歪曲される情報を見る。

日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

始まりもなければ終わりもない相対性理論の進化形『空間物理学』始まりと終わりがある空間論。それは距離を無くした宇宙論。その(2)

2019年08月25日 11時41分25秒 | 空間物理学(相対性理論の進化形)

始まりもなければ終わりもない相対性理論の進化形『空間物理学』始まりと終わりがある空間論。それは距離を無くした宇宙論。その(2)
第二章 新しい宇宙観
第一項 比速度が宇宙の構造を示す世界とは?
これは宇宙空間の位置関係が質量がない状態でも「相対速度」で表され、それは「位置が第一義的に速度差=運動エネルギーで記述される」と言う事を示しています。

第二項 主方向の定義
第一項で「位置が第一義的に速度差=運動エネルギーで記述される」とされたのを受け、エネルギーとして1)移動エネルギー(並進運動)2)保存エネルギー(回転運動)に分けられ、観測者から見た天体の運動速度の内で1)2)に分けられたそれぞれのエネルギーを総合(積分)して、全質量で割った値のベクトルがとる方向を「主方向」と定義し、それによる3方向の並進・回転運動成分を列挙する事で空間の位置と定義する。

第三項 単純置換性
宇宙にある質量点は、空間から見れば、単純に全ての性質から質量系のエネルギーのみが作用し、それ以外の3力(電磁力・核の弱い力・核の強い力)は無視される。電磁力で、この理由を言うと光は無限個数の重ね合わせが空間上で可能である。(量子力学)つまり電磁力は空間に作用しないのである。
この実に平凡な呼称「単純置換性」は「宇宙に於いて同じ状態の質量点が存在すれば、それは空間的に同じであると見做せる。」と拡張可能で、それは入れ替えても宇宙的には何も変わらない事になる。方法論の如何に問わず、この入れ替えが可能な場合、状態としての宇宙は同じであり、空間を突破する能力があれば、その位置を保存する可能性を意味している。
(これはキモで、この理屈は「超空間転移」は理屈でコジツケられるか?が最初のイメージでした)

第四項 希望的性質
1)量子テレポーテーション
これは量子テレポーテーションの事であり、遠距離にある位置に光より希薄な情報(量子エンタングルメント光)により光速を超えた情報通信がNICT(情報通信研究機構)により検証された。この事により片方の量子ビットを持つと他の場所に於いても瞬時に等時通信が可能である。
2)マイクロブラックホールに依る空間隔離
現在に至るまでホーキングが予言した「宇宙のゆらぎにより発生する質量0の極小だが有限の大きさのシュヴァルツシルト半径を持つブラックホール」の存在時間によっては、マイクロブラックホールにより閉鎖空間を形成し同時に接触→1つのブラックホール化すると「質量0」のブラックホールx有限個数=質量0で、空間突破能力を得る事が理論上可能である。
3)マイクロブラックホールの形成
現行までの検討では、重力コイルの電力入り切りを繰り返し、反転磁力(重力)を発生して機関砲のようにマイクロブラックホールが形成されれば、マイクロブラックホールに依る、有質量点の理論質量0の空間閉鎖が可能となる。
1)〜3)の事が可能なら(1)は可能)、これにより従来の量子システムを使用して「超空間転移」が可能だろう。また量子システムに依る「超空間通信」は事実上可能である。但し入射光角度に依るエラーが問題である。


主観的意見
時空は一貫して宇宙を構成しているが、空間としての初期の宇宙は実験的、観測的には分かっていない。今の量子論の宇宙観は「数式としての理解」のみであり、これは実態とした理解ではない。実際ビッグバン宇宙論がインフレーション宇宙の時には、全くヒッグス粒子の特性によるブラックホール化しないでインフレーションが可能だったか?などの当然あるべき指摘はなかった。
現在インフレーション宇宙はセルンの実験結果に依る「ヒッグス粒子が効果の無い領域」で行われたと修正されている。
事程左様に「光の数万倍の速度で広がる」と言う時の空間の状況を説明している文章を見た事が無い。事程左様に、理論宇宙物理学が言及する宇宙観は極めて「ご都合主義」である。
空間と重力の問題は大統一場の理論の中で一番難関で、ヒッグス粒子は一部を開陳しただけである。まだ「遮蔽できない重力」「マイナスの力=斥力の無い重力」は説明されていない。
これは空間という性質が、他のものとは別のものであり、後で時空に加わったものと私は見ている。多分空間は質量点と光に依って構成されるのだろう。


