昨夜は郷里の大館鳳鳴高校時代の東京近郊にいる同期で還暦を祝う会。42年ぶりで会う人がほとんどでしたので、名前と顔が一致せず・・。
**********夜噺談義
一括して扱う拡販を客先に依頼していますが、どうもいまひとつ感触がよくありません。当方はこれを現時点では利の多いビジネスにしようとは思ってもおらず、フィーだけ高くなるという誤解が客先にあるようです。
当方は今のままでは受注がばらばらで効率が悪く、客先にとってもばらばらでスケールメリットが充分出来ていないことを、将来に向けてよくしていこうと考えているのです。当方の利はゼロで構わないのですが、グループでの全国レベルや将来性をよく考えていただきたいものです。
フィーの回収、重層の代理店の改善、さらにはメーカーに懐に入り込んだネゴシエーションは今のままでは改善の可能性はありません。互いに協力してよくしようという点の理解が得られないようです。
どうしたら今の問題点を解決できるのかを議論して欲しいものです。現場独立採算、しいては支店独立採算というデメリットから脱却するにはどうしたらいいのかも・・。いまなぜ支店ごとに仕組みが違い、年度ごとに赤字が出る部署が違うのか・その原因をよく考えていただきたい。
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さて、作品を鑑賞するには描いてる題材を理解しておくことが前提となります。日本画は本来そのようなに謂れのある題材が多いのですが、現代の日本人はそういうことに無知になってしまったようです。無知であること自体を認識しないと救いようがない・・
「綺麗ね~」とか「これ本物?」というのはすでに鑑賞のポイントから外れています。
西王母図 狩野常信筆
絹本水墨着色軸装 軸先鹿角 清水不濁添上付合箱
全体サイズ:縦1950*横645 画サイズ:縦1110*横485
そういえば狩野常信の作品は「なんでも鑑定団」に出品されていました。
鑑定額は真作でありながら6万円でした。水墨画で席画程度の作品ということもあり、廉価な評価でしたが、本作品のような着色画は少しは評価が高いように思います。
多作であったことと、下記の補足説明にあるように「狩野派、特に木挽町狩野家の繁栄の基礎を固めたと評価される一方、晩年の画風は穏やかで繊細なものに変わり、以降の狩野派が弱体化し絵の魅力が失われる原因となった。」ということが評価に影響しているのでしょう。
画家個人による評価もありますが、模作(粉本)が多く、多作なうえに真贋の断定が難しいということも影響しています。ただ、出来の良い作品は、水墨画のなかにも「さすが」と思わせる作品が多くあります。
要は出来の良いものを見極めることが肝心かと思いますが、あまり狩野派の後期の作品は真贋よりその出来のこだわったほうがいいかもしれません。
本作品の魅力はその顔の表情もありますが、衣服の紋様です。下の写真の鳳凰紋様はとくに際立っています。平和の時に現れるということで吉兆紋様とされていますが、単色で衣服の紋様としてさらりと描いているのはなかなかないように思います。
狩野 常信:寛永13年3月13日(1636年4月18日) ~ 正徳3年1月27日(1713年2月21日)。江戸時代前期の江戸幕府に仕えた御用絵師。父は狩野尚信。幼名は三位、右近と称し、養朴・耕寛斎・紫薇翁・古川叟・青白斎・寒雲子・潜屋などと号した。子に後を継いだ長男・周信、別に浜町狩野を興した次男・岑信、さらにそれを継いだ甫信がいる。
狩野常信の落款は特徴的で、印章は香炉印を用いていますが、真贋は後学とします。
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狩野常信補足:1650年(慶安3年)父の尚信が没した後、15歳で狩野派(木挽町狩野家)を継いだ。同年剃髪、養朴と号し家光にお目見え、後に家綱の御用を勤めた。狩野探幽にも画を学び、古来より狩野元信・狩野永徳・狩野探幽とともに四大家の一人とされ高く評価されてきたが、意外にも狩野派内での地位が上がるのは遅い。
叔父・狩野安信に疎んじられたからだと言われる。その間に和歌に興じ、徳川光圀の愛顧を得、幕末に著された「古画備考」には多くの歌が収録されている。また、探幽同様に古画の学習に努め、後に「常信縮図」(60巻、東京国立博物館蔵)と呼ばれる膨大な古画鑑定控え、粉本・画稿を残した。そうした甲斐があってか、天和2年(1682年)二十人扶持を拝領、宝永元年(1704年)に法眼、同6年(1709年)には法印に叙し、翌年には二百石を加増された。
狩野派、特に木挽町狩野家の繁栄の基礎を固めたと評価される一方、晩年の画風は穏やかで繊細なものに変わり、以降の狩野派が弱体化し絵の魅力が失われる原因となった。
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西王母(せいおうぼ、さいおうぼ):中国で古くから信仰された女仙、女神。姓は楊、名は回。
九霊太妙亀山金母、太霊九光亀台金母、瑶池金母、王母娘娘などともいう。王母は祖母の謂いであり、西王母とは、西方の崑崙山上に住する女性の尊称である。すべての女仙たちを統率する聖母。東王父に対応する。
日本画に描かれた西王母と武帝周の穆王が西に巡符して崑崙に遊び、彼女に会い、帰るのを忘れたという。また前漢の武帝が長生を願っていた際、西王母は天上から降り、三千年に一度咲くという仙桃七顆を与えたという。
現在の西王母のイメージは、道教完成後の理想化された姿である。本来の姿は「天五残(疫病と五種類の刑罰)」を司る鬼神であり、『山海経』の西山経及び大荒西経によると、「人のすがたで豹の尾、虎の歯で、よく唸る。蓬髪(乱れた髪)に玉勝(宝玉の頭飾)をのせていて、穴に住む。」という、半人半獣の姿である。 また、三羽の鳥が西王母のために食事を運んでくるともいい(『海内北経』)、これらの鳥の名は大鶩、小鶩、青鳥であるという(『大荒西経』)。
参考作品:狩野常信筆 「西王母図」(板橋区立美術館蔵)
この作品より本作品のほうが西王母の正体を如実に表現していると思いませんか?
