冬は雨降り・・夏は素晴らしき・・住めば都

チャー助です。
カナダ・バンクーバーに移住して25年ほど。生活・子育て・日本について思うこと等を綴ります。

「瞳の奥に」ネットフリックス鑑賞

2021年05月28日 | 生活
まずはコロナの話題。
BC州では連休明けの5月25日に今後のコロナ対策について発表があった。それによると25日から9月7日まで(今年のレイバーデーの祝日は9月6日。レイバーデーの翌日から学校の新学期も始まるので、いろんなことの始まりの時期となっている)を4つの段階に分けて段階的に規制を緩和していくということだ。
まず第1段階は25日から。レストラン等店内飲食が可能になる(人数制限あり)などで、第2段階は6月半ば予定で集まりの人数制限がさらに緩む。
そして第3段階はカナダデーの7月1日予定。これまでずっと出っぱなしだった州の緊急事態宣言がこのころ解除される予定とか。この段階からは、もしかしたらマスク着用が義務づけられるということはなくなるかも。つけたい人はつけていてもいいが、場所によってはつけなくてもよいということになるかもしれない。人と集まるのも人数の制限がなくなり、他州への旅行も自由にできるようになるらしい。大きなイベントやコンサートなんかも、ある程度安全対策をとる必要はあるものの、開催ができるようになるとか。第4段階が9月7日からの予定で、屋内・屋外スポーツも普通通りにできるし、イベント収容人数も増え、人との集まりも通常通りになるとか。大学とかカレッジも通常の対面授業を開始する。

こんな感じで段階的に規制を解除していって、9月からはパンデミック前の状態にほぼ戻るという計画だそうだ。
それぞれ日付が発表されているものの、ワクチン接種の進み方と新規感染者や重症者の数が減少するということも指針となっているので、日にちは目安ということ。でも、これで先の見通しがある程度たったので、安心する人が多いだろう。飲食業界もそうだし、映画館、イベントやコンサート興業をする企業なんかも、秋以降の公演スケジュールもやっとたてられるだろうし、すこしずつ明るい兆しが見えてきたというところだ。
一方で、第4波はそれでもやっぱり避けられないだろうとか、規制緩和が次の段階に進む日付は示されているものの、この通りにいくとは限らないから、楽観しすぎも良くないだろうという意見も出ている。変異株がどれくらい広がっていくかとか、ワクチンがどれだけ効果を発揮するかとか、わからない点も多いわけだからねぇ。

さてやっと本題。
久々にネットフリックス鑑賞。最近なんにも見てなかったけど視聴料も払っていることだし、たまには見ないと。
どこかで紹介されていた「瞳の奥に」(原題:Behind Her Eyes)を見た。1話50分ほどで全6話。これならすぐ見れそうだ。
なんかすごいエンディングらしくて期待が高まる。
結論。5話までは「ふーん、それで?」的な感じで進むし、最終話である6話も始めのうちは「どこがどうすごいのだ?」と冷めた気分で見ちゃうのだが。後半一気に「え!え!?そうなるの?!」と驚きの連続。まさにどんでん返しで、すごいエンディングだっていうのは本当だった。

主人公であるルイーズはデビッドという精神科医と出会って深い関係になっていくのだが、実は彼は既婚、しかも職場での上司。奥さんであるアデルとは関係が冷めているらしい。というか、この結婚生活そのものが過去の因縁に囚われているような感じで、デビッドは抜け出したいと思っているが、アデルはデビッドと絶対別れたくないと思っている。ルイーズはデビッドとは不倫関係になる一方、デビッドには内緒でアデルとは友達になっていく。それがばれちゃってデビッドとルイーズは喧嘩別れする。アデルはルイーズにデビッドが犯罪者であるようなことを匂わせて同情を引こうとする。ルイーズはそんなアデルの思うつぼにはまっていく。
それからなんやかんやあって最終話。アデルは、デビッドは実は無実であり自分がやったことだというような内容の遺書を残して自殺しようとするのだが。ここから先は「そんなまさか?!」の連続であるが、ネタバレはやめておこう。

