歪曲される情報を見る。

日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

誰か「ビビる大木」伝えてくれよぉ〜。徳川綱吉の実態。ザ・プロファイラーへの反論。

2019年01月09日 21時33分18秒 | 糞馬鹿文化系大学出が分からない世界

毎度「私の見知った事実」を元にして考えた「歴史の真実」であるが、これを是非「ビビる大木」に伝えてほしい。
また石坂浩二さんにも見て欲しいし、意見も頂戴したい。
まぁオカダーはどうでも良いや。
この「徳川綱吉」に関する事実には、ここ10年で私には大きな変化が出ていた。
1)武家型政治の終焉
2)行政主導の管理政治の合理性
3)当時としても珍しい合理的行政
なのである。
先ず1)武家型政治の終焉は、徳川秀忠の時代、国替えを命令した大名に「もとの君主に懐いていた庶民をどう押さえる?」と聞かれ「刀に物を言わせまして治めまする」とあった。
この時期「水戸の小生瀬村事件」、「島原の乱」などで領民が大量に殺される事例が多発し、実際石高は高いが、米の収量が窮する事態に及んだ。
島原付近は、30年ほど誰も住み着かなかった。
これらが最終的に幕府の財政を悪化させたのである。
また徳川家光は46歳と若くして死んでいるが、その原因は「過労」と「ストレス」であった。
特に危惧する案件が「貿易」だったが、日本の金銀銅が海外に出ていき、鎌倉時代日本を魅了した宋は、宋銭が供給できず「デフレ」で経済破綻を起こした。
実は日本が手形や証文で貨幣流通に代えた文化は、その知恵による。
加えて「武術ばかりをしていた」と悔恨を悔やんだ言葉には、武張った問題があった。
その最たるものが家光が将軍になって直ぐの頃、加藤家の嫡男が下した「謀反文」が問題となり、悪戯のつもりが、政権冒頭の大事件と言う事で加藤家のお取り潰しが決まったのである。
家光は国家の安泰の為に死ぬほど苦労をした。
綱吉は、それらの姿を見ていたのだろう。
また桂昌院の存在も無視できない。
子捨てや姥捨て、病人を棄てるのは、実によくあったようである。
その状況を放置したのが、平安京であり、その様子は羅生門の描写そのものである。
この上に、更には「女郎の死体捨て」も加わり、治安や衛生上の問題となっていた。
また肉食を制限したが、それは帝の出した勅命に重なるものであったが、当時「坊主の犬喰い」が問題であった。
これは肉食の停止ではなく「坊主の風俗紊乱」を押さえるのが目的だった。
坊主の悪業には「山寺の和尚さん」でも歌われている通りであった。
当時坊主には「扶持」を与えて幕府が召し抱えており、此等の好き放題は許されなかったのだ。
石坂浩二さんが、この手のコメントが無いのが不思議である。
さて綱吉本人の問題に関して言えば、綱吉自身も決して頑健な体ではなく、桂昌院の献身的な看護があってこそのものだった。
それにも加えて、綱吉は徳川幕府の将軍の中で一番背が低かった。
これは愛知県岡崎市の大樹寺町にある大樹寺(徳川家の菩提寺)に15本の位牌がある。
この位牌は、その将軍の背丈の高さに作ってある。
まぁ大樹寺に一回は行ってみるもんだ。
だから「勉学」に傾倒しており「馬術」もでき様が無かった。
ただ、この時代の有名人:吉良上野介も実は互いに似た様な面相・体格でありながら、吉良上野介は郷土の歌にあるように「馬に乗って領地を回っていた」のである。
また鷹狩だが、これは吉宗の悪業のたねとなっている。
実際、江戸の農民の賦役に鷹狩の獲物である鴨の餌である「ケラ(虫ケラのケラ)」を収集するのが「大迷惑」だったそうで、ナカナカ取れなかったと言う。
江戸付近の農民は「吉宗公も鷹狩好きが過ぎなければよいが…」とぼやいていたそうである。
生類憐れみの令だが、これは少々私の独断が多いが、まぁ流れとして悪くないと思っている。
昔日本にも「狂犬病」があり、この宿主が「蝙蝠」とは知らなかった当時、喧嘩を良くする犬は狂犬病の可能性が高かった。
狂犬病の犬は放っておけば勝手に死ぬが、(大体10日ぐらいで)死ぬ前に人や犬に噛みつくと病気が感染する可能性があった。
「犬の喧嘩を止めろ」と「犬の喧嘩の止め方が妙に細かい」のは「犬を守る」のではなく「狂犬病の犬対犬と犬対人の感染防止」があったと考えられる。