始まりもなければ終わりもない相対性理論の進化形『空間物理学』始まりと終わりがある空間論。それは距離を無くした宇宙論。その(1)

2019年08月25日 10時28分11秒 | 空間物理学(相対性理論の進化形)

ちぃ〜っす、長崎で死を待つだけのオッサンです。
何か人生も終わり(54歳)みたいなんで、26歳の時に構想した始まりもなければ終わりもない相対性理論の進化形始まりと終わりがある空間論『空間物理学』を紹介します。
相対性理論と同じで解釈の理論ですから、文字ばっかりで馬鹿かと思われるでしょうが、要は、何故当たり前の事を村山齊などの理論宇宙物理学者は『意図的に無視』無視するのか?と言うものです。

空間物理学
第一章 概観
第一項 空間物理学が相対性理論と違う点は
①宇宙の構造は地球(或いは観測者)から天体が離れていく速度を高速で除した数値で表現されるべきであり、近傍の銀河系以外に距離を考慮して考察するべきではない。
②①の結果として、起こる相対性理論の現象を見直すのが『空間物理学』である。(御託理論)
②の例としては『ハイゼンベルグの不確定性理論』の意味の違いである。
『ハイゼンベルグの不確定性理論』とは「極微の空間での物質の挙動は位置と『運動量』が同時に正確に観測できない」と言うもので近年微調整がされたが、基本的な形は同じである。
これが空間物理学では光速cで割った値を見るので『ハイゼンベルグの不確定性理論』は「極微の空間での物質の挙動は位置と『質量』が同時に正確に観測できない」に変わる。(運動量=質量・速度)正確には「比質量」(質量・速度/光速)となる。
今迄宇宙の位置関係は測地線を使っての計測が相対性理論で取り上げられているが、これは「始まりもなければ終わりもない宇宙」が前提として考察されているからである。
「アインシュタインの相対性理論」は「ハッブルの法則」や「大統一場理論」や「ビッグバン理論」の前に出来ている。これを「修正しよう」と思わない時点で、どうかしている。

第二項 測地線と比速度の違い
さて、これにより相対性理論的には意味のある空間の拡大と測地線の割合が変わるか?である。
宇宙は発生後10万年後に原子が光子を放し、この時旧約聖書の「光りあれ」と神が仰った時代に相当する。
そして宇宙は光速で広がるので、移動距離はcxの積分で求められる。宇宙開闢10万年後と現在と思われる138億年後の比較をすると、(高校生の数学)

l=∫cxdx(t0=1、te=3.15x10^(12)秒=一万年秒)
=1/2*c*x^2(t0=1、te=3.15x10^(12)秒)
=2.983557888E+30(km)
L=∫cxdx(t0=1、te=4.352x10^(17)秒=138億年秒)
=1/2*c*x^2(t0=1、te=4.352x10^(17)秒)
=5.6818876419072E+40(km)
L/l=1.9044E+10(倍)=190.44億倍

つまり測地線は宇宙開闢から200億分の一の影響力で、これは日々小さくなります。それで宇宙の構造は決定できません。これに比して、v/c(地球(或いは観測者)から天体が離れていく速度を高速で除した数値)は一切変わりません。
空間物理学は、相対性理論そのものの宇宙観を膨張宇宙に取り込んだもので、取り扱いだけが違うものです。
例えば100km近くで超巨大爆発があっても、その空間が光速近くで移動すれば、将来的にも全く影響を与えません。この様に「場所」よりも「相対運動」は物理的作用に関して絶対なのです。
相対性理論もそうですが、宇宙は構造としての問題があります。

第三項 閉じた宇宙論の解説
構造としての宇宙は、その見える限界がありますが、そこの観測が重要となります。
宇宙の「見える果て」は「暗く」「動きがほとんど見えない」事となります。
これは事象の地平(シュヴァルツシルト半径)に似た挙動を示します。これはアインシュタインの「閉じた宇宙」と言うのと同じで、宇宙は天体が離れる速度が光速になる領域はブラックホールと挙動的には同じです。

