夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

思い出の作品 裸婦 清水多嘉示作

2021-06-30 00:01:00 | 彫刻
亡くなった母方の叔父は自分の蒐集品を惜しげもなく小生に見せてくれました。正月や五月の連休、夏季休暇など母の実家に当方の家が近いこともあって、よく訪れては作品を見せていただきました。横山大観、上村松園、片岡球子、安田靭彦、福田豊四郎、福田平八郎、棟方志功、熊谷守一、平櫛田中、高村光雲、浜田庄司、河井寛次郎・・・などそうそうたる作品を直に見せていただき、写真も撮らせていただきました。美術館や図集で作品を観るのとは全く違った知見が得られたように思います。今思うともっと見ておくべき点が多々あったように思います。その作品らは今はすべて手放されて今は観ることもかないません。



*後方の油絵はポール・アイズピリの肉筆作品です。

そのようにして見せていただいた作品の中に「裸婦 清水多嘉示作」というブロンズの彫刻作品がありました。それが下記の作品です。

参考作品
裸婦 清水多嘉示作
ブロンズ 共箱
高さ290*幅120*奥行き145



当時の小生には当時は彫刻類への関心は低かったのですが、平櫛田中、高村光雲、澤田政廣らの作品には感銘を覚えたのを記憶しています。



清水多嘉示の作品は複数あったようにも記憶していますが、記録のあるのはこの作品だけです。色紙帖にも作品があったようなので、叔父とは何らかの親交があったのかもしれません。



共箱に収まっていて、非常に品格の高い作品でした。裸婦像というのはちょっと飾るのには気が引けるよう気がしますが、今なら躊躇なく飾れます。



裏面には刻銘がありますが、他にはなにもなかったように思います。



共箱には下記の書付がありました。このような資料は実物を観ての資料ですので、いろんな意味で役に立ちますね。

  

それ以降、縁があったら清水多嘉示の作品を入手しようと思っており、数度トライしたのですが、資金的にハードルが高ったと記憶しています。

今回は思い切って、資金を投入して下記の作品を入手しました。共箱ではなかったのですが、出来が良く、大きさも大きいので購入しました。

思い出の作品 裸婦 清水多嘉示作
ブロンズ プレート付 裏面に「TS」の刻銘 誂箱
高さ405*幅*奥行き(台座幅:170*170)



「一生の宝物となる骨董品を購入するなら30万円は用意しなさい。」という記事を最近読んだことがあります。小遣い程度の資金で購入するのは、心に余裕があって作品を真剣に判断しないことが多いし、そうそう安くいいものが入手できると思ったら、世の中はそう甘くはないという趣旨であったと思います。同感ですね。



高さが台座を入れて40センチを超えています。これだけ大きな作品は珍しいかもしれません。



清水多嘉示の略歴は下記のとおりです。

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清水多嘉示:(しみず たかし)1897年〈明治30年〉7月27日 ~ 1981年〈昭和56年〉5月5日。長野県諏訪郡原村出身の彫刻家、武蔵野美術大学教授、文化功労者、原村名誉市民である。



1915年、旧制諏訪中学(現在の長野県諏訪清陵高等学校)を健康上の理由で中退。代用教員となる。若くして画才を発揮、当初は画家を志していた。



1917年、岡田三郎助と藤島武二が設立した本郷洋画研究所で学ぶかたわら、中村彝に師事して下落合のアトリエを頻繁に通い、風景や人物を重厚な色彩とタッチで描いていた。
1919年、諏訪高等女学校(現在の長野県諏訪二葉高等学校)教諭を務めた。二科展に入選。(以後渡仏するまで毎回入選した。)



*油彩にも優れた作品を遺しています。上記の写真の作品は「なんでも鑑定団」に出品された作品です。評価金額は状態が悪く40万円でしたが、状態が良ければ60~70万円の評価のようです。

1921年、平野高等女学校、諏訪蚕糸学校教諭。
1923年、絵画を学ぶためパリに渡る。「サロン・デ・テュイルリー」の展覧会でオーギュスト・ロダンの高弟(弟子)、アントワーヌ・ブールデルの作品と出会い感銘を受けた事によって、彫刻へ転向する。ブールデルに師事し、サロン・ドートンヌへ絵画、彫刻を出品、1927年まで毎回入選。アルベルト・ジャコメッティ、藤田嗣治、イサム・ノグチ、小山敬三らと交遊を持った。
1928年、帰国、



