自然文化研究科

NPO法人大阪府高齢者大学校 「自然文化研究科」の活動をアップします。

世界遺産から学ぶ その2

2013年07月30日 | 世界遺産
7月30日
「世界遺産から学ぶ」 その2
引き続き「世界遺産から学ぶ」をアップします。
画像はすべてサムネイルです、クリックで大きくなります。
世界遺産発見物語

世界遺産エピソード(1)ボロブドール寺院遺跡の発見。
ボロブドール寺院遺跡の場所。
仏塔が規則正しく並んで作られている。
ボロブドール寺院遺跡群1991年世界遺産に登録されました。
ボロブドール寺院遺跡群の保護、日本からも技術協力が行われた。
世界遺産エピソード(2)敦煌 莫高窟発見
敦煌 莫高窟の場所
敦煌莫高窟世界遺産に登録。
敦煌・莫高窟の壁画と、九層楼
莫高窟第17窟発見平面図中央右側
17窟中央部、元々土壁で隠されていたが、偶然見つかり、
役人が報告したが上層部では問題視せず、役人が内部の物品を勝手に外国人に売り処刑されたと言う話が残っている。
世界遺産エピソード(2)兵馬桶の発見
秦の始皇帝陵兵馬桶1987年世界遺産登録、秦の始皇帝陵は水銀で満たされているとの言い伝えが有り発掘によって水銀が拡散されるため、調査が出来ないとの話でした
兵馬桶の位置。
兵馬桶6000体とも8000体とも言われている。
世界遺産エピソード(3)アンコール遺跡群1992世界遺産登録
アンコール遺跡の位置
アンコールワット
2001の大発見、アンコール王朝はジャム侵攻戦争(1432年)で敗れて滅亡されたことが分かった。
作家のアンドレー・マルロが盗掘して持ち出そうとして逮捕されたと言われて居る大変優美な像です。


世界遺産から学ぶ その1

2013年07月30日 | 世界遺産
7月30日
「世界遺産から学ぶ」 その1

1学期最後の授業は
世界遺産から学ぶと言うテーマで、シニア自然大学OBの 石橋 美紀講師から
「世界遺産の基礎知識」を学びました。
尚、石橋講師は第1回の「世界遺産検定試験」を合格されていらっしゃいます。

授業はパワーポイント、DVDビデオを使用し大変解りやすく楽しい授業でした。

画像はスクリーンの画像を撮ったもので、不鮮明な部分が有りますことをお許しください。
又今回のBlogはアップしておきたい画像が多いため、1部・2部に分けてアップします。

レジメ ダブルクリックで大きくなります。

 画像はすべてサムネイルですクリックで大きくなります
講演頂いた石橋美紀講師。

世界遺産検定の一部
世界遺産検定の一部の正解
世界遺産のエンブレムマーク世界遺産の何処かに表示されている。
世界遺産検定の一部その2 答えは一部のみ掲載します。
ヌビア遺跡群(左)トロイ遺跡群(右)どちらも世界遺産です
世界遺産が出来るきっかけとなったヌビア遺跡群救済キャンペーン。
モナリザとダ・ヴインチ最後の晩餐
正解は最後の晩餐が世界遺産です、理由は簡単に持ち運べる物は、世界遺産には成らないとの事でした。
世界遺産の定義、世界遺産は不動産に限る。
桂林(中国)ハロン湾(ベトナム)どちらも景勝地であるが世界遺産はハロン湾、なぜ桂林は世界遺産で無いかは、中国が申請して居ないため、世界遺産はその国が申請して、初めて審査され決定する。
世界遺産はどうきまるの?
世界遺産はどう決まるかの正解。
世界遺産登録基準
富士山の登録経過と今後の課題。
登録が決まった富士山の25の構成資産
登録範囲・構成資産

最近のニュースからを、2項目
シリアの世界遺産が今危機遺産に成っている話題。
日本の歴史的な日記等古文書が世界記憶遺産に登録された記事。

その2は引き続き作業をしますが少し時間がかかりますので完成次第掲載します。

大阪市立住まいの今昔館で全国の民家、大阪の昔を忠実に再現した街並みを見学

2013年07月23日 | 住宅と生活
7月23日

本日は大阪市立住まいの今昔館での校外学習でした。

江戸天保年間の大坂の町を実物大で再現した空間。9階では、木戸門から一歩入ると、大通りの両側には、風呂屋、本屋、建具屋、小間物屋、唐物屋、呉服屋、薬屋が並び、町会所の上にはひときわ高い火の見櫓がある。路地を抜けると、裏長屋の庶民の日常が垣間見られる。
又、7月25日は天神祭りなので、商人の家には、各店が趣向を凝らした「つくりものが」展示されていました。