第四項 距離の意味
運動的には距離は殆ど意味がありません。では何故距離を我々は感じるのか?
実は空間とは、刻々と変わる宇宙の行動した結果を光の形で残すものです。
これは「観測物理学」では、よく言われるのですが、過去の天体観測は、過去の時間を見るのと同じです。空間的には距離で広がる、宇宙が時間的過去を探るものと変わります。
こう言うと当たり前ですが、これが「時間と距離のディメンションは似たものである」と言う時空の概念となります。
実は、この時空の考え方が宇宙開闢後10万年間の宇宙のある時に重要な影響を与えると見ています。

第五項 減速宇宙の妄言
1980年のビッグバン宇宙の殆どが決定された頃から2015年ぐらいまで「理論宇宙物理学者」の寝言として「宇宙は減速膨張をしている」と証明もされていないのに明言していました。私は、この陳腐な思い込みが1984年から聞いている戯言に辟易して、宇宙は構造として取り扱う場合相対速度を光速で除した値(比速度)で表現する空間物理学の考えを思いつきました。
2015年頃村山齊が「宇宙の膨張速度が早い、加速しているようだ」と驚いていましたが、それは実に馬鹿げています。
宇宙は膨張初期は小さな円の上の弦とSINの値が差がある状態です。これは三角関数lim(SIN(x)/x){x→0}と同じでCOS(x)が結果となります。宇宙が限界まで広がった時、三角関数と同じ挙動をしますが、その前の段階では、宇宙は内部物質を幾何学的性質で放出する行動を取ります。
例えば円1を描いて円1の軌道上の一点に、また円2を描くと、円1と円2の交点と円2の中心が成す角は180°とは違います。円1の中心側のその角度は180°より小さく、それは円2の面積が、円1側より反対側が面積が広くなります。これは宇宙の加速を進めます。何故かと言うと、円1の物質が外側に吸われるので、それは加速しているように円1の中心側では見えます。
この様な単純な幾何で分かる事を「理論宇宙物理学者」は「不思議不思議」と言うのですから、私的には「どーかしている…」と言うしかありません。


最早「三峡ダム」は問題では無い。虫獄の飢饉は人災である。理由は「南調北水」である。

2019年08月24日 23時18分45秒 | 滅び行く糞チョン、ゴ...

NTDTVJPで「飢饉の報道」があったが、それは水を徴発された南部である。それはもう酷いもので、基本的に水の手配がダメで、それは「南調北水」が無ければ何の問題も無い話だった。あと1月、2月あれば状況は丸で違うものだったろうが、それを狂惨盗が力技で曲げたものの代償だった。
虫獄は、水で滅びるだろうとは思ったが、これが単に水が無いとか汚染だけではなく、水に絡む全てが虫獄へ襲いかかるのである。今後食料自給は、この水の不安定により幾らも変動するだろう。
自然を甘く見た罰である。だが、それはEUでも、アメリカでもそうである。
雁屋哲(武論尊)の美味しんぼでオーストラリアが自然保護に気をつけているように描いていたが糞舐め汚い虫獄が大量に入って環境が汚染されない国はない。虫獄や糞舐め汚い嘲賤とかは、その生命活動=汚染活動である。だからサンフランシスコも虫獄、嘲賤の常識「糞尿の袋詰」がバラ撒かれている。
多分オーストラリアも虫獄に依る汚染が進んでいるだろう。虫獄や糞舐めは何処に行ってもそうである。今後「汚染虫」としての虫獄と嘲賤が問題となるだろう。虫獄も朝鮮も今の領域に閉じ込めて自らの汚染で自滅して貰うのが一番だろう。
今後、糞舐め汚い嘲賤脱出するチョンが出てくるが、それは汚染源となるだけである。


愛は地球を救うのドラマを見て思う。薬師丸ひろ子さんは、まだマネージャーいないのかな?