1929年、帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)創設に参画し、西洋画科と彫刻科の助教授として教鞭を執る。(1948年、武蔵野美術学校教授、1962年からは彫刻科の主任教授を務め、1969年には武蔵野美術学園初代学園長に就任で、教授を退任するまで現在の彫刻学科における美術教育の基礎を築いた。)
ブロンズ彫刻で、院展、国画会の国展、春陽会展、サンパウロ・ビエンナーレ国際現代美術展などに出品。
1943年新文展審査員。生命感にあふれるブロンズ像で高い評価を受けた。



戦後は日展に出品、日展審査員、
1950年、日展運営会参事、
1953年、芸術選奨文部大臣賞受賞、
1954年、「青年像」で日本芸術院賞、
1958年、日展評議員、
1965年、日本芸術院会員、日展理事、勲三等瑞宝章受章、日展常務理事、
1971年、東京国立近代美術館評議員、
1973年、日展顧問。
1980年には文化功労者。同年に油絵、彫刻を含め清水の作品を一堂に集めた、原村「八ヶ岳美術館」がオープンする。



1981年、正四位勲二等瑞宝章を授与された。その年、84歳で死去。



日本を代表する彫刻家として近代彫刻の発展に貢献し、その生涯に残した作品群は、地元地域、長野県内、全国各地で見られ、特に学校、公共施設等に多く展示されている。

*作品は亡くなる前年にオープンした八ヶ岳美術館に数多くあるようです。

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本作品にはプレートが付いており、プレートには「日本芸術院会員 日展顧問」と記されており、プレートの取り付けられた時期にもよるでしょうが、「1965年、日本芸術院会員 1973年、日展顧問」という資料から1973年(76歳)以降の晩年の作と推定されます。





裏には「TS」という刻銘があり、冒頭の作品と書体が一致します。冒頭の作品のほうが若い頃かもしれません。



なんでも鑑定団の作品には「裏に岡本謙三という人物が鋳造したという刻印があり、彼は1950年代以降清水が亡くなるまで鋳造を担当した。」とありますが、本作品の裏面には鋳造者の名前は見当たりません。



インターネット上の資料には「なんでも鑑定団」に出品された作品があるようです。本作品よりは小さめの作品のようです。いずれも鋳造ですので幾つの作品が存在するのか不明ですね。

参考作品 なんでも鑑定団出品作 2015年11月17日放送
裸婦 清水多嘉示作
作品サイズ不詳 鑑定評価金額:250万円



評:1965年頃の作品。裏に岡本謙三という人物が鋳造したという刻印があり、彼は1950年代以降清水が亡くなるまで鋳造を担当した。さらに少しかすれているが「TS」という清水のサインが入っている。近代彫刻といえばロダン、ブールデルだが、その流れを組む、日本では貴重な彫刻家。細部にこだわらず、フォルムを大らかに造形していく。何といっても内からにじみ出る生命感、力強さ。女性が見ても好感のもてる健康的な美しさがある。

「日本では貴重な彫刻家。細部にこだわらず、フォルムを大らかに造形していく。何といっても内からにじみ出る生命感、力強さ。女性が見ても好感のもてる健康的な美しさがある。」という評は的を得ている表現ですね。



本作品を眺めていると、まだ当方が若かりし頃、セミの鳴く縁側で亡き母らを交えて、お薄を頂きながら叔父と骨董談義したことが昨日のように蘇ります。



本作品を家内が眺めて「私とそっくりね。」だと・・、「腰のあたりがちょっと・・・」と小生がつぶやく。現在の夜噺骨董談義・・。

あらためて健康美溢れるじっくり鑑賞・・。



























さて本作品を入手してから下記のような作品を見つけました。



スケッチ 裸婦 清水多嘉示筆
紙本額装 印刷
全体サイズ:横428*縦545 画サイズ:横290*縦396

 

同じポーズの裸婦の彫刻像が清水多嘉示には複数存在することから、本作品のためのスケッチとは断定できませんが、廉価でしたのでこのスケッチを購入しました。こちらの作品は残念ながら印刷であり、印章が当方の資料(叔父が所蔵していた「裸婦像」の共箱の印)とはちょっと違うのはそのためかもしれません。



印刷の作品ですが、彫刻像と一緒に保管しておきます。



*箱を誂えて保管しています。保管方法はいろいろでしょうが、きちんとした保管とするのは蒐集家の役割だろうと思います。



現在の当方の蒐集は叔父の蒐集には足元にも及びませんが、いろいろな思い出と関連する作品として箱を誂えてスケッチ(印刷)とともに保管しておくことで将来へバトンタッチできるかもしれません。







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