自然文化研究科

NPO法人大阪府高齢者大学校 「自然文化研究科」の活動をアップします。

多田銅銀山跡 「悠久の館」 

2013年07月16日 | 校外授業
7月16日

本日の授業は「屋外授業」で多田銅銀山跡に行きました。

10時に多田銅銀山の資料館「悠久の館」に集合。
3人のボランティアガイドさんに約2時間数周辺の坑道、神社などをを案内して頂きました。

多田銅銀山の概略
多田銅銀山は、猪名川町の銀山を中心に宝塚、川西、能勢、箕面と2府県にまたがる東西約20km、南北約25kmにもおよぶ鉱山地帯で有る。かっての西摂、北摂に含まれる。970(長歴元)年の銀発見に始まり多田荘を治める多田源氏(清和源氏)により管理・開発された。
後の世に豊臣秀吉も注目して、当時の最新技術を使って台所間歩(まぶ)や瓢箪間歩などを開いた。
江戸幕府は、1660(万治3)年に大口間歩で銀の大鉱脈を見つけ、代官所を設けて管理した。当時、銀山村は戸数3,000戸、人口はその3倍余に達したと言われている。
多田銅銀山は、いつの世も、当時の権力者の宝庫で有った。多田銀山として、例えば秀吉が得た銀高は、わずか銀476枚(76kg程度)とされる。生野銀山から秀吉が得た62,267枚(10トン位)の比では無かった。そのため、徳川期には、重要視されなかったものの、寛文年間から昭和年間に至るまで銅銀山として生産を増やした。
明治以降は、堀藤十郎により近代化した最新技術により採掘、精錬がなされた。その後、三菱、日本鉱業に引き継がれて1973(昭和48)年に長い銅銀山の歴史が終わった。

ガイドさんの話によると、先程書きましたが銀山村には3000戸 10,000人が住んで居て「銀山3千軒」と言われ料理屋や花街も有って賑わって居たそうです。
又、過酷な労働条件のために坑内で働く男性の平均寿命は37歳であったそうです。


周辺マップ クリックすると大きくなります。


悠久の館正面 本日は休館日でしたが特別に午前中開館して頂きました。


マップ⑥代官所跡、悠久の館の裏側に有ります。


銀山橋、下は銀山川です、マップ⑩高札場跡の横に有ります。橋を渡った左側が高札場跡


マップ⑩高札場跡 横の灯籠には金毘羅大権現と刻まれていたので、その昔は金毘羅参りが盛んで有った様です。


マップ⑨代官所の門(伝承)と説明板


マップ⑧金山彦神社 鉱山の神様で各地の鉱山に祀られています。


本殿には雪深いためか被い屋根が作られていました。


マップ⑫平炉跡 間歩で採掘された鉱石を製錬した炉跡、周辺はノロが山積みになっている。


マップ③青木間歩の説明板


青木間歩の手掘り時代の坑道口、約2尺×3尺人が何とか入れる大きさ。


青木間歩近代の坑道昭和29年から48年迄使用、坑道奥から入口を望む。


マップ④大露頭は瓢箪𨫤(ひょうたんひ)の鉱脈が地表に現れている物、下は県指定天然記念物で有る事と注意書き、

 
台所間歩の説明版 ククリックすると大きくなります

マップ②台所間歩、江戸時代の文書で大阪城の台所(財政)を潤すほど銀銅の産出が有った。
 

瓢箪間歩の説明版 ククリックすると大きくなります


マップ①瓢箪間歩の坑道口。


左側の階段を上がると遺構・遺構の復元等が有る公園です。


明治時代「堀家製作所」時代の機械の架台の上部









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