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日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

松任谷由実さんの「春よ来い」についての考察。

2019年08月24日 21時01分09秒 | 先の無いおっさんの改革案

最近「松任谷由実」さんはラジオにもテレビにもそこそこ出ていて、ふと我が心の師「中島みゆき」を差し置いて何だが、何か今松任谷由実さんの土曜のラジオ?日曜だったか?でふと彼女の「桜を後何度見られるのか?」と言う言葉が実に歌に入っている感じがして、その感じは中島みゆきさんには見られない「弱さ」と言うか「儚さ」を感じたのである。
「春よ来い」とは文芸批評的にホザケば「積極的な季節感」つまり「春が来た」ではなく「来い!」と力技で引き寄せる意思が見える。受け身ではなく「サイは投げられた次は象を投げてやる」(中島みゆきのオールナイトニッポンのニューミュージック楽屋裏話)と言う果敢な少女を感じてしまう。
松任谷由実さんは派手なコンサートが売りだが、歌の中で最も豪華なのは「春よ来い」と言う感じを受ける。それは何もない中に沈丁花が咲いていて、そこから徐々に情景が広がる様子はスポットライトから光が広がり舞台全体が光に埋め尽くされ、そこには仏が現れても可笑しくない光の渦の中に弄ばれる松任谷由実が見える。
これほど歌で奏で、歌で歌い、そして、目で光を、言葉で光を感じ強い命の息吹と同時に散る儚さの表裏一体を示す歌は松任谷由実でも、おそらくはこれ1曲だろう。
ごく少ない伴奏で、これほどの広がりをさせる時点で天才と言う陳腐なセリフで終わらせるのは表現としての比評者の怠惰であろう。あちらは、渾身の一曲を提示しているのに、拍手と天才の称号で終わるとは聞く側が安易過ぎる。
松任谷由実さんは、ジブリ作品と相性が良いのか、良く使われている。それは魔女の宅急便の絡みからもあるからと言う安易なものより私は「もののけ姫」の米良氏による歌「もののけ姫」と似ているからだろう。
彼の曲も伴奏がほぼ無く、歌で奏で、歌で歌う曲であろう。そこには弓の弦が共鳴するような、高調波の荒々しい共鳴があるのだろう。魔女の宅急便であるようなモダンな日常より戦国時代の戦いの中で迎える春のような殺気立つ中、それを力技で溶かすような強力な春を、強力な意思で呼ぶような強力な歌、曲、それが「春よ来い」なのではないだろうか?
私も、これこそ葬儀の中、故人とは弱く消えてゆく者ではなく、仏の放つ光の中で更に虹彩を放ちつつ別の次元へ飛び立つ旅立ちの詩と思える。
これほど広がりのある歌、そして、変化の激しい歌は残念ながら私は知らない。そして歌を直接聞いても直ぐには分からない。それは生死を見れば見るほど心に沁みるものであり、歌が心の中で成長して、心を満たすのである。日々、終わりに近づく人間にとって、この心の中の歌の成長は、人間の体の限界を超えて、衰える体を補うのであろう。
かくて、私の「春よ来い」の心の触診は、終わりを迎えるが、それでも心の中の「春よ来い」は広がる。再診療が必要な病は、不思議な事に心から体を元気にさせる。
なんて、文芸評論家ごっこでした。



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