デビッドと結婚する前、アデルは療養施設みたいなところにはいっていたことがあり、そこでロブという友人ができる。この2人の関係も過去の思い出という感じでやたら描写されている。それだけ見ているとロブはアデルのことがとても好きで、アデルの婚約者であるデビッドに嫉妬しているんだろうなと思える。でもエンディングでそれが覆されるのは思ってもみなかった。

全体を通して怪しげな雰囲気で、アデルなんか自宅で料理していたり、お茶飲んでいたりするだけでもなんか怖い。ルイーズがしょっちゅう見る夢というのも怖いし。
でも最後まで見てから、それまでのあれこれの場面を思い返すと腑に落ちるところがあったりして、さらに怖い。
アデルはどう見てもサイコパスなんだけど、実は本当のサイコパスは他にいたってわけである。
ちなみにアデルを演じているのは、U2のボーカルであるボノの娘なんだそうだ。息子に言ったら「ボノ?誰?」だって。し、知らないのかぁ~(U2は知っているそうだが)。
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SNSだとかいろいろ

2021年05月24日 | 生活
いわゆるSNSといわれるものに、FB、インスタグラム、LINE、TikTok、ツイッターなどいろんなものがある。
私もアカウントを持っているものがあるが、活発に使っているというほどではない。LINEは日本にいる妹との連絡のためにアカウントを作ったようなものである。お互いに見られる時に見て返事できるときにするというペースでやっているので、Eメールでのやり取りとあんまり変わらないかも。でもLINEは日本の人と連絡するのに便利である。
こちらはLINEを使っている人が少ない、というか、その存在を知らない人も多く、SnapchatとかWhatsAppのほうがよく使われている。Snapchatは若者の間で特に使われていて、うちの子たちもこれで友達と連絡取りあったり、ビデオ投稿したり(インスタストーリーみたく24時間で消えるらしい)している。このチャットは読むとどんどん消えていくらしいので記録が残らないってことになるね。もちろん残しておく方法もあるので、変なメッセージは軽々しく送らないほうがいいのは確か。

うちの子のSNS使用状況としては、インスタグラムはほとんど見ていない、たまには見るけど投稿はしないという感じ。彼らにはそんなに面白くないようだ。息子などアカウントも削除してしまったようだ(削除してまた復活させたりすることもある)。でもなんかビデオとか見てるようだけどなぁと思って何を見てるか聞いてみると、TikTokとかYouTubeなんだそうだ。こうした動画の投稿というのは本当にたくさんの数がネット上にあふれていると思う。それだけ見てくれる人もいるからなんだろうけどね。
私の若かりし頃にはこんなにいろんな便利なものがなかったから、なんかほんと隔世の感である。

日本でSMSとかショートメッセージと呼ばれているものは、こちらではテキストといわれている。電話番号あてに送るメッセージで、テキストという単語は名詞および動詞としても使われる。「Text me」っていうのを訳すと「ショートメッセージ送ってね」ってことだ。
最近読んだ記事では、若者はテキストとかチャットを送るとき、文の最後にピリオド(句点)を打たないのだと書いてあった。ちなみにこの記事を私が読んだのは最近だけど、記事そのものは5年前のものなので全然新しい内容ではない。
日本でもLINEなんかで最後に句点を打たないとか、読点も使わず代わりにSendして新たな行に移るなんてことを聞くけど、それに近い感じのことがこちらのチャットでもおこなわれている。
チャットとかテキストの場合、ピリオドを使う必要はないので(必要ないのか?!と思ってしまうところが私って年寄りなんだなと思う)、うれしいとか怒っているとかの感情を強調したいときにつけるものだというのが若者の間では常識となってきているとか。!マークとほぼ同格という感じかな。

私が読んだ記事に親と子のテキスト例が載っていた。
親:車で待っているよ。
子:怒ってるの?
親:怒ってないよ。車で待っているって言ったんだよ。
子:え????
つまり、子供は親がピリオドをつけているので「怒ってるのかな」と思ったわけだが、親は「なんで怒ってると思うのかな?」と噛み合わないわけ。

