
私はこれぞと決めて収集しているわけではなく、自分の好きなものを購入したりしているわけですが、変なことに分野をあまり厭わないようです。それゆえ、他人から収集している中で何が一番ですかと問われると返答に窮してしまいます。
通常、骨董等の目を養うにはひとつの分野に収集して、その分野で目を肥やすとほかのものにも目が利くようになると言われています。そういう観点からは私は邪道のようですし、間違った作品を入手してしまうことも多々あります。
そんな中でいつもどうしても欲しくなる作品に福田豊四郎の作品があります。
ほぼ同じ郷里の出身でもあり、いつも作品になにかしら縁を感じるのです。
それでも最近は少し自制し衝動買いはしないようにしていますが、・・・欲しい作品は今でもあります・・・あ~~あのさくらんぼの作品が欲しい
茶粥の記 福田豊四郎筆
紙本額装無落款 305*335
本作品は秋田県五城目出身の美人作家である矢田津世子著作の「茶粥の記」の装幀画として描かれた作品で、本は昭和16年発行です。

秋田県大館市にて購入した作品です。実際に使われた作品とは違いますが、幾つか候補作品を描いたうちの一作品でしょう。間違いなく真作です。清楚な感じのする小品ながら佳作です。
矢田津世子が坂口安吾の恋人とされることから、また本作品を鑑賞すると愉しいです。
福田豊四郎は父の友人であり、絵の指導者。矢田津世子は母と同じ秋田県五城目町の出身です。何か縁があって本作品を購入できたのかはまだ具体的にはわかりませんが、こういうことは、福田豊四郎の作品を入手するとよくあることなのです。これを期に矢田津世子の作品を読んでみようかと思います。
下記のところはいいね~、秋田弁の抜けない私には・・。高校を卒業して東京に出て予備校に通い、大学に入った頃を思い出します。
『津世子の成績は、五城目小学校では「全甲」でしたが、転校した東京の富士見小学校では、ひどい成績になってしまいました。津世子が何かいうと、教室中の子どもたちがげらげら笑います。秋田なまりがひどかったからです。東京の子どもたちは、そういう他人の弱点はようしゃしません。
それに、東京の子どもは、津世子からみると、とても勉強が出来て、その上物知りでした。都会の子どもたちの態度に、津世子の負けん気が目をさましました。
「正しいこと、りっぱなことをいうのなら、秋田弁だってなんだって、はずかしいことはないよ。」
と、いってくれた、母のはげましもありました。
「ようし、それならりっぱな成績をとって見せよう。いなかからやって来た子どもでも、勉強では少しも負けない、というところを見せてやろう。」
と、津世子は決心しました。』
通常、骨董等の目を養うにはひとつの分野に収集して、その分野で目を肥やすとほかのものにも目が利くようになると言われています。そういう観点からは私は邪道のようですし、間違った作品を入手してしまうことも多々あります。
そんな中でいつもどうしても欲しくなる作品に福田豊四郎の作品があります。
ほぼ同じ郷里の出身でもあり、いつも作品になにかしら縁を感じるのです。
それでも最近は少し自制し衝動買いはしないようにしていますが、・・・欲しい作品は今でもあります・・・あ~~あのさくらんぼの作品が欲しい

茶粥の記 福田豊四郎筆
紙本額装無落款 305*335
本作品は秋田県五城目出身の美人作家である矢田津世子著作の「茶粥の記」の装幀画として描かれた作品で、本は昭和16年発行です。

秋田県大館市にて購入した作品です。実際に使われた作品とは違いますが、幾つか候補作品を描いたうちの一作品でしょう。間違いなく真作です。清楚な感じのする小品ながら佳作です。
矢田津世子が坂口安吾の恋人とされることから、また本作品を鑑賞すると愉しいです。
福田豊四郎は父の友人であり、絵の指導者。矢田津世子は母と同じ秋田県五城目町の出身です。何か縁があって本作品を購入できたのかはまだ具体的にはわかりませんが、こういうことは、福田豊四郎の作品を入手するとよくあることなのです。これを期に矢田津世子の作品を読んでみようかと思います。
下記のところはいいね~、秋田弁の抜けない私には・・。高校を卒業して東京に出て予備校に通い、大学に入った頃を思い出します。
『津世子の成績は、五城目小学校では「全甲」でしたが、転校した東京の富士見小学校では、ひどい成績になってしまいました。津世子が何かいうと、教室中の子どもたちがげらげら笑います。秋田なまりがひどかったからです。東京の子どもたちは、そういう他人の弱点はようしゃしません。
それに、東京の子どもは、津世子からみると、とても勉強が出来て、その上物知りでした。都会の子どもたちの態度に、津世子の負けん気が目をさましました。
「正しいこと、りっぱなことをいうのなら、秋田弁だってなんだって、はずかしいことはないよ。」
と、いってくれた、母のはげましもありました。
「ようし、それならりっぱな成績をとって見せよう。いなかからやって来た子どもでも、勉強では少しも負けない、というところを見せてやろう。」
と、津世子は決心しました。』