夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

説色不老長春白鶴図 岡本秋暉筆 その3

2014-12-08 05:18:34 | 掛け軸
本ブログは基本的には骨董に関する知識のためのブログですので資料的な記載が多いのはご了解願います。

骨董の蒐集はすべての作品が本物とはいかないものです。すべての作品が最初から本物という人は、資金があって最初から信頼のおける美術商や信頼のあるお店から購入できる人でしょうね。人生と同じで最初からすべて正しいものばかりではなく、過ちを繰り返してどんどん良いものが集まってくるもののように思います。そして、人生と同じでなにが一番大切なことなのかが徐々にわかってくるものです。

残念なことにそのように進捗する人はほんの一握りの人だけのようで、何が一番大切かを知らずガラクタを集める輩が多いのです。さらにはほとんどの人は人生の大切なものを蒐集しようとすらしない・・・。

本日の作品は「若沖の鶏」、「光起の鶉」、「租仙の猿」などと並んで「秋暉の孔雀」と通り名で称される岡本秋暉という画家の作品ですが、非常に偽物の多い人で、今でいう流行作家でしたので当時から贋作が多かったそうです。孔雀などの極彩色の花鳥画が得意で注文もここに集中したとのことです。

ただし、本作品は真作と断定してよいと思われます。鑑定箱書きよりも出来そのものからの当方の判断です。


説色不老長春白鶴図 岡本秋暉筆 その3
絹本着色軸装 軸先象牙 中原家旧蔵 玉木環斎並び渡辺華石鑑定箱入 布製タトウ入 
全体サイズ横580*縦2070 画サイズ横420*縦1215



新年のめでたい画題でもありますね。長寿を願った鶴の図です。



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岡本秋暉:生没年には諸説あり、文久2年没(1862年)、享年57歳で没したという説が有力です。名は隆仙、字は柏樹、通称祐之丞。号は「秋暉」、晩年は「秋翁」と号した。

小田原藩大久保侯の家臣で、画を大西圭齋、渡辺崋山に師事したといわれ、椿椿山とともに崋山十哲に数えられる。一説には、崋山とは絵画を通じた友人関係であり、師弟関係はなかったともいわれている。いずれにせよ、谷文晃に端を発する関東文人画系に位置付けられる画家である。

画風は沈南蘋によって日本に伝えられた明清画、円山応挙に代表される写生画、渡辺崋山、弟子である椿椿山によって描かれた崋椿系など、それぞれ画趣を想起させる作品、更には、伊藤若沖の動植採絵に描かれる奇想を彷彿とさせる作品を遺している。極彩色の花鳥画を得意とし、独特の濃密な作風は、南蘋派・円山派。崋椿系の影響を受けつつも一線を隠し、特異な趣きを持つ。

特に孔雀の描写には定評があり、「若沖の鶏」、「光起の鶉」、「租仙の猿」などと並んで「秋暉の孔雀」と通り名で称される。

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渡辺華石:1852-1930 明治-昭和時代前期の日本画家。嘉永(かえい)5年10月生まれ。渡辺崋山の次男小華にまなび,その死後,渡辺家をつぐ。山水人物画を得意とした。昭和5年11月6日死去。79歳。尾張出身。旧姓は小川。名は静雄。字(あざな)は規道。編著に「崋山画談」「崋山真蹟(しんせき)」。日本画家・渡辺崋山・椿椿山の絵の鑑定家。

   

箱書きには「秋暉出於南蘋□写生□花弁□毛□最此幅作老松□春□丹□筆力道□布□工□□□□生岩其為其臨□□美 華石渡邊題鑑 押印」とあり、化粧タトウには「岡本秋暉 説色不老長春白鶴図 華石渡邊□題鑑 押印」とあります。



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玉置環斎:画家。文政12年(1829)江戸生。通称清之進。画を戸塚茗渓の門に学ぶ。明治年間の人。鑑定箱書きには「甲辰之秋七十六翁環斎題記」とあり、明治37年(1904年)、玉置環斎が76歳の鑑定であると断定できます。また巻止めには「秋暉老人松鶴図 環斎老逸記 押印」とあります。

                                             
戸塚茗渓:(1809頃~54)名は榮之,通称・門吉。 高松藩留守居寄合。 江戸に住する。号は御茶ノ水畔に住んだことによる。(茗は茶のこと) 花鳥人物画に妙なり。谷文晃に端を発する関東文人画系に位置付けられる画家であると推察されます。

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中原氏(なかはらうじ):「中原」を氏の名とする氏族。安寧天皇の第三皇子である磯城津彦命が源流と言われている。はじめは十市首氏であったが、971年(天禄2年)に十市有象・以忠が中原宿禰姓に改め、974年(天延2年)に中原朝臣姓を賜ったことに始まった。 また、大和の国衆十市氏が中原氏を称していた。中原氏は十市県主に由来するともいえる。地下の中では上位であったが、公卿を輩出することは無く堂上にはなれなかった。中原氏は明法道、明経道を司る家系で、大外記、少外記を世襲職とする朝廷の局務家として長く続いた。また東市正を世襲し、京都の行政に深く携わった。中原師任(もろとう、始祖・有象(ありかた)の孫)の後、その子である師平流と貞親流の二つの血統に分かれ、特に貞親流からは中原親能のように鎌倉幕府と関係を持つ者も現れた。親能の養子となった中原師員の子孫は摂津氏を称し、鎌倉・室町の両幕府の実務面で活躍した。師平流からも中原師元(師尚、平清貞の父)などを輩出している。中原氏嫡流の押小路家は地下家筆頭の家として存続し、 明治時代には華族に列せられ、男爵となった。
本作品を所蔵していた「中原」との関係は一切不明です。

