夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

忘れ去られた画家 山静夕長図 野口小蘋筆

2013-12-24 05:08:54 | 掛け軸
昨日は家内の実家まで出かけて、家内への表敬訪問です。よって、昨日は投稿をお休みしました。ゆず湯につかりのんびり・・・。

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少子高齢化に対する対策のひとつの柱として女性の活用が挙げられています。

女性の職場での活用の障害となるのは結婚、出産、育児による就業のハードルがあります。しかし、よく考える出産以外は男性にも当てはまることで女性にとってだけ特別なことではなく、いままでの風習上、女性のほう男性に対して結婚、育児によって犠牲を強いられてきただけでかと思うことがあります。

とはいえ、女性の意識の高さも求められます。まだまだ、職場の第一線で働くという女性の意識の高揚が不足しているように思えます。建設業ではまだまだ・・・。

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さて本日は女性初の帝室技芸員(現在で例えるなら人間国宝?)を拝命し、翌年には正八位に叙せられています。

明治期には女性画家が数多く輩出し、その多くが南画家として世に出ています。

野口小蘋、奥村晴湖などがその代表ですが、近年では中村餘容がいます。男の顔負けの作品を描きますが、明治期においては男女同権の現れともいえるでしょうね。NHKドラマの「新島八重」などに代表だれるように当時の日本男児の気概が女性に移ったような気がします。現代では女性の気概が男に移っている???

本作品は女性ならではの丹精さ、清らかさのある作品となっており、奥原晴湖と比較するとその作風が理解しやすいでしょう。

山静夕長図 野口小蘋筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿角 合箱
全体サイズ:縦1910*横590 画サイズ:縦1030*横420



美人画でも有名な画家ですが、大正期には多くの山水画を製作しています。本作品もその頃の作品かと思いますが確証はありません。賛には「山静夕長」とあることから、夏景山水図と思われます。




野口 小蘋(のぐち しょうひん):弘化4年1月11日(1847年2月25日)~ 大正6年(1917年2月17日)。明治期から大正期に活躍した南画家、日本画家。奥原晴湖とともに明治の女流南画家の双璧といわれた。名は親子(ちかこ)、字は清婉。同じく南画家の野口小は娘。



野口小蘋の作品は「なんでも鑑定団」に花鳥図が出品されています。


補足

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弘化4年(1847年)、徳島出身の古医方松邨春岱の長女として大坂難波に生まれる。幕末期にあたる幼少時から詩書画に親しみ才能を示す。両親は小蘋を画業に就かせるため安政元年(1854年)、8歳のときに四条派の石垣東山に入門させた。



文久2年(1862年)、16歳で画の修行のため父と北陸を数ヶ月にわたり巡遊。このとき福井藩の絵師島田雪谷から画の手解きを受けている。この北陸の旅の途次、父の春岱が客死。

残された母を養うために慶応元年(1865年)に近江八幡へ遊歴し売画している。慶応3年(1867年)には京都へ移り、関西南画壇の重鎮である日根対山に師事し、4年の間に山水画・花鳥画を学んだ。また対山を通じて日下部鳴鶴・巌谷一六・長三洲・川田甕江、実業家で煎茶好事家の奥蘭田など多くの文人と知己となる。この頃から「小蘋」を名乗っている。このころ関西浮世絵などにも啓発を受けている。画の修行の傍らで小林卓斎に就いて経学を修めた。




明治4年(1871年)に上京、麹町に住んで画業を本格化。美人画や文人の肖像画などの人物画を多く手がけている。明治6年(1873年)、皇后御寝殿に花卉図8点を手がけている。画業の傍らで岡本黄石に詩文を学んでいる。

