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夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

百穂遺芳(秋田十二景) 平福百穂筆 その160

2025-06-29 00:01:00 | 日本画
蒐集には資料として必要なものも対象となりますが、印刷物などは一般的に流通しているものは徐々に対象外となり、稀有な資料が必要になるものです。



百穂遺芳(秋田十二景) 平福百穂筆 その160
紙本印刷画集 12枚綴り 
製作時期不詳 サイズ:縦290*横225



「遺芳」とは後世に残る筆跡や遺墨のことです。



秋田の景色の作品ばかりですので、秋田県内で発刊された可能性もありますね。



「平福□遺墨 伊藤昇?様へ 内」とカバーに記されています。伊藤昇?とは1912年(明治45年)仙北市田沢湖田沢生まれの日本画家です。1993年(平成5年)神奈川県鎌倉市で没しており、享年81歳。角館町出身の日本画家・平福百穂の最晩年の弟子でもあります。

 

平福百穂は1908年「安藤はる」と結婚して青山に住みます。1910年に長男一郎生まれますが、3月に離婚しています。1913年(大正2年)に鷹野ますと再婚しており、「内」とは「鷹野ます」のことかもしれません。

図集の作品は下記のとおりです。

千秋公園

千秋公園:秋田県秋田市の久保田城跡にある都市公園(総合公園)及び地名。「千秋公園(久保田城跡)」として秋田市指定名勝に指定されています。久保田城の本丸・二の丸跡地に整備されたものです。名称は秋田市出身の漢学者狩野良知による命名(当初は「千秋園」)で、秋田の「秋」に長久の意の「千」を冠し、長い繁栄を祈ったものと伝えられています。園内には緑が多く、復元された久保田城御隅櫓・本丸表門が藩政時代の雰囲気を今に伝えるほか、園内にはあきた芸術劇場ミルハスや秋田市立中央図書館明徳館、秋田市文化創造館、秋田市立佐竹史料館などがあります。



雄物川

雄物川:穀倉地帯である横手盆地を北へ流れ、大仙市大曲で玉川が合流する付近から流路を西寄りに変えています。出羽丘陵のやや狭搾した場所を蛇行しながら北西に向かい、秋田市に入り平野部に出ると秋田市街の南部を流れ、秋田市新屋町で日本海に注ぎます。本流筋にはダムが無いため、大雨が降ると水嵩が急増するが夏季の渇水期にはかなり減ります。堰などの河川施設が少ないのでカヌーが利用でき、船着き場なども整備されています。
明治期に奥羽本線が全通するまで水運が盛んに行われ、上り舟は海産物などを、下り舟は米など農産物を主な積み荷としていました。古くは「大川」とも呼ばれていましたが、御物(年貢米)を運んだことから「御物川」「御貢川」などと呼ばれ、これが転じて「雄物川」になったようです。



押印されている印章は押印例が少なく、非常に貴重な資料となります。

 

男鹿島 

男鹿島:現在は秋田県には男鹿島というものは存在しないようです。男鹿半島は、秋田県北西部にある日本海に突き出た半島で、かつて沖合にあった男鹿島に砂州が成長してつながった代表的な陸繋島となっています。男鹿半島は約6,000年前には日本海に浮かぶ「男鹿島」であったようです。秋田市を流れる雄物川と能代市を流れる米代川の砂が海流により運ばれて(砂州)、「男鹿島」とつながって男鹿半島と中に八郎潟が形成されました。従って、内陸のように男鹿半島には大きな河川がありません。 

平福百穂の生存中には男鹿半島にある島を男鹿島と称したのでしょうか?




象潟舊迹(旧跡)

象潟:秋田県にかほ市象潟地域の地形です。現在は陸地ですが、かつては潟湖(入り江)で、潟湖に島々が浮かぶ風光明媚な景勝地でした。「東の松島 西の象潟」と謳われ、同じく東北地方の景勝地の松島と並び称されていました。

流入河川がもたらす土砂の堆積や湿性遷移 によって潟湖が埋まり、最終的には地震の隆起によって象潟湖の陸地化は決定的なものとなった。現在も60ほどの島々が水田地帯に点々と残されており、当時のまま九十九島という名称が付けられています。田植えの季節で、一帯の田圃に水が張られると、往年の潟湖の時代の象潟を髣髴とさせる風景が浮かび上がり、当時の光景を偲ぶことができるようです。



この作品らの印章も非常に珍しいものです。

 

十和田湖

十和田湖:青森県十和田市と秋田県鹿角郡小坂町にまたがるカルデラ湖。この湖から唯一流出する奥入瀬川が、湖東岸より北東方向に太平洋に向かって流れ、湖から約14 kmにわたる奥入瀬渓流となっている。