で、ピリオドでもって強調したいときに使うとこんな感じ。
「この製品、お勧め!Buy.This.Now.」←いま。すぐ。買って。(すぐにでも買うべき!!と強調しているわけである)
いうまでもないが、長い文章にはこういうピリオドのつけ方をしない。そもそもチャットなんかは短い文章で打つものであるので。LINEもそうなんでしょうけど。私は妹とのLINEで長々と書いてるけどね(とにかくEメールとほぼ同じように使っているのでね)。
私は娘や息子にテキストすることも多いが、息子の返事なんてものすごく簡潔で、もちろんピリオド無し。典型的なチャットの使い方だ。だが2人とも私が長々と書いても、ピリオドつけていても、オバサンだからそうなんだと納得しており他意はないとわかってくれているようだ。

最後に余談。
今年のビクトリアデーという祝日は5月24日なのだが、その翌日25日より、4月ごろから続いていた規制が一部緩和されるらしい。レストランやフードコートなんかでの店内飲食ができるようになることと、州内でも遠い地域へは旅行に行ってはいけない(仕事や病院の予約なんかとかだと行ってもよいことになっていた)というのが解除されるとか。最近、新規感染者数が減ってきたのと、ワクチン接種が順調に進んでいることから、この度の規制緩和につながったらしい。もちろん、ワクチン接種したらマスクしなくていいよー、なんてことにはならないし、大人数で集まることもまだまだ禁止。でも、みんな感染を広げないために頑張ってきたし、そろそろ多少の緩和も必要だろうということかな。
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娘の引越し

2021年05月20日 | 子ども・家族
大学に通っている娘は1年目は寮に入っていた。1人1部屋で、シャワーやトイレは共同(同じフロアの人全員で共有する)、キッチンスペースはないので食事は買ってくるか、カフェテリアで食べる形式だった。2年目は寮に入れず、一軒家の地下でルームシェアをしていた。キッチン、トイレ、シャワーはルームメイトと共有ではあるが個室もあり、改装されてあまり日がたっていない部屋だったのでキレイ、床暖房が入っていて暖かかったのがうらやましかったなぁ。(そのためたまにうちに帰ってくると「ここのうちは寒い!」と文句たらたらだった)
3年目はコロナでオンラインとなったため家に戻ってきた。とはいえ娘の生活リズムが私とかなり違っているので、一緒の家に住んでいるのにあまり顔を合わさない(笑)という感じだった。娘は夜行性動物で私はどっちかというと朝型である。
ことしの9月の新学期からは大学も対面授業を再開する予定。予防接種を受けていなくては授業に出られないというようなこともないらしい(9月までに1回目の接種が終わる人もいるかもしれないが、予約が取れないという人もいるだろうからね)。そこで娘はまた寮に住むことにしたそうだ。今度は無事に入れることになった。なにせ2年目のときからウエイトリストに載っていたのだから、そろそろ入れてもよかろう。

9月から授業だが、5月~6月はサマーコースをとるということ(オンラインだけど)、夏のバイトが今年も始まったので家から通うと遠いからということで5月から寮に入ることにしたそうだ。とにかく大きな大学なので寮もたくさんあり、1年目の人専用、1人部屋タイプ、2人部屋タイプ、4人部屋タイプ、家族向けなんてのもあるらしい。入寮時期も9月からとか5月からとかいろいろ。
娘が今回入るところは6つくらいのビルが建っていてなんかマンション群って感じ。娘の部屋は18階最上階である。キッチンとリビングスペースは大きな窓があって素晴らしい眺望だ。うっそうとした森とその先に広がる海。なんなのこの素晴らしい景色は!!個室である部屋の窓からは遠くノースバンクーバーの山が見える。すげー。

