夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

岩上孔雀ニ牡丹図 岡本秋暉筆

2012-12-24 05:20:04 | 掛け軸
最近の金曜日に今、骨董業界は盛況であるとのニュースが放映されていました。鶴田浩二旧蔵の中国絵画が高額売買になったのを例に取材していましたが活況なのでしょうか・・、どうでしょうかね? 特殊な例かと思われます。

鶴田浩二のお嬢さんで三女のジャズシンガーという方が中国の古絵画を手放されていましがら、派手な生活をしてお父上が他人から戴いた作品を手放すという根性が気に入りません。持つ資格がないということでしょう。実家に古くからある作品も手放す、生活の困っていないのなら派手な生活をやめればいいのです。
骨董は人を見ます。資格のない人にはものは寄り付きません。持っていても骨董は持ち主から離れて、坂を転げるように人は落ちるところまで落ちていくものです。親、ましてや先祖代々の骨董を処分して成功した人を見たことがありません。

クリスマスのご馳走は七面鳥・・、この画題は平福百穂の作品にて投稿しました。

さて本日は「若沖の鶏」、「光起の鶉」、「租仙の猿」などと並んで「秋暉の孔雀」と通り名で称される画家の作品です。

松に鶴図 岡本秋暉筆絹本着色絹装軸修復時代箱入 
全体サイズ横672*縦1890 
画サイズ横515*縦1265

についで二作目の投稿となります。大胆な構図と長崎派のように緻密で彩色豊かなことがこの画家の特徴です。その中でも孔雀の絵がこの画家では有名です。



岩上孔雀ニ牡丹図 岡本秋暉筆
絹本着色金泥絹装軸 軸先象牙 渡辺華石鑑定箱 
全体サイズ:横563*縦1968 画サイズ:横431*縦1185



孔雀を描いた代表的な作品。岡本秋暉の作風を表した一品といると思います。




背景の描き方が未だ稚拙に感じられるところが特徴と言われています。






「丙申□□月 秋暉作 印章」と落款があり。天保7年(1836年)岡本秋暉が31歳頃の作品であり、まだ若いときの作品らしいです。



印章は「隆仙之印」の朱文白方印、「□高」の白文朱方印が押印されている。右下には「烟霞□」の朱文白楕円印が押印されています。



 

表には「岡本秋暉 設色花鳥之圖 単幀」と書され、裏側には「秋暉設色牡丹図筆墨沈厚布□工□卒□色中自有生意 □秋暉□□也□□□□遂一□□□□真□ 簽 □在戊辰□春 於東□々学堂 華石渡邊□□」とあり、昭和3年(1928年)渡邊華石の最晩年の鑑定です。

 

渡辺華石:1852-1930 明治-昭和時代前期の日本画家。嘉永(かえい)5年10月生まれ。渡辺崋山の次男小華にまなび,その死後,渡辺家をつぐ。山水人物画を得意とした。昭和5年11月6日死去。79歳。尾張出身。旧姓は小川。名は静雄。字(あざな)は規道。編著に「崋山画談」「崋山真蹟(しんせき)」。日本画家・渡辺崋山・椿椿山の絵の鑑定家。


  

渡邊華石の鑑定箱書きもあまり信用にはなりませんので、あくまでも参考程度にしておかなくてはいけません。


参考作品との比較
富貴双麗図
思文閣墨蹟資料目録「和の美」第441号 作品NO30





 

下記からはインターネットからの説明の引用です。


岡本秋暉:生没年には諸説あり、文久2年没(1862年)、享年57歳で没したという説が有力です。名は隆仙、字は柏樹、通称祐之丞。号は「秋暉」、晩年は「秋翁」と号した。小田原藩大久保侯の家臣で、画を大西圭齋、渡辺崋山に師事したといわれ、椿椿山とともに崋山十哲に数えられる。一説には、崋山とは絵画を通じた友人関係であり、師弟関係はなかったともいわれている。いずれにせよ、谷文晃に端を発する関東文人画系に位置付けられる画家である。



画風は沈南蘋によって日本に伝えられた明清画、円山応挙に代表される写生画、渡辺崋山、弟子である椿椿山によって描かれた崋椿系など、それぞれ画趣を想起させる作品、更には、伊藤若沖の動植採絵に描かれる奇想を彷彿とさせる作品を遺している。






極彩色の花鳥画を得意とし、独特の濃密な作風は、南蘋派・円山派。崋椿系の影響を受けつつも一線を隠し、特異な趣きを持つ。特に孔雀の描写には定評があり、「若沖の鶏」、「光起の鶉」、「租仙の猿」などと並んで「秋暉の孔雀」と通り名で称される。





岡本秋暉補足事項

岡本秋暉(1807~62):江戸芝に彫金家・石黒政美(まさよし)の次男として生まれる。母の実家で町医者だった岡本家に男子がなかったため、養子に入る。小田原藩士の養子となった秋暉は初め、宋紫石に師事し奥平藩のお抱え花鳥画絵師と言われる大西圭斎に弟子入りする。江戸屋敷に勤務するかたわら、藩の御殿を飾る障壁画を制作したり、また絵師として藩とは関係なく注文を受けたりした。鳥の羽根の美しさを描き出す秋暉の画風は、中国人画家沈南蘋の画風を学んで、南蘋の精緻な描写と華麗な彩色は江戸時代中期以降の日本絵画に大きな影響を与えた。また秋暉は渡辺崋山、椿椿山と親しく交わっていた。なお、秋暉と鵞湖には共通の知人も多く、面識があったものと思われます。秋翁は晩年の号。




大変にお酒の好きな人で逸話も多く、小田原の生んだもっとも誇るべき画家と言われ、幕末の記録も残ってはいるものの、その存在は伝説的で不明なことも多い。岡本秋暉の描く極彩色の花鳥画は、花鳥画の世界に於いて、他の追随をゆるさないとまで評価され、花鳥画の世界に多くの名品を残したが、生前からの評価も高かったため、江戸時代当時すでに、岡本秋暉の偽作を専門に手掛ける偽作者もいたと言う。

本作品は真作です。表具もいい表具です。




人付き合いはあまりせず、画業の妨げになると言って自ら出世を断つようにして制作へと集中をし、しかし、槍術、馬術では藩中で一位、ニ位の腕前と言われていた様子からも、多芸に秀でる、天才肌の人だった推察される。清貧を通した岡本秋暉は二宮尊徳(金次郎・金治郎) との交友もあり、岡本秋暉が障子の隙間から観察して、二宮尊徳の肖像画を描いてゆく話しは有名です。


軸先は本象牙です。





岡本秋暉は大西圭斎、渡辺崋山に学び、渡辺崋山の弟子「崋山十哲」の一人とも言われているが、正しくは谷文晁の弟子で渡辺崋山とは同門になる大西圭斎が師となり、渡辺崋山と岡本秋暉は友人の間柄であった。辺崋山が国事に座して網駕篭で国元へと送られるさいに、事情を知り驚いた岡本秋暉は浅草海苔を掴むと、直ぐに家を飛び出し渡辺崋山の駕篭を追い掛け日夜走って追い付いた後も、面会が許されなかったために、さらに駕篭を追い掛けて東海道を下ってゆく話しは有名で、渡辺崋山と岡本秋暉の親交の厚さをいまに伝えている。岡本秋暉の花鳥画は人気も高く、日本は当然として海外の美術館へも多くの作品が所蔵されている。

本作品は岡本秋暉がまだ31歳と若いときの作品であり、円熟期ではない作品ながら、大胆な構図とその緻密さから、岡本秋暉の代表作といえるものと思われます。


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