明治10年(1877年)、31歳で野口正章と結婚、翌年に娘の小が生まれる。正章も対山の門弟であった。野口家はいわゆる近江商人の家柄で滋賀県蒲生郡に本家を置く酒造業「十一屋」を営み、甲府柳町(現甲府市朝日町)に営業所と醸造工場があったほか、義父の野口正忠(柿邨)は自身も漢詩を読む文化人で、大木家当主と同じく著名な文人達と交流し、伊藤聴秋・依田学海・杉聴雨・矢土錦山・市河得庵・小野湖山・谷如意・江馬天江・富岡鉄斎谷口藹山・瀧和亭・田能村直入・川村雨谷・村田香谷など、当代一流の文人との交流が生まれた。



小蘋は明治8年から野口家とも親交のある甲府商家の大木家に滞在しており、明治11年(1879年)には一家で甲府へ移っている。甲府では奇観で知られる御岳昇仙峡も描いた作品などを製作しており、商標図案や贈答物の絵付などを手がけ野口家の商売にも携わり、現存する大木家の美術コレクションである大木家資料(大木コレクション)にも小蘋作品が含まれている。

夫の正章は新しい事業としてビール醸造に着手していた事業に失敗して廃嫡となり、明治15年(1882年)には一家で再び上京す
る。

小蘋の画才は日本画の復興運動に際して注目され、数々の博覧会や共進会で入賞し関東南画を代表する画家と評されるようになる。明治17年(1884年)、東北地方を巡遊。明治17年(1885年)、上州へ遊歴。英照皇太后に作品を献上し、皇室や宮家など御用達の作品を多く手がけた。明治32年(1889年)に華族女学校画学嘱託教授を務め、明治35年(1902年)には恒久王妃昌子内親王や成久王妃房子内親王の御用掛を拝命する。



明治37年(1904年)には女性初の帝室技芸員を拝命し、翌年には正八位に叙せられた。明治40年(1907年)、文展審査員に選ばれる。大正期には山水画を多く手がけ、大正天皇即位に際しては三河悠紀地方の風俗歌屏風」制作を宮内庁から下命、大正4年(1915年)には竹内栖鳳の「主基殿屏風」と対になる御大典祝画屏風「悠紀殿屏風」を献上する。大正6年(1917年)2月、71歳で死去。門弟に下平霞舟など。



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母のために絵を売ったり、夫は事業に失敗するなど苦労がうかがわれます。どのような女性だったのでしょうか?

本作品は遠近がきちんと描かれ、実直そうな性格かなと???


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2 コメント

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Unknown (minchou)
2013-12-26 18:44:48
今晩は。
これもちょっと興味深い絵です。
画面上部中央のシンボリックで威圧的な北宋風の山塊表現から、下半分の南画風の空間描写、さらには西洋水彩画風のちょっとシャレた彩色までと、様式の急転直下、それらが全体に女性らしい繊細な筆致で描かれることで、それぞれの時代精神も争わずに和して共存するという、まさに日本人ならではの絵ですね。
コンセプトはいわば女性原理的な南画? 一応南画とはいえ、こうした趣の方向性は、近代日本の風景画一般にも共通するように感じられます。
詳しくは分かりませんが、時代はこの頃すでに本来の伝統的な南画の衰退期にかかっていたのでしょうか。
(小室翠雲の1905年頃の絵に、これとちょっと似た構成の絵がありますから、同じ頃に描かれたものかもしれません。)

例のごとくの、ほとんど独りよがり、意味不明のコメントで申し訳ないのですが、どうぞ軽くお聞き流しのほどを。

奥様の手術の結果はいかがでしたでしょうか?
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Unknown (夜噺骨董談義)
2013-12-26 20:28:11
なかなか的を得たコメントに感心するばかりです。

この時期に南画の衰退期に入ってはいたのでしょうね。富岡鉄斎とほぼ同時期ですが、南画家たちは衰退期とは自覚なく、意気軒昂であったかもしれませんね。
彼らのたとを富田渓仙、平福百穂、小川芋銭といった新しい南画の模索が始まっていったのでしょうね。

手術の結果は明日のブログで・・。
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