人間の非業の死を司る死神であった西王母であったが、「死を司る存在を崇め祭れば、非業の死を免れられる」という、恐れから発生する信仰によって、徐々に「不老不死の力を与える神女」というイメージに変化していった。
やがて、道教が成立すると、西王母はかつての「人頭獣身の鬼神」から「天界の美しき最高仙女」へと完全に変化し、不老不死の仙桃を管理する、艶やかにして麗しい天の女主人として、絶大な信仰を集めるにいたった。王母へ生贄を運ぶ役目だった怪物・青鳥も、「西王母が宴を開くときに出す使い鳥」という役どころに姿を変え、やがては「青鳥」といえば「知らせ、手紙」という意味に用いられるほどになったのである。また、西王母の仙桃を食べて寿命が三千年も延びている。
漢末の建平4年(紀元前3年)、華北地方一帯に西王母のお告げを記したお札が拡散し、騒擾をもたらしたという記述が、『漢書』の「哀帝紀」や「五行志」に見える。
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清水不濁の鑑定書が付いていますが、これは参考程度と考えておいていいでしょう。
とかく大げさな鑑定書はかえって怪しいと考えたほうが無難です。
さて、物事の本質をとらえて、今回の当方からの提案をどれだけ客先が考えるか楽しみでもあります。差し出された「西王母の桃」を食べるか、捨てるか・・・。
**********夜噺談義
一括して扱う拡販を客先に依頼していますが、どうもいまひとつ感触がよくありません。当方はこれを現時点では利の多いビジネスにしようとは思ってもおらず、フィーだけ高くなるという誤解が客先にあるようです。
当方は今のままでは受注がばらばらで効率が悪く、客先にとってもばらばらでスケールメリットが充分出来ていないことを、将来に向けてよくしていこうと考えているのです。当方の利はゼロで構わないのですが、グループでの全国レベルや将来性をよく考えていただきたいものです。
フィーの回収、重層の代理店の改善、さらにはメーカーに懐に入り込んだネゴシエーションは今のままでは改善の可能性はありません。互いに協力してよくしようという点の理解が得られないようです。
どうしたら今の問題点を解決できるのかを議論して欲しいものです。現場独立採算、しいては支店独立採算というデメリットから脱却するにはどうしたらいいのかも・・。いまなぜ支店ごとに仕組みが違い、年度ごとに赤字が出る部署が違うのか・その原因をよく考えていただきたい。
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さて、作品を鑑賞するには描いてる題材を理解しておくことが前提となります。日本画は本来そのようなに謂れのある題材が多いのですが、現代の日本人はそういうことに無知になってしまったようです。無知であること自体を認識しないと救いようがない・・
「綺麗ね~」とか「これ本物?」というのはすでに鑑賞のポイントから外れています。
西王母図 狩野常信筆
絹本水墨着色軸装 軸先鹿角 清水不濁添上付合箱
全体サイズ:縦1950*横645 画サイズ:縦1110*横485
そういえば狩野常信の作品は「なんでも鑑定団」に出品されていました。
鑑定額は真作でありながら6万円でした。水墨画で席画程度の作品ということもあり、廉価な評価でしたが、本作品のような着色画は少しは評価が高いように思います。
多作であったことと、下記の補足説明にあるように「狩野派、特に木挽町狩野家の繁栄の基礎を固めたと評価される一方、晩年の画風は穏やかで繊細なものに変わり、以降の狩野派が弱体化し絵の魅力が失われる原因となった。」ということが評価に影響しているのでしょう。
画家個人による評価もありますが、模作(粉本)が多く、多作なうえに真贋の断定が難しいということも影響しています。ただ、出来の良い作品は、水墨画のなかにも「さすが」と思わせる作品が多くあります。
要は出来の良いものを見極めることが肝心かと思いますが、あまり狩野派の後期の作品は真贋よりその出来のこだわったほうがいいかもしれません。
本作品の魅力はその顔の表情もありますが、衣服の紋様です。下の写真の鳳凰紋様はとくに際立っています。平和の時に現れるということで吉兆紋様とされていますが、単色で衣服の紋様としてさらりと描いているのはなかなかないように思います。
