自然文化研究科

NPO法人大阪府高齢者大学校 「自然文化研究科」の活動をアップします。

社会参加活動

2013年09月24日 | 社会参加活動
9月24日

本日のテーマは「社会への参加活動」で各班が企画した計画を各方面で校外活動をしました。

各班からからの、活動報告が入り次第UPしていきます。

第一班 「和田市岡山町の竹林で」竹林の整備をしました。

サムネイル 見にくい方は、A4判にダブルクリックで成ります。

第二班 明石海峡大橋&明石魚の棚市場見学


第四班 「巨樹を訪ねて」 能勢の大ケヤキ、垣倉天満宮のイチョウ、妙見山

サムネイル 見にくい方は、A4判にダブルクリックで成ります。




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伊勢神宮御遷宮と森林

2013年09月17日 | 宗教と伝統
9月17日

本日は4月16と23日にご講義をして頂きました、国民森林会議会長・名古屋大学名誉教授/農学博士只木良也教授に、「伊勢御遷宮と森林」についてご講義頂きました。


只木良也教授

伊勢神宮御遷宮
 20年毎の式年遷宮
 社殿・調度すべてを新調する行事
 平成25(2013)年は第62回の年
 - 第1回は持統天皇4(690)年 -

御遷宮用ヒノキ材の供給  
 当初鎌倉初期まで、用材は神宮神域から伐出、
 用材不足→御杣山各地を転々。
 第36回(1380年) から木曽(長野県)と裏木曽(岐阜県)から。15-6世紀(戦国時代)には120-
 130年  に及ぶ一時中断。
 1709年第47回以降は、尾張藩所管の木曽と裏木曽が御杣山として定着。
 明治以降、木曽谷は御料林(皇室所有)。そのヒノキ林から伐採・搬出。
 明治42年(1909) 木曽谷に8000haに及ぶ神宮備林設定。大樹選定。
 昭和22年(1947)、御料林は国有林に。神宮備林制度廃止、備林の一部は今日も保護林
 となって存続。

なぜ20年ごとの御遷宮?
 日本人の潔癖・清潔→白木造りに結晶。
 御遷宮1回にヒノキ最高材13,800本:ぜいたく感。「もったいない」。
 しかし、伊勢神宮の古材は古来見事なリサイクル・リユース。神宮自体の鳥居、末社の
 社殿、全国の神社の用材。小さな端材もお札に再生。
 それに20年は、御遷宮に伴う諸技術の伝承(師匠から弟子へ)に最低限必要な年数。

神が降臨するようなヒノキ林

御杣始(みそまはじめ)祭
御杣始(みそまはじめ)祭: 御用材伐出の御杣山(みそまやま)で御樋代木(みひしろぎ)を伐採する祭り。
御樋代木:御神体を奉安する器を造るヒノキの御料木、御遷宮1回に要する13,800本の中でもとくに神聖な選 び 抜かれた御料木。
2本(内・外宮)の御樋代木を「三ツ紐伐(三ツ伐)」。この伐採法は神事を通じてのみ伝承。 
第61回御遷宮-平成5年(1993)-の御杣始祭:昭和60年(1985)6月3日に、
第62回御遷宮-平成25年(2013)-の御杣始祭:平成17年(2005)6月3日に
木曽谷の上松営林署小川入国有林で。

切り倒す前の神事


内宮(手前)外宮(奥)の御樋代木(みひしろぎ)
「三ツ紐伐(三ツ伐)
2本(内・外宮)の御樋代木の伐採法で代々受け継がれている。

3本の斧で両横弦・受口から斧を入れ中を空洞にしたあと 後弦方向に倒す。ちなみに倒れるときは、倒れると言わず「寝るぞー」と掛け声をかける。


直径70〜80㎝も有るヒノキをこの3本の斧で倒す(寝かす)
江戸時代の倒木風景



倒木風景(クリックで大きくなります)


内宮の御樋代木は五十鈴川を信者、地元の人によって引き上げられる。


20前の御樋代木の切り株。

ヒノキ林の維持
ヒノキ林の維持処置の実験
1985年から開始









試験林設定以来、既に25年余を経過。後継樹育成はまずまずの効果。
この試験林以外で、下層のアスナロ除去だけで上層木伐採なしの処では、林内はすきりしたものの、ヒノキの幼樹は見られない。なお、試験敷地内のアスナロの上層木を残したところでは、地表はアスナロばかりに。
計画段階で、「上層のヒノキを伐る」ことが、地元から反対。「試験に限り」休養林外で」の条件で妥協。
20年を経て2006年、一応の試験結果から、国有林はこの方式を事業的に拡大すべく計画(休養林以外)ところが地元はまたしても反対現在に至る。

