夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

月下調琴之図 伝佐伯岸駒筆 その4

2013-06-13 08:50:52 | 掛け軸
バンコクから日曜日の夜に東南アジア視察の次の都市ジャカルタに着きました。ホテルにて夕食会となり、またまた意見交換会となりました。

市内の現場から喧騒たる港湾地区の現場まで視察です。戦後すぐの日本もこうだったろうと思えるほど町はバラック小屋で商いをする人々でごったがえっています。道路は渋滞が日常的のようです。店前では男女も札束を数える人々が数多くいます。商売根性むき出しというところ・・。

バンコクもそうでしたが、観光業はあるにしろ、屋台はたくさん出ているし、性風俗店にしろ、生きるということが如実に感じられる街です。日本が失った貪欲さがいたるところで見られます。

異動の飛行機内で夢中で読んだ本が「銭の戦争」、これは面白いです。フィクション部分はつまらないのですが、ノンフィクション部分は非常に面白い小説です。東南アジアの現状と重ね合わせる部分は少ないのですが、一気に読んだため寝不足が続きました。疲れを取る間もなく、東北に視察でしたのでようやく最近になって疲れが取れてききました。

本日は佐伯岸駒の作品と思われる作品です。日本の墨絵の世界は心休めるものがあります。

月下調琴之図 佐伯岸駒筆
絹本水墨淡彩 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1200*横590 画サイズ:縦340*横465




岸駒:生年: 宝暦6.3.15 (1756.4.14)~没年: 天保9.12.5 (1839.1.19)。江戸中・後期の画家。岸は姓,駒は名であるが,通常「がんく」と音読みにする。字は賁然,号は華陽,同功館。加賀国(石川県)金沢に生まれました。虎の絵において有名で、「がんくのとら」と称されています。




紺屋に奉公し,加賀染の仕事に従事,貧しかったため商家の看板をみて字を覚え,絵も独習したといいます。

安永9(1780)年京都へ上り,本格的な絵画活動を始め,明清画,南蘋派,円山派などの画風を手当たりしだいに独学で学び,自己の画風を築きました。




岸派を形成して多数の門人を教育し、子の岸岱,河村文鳳,『画乗要略』を著した白井華陽,明治になって活躍した岸竹堂などが知られています。

円山応挙亡きあとは呉春と人気を二分したが,自己顕示欲の強さは人々の顰蹙を買ったといわれてますが、独力で名を成すにはそれなりの我の強さが必要であったのでしょう。




特に画料の高いことは有名で,寺院の天井画を描いた折,「竜の画は岸か寄進かしらねども二百両とは高い天井」と狂歌ではやされた。

また巧みに自分を売り込む術にたけ,初めて京に上ったとき,蘭斎と号したが,当時大坂では森蘭斎が活躍しており,岸駒はデビューするための方便として同じ号を名乗ったとする説もあります。

天保7(1836)年には従五位越前守にまで上りあがりました。83歳で没しましたが,晩年みずから7歳を加算したため,90歳説があります。



はてさて本作品は岸駒の作品かそうかは不明です。落款もなく、印章の資料も当方では確認出来ていませんので、断定はできていません。




掛け軸など骨董に関しては真贋の判断は非常に重要ですが、それを構わず楽しむことも多々ありように思います。

さて読まれた皆さんで本作品の真贋に意見のある方の投稿をお待ちしております。




補足説明
岸駒:(宝暦6年3月15日(1756年5月1日)(寛延2年(1749年)説あり) ~ 天保9年12月5日(1839年1月19日))は、江戸時代の画家。姓は佐伯。名は昌明。幼名は乙次郎、又は健亮。字は賁然。華陽、鳩巣、天開翁、同功館、可観堂、虎頭館と号す。岸矩とも。岸派の祖。

生い立ち:出身地は越中国(現、富山県)と加賀国金沢(現、石川県金沢市)という二説があるが、近年は門人の白井華陽が記した『画乗要略』など諸書の記述から金沢説が取られる。また、岸家の家系図には寛延2年生まれとされているが、後年岸駒が加賀藩に呈出した書き立てには宝暦6年と記されており、こちらが正確だと考えられる。岸駒は生前から年を偽っており、その理由は不明である。母は越中国東岩瀬の高岡屋きよという。きよは宝暦6年、金沢の仕立屋豊右衛門と再婚し、岸駒もこの地で育つ。生活は苦しかったらしく、11歳頃手習いのしようにも師につくことができず、店の暖簾や看板で字を覚えた。12歳頃紺屋に丁稚奉公にあがる。4歳の時オウムを写生したのが絵を描いた始まりされる。金沢時代は矢田四如軒あるいは森蘭斎に絵を習ったと伝わるが確証はなく、系図では宝暦13年(1763年)頃、狩野花信と称し絵を描いたとされるが、当時岸駒は8歳で信憑性は薄い。安永4年(1775年)の時、名を岸矩、号を蘭斎と改める。

