夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

猿まわし 橋本雅邦筆 その16

2018-01-17 00:01:00 | 日本画
男の隠れ家は神の宿る場・・・、元旦には古くから各方向に宿る神を祀ります。元旦は神々に感謝する日。厄を払い、感謝し、決して願い事などを頼んではいけません。



神々の宿る森、ここは白神山地の麓・・・・、水面から発生する霧は幻想的。この自然にこそ感謝しなくてはなりません。



亡くなった方々、先祖への感謝を込めて墓参りも忘れません。元旦は亡くなった家内の誕生日。



さ~、今年も宴会じゃ!



おばあちゃんらに息子は撮り貯めた写真の説明を一生懸命・・。



久方ぶりにおばあちゃんと仲良くテレビ・・・、、家族はともかく助け合って生きていく集団のこと。そのことに大いに感謝しなくてはいけませんし、この世でなにより一番大切なのは家族



義母の病後の経過も良くいい正月でした。この直後に発症した小生のインフルエンザ以外は・・。

昨年末に放映された「なんでも鑑定団」に雲谷派の作品が出品されました。当方にはなにか資料がないかと検索したところ下記の作品がありましたので紹介します。

雪景図 伝雲谷派古画(無落款)
紙本水墨淡彩 
全体サイズ:横452*縦1660 画サイズ:横333*縦810



本作品は無落款であり、雲谷派の作品という確証はありませんが、画風から「雲谷派」の作品と分類しております。ただし当方では資金調達のためにすでに売却しています

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雲谷派:山口ゆかりの雪舟の流れを汲む日本画の流派。約400年前、始祖・等顔(とうがん)が毛利輝元から雪舟の旧居雲谷庵を拝領して以来、代々毛利藩お抱え絵師として明治初期まで続き、十数家に分かれ、数多くの優れた画人を出した。西国では狩野派と並ぶ一大流派。雪舟流ともいう。



始祖である雲谷等顔は、ひっそりと静まりかえった深山に、薄明かりが山塊を照らし、すべての音を包み込んでしまう。雲谷等顔(1547‐1618)が活躍した桃山時代は、長い乱世を経て台頭してきた新興の大名たちは、自らの権威を誇示するのにふさわしい豪華な城郭を築いて障壁画を描かせ、活気あふれる桃山文化の担い手となりました。こういった豪奢趣味の一方で、室町時代以来の水墨画も変化しながら受け継がれ、等顔も水墨画の地方様式を形成するが画家として桃山時代の画壇で活躍しました。



等顔は肥前(佐賀県)の人で、本名を原直治(はらなおはる)といい、もともとは武家の出身でした。主家滅亡前後に家を出て画家となり、京都で狩野派に学んだ後、広島城主毛利輝元に仕えたといわれています。当時まだ無名だった等顔は、輝元より雪舟の「山水長巻(四季山水図)」(毛利博物館蔵・国宝)と旧居雲谷庵を賜り、これを機に、姓を雲谷、名を雪舟等楊の等の字を受け等顔と改めたと伝えられています。これにより等顔は、雪舟の正当な継承者であるというお墨付きを得て、画家としての地位を確立する。



いずれの作品にも雪舟様式の影響が見られ、特に雪舟の「山水長巻」に見られる特徴が随所に指摘されています。等顔は72歳で没しますが、その画法は子孫に保持され、江戸時代末まで存続する雲谷派が形成されました。こうして等顔は雲谷派の祖となり、近世、中国地方の画壇にその流れが生き続けた。



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本作品は前述のように無落款であり作者は不詳ですが、贋作とかではなく、いづれ幕末頃の作品ではないかと推察しています。売却していますが、出来からしていずれ当方の蒐集からは除外されていたでしょう。

さて、本題ですが、本日は年初め早々ということもあり、めでたい画題の作品の紹介です。画家は「雪舟に替えれ」と明治初期に始まる近代画壇の祖となる橋本雅邦の作品です。

*作品手前にある作品は以前に紹介した明末呉須赤絵の作品ですが、先日のなんでも鑑定団では上作のこの手の作品が出品され、300万という高額の査定金額でした。ただこれはいくらなんでも高額すぎると思うのは小生だけではありますまい。少なくても一桁違うというのが現状の相場です。このような高い評価金額は市場から作品が姿を消す原因になりかねません。中島誠之助氏は窯変天目茶碗以降、どうも信用できない点があるようです。


                          
猿まわし 橋本雅邦筆 その16
紙本水墨額装 タトウ 
全体サイズ:横455*縦900 画サイズ:横290*縦650



画題の猿回しは猿を操って、猿に様々な芸をさせる大道芸です。主として正月などのめでたい時に行われる芸です。

猿は「去る」に通じることから「魔を去る(払う)」と信じられ、神の使いと考えられていました。 その為、猿まわしは「悪しきを去って、良きことを得る」という、非常に縁起のよい芸として確立しました。 本来、正月などのめでたい時に、人家の門口で猿まわしを演じて金品を貰っていましたが、現在では、庶民の娯楽として大道芸人が劇場などで披露していますね。



猿まわしはインドで発祥し、インドから中国、シルクロードを経て日本へ伝わったと言われています。日本では鎌倉時代の初期に、当時の武家にとって戦役・物資輸送として重要視されていた馬の疫病退散・守護のために猿まわしが行われました。その後、江戸時代には、徳川幕府の専属の職業として確立しました。 しかし、江戸幕府の崩壊とともに、猿まわしという職業は衰退しました。





他の所蔵作品、参考資料との印章の比較は下記のとおりです。筆致などからも真作と当方で判断しています。

  

ただ橋本雅邦の作品は画集に掲載されていたり、川合玉堂の鑑定や東京美術倶楽部の鑑定書がないかぎり真作とは認められていませんので、当方の判断は素人の判断とご了解下さい。

「猿は「去る」に通じることから「魔を去る(払う)」と信じられ、神の使いと考えられていました。 その為、猿まわしは「悪しきを去って、良きことを得る」という・・・」、さて正月早々のインフルエンザから中耳炎。2週間経ってもまだ完治せず。作品の真贋はともかく、これが正月早々の「厄払い(魔を猿)」になることを信じています。



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