1908年(明治41年)に文人の大町桂月が初めて十和田湖を訪れ、1921年から1923年にかけて周辺を探勝し、その素晴らしさを紹介して以降は、風光明媚な観光地として知られるようになった。しかし2003年 ~2004年ごろの300万人をピークに観光客は減少を続け、特に東日本大震災のあった2011年には大きく数が減少しました。その後回復傾向にあるとはいえ、2014年でも最盛期の2/3に満たないでいます。この影響で、宿泊施設 や土産物屋の休廃業が相次ぎ、これらが集まる休屋地区は「廃屋通り」と呼ばれるほどの惨状を呈しています。



田沢湖

田沢湖:秋田県仙北市にある淡水湖で、日本で最も深い湖とされます。

田沢湖周辺には、(イワナを食い)水をがぶ飲みして龍の体になった辰子と八郎がやがてめぐり合って夫婦になったという伝説がああります。

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田沢湖のほとり神成村に辰子という名の娘が暮らしていた。辰子は類いまれな美しい娘であったが、その美貌に自ら気付いた日を境に、いつの日か衰えていくであろうその若さと美しさを何とか保ちたいと願うようになる。辰子はその願いを胸に、村の背後の院内岳は大蔵観音に、百夜の願掛けをした。必死の願いに観音が応え、山深い泉の在処を辰子に示した。そのお告げの通り泉の水を辰子は飲んだが、急に激しい喉の渇きを覚え、しかもいくら水を飲んでも渇きは激しくなるばかりであった。狂奔する辰子の姿は、いつの間にか龍へと変化していった。自分の身に起こった報いを悟った辰子は、田沢湖に身を沈め、そこの主として暮らすようになった。

辰子の母は、山に入ったまま帰らない辰子の身を案じ、やがて湖の畔で辰子と対面を果たした。辰子は変わらぬ姿で母を迎えたが、その実体は既に人ではなかった。悲しむ母が、別れを告げる辰子を想って投げた松明が、水に入ると魚の姿をとった。これが田沢湖のクニマスの始まりという。

北方の海沿いに、八郎潟という湖がある。ここは、やはり人間から龍へと姿を変えられた八郎太郎という龍が、ついの住み家と定めた湖であった。しかし八郎は、いつしか山の田沢湖の主・辰子にひかれ、辰子もその想いを受け容れた。それ以来八郎は辰子と共に田沢湖に暮らすようになり、主のいなくなった八郎潟は年を追うごとに浅くなり、主の増えた田沢湖は逆に冬も凍ることなくますます深くなったのだという。

一部では、タッ子(辰子)には不老不死の願望があったが、のちに夫となる八郎にはその願望はなく、たまたま同じ行為にふけるうち、「唯、岩魚を食ひ、水を鯨飲してゐるうちに龍體となつてしまつた」とも語り継がれていた。

なお、湖の北岸にある御座石神社には、辰子が竜になるきっかけとなった水を飲んだと言われる泉がある。

田沢湖の湖畔には辰子伝説にまつわる像が4体あり、漢槎宮近くにある舟越保武作の「たつこ像」の他に、湖の東岸にある「辰子観音」、北岸にある「姫観音像」、御座石神社境内にある「たつこ姫像」がある。

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田沢湖では古くから漁業が行われ、1715年(正徳5年)には固有種であるクニマスに関する最古の記述が出ており、久保田藩主の佐竹氏および分家の佐竹北家(角館佐竹家)の献上品として利用されてきました。明治期末から田沢湖でクニマスの孵化放流事業も試みられ、1935年(昭和10年)には約8万8千匹の漁獲高があったという記録があります。

戦時体制下の1940年(昭和15年)、食糧増産と電源開発計画のために湖水を発電用水・農業用水として利用しようと、近くを流れる玉川からpH1.1という国内屈指の強酸性の源泉を含んだ水を湖に導入する水路が作られました。その結果、魚の絶滅を心配する声は当時もあったようですが、住民が国策に反対できる時代ではなく、約70人いた漁師はわずかな補償金と引き換えに漁業の職を失い、ほとんどの魚類が数年で姿を消しました。

田沢湖の固有種であったクニマスは開発によって絶滅したと長年にわたって扱われてきました。しかし2010年(平成22年)になって、山梨県の西湖で過去に試験的に卵が放流されており現在も生存していることが確認され、「クニマス再発見」の一大ニュースとなります。これがきっかけで、2011年(平成23年)11月に西湖との姉妹湖提携が行なわれ、クニマスの里帰りも計画されていましたが、水質悪化が改善されておらず実現していません。 
 


 

仁別林相

 仁別自然休養林:秋田市の東北方にそびえる太平山を主峰とする山々に取り囲まれた旭川上流部にあります。一帯は旧佐竹藩の「御直山(おじきやま)」として保護管理されてきた由緒ある山で、天然秋田杉が自然のまま保護されており森林美、渓谷美に富んでいます。また、休養林の一角には森林博物館があり、ここでは、仁別周辺の森林植生、動物相、林業史、また、天然秋田杉の成立由来、伐木、運材方法の変遷、道具類等が展示されており、仁別の森林や森林・林業について学ぶことが出来ます。天然秋田杉は、仁別林道沿いをはじめ、森林博物館正面から眺望でき、博物館周辺の散策路から身近に見られることができ、「新百名山」に選ばれた太平山への参拝登山をはじめ、ハイキング、自然探勝などの森林レクリエーションの場として利用されています。