上京:安永7年(1778年)絵師として名を立てようと上京するが、折悪く父が亡くなりいったん帰郷。翌年、母を連れて再度上洛、通称を健亮と改め、翌年斉藤氏の娘菊と結婚。この頃、丹丘、黄筌、李思訓、呂紀などの中国画から学んだことを作品に記し、沈南蘋派の画法を取り込んだ精密な絵や洋風画を学習していった。また、岸家の系図には円山応挙の名は全く出てこないが、円山派を独学で学んだか、原在中が応挙の弟子ではないと偽ったのを岸駒は詰問し、応挙の息子応瑞の家に行って門人帳を見せて貰うと、在中自筆の入門名簿があったという逸話(『古画備考』)から、岸駒も応挙に弟子していたとも考えられる。再上洛から3年後の天明2年(1782年)版『平安人物誌』に名前が記載され、一流絵師の仲間入りを果たす。以後も『平安人物誌』に死の年の版まで漏れ無く岸駒は記載されており、生涯京都を代表する絵師であり続けた。


名声と悪評:天明4年(1784年)有栖川宮家の近習となり、同家の御学問所の障壁画を描く。翌年、宮家より雅楽助と称すことを許され、駒の名、賁然(ひねん)の字、華陽の号、を賜る。有栖川宮の庇護のもと、天明の大火で焼失した御所の障壁画制作に活躍し、同家の推挙もあって享和元年(1801年)に従六位主殿大属生火官人(とものだいさかんいけび)、文化5年(1805年)にそれまでの雅楽助から越前介、天保7年(1836年)には蔵人所衆従五位下越前守に任ぜられる。文化6年には藩主の招きに応じて金沢に赴き、二の丸御殿に障壁画を描いて故郷に錦を飾った。天保9年、83歳の長寿を全うして没した。岸駒は生前から画料の高さなどから悪評が高く山師などと呼ばれたが、晩年に隠棲した岩倉の証光院が荒れ果てているため私財を投じて建て直した逸話がある。門人は長男の岸岱、岸良、岸連山、岸龍、河村文鳳、村上松堂、横山華山、『画乗要略』の著者白井華陽など。現在、一般に岸駒を初めとした岸派は認知されているとは言いがたいが、京都の社寺のみならず町家の至る所にまで岸派の作品が残っている。


岸駒の虎:岸駒は自他共に認めるほど、迫力ある虎の絵を得意としていた。皆川淇園が著した「淇園詩文集」に、そのリアルさの秘密が記されている。岸駒は、寛政10年(1798年)中国の商人に「富嶽図」を贈った礼として虎の頭蓋骨を手に入れ、それに知人から借りた虎の頭の皮を被せ、その姿を様々な角度から精密に写生した。さらに各部分の寸法を計測し、牙と歯の本数や形状まで記述している。また、少し後に虎の四肢も入手し、やはり詳細な観察記録が残っている。富山市佐藤記念美術館には岸駒旧蔵の虎の前後脚が所蔵されている(頭部は戦前出産のまじないに貸し出されて以来、行方不明)。当時は解剖学の発展期で、円山応挙らによって人体を描くにあたり、骨の構造を把握することの重要性が説かれていた。従来の猫を手本とした作風とは打って変わった迫真の虎図誕生の裏には、岸駒のこうした努力があったのである。



補足説明:落語
「岸駒の虎」という珍しい噺があるらしい。岸駒は虎の絵が得意で、清水寺の灯籠に描いた虎は、あまりの見事さに、夜な夜な灯籠から抜け出して境内を歩き回ったり、水を飲みに出かけて、朝には元に戻っていたという逸話まである、という。
落語:「芸州浅野家に仕えていた頼山陽は親孝行で、母親を広島から京都見物に呼んだ。その土産に何がいいかと訊けば、母は「久太郎や、岸駒の虎がいい」、義理のある人に土産にしたいという。岸駒といえば、禁裡に出入りすることを鼻にかけ、傲慢と聞く。山陽は六本木の家から出かけて行き「大先生を」と頼む。「三本木の先生か」と岸駒。絵の依頼は多く、門前市をなす、昨夜も三千人の依頼を受けた、「虎の絵を」と言うと、執筆料がいささか高い、一幅百両、二幅で二百両、だという。 母の頼みだ、やむを得ず山陽は注文し、一ヶ月待った。出来上がった一幅は母に、もう一幅は、贔屓の力士、小笠原大五郎の化粧回しの模様に使った。「岸駒の虎」を白絹にそのまま使った回しは、市中の評判になり、大五郎は大層な人気となった。一方、岸駒の傲岸さや画料に関して、悪い評判も立った。 怒った岸駒は、頼山陽になんとか仕返しをしたいと、山陽の字を贔屓の役者嵐喜之助の着物の模様にすることを思いつく。岸駒が山陽を訪ねて、書を認めてもらいたい「何の字でもかまわない」と頼むと、山陽が書の依頼は多く、門前市をなす、昨日も三千人の依頼を受けた、と前金で二百両受け取り、岸駒に墨をすらせて、すぐ書いた。「天照(あまてらす)皇大神宮 山陽謹書」。こんなのを着て、舞台に出たら、首が飛ぶ。山陽は、役者が一枚も二枚も上だった、というお話。 落ちがピンと来ず、といって、仕込んでおく訳にもいかないし、長く演じられないのもなるほどという噺であった。


一昨日の安全大会の講和は落語家さんのお噺でした。とても面白く拝聴しました。なお懇親会では小生の還暦の誕生日ということで、ハッピーバースデイの合唱には恐れ入りました。


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