10時から11時30分頃までは、谷 直樹 館長より日本の各地方の古い民家の特徴などを、画像を使って講義して頂きました。
講義終了後は、4班に分かれガイドさんに館内の説明をして頂きました。


講義して頂いた谷 直樹館長


講義を聞く生徒

各地方の旧家を、沢山画像とともに説明を頂きましたが、1部を紹介します。

室町時代の豪族の住居。現存する民家建造物の中では日本最古のもので、国の重要文化財に指定されています。


建屋内部


桃山期の書院造の建築様式を一部に留める代表的な大庄屋の民家で、昭和12年(1937)に国の重要文化財に指定されました。


茶室と縁、縁のおくの板戸には絵画が描かれてます。


雁木、「雁木造(づくり)」の略。東北や信越などの積雪地方で、町家の軒先からひさしを長く張り出し、その下を通路として、積雪中でも人々が通行できるようにしたもの」


右下は雁木の通り左下は向かい側に渡る雪洞(道)上は雪かき風景、最近は積雪が少なく雁木は必要でない年が多いようです



岩手県遠野市街地、今から200年ほど前に建てられた曲り家です。、作男の15人を含め25人の家族と馬20頭が同じ屋根の下に生活していたこともあるといいます。


大内宿は、会津城下と下野の国(日光今市)を結ぶ32里の区間の中で会津から2番目の宿駅として1640年ごろに整備された宿場町です。写真は昭和34年頃の貴重な写真です。


今は町興しで整備されて多くの観光客で賑わっています。




兜造り(かぶとづくり)は、日本の民家の屋根形式の一つである。かつて日本の武士が用いた兜に似ていることから名付けられた。基本的には寄棟造あるいは入母屋造の屋根のうち、妻側の屋根を切り上げた形式で、東日本各地に分布する。
大変ユニークで親しみが湧きます。


白川郷の合掌作り


重要文化財にも指定されている堀内家住宅。
本棟造(ほんむねづくり)は、長野県の中信地方から南信地方にかけて分布する民家の形式である。切妻造り妻入り、ゆるい勾配の屋根、雀おどしと呼ばれる棟飾り、正方形の間取りなどが特徴。


砺波平野の集落は、緑豊かな屋敷林に囲まれた家々が、平野一面に点在する典型的な散居集落です。
個々の家々は強風の吹きつける西・北・南側の三方に杉を植え、風の少ない東側は垣根を薄くするもので、家の周りは自分の耕作する稲作地となっている。

其の外、山陰地方、愛媛県の外泊、沖縄 竹富島等の旧家の説明が有りました。

此れから以降は今昔館に作られた江戸時代の町屋を忠実に再現した物をアップします。

10階の回廊から見た町屋の屋根。物干し台など懐かしいものも有りました。




木戸を入ると我々が子供のころに、見た事のある様な風景が展開してました。懐かしい火の見櫓も。


7月25日は天神祭りなので、商人の家には、各店が趣向を凝らした「つくりものが」展示されていました。
この「つくりものは」実際に江戸時代作られた絵図によって再現されたものです。
これはしゃもじで作られた「杓小如来」


ほうきで作った「カマキリ」


天神祭りで曳かれた山車「天神丸」


丁度「ギャル神輿」に出合いましたが、人が多くファインダーが覗けず適当に撮った一枚です。

このほか、昔懐かしい、台所、くらしの様子が楽しめます。

くらしの今昔館 URL http://konjyakukan.com/

4班 斑活動

2013年07月18日 | 校外活動
7月2日

先日4班から7/2日授業終了後に班活動計画(巨樹を訪ねて)で、京阪電車の萱島駅の大クスノキを訪ねたデーターが入りましたので、日にちはずれましたがアップします。

場所  京阪電車萱島駅 ホーム
樹木名 楠木 高さ約20m 樹齢700年 幹回り7m
参加者 5名 

昭和47年(1972年)に高架・複々線にした際、地元の人々のクスノキに寄せる尊崇の念に応えて新萱島駅のホーム・屋根に空間を設けてクスノキを残すことになったそうです。

