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夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

お気に入りの作品 鯉 金島桂華筆 その4

2023-11-01 00:01:00 | 日本画
日本画の作品をまくりの状態(表具されていない、もしくは襖や屏風、掛け軸から作品部分だけを剥がした状態)にて入手することがよくあります。作品を見極めてから、費用対効果を判断して表具するか否かを判断することになります。

本日、表具した作品は真贋の判断がつかず、最終的に迷いながらも表具することにした作品です。

虎之図 伝立原杏所筆
紙本水墨
画サイズ:縦1170*横580



作品自体は以前にブログにて紹介したことのある作品です。立原杏所については下記のような逸話があります。

立原杏所は主君であった斉昭から目前で書画を行うことを命じられますが、立原杏所は書画をよくしたが画工の様を見られるのは好まなかったようです。そこで、使い古しの巾を袂から出し、それを硯に浸して紙に投げつけたところ、墨が飛び散り主君の斉昭の袴を汚してしまいます。斉昭が「何をするのか」ととがめると、「葡萄を画いてご覧に入れます」といい、瞬く間にその書画を完成させ、一座を感嘆させたという。立原杏所の放達ぶりな性格を示す逸話となっていますが、その作品には謹厳にして高い品格を漂わせ、すっきりと垢抜けた画風が多いと評されています。決して主君との折り合いが悪いわけではなく、立原杏所の次女は斉昭の側室(利子)となっています。

幼い頃、現在評価の高い林十江に画筆を学び、さらに父の門下で鮎画の名手であり、本ブログでたびたび紹介している小泉斐(壇山)などに師事しています。また僧・月僊にも学び、江戸小石川藩邸勤務となってからは谷文晁に師事しています。

さらには本ブログでも紹介している渡辺崋山・椿椿山・高久靄厓とも交流があり、華山が蛮社の獄で捕縛された時には、椿山らと共に不自由な体をおして救出に助力・助言をし、藩主斉昭の斡旋を図ろうとしている。長女は崋山門下十哲のひとりに数えられる南画家・立原春沙です。
 



上記の作品は下記の作品と同時に入手した作品です。どちらとも真贋不明・・。

水墨山水図 伝立原杏所筆
紙本水墨 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1805*横495 画サイズ:縦1325*横340



さて本日の作品ですが、当方の画題としての蒐集対象として「鯉」があり、この度金島桂華の作品を入手しましたので紹介します。



お気に入りの作品 鯉 金島桂華筆 
紙本着色額装 共シール 誂えタトウ+黄袋
P12号 額サイズ:縦640*横790 画サイズ:縦460*横610



インターネットオークションにて5万円にて落札・・・、これはかなり廉価にての入手だと思っています。

金島桂華については本ブログにて4作品目の作品紹介ですが、あらためて画歴を紹介すると下記のとおりです。

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金島桂華:(かなしま けいか)1892年6月29日~1974年9月14日) 日本画家、日本芸術院会員。福山市名誉市民

*落成款識:「桂華」 「玲瓏」 「桂華画印」 「金桂華氏」 「政印」 「金嶋桂華」 「蕾隆廬主」 「李光」 「桂華李光」

広島県安那郡湯田村(現・福山市神辺町湯野)に父儀一郎、母シナの長男として生まれる。本名は政太(まさた)。

絵の勉強は平井直水に師事、竹内栖鳳主催の竹杖会では西山翠嶂、西村五雲、橋本関雪、土田麦僊や小野竹喬、徳岡神泉、池田遙邨あるいは大村廣陽と同門です。橋本関雪とは1917年、共に揚子江を旅しています。私塾の衣笠会を主催し、藤島博文など後進の育成に努め、四条派と院体風を取り入れた花鳥画を得意としました。万鉄五郎とは金島の妻が加わった参禅の会を介して知己を得ています。