狩野 常信:寛永13年3月13日(1636年4月18日) ~ 正徳3年1月27日(1713年2月21日)。江戸時代前期の江戸幕府に仕えた御用絵師。父は狩野尚信。幼名は三位、右近と称し、養朴・耕寛斎・紫薇翁・古川叟・青白斎・寒雲子・潜屋などと号した。子に後を継いだ長男・周信、別に浜町狩野を興した次男・岑信、さらにそれを継いだ甫信がいる。
狩野常信の落款は特徴的で、印章は香炉印を用いていますが、真贋は後学とします。
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狩野常信補足:1650年(慶安3年)父の尚信が没した後、15歳で狩野派(木挽町狩野家)を継いだ。同年剃髪、養朴と号し家光にお目見え、後に家綱の御用を勤めた。狩野探幽にも画を学び、古来より狩野元信・狩野永徳・狩野探幽とともに四大家の一人とされ高く評価されてきたが、意外にも狩野派内での地位が上がるのは遅い。
叔父・狩野安信に疎んじられたからだと言われる。その間に和歌に興じ、徳川光圀の愛顧を得、幕末に著された「古画備考」には多くの歌が収録されている。また、探幽同様に古画の学習に努め、後に「常信縮図」(60巻、東京国立博物館蔵)と呼ばれる膨大な古画鑑定控え、粉本・画稿を残した。そうした甲斐があってか、天和2年(1682年)二十人扶持を拝領、宝永元年(1704年)に法眼、同6年(1709年)には法印に叙し、翌年には二百石を加増された。
狩野派、特に木挽町狩野家の繁栄の基礎を固めたと評価される一方、晩年の画風は穏やかで繊細なものに変わり、以降の狩野派が弱体化し絵の魅力が失われる原因となった。
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西王母(せいおうぼ、さいおうぼ):中国で古くから信仰された女仙、女神。姓は楊、名は回。
九霊太妙亀山金母、太霊九光亀台金母、瑶池金母、王母娘娘などともいう。王母は祖母の謂いであり、西王母とは、西方の崑崙山上に住する女性の尊称である。すべての女仙たちを統率する聖母。東王父に対応する。
日本画に描かれた西王母と武帝周の穆王が西に巡符して崑崙に遊び、彼女に会い、帰るのを忘れたという。また前漢の武帝が長生を願っていた際、西王母は天上から降り、三千年に一度咲くという仙桃七顆を与えたという。
現在の西王母のイメージは、道教完成後の理想化された姿である。本来の姿は「天五残(疫病と五種類の刑罰)」を司る鬼神であり、『山海経』の西山経及び大荒西経によると、「人のすがたで豹の尾、虎の歯で、よく唸る。蓬髪(乱れた髪)に玉勝(宝玉の頭飾)をのせていて、穴に住む。」という、半人半獣の姿である。 また、三羽の鳥が西王母のために食事を運んでくるともいい(『海内北経』)、これらの鳥の名は大鶩、小鶩、青鳥であるという(『大荒西経』)。
参考作品:狩野常信筆 「西王母図」(板橋区立美術館蔵)
この作品より本作品のほうが西王母の正体を如実に表現していると思いませんか?
人間の非業の死を司る死神であった西王母であったが、「死を司る存在を崇め祭れば、非業の死を免れられる」という、恐れから発生する信仰によって、徐々に「不老不死の力を与える神女」というイメージに変化していった。
やがて、道教が成立すると、西王母はかつての「人頭獣身の鬼神」から「天界の美しき最高仙女」へと完全に変化し、不老不死の仙桃を管理する、艶やかにして麗しい天の女主人として、絶大な信仰を集めるにいたった。王母へ生贄を運ぶ役目だった怪物・青鳥も、「西王母が宴を開くときに出す使い鳥」という役どころに姿を変え、やがては「青鳥」といえば「知らせ、手紙」という意味に用いられるほどになったのである。また、西王母の仙桃を食べて寿命が三千年も延びている。
漢末の建平4年(紀元前3年)、華北地方一帯に西王母のお告げを記したお札が拡散し、騒擾をもたらしたという記述が、『漢書』の「哀帝紀」や「五行志」に見える。
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清水不濁の鑑定書が付いていますが、これは参考程度と考えておいていいでしょう。
とかく大げさな鑑定書はかえって怪しいと考えたほうが無難です。
さて、物事の本質をとらえて、今回の当方からの提案をどれだけ客先が考えるか楽しみでもあります。差し出された「西王母の桃」を食べるか、捨てるか・・・。