八郎潟

八郎潟:秋田県にある湖。北側の米代川と南側の雄物川からそれぞれ土砂堆積により砂州が延び、離島であった寒風山に達して複式陸繋島の男鹿半島が形成された。両砂州の間に残った海跡湖が八郎潟です。面積は琵琶湖に次いで日本で2番目の広さだった。現在は大部分の水域が干拓によって陸地化され、陸地部分が大潟村になっています。

八郎潟の名称の由来としては、人から龍へと姿を変えられた八郎太郎という名の龍が、放浪の末に棲家として選んだという伝説が語り伝えられているます。

干拓前は漁業が盛んに行われていました。当時は汽水湖だったため、シジミが多く採れていたほか、シラウオやカレイ、ボラ、コイなどが水揚げされていました。春から秋にかけては巨大な白い帆を張った長さ12m程度の「潟船」(かたぶね)による、冬は氷を割っての人力による引き網が主だったようです。潟船は霞ヶ浦(茨城県)から伝わっています。

八郎潟では氷下漁労が行われました。1794年(寛政6年)久保田城下上肴町の高桑與四郎が、諏訪湖に赴いて氷下漁労法と漁網制作法を伝授され、その方法を八郎潟の漁民一般に伝え大いに業が盛大になっていました。



奈曽の白瀧

奈曽の白瀧:鳥海山から流れる奈曽川中流にある滝。幅は11m、落差26mの高さを豪快な水しぶきを上げて流れ落ちる滝で、昭和7年(1932)、国の名勝に指定された。滝のすぐそばにある「金峰神社」の社殿からは滝の全容を見ることができます。






徯后坂

きみまち阪(きみまちざか、徯后坂):秋田県能代市二ツ井町にある県立自然公園の名称。秋田県有数の桜、ツツジ、紅葉の名所であり、時期ともなると県内はもとより県外からも観光客が訪れ、またデートスポットとしても有名です。
 






 

金沢柵址

金沢柵:(かねざわさく、かねざわのき)は、出羽国に置かれた古代日本の城柵の1つ。、後三年合戦において、清原家衡、武衡が沼の柵から移って籠城し、清原清衡と源義家の連合軍がこれを包囲して兵糧攻めにし、陥落させたとされる。

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正確な建造時期や場所はわかってはいないが、平安時代頃に現在の秋田県横手市金沢にあったとされる。古代城柵としての確実な遺構は発掘されていないものの、戦国時代の山城である「金沢城」があった山が比定地とされており、本丸などから最古で9世紀後半の遺物が出土している。

麓に羽州街道を望む。四周が断崖絶壁の岩山で天然の要害をなし、数多くの堀を設けた堅固な柵であったといわれる。清原氏の居城であり、後三年の役においては、清原家衡、清原武衡が籠城し抗戦した。源義家も攻略に手込ずったが、兵糧攻めにより1087年(寛治元年)に落城した(日本初の兵糧攻めと言われる)。

1458年(長禄2年)には十三代南部守行の子、金沢右京亮が入り、1470年(文明2年)まで居城とした。その後は小野寺氏の家臣、金沢権十郎などの居城となった。江戸時代、久保田藩主佐竹氏が秋田へ入部した際、居城の候補の一つとして金沢に城を再整備する案が梶原政景から提案されたが、最終的に久保田城が居城となり、金沢城は一国一城令によって廃城となった。

現在は金沢公園(金澤八幡宮)としてその跡をとどめている。後三年の役の際、源義家が愛用の兜を埋めたとされる兜杉や、武衡が隠れようとしたとされる蛭藻沼、戦果を上げた鎌倉景正が立てた景正功名塚、兵糧庫跡や当時の柱穴址が残っている。また、柵北側の断崖下を流れる厨川に右目が見えない片目カジカが目撃され、敵に右目を射られた後にここで目を洗った景正の武勇を今に伝えるとされている。

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雄勝平鹿の美田

日本一広い盆地と言われている「横手盆地」の中心部にあり、肥沃(ひよく)な大地のおかげでたくさんのおいしいものの生産地です。雄勝は、かつて秋田県雄勝郡のことで小野小町の誕生の地とされており、あきたこまちはここを由来としたものです。郡名である「平鹿」の由来は、アイヌ語で「崖の上」を意味する「ピルカ(比留迦)」が訛ったものであるとされます。





 

少なくても昭和3年以降の出版物のようですが、正確な発刊日は不明です。平福百穂の資料として色紙用の箱に保管しておきます。



平福百穂の印章を年代別に系統立てて整理された資料がなかなか見当たりません。これは寺崎廣業も一緒ですが、専門に研究している方にはあるかもしれませんね。





















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