやエレキギターは不良の代名詞)の間でも人気でした。クラプトンはちょうどレインボー・コンサートで無事シーンへの復帰を果たし、「461オーシャン・ブルバード」で大ブレイクしたあたり。一般ピープルがレゲエの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」で盛り上がっているのを横目に、標準的ロック少年たちは「クラプトンの基本はブルーズだぜ!」とクリームを語り、さらにブラインド・フェイスにまで言及できるヤツは“通”、デラボニのこのアルバムまで語れるヤツはほとんど“プロ”として尊敬されていました。当時はこの「オン・ツアー」を理解するための情報はあまりに少なかったのですが、ジャケットのカッコ良さや難解さと共に憧れの1枚であったことは間違いありません。60年代から70年代への音楽史を語る上で欠かすことのできない名盤です。
さて戻って、この「オン・ツアー」で重要なのは、このシリーズの中心人物でフレンズの重鎮だったハズのレオン・ラッセルのクレジットがないこと。当時レオンの彼女であったリタ・クーリッジはコーラスで入っているのですが・・・。この点がこの後の展開をいささか難しくするのです。実はこの頃、レオンのソロアルバム制作を機にシェルター・レーベルを立ち上げをけしかけた英国人デニー・コーデルが、彼を動かしてデラボニとは別のルートでスワンプを英国に紹介しようと画策していたのです。69年のレオンは、自身のソロアルバム制作の他、デラボニと共にエリック・クラプトンのソロ作制作に関わりますが、彼らとは別行動で実はもう一人の英国人アーティストのアルバム制作にもかかわっていたのです。その人は、ジョー・コッカー。この流れによって、デラボニのフィーバーは思わぬ急展開を迎えることになるのです。(この項、さらに続く)
1. Things Get Better
2. Por Elijah-Tribute To Johnson Medley: Poor Elijah/Tribute
3. Only You Know And I Know
4. I Don't Want To Discuss It
5. That's What My Man Is For
6. Where There's A Will, There's A Way
7. Coming Home
8. Little Richard Medley:Tutti-Frutti/The Girl Can't Help It/Long Tall Sall/Jenny Jenny
年末年始をはさんで間が空きましたが、スワンプ名盤の系譜を続けます。
エリック・クラプトンのソロ作のレコーディングを経て、いよいよデラニー&ボニー(以下デラボニ)のツアーが本格化し、それはエリック・クラプトンがフレンズを引き連れて故郷イギリスのファンに新しいトレンドを披露するという形で展開します。デラニー&ボニー&フレンズ・ウイズ・エリック・クラプトンがそれです。このツアーに同行したのは、ボビー・ホイットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードン、ボビー・キーズ、ジム・プライスのフレンズのレギュラーと、クラプトンのセッションには外れていたデイブ・メイスンが加わり、公演によってはもともとクラプトンにデラボニを紹介したジョージ・ハリスンが参加したと聞きます。素晴らしく豪華な面々ではないでしょうか。
このツアーを記録したアルバムが「オン・ツアー・ウイズ・エリック・クラプトン」な訳です。当時はクリーム→ブラインド・フェイスと人気バンドで活躍を続けてきたクラプトンの新バンド的な受け取られ方もあったのでしょう、彼らのツアーは熱狂的な歓迎を受け大成功します。このアルバムを聴いてもその熱狂ぶりは良く分かります。ただ、このアルバムは音楽的にスワンプのショーケース的は位置付けになっているかと言うと、やや違う肌触りでもあり、どちらかというとロックンロールやブルーズを下敷きに南部やゴスペル感覚を若干加味し、クラプトンが弾きまくるという感じかなと。この辺の中途半端なやり方が、後々デレク&ドミノスのアルバム「レイラ」へのファンの理解を得られず、酷評される下地になったのではないかと思われるのです。
同じ頃ジョン・レノンがピース・イン・トロントで、チャック・ベリーやリトル・リチャードを招いてロックンロール・ショーをやっていたりして、ジョンも「デイジー・ミス・リジー」とか「ヤー・ブルース」なんていう、ストレートなロックンロールやブルーズ・ナンバーをやっていたのが、妙にこの「オン・ツアー」と符合していておもしろいなと思わさられます。この当時のルーツ志向はいろいろなところで巻き起こっていたのだなぁと今になって気がつかされることも多くあり、特に60年代から70年代への橋渡しはビートルズの解散を肌で感じていた音楽シーンがビートルズ自身をも巻き込んでビートルズ以前の音楽への回帰から、新しい何かをつかみ取ろうともがいていた様子が浮かび上がってくるのです。
さらに個人的な話ですが・・・
私が洋楽にハマり始めた73~74年当時、クラプトンは日本の“不良ロック少年”(当時ロックやエレキギターは不良の代名詞)の間でも人気でした。クラプトンはちょうどレインボー・コンサートで無事シーンへの復帰を果たし、「461オーシャン・ブルバード」で大ブレイクしたあたり。一般ピープルがレゲエの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」で盛り上がっているのを横目に、標準的ロック少年たちは「クラプトンの基本はブルーズだぜ!」とクリームを語り、さらにブラインド・フェイスにまで言及できるヤツは“通”、デラボニのこのアルバムまで語れるヤツはほとんど“プロ”として尊敬されていました。当時はこの「オン・ツアー」を理解するための情報はあまりに少なかったのですが、ジャケットのカッコ良さや難解さと共に憧れの1枚であったことは間違いありません。60年代から70年代への音楽史を語る上で欠かすことのできない名盤です。
さて戻って、この「オン・ツアー」で重要なのは、このシリーズの中心人物でフレンズの重鎮だったハズのレオン・ラッセルのクレジットがないこと。当時レオンの彼女であったリタ・クーリッジはコーラスで入っているのですが・・・。この点がこの後の展開をいささか難しくするのです。実はこの頃、レオンのソロアルバム制作を機にシェルター・レーベルを立ち上げをけしかけた英国人デニー・コーデルが、彼を動かしてデラボニとは別のルートでスワンプを英国に紹介しようと画策していたのです。69年のレオンは、自身のソロアルバム制作の他、デラボニと共にエリック・クラプトンのソロ作制作に関わりますが、彼らとは別行動で実はもう一人の英国人アーティストのアルバム制作にもかかわっていたのです。その人は、ジョー・コッカー。この流れによって、デラボニのフィーバーは思わぬ急展開を迎えることになるのです。(この項、さらに続く)