生類憐れみの令の中で「馬に重いものを背負わせるな」とあるのは「意外」な人が多いと思うが、実は馬は「駆けるもの」であり「乗り物」でもあった。
この乗り物への幕府の傾倒は著しく、この駕籠の形式とのって良い身分は笑ってしまう程ある。
例えば将軍様と御台様の駕籠をトップにして、大老、老中、奉行、大名、お留守居役と馬鹿みたいに乗る駕籠の形式が決まっていたのを知っている人は少ない。
また「牛に対して重いものを持たせてはいけない」とは生類憐れみの令には無いだろう。
これまた、NHKが言わない現実である。
東京都の「牛込」は江戸時代に本当に「牛」が一杯いた。
マスゴミの低能不勉強で分からないのが多いが、江戸時代赤坂の様な高地への荷物の持ち上げは「牛車」が担っていた。
所が、それも主要国への「三度便」の増加により、どんどん牛が「郵便物」に変わって行った。
その後、低地から高地への荷物の輸送は江戸では「大八車」、上方では「栓車」によって代わる。
ちなみに平地で大八車や栓車の仕様は「ご法度」である。
この様に「馬に重い荷物を載せてはいけない」が意外だったとすればNHKの奴らが糞馬鹿大馬鹿間抜け屯馬だと言う事だ。
更に生類憐れみの令で「捨て子、姥捨て、病人捨て」を許さなかったお陰で、新たな制度が出来上がった。
それが押し込め寺の制度である。
あれ?NHKの高い給料のゴキブリって知らないの?
まぁ歴史歪曲はNHKの主要業務だもんね!
押し込め寺は、主に梅毒を発した女郎の最後を迎える為のモノで、金が潤沢な吉原を中心に発生した。
それまでは女郎は、どんな上位にあっても死ねば隅田川に捨てるのが習いだった。
それが寺で死を待ち、供養をされる。
その費用は当然遊郭の手出しだ。
これは一般人にも広がり、また当時、良く流行していた疱瘡(天然痘)は田舎の方に至るまで「疱瘡寺」が存在しており、それに各藩が扶持を付けて運営していた。
これは「泉光院旅日記」に記録されている。
ただ、この制度は、寺請制度や人別帳の作成から「自ずから法の合理性」から出て来るかもしれなかったが、それを率先して50年は早めた功績は綱吉にあるだろう。
またコズミックフロント(見逃したのだな私は…)でも出て来た「天文将軍徳川吉宗」でもあっただろうが、この吉宗の天文好きは多分(番組見ていないので)綱吉の影響であると思われる。
実は、元禄時代にはマダマダ天文学がダメで、江戸時代初期には「暦の輸入」が清と行われている。
徳川吉宗の時代、とうとう念願の「暦の内製」に成功して、自前で暦を策定できるようになった。
また経済音痴しか居ないNHKのミス・元禄の改鋳の失敗と、それを取り返した荻原重秀の動きが書かれていない。
この時期、江戸幕府は世界に先立ち「実質上世界最初の紙幣:山田葉書」を発行し、その問題の処理に勘定方が元禄時代に乗り出している。
此等については、日本銀行金融研究所/金融研究/1999. 9「江戸時代における改鋳の歴史とその評価」(大塚 英樹)にも書かれている。
加えて、歴史には徳川吉宗が目指している「サトウキビ栽培」の原案は、どうも徳川綱吉である可能性が高い。
そして、これこそが父家光の難事だった「貨幣の海外流出」を止める為のものだったのだが、実は、この「ビビる大木」の大好きそうなネタには裏があると見ている。
この頃「シュガーロード」なんて頭の悪い長崎の馬鹿がほざいているが、実は砂糖の消費量は莫大に増えている。
これが日本の金銀銅の流出の原因だが、その多くが「薩摩経由」である。
所が、これを仲介したのが「土佐」の可能性が高い。
薩摩からの砂糖では、幕府の方針に合わない。
だから、そうなったのだろう。
とすれば坂本龍馬が何故薩摩と話が通じたか?がわかりやすくなる。
実際、「西郷どん」の中の薩摩の問題と琉球経由の「さとう輸入」を考えると、これは大きな「謎」の解明だろう。
この辺は「ビビる大木」に知って貰いたいのである。
他方で綱吉は、忠臣蔵の失敗(だが、浅野内匠頭自身は相当ダメダメだったとのこと)と宝永噴火の義援金を横流しして京都からの御台所の居城を作るために流用した為、噴火復興奉行:伊奈忠順を切腹に追い込んだ悪行はしっかり覚えて貰いたい。
以上!プロファイラーの徳川綱吉に対する「追加・補填」を述べた。