御遷宮の使用材料については 8月26日「夏休み番外編 伊勢神宮 遷宮前に訪ねる」の参考資料にも記載しましたので、ご覧下さい。


赤穂塩業の歴史・流通

2013年09月10日 | 食物の歴史
9月10日

本日は「赤穂塩業の歴史・流通」について
流通科学大学 加藤慶一郎 教授にご講演頂きました。
加藤慶一郎教授

①赤穂塩田
 
江戸時代に「十州(じゅっしゅう)塩田」が成立。
 1799年頃全国の50%を生産 その内赤穂が十州の中で有力な生産地であった

 十州塩田とは 播磨・備前・備中・備後・安芸・長門・周防・阿波・讃岐・伊予の、瀬戸内
 海沿岸10国の塩田
 
②江戸時代の瀬戸内塩業の推移
 ・入浜式塩田の出現(16世紀〜18世紀)
   江戸時代前期頃、海水を塩田に取り込む方法として、潮の干満を利用する方法が開
   発され。これにより海水を塩砂に散布する作業が省略され、大幅な労力の軽減が実
   現した。

・入浜式塩田の構造・作業の流れ

 塩田での作業の流れ

  1.砂を塩田に撒いて広げる
  2.毛細管現象の促進のために上から海水を撒く
  3.水分の蒸発を助けるために表面の砂をかきおこす
  4.砂が乾いたら集めて沼井に入れる
  5.沼井(ぬい=かん水抽出装置)に海水をかけて砂についた塩分を溶かす 
  6.沼井からかん水がでてくる(→後で煮つめて結晶化させる)

 ・塩田開発期(17世紀後半〜18世紀) 

 ・塩業不況期 生産過剰による塩価下落、燃料高騰による経営悪化。(18世紀後半)

 ・塩業好況期 製塩燃料が薪から石炭に転換され燃料費の低下と人件費削減、赤穂塩の需要増加   によって好況期を迎えた・ (19世紀後半)

③赤穂塩の生産と流通
 入浜式塩田→赤穂塩問屋→廻船業者→江戸塩問屋→江戸塩仲買→消費者・醤油生産者 この構造 は17世紀後半に確立、入浜式塩田は昭和20年代まで続いた。

④塩田の開発
 赤穂塩の主な販売先は江戸方面70%、大坂方面20%、赤穂周辺が10%であり塩田の開発は「前川 浜」「西浜」等塩田面積は増大し、大坂では真塩の専売に成功するなど大きな成果を収めた。
 しかし、こうした塩業隆盛による利益は藩財政に流れることはなく、城下町周辺における大地主 の 成長を促し又この頃には地主は貸塩田として他人に貸出していた。特に御崎の田淵家、塩屋の柴 原家、坂越の奥藤家が有名である

⑤塩田経営からの転業
 赤穂の塩は江戸等遠方への運送が多くなり廻船業者に転業も増えた。
 塩田近くでは大型船舶の入港が困難な為、坂越湾が西廻り航路などの一拠点として大いに栄え  た。
 坂越には黒崎墓所(他所三昧・県指定文化財)と呼ばれる、全国各地の水夫が坂越で客死した際 の墓があり、その隆盛を今も静かに物語る。

坂越湾(赤丸印)



モンゴル高原における自然 ★人と家畜の共生関係★                         

2013年09月03日 | 暮らし
9月3日 9/5 9/6日追記分
今日から2学期 本日の授業は国立民族博物館(大阪府吹田市千里万博公園内)で
国立民族学博物館民族研究社会学部教授・部長、総合研究大学院大学地域文化学専攻長併任又、平成25年4月29日紫綬褒章を受章されました、小長谷有紀教授に「モンゴル高原における自然★人と家畜の共生関係★」に就いてのご講演を頂きました。

モンゴルの概略(ウィキペディア)より
モンゴルはモンゴル高原(現在のモンゴル国と中華人民共和国の内モンゴル自治区を合わせたものにほぼ一致する地域)にバイカル湖~興安嶺の一帯とバイカル湖~アルタイ山脈の一帯を合わせた地域。または、当該地域や中央ユーラシアに居住するモンゴル諸語のモンゴル語などを母語とする民族。

