夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

三田青磁 その8 陽刻太湖石花文八角鉢

2015-08-17 05:08:35 | 陶磁器
日本代表のサッカーは男女ともに意外に弱いという理由は以前にも述べたが、今後は益々深刻となり、見るに値しないレベルになる恐れがあります。企業もまったく同じで常に問題点を洗い出してよりよいものにしていく努力を怠ると同じような現象が起きかねません。根本は人材ですが・・。

野球は王、長島、そして松井、イチローという人材を育てましたが、サッカーは思い当たる人材が見当たりません。人間として大成したという人材がいないということです。

企業も同じ、人間として信用できる人がいるか、大成した人がいるのかが企業価値の大きなバロメーターです。責任回避・転嫁などという人材はもってのほかです。

さて三田青磁は「中国青磁に比して遜色なく、我が国で最もすぐれた青磁」と称賛されてきていますが、全国に三田青磁の名を広げた三輪明神窯の火が消えたのは昭和19年(1944)で、それ以降戦後の社会情勢の混乱のなかで、三田青磁に対する認識が薄れ、名工欽古堂亀祐の手になる逸品をはじめ、数々の名品が三田の地を離れ、あるいは巷間に埋もれて消滅していくかの感があります。

三田焼の評価が今ひとつ低いのは三田焼としてのオリジナリティーが無い、唐物写しが殆どで雑器が多い、物量が多い、以上の三点が大きな理由として挙げられます。。装飾的に優れた青磁は三田青磁には量的には少なく、画一的か模倣品めいたところが人気がない原因のように思われます。

古三田青磁陽刻太湖石花文八角鉢
合箱
幅178*奥行*高台幅*高さ43



兵庫県三田市三田の青磁。寛政(1789-1801)初年、三田の豪商神田惣兵衛は陶工内田忠兵衛(志手原窯小西金兵衛の弟子)の青磁焼成の悲願にほだされ巨額の資金を投じて陶業を助けることになり、天狗ヶ鼻に窯を築いました。これが三田焼の起こりです。



惣兵衛は青磁研究のために忠兵衛を有田に遣わし、有田から陶工太一郎・定次郎を招いました。1801年(享和元)忠兵衛は香下村砥石谷において青磁の原石を発見し、文化(1804-18)初年には青磁の試焼に成功しました。1810年(文化七)惣兵衛は京都の奥田頴川に指導を受け、その弟子の欽古堂亀祐を迎え、いよいよ青磁の製作は本格的になりました。



文化・文政年間(1804-30)は三田青磁の最盛期でありましたが、1827年(文政10)頃には亀祐が京都に帰り、1829年(同12)に惣兵衛が没するに及んで、以来三田窯は次第に衰順に傾いました。



天保年間(1830-44)には向井喜太夫がこれを譲り受け、安政(1854-60)頃には田中利右衛門がこれを継いだが業績振わず、明治になって三田陶器会社が設立され、1889年(明治22)にはその出資者の一大芝虎山がこれに専念しました。1922年に虎山の没後、有志が相寄って一窯焼いたのを最後に三田窯の煙はまったく絶えました。



青磁の上がりは天竜寺手調で、亀祐来窯以後細工物にも秀作が生まれた。種類には、香炉・茶器・花器・皿・鉢・文具、大物・動物置物などがあります。また呉須手写しも焼いています。



日本の青磁は鍋島、伊万里、京焼などがありますが、三田青磁はそれらとなんら遜色がないのですが、型で製作した大量生産が多くなので人気はいまひとつです。



もっと評価されてよい作品群です。

こんなにいい作品があるのに三田青磁にはなにかが欠けていたことは事実ですね。そう人材だったののかもしれませんね。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。