 


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本作品の特徴は鶴の奇異な足の構図とその表情でしょう。



奇異な表情ではありますが、作品そのものに迫力を与えています。



岡本秋暉の面目躍如たる堂々たる作品です。

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岡本秋暉 補足事項
岡本秋暉(1807~62):江戸芝に彫金家・石黒政美(まさよし)の次男として生まれる。母の実家で町医者だった岡本家に男子がなかったため、養子に入る。小田原藩士の養子となった秋暉は初め、宋紫石に師事し奥平藩のお抱え花鳥画絵師と言われる大西圭斎に弟子入りする。江戸屋敷に勤務するかたわら、藩の御殿を飾る障壁画を制作したり、また絵師として藩とは関係なく注文を受けたりした。鳥の羽根の美しさを描き出す秋暉の画風は、中国人画家沈南蘋の画風を学んで、南蘋の精緻な描写と華麗な彩色は江戸時代中期以降の日本絵画に大きな影響を与えた。また秋暉は渡辺崋山、椿椿山と親しく交わっていた。なお、秋暉と鵞湖には共通の知人も多く、面識があったものと思われます。秋翁は晩年の号。



大変にお酒の好きな人で逸話も多く、小田原の生んだもっとも誇るべき画家と言われ、幕末の記録も残ってはいるものの、その存在は伝説的で不明なことも多い。岡本秋暉の描く極彩色の花鳥画は、花鳥画の世界に於いて、他の追随をゆるさないとまで評価され、花鳥画の世界に多くの名品を残したが、生前からの評価も高かったため、江戸時代当時すでに、岡本秋暉の偽作を専門に手掛ける偽作者もいたと言う。




人付き合いはあまりせず、画業の妨げになると言って自ら出世を断つようにして制作へと集中をし、しかし、槍術、馬術では藩中で一位、ニ位の腕前と言われていた様子からも、多芸に秀でる、





天才肌の人だった推察される。清貧を通した岡本秋暉は二宮尊徳(金次郎・金治郎) との交友もあり、岡本秋暉が障子の隙間から観察して、二宮尊徳の肖像画を描いてゆく話しは有名である。



本秋暉は大西圭斎、渡辺崋山に学び、渡辺崋山の弟子「崋山十哲」の一人とも言われているが、正しくは谷文晁の弟子で渡辺崋山とは同門になる大西圭斎が師となり、渡辺崋山と岡本秋暉は友人の間柄であった。



渡辺崋山が国事に座して網駕篭で国元へと送られるさいに、事情を知り驚いた岡本秋暉は浅草海苔を掴むと、直ぐに家を飛び出し渡辺崋山の駕篭を追い掛け日夜走って追い付いた後も、面会が許されなかったために、さらに駕篭を追い掛けて東海道を下ってゆく話しは有名で、渡辺崋山と岡本秋暉の親交の厚さをいまに伝えている。岡本秋暉の花鳥画は人気も高く、日本は当然として海外の美術館へも多くの作品が所蔵されている。




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表具や軸先などにも気を使っている作品ですね。



未来に向けて伝えたい作品のひとつです。



岡本秋暉の本ブログに投稿した作には下記のものがあります。

岩上孔雀ニ牡丹図 岡本秋暉筆絹本着色金泥絹装軸 軸先象牙 渡辺華石鑑定箱 
全体サイズ:横563*縦1968 画サイズ:横431*縦1185

この作品は「若沖の鶏」、「光起の鶉」、「租仙の猿」などと並んで「秋暉の孔雀」と通り名で称され孔雀を描いた作品です。

松に鶴図 岡本秋暉筆絹本着色絹装軸修復時代箱入 
全体サイズ横672*縦1890 画サイズ横515*縦1265

この作品も鶴を描いた作品ですが、蒐集し始めた頃の作品ですが、なかなかの傑作と思っています。綺麗に撮れた写真ではないので、いつか再撮影して再投稿したい作品のひとつです。

人生で大切なものは骨董と評しているわけでありませんよ。人生はいろんな経験をしてなにが大切なのかを学び、大切にすることを学ばなくてはいけません。不思議なことに先天的に理解している人もいれば、なんども過ちを繰り返して苦労して学ぶ人もいます。当然、私は後者・・・。








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2 コメント

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玉置環斎について (柏崎 郁夫)
2015-09-09 03:22:13
教えてください!<m(__)m>

玉置環斎のことを調べています

識箱はこの記事の写真とそっくりなのですが、どんな字を書いたのか、調べたく思っています
玉置環斎の書いた書の資料をお持ちでしょうか?
もしございましたら、見せていただきたく、お願い致します
よろしくお願い致します

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残念ながら・・ (夜噺骨董談義)
2015-09-09 23:50:24
誠に残念ながら「玉置環斎」については、かなりマイナーは画家のようで、本ブログに記載した以上のことは解りませんでした。

ご了解下さい。またなにか後日わかりましたら、連絡します。
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