宝暦9年11月(1759)のことです。土佐藩は田野浦の岡徳左衛門から御用銀400貫目を、年1割5分の利息、期限1年間、で御留山の木材を担保にすることで調達するのです。
しかしながら、土佐藩は宝暦10年と翌11年に利銀を払ったのみで以後支払うことが出来ずにいたのです。
銀400貫目とは66,666両にもなる大金です。岡家にしても安易に調達できたはずはないのです。今の金額で50億円を越える額かと思います。
そこで藩は岡家に対し、安永3年(1773)に元利銀の支払いに代えて期限内の伐採権が与えられたのですが、岡家側の都合でそうすることはしなかったと言うか、出来なかったのです。
確かに土佐藩は御用銀の調達の為、山を抵当に入れていたのですし、完済することが出来なかったのですが、明治4年にはその状態のまま藩籍奉還となったことから、訴訟問題が発生してしまったのです。
大正3年2月23日(1914)に原告岡嘉文の敗訴となりました。岡家は元利金合わせて1064貫目360匁の権利を失う事になりました。伐採をしなかったのは岡家の都合だとされたのです。裁判所は、山の所有権を移転することではないとしたのです。
155年後の決着でした。
国有林か民有林かで争われた安芸郡馬路村明所山(あきしょやま)訴訟問題で国側が勝訴となり、昭和4年から魚梁瀬森林鉄道の奈半利川線の工事が始まったのです。途中何年間かの空白を繰り返し、昭和17年11月に奈半利~釈迦ヶ生間が開通、安田川線と合流して、合計84Kmもの循環鉄道が完成したのです。
勝手な解釈かと思いますが、この訴訟問題がなければ、魚梁瀬森林鉄道は奈半利川線から先に建設されたのではないかと考えています。なぜなら逆勾配の場所がなくなるからです。
野根山街道の岩佐の関所で騒動がおきたのは宝暦11年(1761年)5月21日とされています。岡家が土佐藩に資金調達をした2年後のことです。
参勤交代で土佐へ帰路についていた藩主(8代豊敷トヨノブ)が、5月17日に甲浦について18日・19日に野根山街道を越える準備をしていたのですが、幕府の巡検使が高知からの帰路、奈半利から向かっている旨の連絡を受けるのです。
一国の殿様も公儀の監察官には一目置いていたというか、遠慮して急遽、幕府の巡検使に道を譲って山越えを諦め、灘廻りとしたのです。海岸を廻って、砂浜や磯を通行したのですが困ったのはやはり一般民衆でした。殿様が急に来るのですし、何より何百人もの行列が押し寄せてくるのです。道普請はもとより接待まで大騒ぎであったことでしょう。賦役が重なると地域住民は負担が大変だったのです。
全国の大名家では、藩財政の悪化に四苦八苦していたのです。当然ですが、藩の財政が悪化すれば、一般民衆への税負担は厳しくなっていたのです。不平不満が蓄積されて、先行き不安な状態になったのです。
そうした状況も幕末に向かう大きな流れを生み出す基となっていったと考えています。
こうした時代に資金調達をして、幕末を経て明治にも出来ずに、さらに大正になってはじめて決着がついたものの、さて岡家はどうしたのか。どうなったのか興味があるところです。
さらに、どうした理由で木材の伐採をしなかったのだろうか。
調べてみましょう。その岡家の住宅は、今も高知県安芸郡田野町にあります。
「岡御殿」として多くの観光客を迎えているのです。
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しかしながら、土佐藩は宝暦10年と翌11年に利銀を払ったのみで以後支払うことが出来ずにいたのです。
銀400貫目とは66,666両にもなる大金です。岡家にしても安易に調達できたはずはないのです。今の金額で50億円を越える額かと思います。
そこで藩は岡家に対し、安永3年(1773)に元利銀の支払いに代えて期限内の伐採権が与えられたのですが、岡家側の都合でそうすることはしなかったと言うか、出来なかったのです。
確かに土佐藩は御用銀の調達の為、山を抵当に入れていたのですし、完済することが出来なかったのですが、明治4年にはその状態のまま藩籍奉還となったことから、訴訟問題が発生してしまったのです。
大正3年2月23日(1914)に原告岡嘉文の敗訴となりました。岡家は元利金合わせて1064貫目360匁の権利を失う事になりました。伐採をしなかったのは岡家の都合だとされたのです。裁判所は、山の所有権を移転することではないとしたのです。
155年後の決着でした。
国有林か民有林かで争われた安芸郡馬路村明所山(あきしょやま)訴訟問題で国側が勝訴となり、昭和4年から魚梁瀬森林鉄道の奈半利川線の工事が始まったのです。途中何年間かの空白を繰り返し、昭和17年11月に奈半利~釈迦ヶ生間が開通、安田川線と合流して、合計84Kmもの循環鉄道が完成したのです。
勝手な解釈かと思いますが、この訴訟問題がなければ、魚梁瀬森林鉄道は奈半利川線から先に建設されたのではないかと考えています。なぜなら逆勾配の場所がなくなるからです。
野根山街道の岩佐の関所で騒動がおきたのは宝暦11年(1761年)5月21日とされています。岡家が土佐藩に資金調達をした2年後のことです。
参勤交代で土佐へ帰路についていた藩主(8代豊敷トヨノブ)が、5月17日に甲浦について18日・19日に野根山街道を越える準備をしていたのですが、幕府の巡検使が高知からの帰路、奈半利から向かっている旨の連絡を受けるのです。
一国の殿様も公儀の監察官には一目置いていたというか、遠慮して急遽、幕府の巡検使に道を譲って山越えを諦め、灘廻りとしたのです。海岸を廻って、砂浜や磯を通行したのですが困ったのはやはり一般民衆でした。殿様が急に来るのですし、何より何百人もの行列が押し寄せてくるのです。道普請はもとより接待まで大騒ぎであったことでしょう。賦役が重なると地域住民は負担が大変だったのです。
全国の大名家では、藩財政の悪化に四苦八苦していたのです。当然ですが、藩の財政が悪化すれば、一般民衆への税負担は厳しくなっていたのです。不平不満が蓄積されて、先行き不安な状態になったのです。
そうした状況も幕末に向かう大きな流れを生み出す基となっていったと考えています。
こうした時代に資金調達をして、幕末を経て明治にも出来ずに、さらに大正になってはじめて決着がついたものの、さて岡家はどうしたのか。どうなったのか興味があるところです。
さらに、どうした理由で木材の伐採をしなかったのだろうか。
調べてみましょう。その岡家の住宅は、今も高知県安芸郡田野町にあります。
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