なお1914年と1923年に、鎌倉・円覚寺と京都・妙心寺で禅の修行を行いました。



1925年(大正14年)帝展で「芥子」が特選、これは桂華の代表作の一つとなります。
1927年「鳴子九皐」(宮内省買い上げ)、
1928年(昭和3年)「牡丹」で特選。
1929年(昭和4年)には小野竹喬や大村廣陽とともに帝展無鑑査に推薦されています。
1930年から1939年に亘り京都市立美術工芸学校にて教鞭をとります。
1934年(昭和9年)帝展審査員に選ばれました。これ以降文展や新日展の審査員を務めることとなります。

1930年代半ばから日本画壇を支えるために力を貸し、「国防費献金京都日本画家有志会」の設立メンバーの一員として1937年(昭和12年)8月、石崎光瑤、登内微笑、堂本印象、中村大三郎、宇田荻邨、山口華楊、梥本一洋、福田平八郎とともに作家に呼びかけ、寄贈された作品の頒布会を開きました。これを「京都日本画家献画運動」と呼び、およそ80名から寄せられた作品の代金をまとめて1万円(当時)としたようです。献金は第十六師団を通じて陸軍に寄せられました。

日展では1950年(昭和25年)に運営会参事に加わると第8回出品作「鯉」に対して芸能選奨美術文部大臣賞を受賞。
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960年(昭和35年)理事、1969年(昭和44年)同じく顧問に就く。また第9回出品作「冬田」に対し1954年(昭和29年)に日本芸術院賞を受け、1959年(昭和34年)になると児玉希望、小糸源太とともに3月に第一部新補充会員に序せられました。ところがこのとき日本画分野の審査で金島と同票だった宇田荻邨は有資格者でありながら、年長の金島のみ当選させたと松林桂月と鏑木清方、安田靫彦が抗議しました。本来であれば選外となった場合は改めて推薦を受け審査の対象となるところ、宇田を日本美術院初の保留会員として扱い、欠員を生じたとき無投票で当選させることが決まったそうです。

1974年(昭和49年)9月14日、肝性脳症のため京都市内の病院で死去、享年82歳。



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金島桂華は1952(昭和27)年の第8回日展に出品の「鯉」が芸術選奨美術文部大臣賞しており、日本画が好きな方なら彼の作品のひとつ「鯉」は一度くらい見かけているでしょうね。



金島桂華は四条派に中国・宋の院体派を取り入れた、その優美な花鳥画は徹底した写実に基づいて描かれています。
 


たとえば代表作「葡萄とダリア」(華鴒大塚美術館所蔵)は、ダリアの花と葡萄を対にして、下部に鶏を組み合わせた華やかな作品ですし、切手としても知られている「画室の客」(京都市美術館所蔵)は、モダンな色彩の中に犬二匹が描かれ、その独特な構図が印象的です。



金島桂華は自ら筆をとるだけではなく、画塾「衣笠会」を主宰し、後進の育成にも尽力しました。晩年には、高野山金剛峯寺の奥之院襖絵も彼が手がけました。緻密な自然観察をもとに、四季の彩りを作品に織り込んだ桂華はまた、その鋭い眼差しを感じさせる素描類も多く残しています。日本における花鳥画の第一人者として長い期間、活躍しました。



また、彼は時折、書家としても活動していたようです。日本画家として掛け軸などを中心に制作していましたが、彼の書は力強く、それでいて繊細な印象を与えます。やはり、絵画も書道も同じなのでしょうか。

本作品からは金島桂華という人間の持つ芸術性が強く発揮されているようなインスピレーションを受けます。

*額も出来もなかなかいいもののようですね。



1930年に東京都芝に創業して以来、70年余りにわたり続いてきた多聞堂の額のようです。



現在は本社を赤坂に移転しているようです。



本作品の印章は白文朱方印の「金桂華氏」です。文献の資料では下記の写真の右であり、一致すると判断していいのでしょう。

  

しばし展示室の廊下に飾って楽しみたいと思います。



楽しめる作品が身近のあるのは、日々の生活にハリが出るものです。



























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