大雑把な人口の内訳は、モンゴル国に200万・内モンゴル自治区に400万・ロシアのブリヤート共和国に20万である。詳細に見るとモンゴル国では人口約253万3100人のうち95%(約241万人)がモンゴル族(2004年統計年鑑)であり、中国には約1000万人(内モンゴル自治区に約400〜500万、それ以外の中国内に約500〜600万)のモンゴル族がいる。


 ご講演頂いた小長谷 有紀教授

①モンゴルの気候、人口密度等

モンゴル国と中国内蒙古自治区 クリックで大きくなります。


モンゴル国の草原と砂漠
面積 総計1,565,000km2(18位)
   水面積率 0.6%



モンゴルの降水量は最高でも夏場に80㎜、10月から翌年の3月くらいまでは20%前後と降水量は少なく又気温は9月前から5月位まで氷点下が続き、非常に厳しい条件の国である。

モンゴルの夏と思われる画像緑豊かですが、放牧のため草の長さは10㎝位と思われる(羊・山羊などが食べるので、他の虫が食べるより少し長く残る)

中国内蒙古自治区では人口密度も多く、ゲル以外に恒久的な建物も見え定住性も確認できる。

モンゴル国の人口密度は極端に少なく、中国内蒙古自治区では約1.2倍の人口密度が有り、定住化も進んでいるようです。

モンゴルにはオアシスはなく、小規模の農業は行われていたが、自給程度で有った。又市場が無く一部で贅沢品の取引は行われていたが、ほとんど商取引はなかった。

モンゴルは先程書いたように、自給的な生活のため家畜のオスは、種付け用の家畜を残し殆どが雌と去勢されたオスが大半だった。

家畜のオス・メス比はご覧の様にメスが多くオスの殆どは去勢され、馬は足が速いので戦闘用、牛は、荷役 ラクダは 冬季の馬牛の変わり、羊・山羊は歩く冷蔵庫(夏場は肉が腐るので放牧しながら、食料にした。特に馬は19世紀までは、軍事行動を実施するための資源に成っていた

20世紀からは社会主義化によって 去勢オス事態が商品化され、家畜からの畜産物の商品化もなされた。又メス家畜からも畜産物の商品化とされた、

②実際の放牧民の生活、放牧風景等



住居のゲルと内部(国立民族博物館展示物)


放牧される家畜の群れ


冬季の放牧(3月頃)


馬の放牧 牡馬を中心にハーレムを組む


搾乳情景(羊の頭を交互にロープを巻き付け整列される)


出産期には子育て放棄の母親が居るため人が育てる場合も多い


去勢風景去勢後の睾丸も食料になる。


羊の毛の刈り上げ風景


羊の解体(ほとんどの国では血液は放棄するがモンゴルでは血液も利用する)




お祭り?お祝い事の様です


新婚の夫婦


③ 現在のモンゴルの現状と課題


約10年を掛けて土地法は制定された。










モンゴルのウラン確認埋蔵量は約6万トンと世界15位ですが、未確認埋蔵量は世界1位の約139万トンとも言われています。(2007年)


鉱産資源は石炭、銅、金、ウランも生産されているが、ウランは最終処分までの問題が有るので採掘されていない(?)

1996年まで旧ソ連がウランを採掘し、撤退。

しかし2009年11月10日 央日報/中央日報日本語版では 中国核工業集団公社(CNNC)はモンゴルのウラン開発権を持つウェスタン・プロスペクターグループに2870万ドルを投資しウラン開発権を獲得した。と発表しているので、現在は発掘しているか?

又昨年5月、毎日新聞が「日米が核処分場極秘計画 モンゴルに建設」とスクープ記事を発表した
その後の報道を調べてませんが、日本の核処分場が満杯に成ったから海外へとは由々しき問題と考えます。

20世紀農業開発地(1986年共産主義から解放後)



近年ゲルを利用したホテル(ツーリストキャンプ)が観光客の人気に成っていますが、トイレなどの汚水処理等の問題が発生している。

今回は大変長くなりました、先生には小生の知らない事ばかりのお話大変楽しく学ぶことが出来ました、本当に有難うございました。
モンゴルは広大な国でロマンすら感じますが、近い将来文明化が進み、放牧など非効率なものは徐々に無くなるであろうことを思うと、寂しい思いを禁じえません。