2019年08月24日 22時08分03秒 | 日記

ええっ!と思う人も居るだろうが、これは、ある時まで事実であり、最初聞いてびっくりした。
テレビのインタビュー番組にて…。
「薬師丸さん、お仕事は…」
「ええ、まぁ今は色々と頂いて、お電話も受けていますし、スケジュールも自分で管理しています。」
「ええっ!」
…で、話を聞くと「マネージャー無し」で仕事も「オファーがあれば基本的に受ける」のだそうだ。その心は「一度断ると次来ない」んだそうです。
私は「食彩の王国」で心地よい薬師丸ひろ子さんの声は土曜の朝を癒やしてくれた。
その頃までは確かマネージャーさんもいたとか?
彼女程のキャリアーがあっても、そんな感じなのか?と思ったがリスクはあるが中抜き無しでギャラ交渉もするそうで、見事なものだった。
でもテレビの露出も少なくないし、そんな家内手工業でやらなくても…。とは思うが今も元気にやっている姿を見て、安心しています。


松任谷由実さんの「春よ来い」についての考察。

2019年08月24日 21時01分09秒 | 先の無いおっさんの改革案

最近「松任谷由実」さんはラジオにもテレビにもそこそこ出ていて、ふと我が心の師「中島みゆき」を差し置いて何だが、何か今松任谷由実さんの土曜のラジオ?日曜だったか?でふと彼女の「桜を後何度見られるのか?」と言う言葉が実に歌に入っている感じがして、その感じは中島みゆきさんには見られない「弱さ」と言うか「儚さ」を感じたのである。
「春よ来い」とは文芸批評的にホザケば「積極的な季節感」つまり「春が来た」ではなく「来い!」と力技で引き寄せる意思が見える。受け身ではなく「サイは投げられた次は象を投げてやる」(中島みゆきのオールナイトニッポンのニューミュージック楽屋裏話)と言う果敢な少女を感じてしまう。
松任谷由実さんは派手なコンサートが売りだが、歌の中で最も豪華なのは「春よ来い」と言う感じを受ける。それは何もない中に沈丁花が咲いていて、そこから徐々に情景が広がる様子はスポットライトから光が広がり舞台全体が光に埋め尽くされ、そこには仏が現れても可笑しくない光の渦の中に弄ばれる松任谷由実が見える。
これほど歌で奏で、歌で歌い、そして、目で光を、言葉で光を感じ強い命の息吹と同時に散る儚さの表裏一体を示す歌は松任谷由実でも、おそらくはこれ1曲だろう。
ごく少ない伴奏で、これほどの広がりをさせる時点で天才と言う陳腐なセリフで終わらせるのは表現としての比評者の怠惰であろう。あちらは、渾身の一曲を提示しているのに、拍手と天才の称号で終わるとは聞く側が安易過ぎる。
松任谷由実さんは、ジブリ作品と相性が良いのか、良く使われている。それは魔女の宅急便の絡みからもあるからと言う安易なものより私は「もののけ姫」の米良氏による歌「もののけ姫」と似ているからだろう。
彼の曲も伴奏がほぼ無く、歌で奏で、歌で歌う曲であろう。そこには弓の弦が共鳴するような、高調波の荒々しい共鳴があるのだろう。魔女の宅急便であるようなモダンな日常より戦国時代の戦いの中で迎える春のような殺気立つ中、それを力技で溶かすような強力な春を、強力な意思で呼ぶような強力な歌、曲、それが「春よ来い」なのではないだろうか?
私も、これこそ葬儀の中、故人とは弱く消えてゆく者ではなく、仏の放つ光の中で更に虹彩を放ちつつ別の次元へ飛び立つ旅立ちの詩と思える。
これほど広がりのある歌、そして、変化の激しい歌は残念ながら私は知らない。そして歌を直接聞いても直ぐには分からない。それは生死を見れば見るほど心に沁みるものであり、歌が心の中で成長して、心を満たすのである。日々、終わりに近づく人間にとって、この心の中の歌の成長は、人間の体の限界を超えて、衰える体を補うのであろう。
かくて、私の「春よ来い」の心の触診は、終わりを迎えるが、それでも心の中の「春よ来い」は広がる。再診療が必要な病は、不思議な事に心から体を元気にさせる。
なんて、文芸評論家ごっこでした。