ホーム下には、萱島神社が有り、大クスノキは御神木に成っています。
又、大クスノキの根元には「大楠大明神」の幟と提灯、それに鳥居まで有りました。



京都方面のホームを降りると、反対側ホーム(大阪方面)にホームと屋根を突き抜けて「大クスノキ」が見れエェーと思います。


大阪方面のホームから見た大クスノキ


京阪電車が大クスノキを残した経緯などが書いてあります。


改札を出て、下から見た大クスノキ


ホーム下の萱島神社。


萱島神社の右側大クスノキの根元に大楠大明神が有ります。


見学、お参りも済んで記念撮影。






多田銅銀山跡 「悠久の館」 

2013年07月16日 | 校外授業
7月16日

本日の授業は「屋外授業」で多田銅銀山跡に行きました。

10時に多田銅銀山の資料館「悠久の館」に集合。
3人のボランティアガイドさんに約2時間数周辺の坑道、神社などをを案内して頂きました。

多田銅銀山の概略
多田銅銀山は、猪名川町の銀山を中心に宝塚、川西、能勢、箕面と2府県にまたがる東西約20km、南北約25kmにもおよぶ鉱山地帯で有る。かっての西摂、北摂に含まれる。970(長歴元)年の銀発見に始まり多田荘を治める多田源氏(清和源氏)により管理・開発された。
後の世に豊臣秀吉も注目して、当時の最新技術を使って台所間歩(まぶ)や瓢箪間歩などを開いた。
江戸幕府は、1660(万治3)年に大口間歩で銀の大鉱脈を見つけ、代官所を設けて管理した。当時、銀山村は戸数3,000戸、人口はその3倍余に達したと言われている。
多田銅銀山は、いつの世も、当時の権力者の宝庫で有った。多田銀山として、例えば秀吉が得た銀高は、わずか銀476枚(76kg程度)とされる。生野銀山から秀吉が得た62,267枚(10トン位)の比では無かった。そのため、徳川期には、重要視されなかったものの、寛文年間から昭和年間に至るまで銅銀山として生産を増やした。
明治以降は、堀藤十郎により近代化した最新技術により採掘、精錬がなされた。その後、三菱、日本鉱業に引き継がれて1973(昭和48)年に長い銅銀山の歴史が終わった。

ガイドさんの話によると、先程書きましたが銀山村には3000戸 10,000人が住んで居て「銀山3千軒」と言われ料理屋や花街も有って賑わって居たそうです。
又、過酷な労働条件のために坑内で働く男性の平均寿命は37歳であったそうです。


周辺マップ クリックすると大きくなります。


悠久の館正面 本日は休館日でしたが特別に午前中開館して頂きました。


マップ⑥代官所跡、悠久の館の裏側に有ります。


銀山橋、下は銀山川です、マップ⑩高札場跡の横に有ります。橋を渡った左側が高札場跡


マップ⑩高札場跡 横の灯籠には金毘羅大権現と刻まれていたので、その昔は金毘羅参りが盛んで有った様です。


マップ⑨代官所の門(伝承)と説明板


マップ⑧金山彦神社 鉱山の神様で各地の鉱山に祀られています。


本殿には雪深いためか被い屋根が作られていました。


マップ⑫平炉跡 間歩で採掘された鉱石を製錬した炉跡、周辺はノロが山積みになっている。


マップ③青木間歩の説明板


青木間歩の手掘り時代の坑道口、約2尺×3尺人が何とか入れる大きさ。


青木間歩近代の坑道昭和29年から48年迄使用、坑道奥から入口を望む。


マップ④大露頭は瓢箪𨫤(ひょうたんひ)の鉱脈が地表に現れている物、下は県指定天然記念物で有る事と注意書き、

 
台所間歩の説明版 ククリックすると大きくなります

マップ②台所間歩、江戸時代の文書で大阪城の台所(財政)を潤すほど銀銅の産出が有った。
 

瓢箪間歩の説明版 ククリックすると大きくなります


マップ①瓢箪間歩の坑道口。


左側の階段を上がると遺構・遺構の復元等が有る公園です。


明治時代「堀家製作所」時代の機械の架台の上部