コロナのご時世、引越しのお手伝いの人は1人だけしか来てはいけないということで、私がついていった。私の車にも荷物を積んで、娘の車にも積み2台態勢で行くことで一回の運搬で済む。カートを借りて車から荷物を運び出す。運搬は3往復。車から荷物出す、建物につくといちいちオートロック解除、エレベーターに乗る、部屋に荷物を下ろす(出入りするたびに鍵の開け閉めがあるし)、エレベーターで降りる、車に戻る、というのを繰り返すのって結構大変。疲れた・・・老体にこたえるよ。
娘の部屋は2人タイプでリビング、キッチンスペース、トイレ、シャワーは共有で個室があるという2ベッドルーム+LDKって感じの間取り。もちろん個室にも鍵がかけられるようになっている。ルームメイトは他国からの留学生らしいのだが9月から入居する予定で、夏の間だけほかの人が住むらしい。無駄なく家賃収入を得る大学はなかなか抜け目ない。入ってみると誰もいない、夏の間のルームメイトはすでに越してきているようなのだけど、どこかに行っているのだろうか? などと考えながらその日は終わったのだが、次の日娘からの電話では「どうもほかの人は入っていないらしい。今のところは」という。もしかしたら7月にだれか入居するかもしれないけどということだけど、しばらくは娘一人で使えるんだからラッキーかも。

キッチンには冷蔵庫もストーブ(電気調理器具)もオーブンも、食器洗い器もあるが、電子レンジやトースターがない。電子レンジがないのは不便だねぇということで、レンジは安いのを私が買ってあげることにした(ルームメイトも使いたかったら使ってもいいし)。今回の運搬時に持ってくるのを忘れたものもあるので、それと合わせて翌日にまた運んであげようということになった。
キッチンがあるからといって、みんながみんな料理をするとは限らない。プリペイドカードを買ってカフェテリアやレストランなどで食事をするという人もいる。でも娘は「それだとお金がかかるから」という理由でなるべく自分で作るつもりらしい。もっとも大したものは作らないだろうけど(というか作れない)。

私はひとり暮らしはしたことはあるが、ルームメイトとシェアするというような暮らしをしたことがないので、なんか窮屈に感じてしまうのだけど、そういうのも慣れればそんなでもないのだろうか。ルームメイトがどんな人なのかによって違ってくるのだろうけどねぇ。
余談ながら、娘が引っ越していった翌日、娘の部屋の掃除をした。娘の部屋の掃除は本人に任せていたのだが、全然掃除をしないので部屋がとても汚い。主に寝るためだけに使っているのでゴミが散らかっているというほどではないのだが、掃除機かけたの何か月前?って感じの汚さ。私は掃除が嫌いだが、健康で文化的な最低限度の生活を送れるほどにはしておきたいので、気になってはいた。しかし娘とは生活リズムが違うってこともあるし、何より自分の部屋くらいは自分で掃除してほしいと思っているので手出しをせずにいた。で、娘の引越しを手伝いながら「明日は掃除すっぞ!」と実はワクワクしていた。しつこくいってなんだが掃除は嫌いなので徹底的にというほどのことはしない。まあまあ人並みの部屋くらいにはなったけどね。
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ドライブにつきあう必要もなくなって

2021年05月16日 | 子ども・家族
4月後半、息子がやっとNの免許を取った。それまではLという日本でいうところの仮免だった。免許を持った大人が同乗する必要があるので、息子が運転するときはいつも私かだんなが隣に乗る。Lだとそのほかの同乗者は1人までで、夜中は運転してはいけないことになっている。
Lのひとは1年間の運転練習期間の後、路上試験を受けることができる。多くの人はその練習期間にドライビングスクールに通ったりしてインストラクターに教えてもらうのだが、息子はそんなことしなくても自分は上手に運転できるからという(出た出た、息子の根拠なき自信)。なのでスクールも通わず、路上試験に臨んだ。

一緒に車に乗って見ている私からすると、絶対受からないなと思っていたが案の定落ちた。試験の前には私があれこれとダメだししたり、アドバイスらしきことをしてみたりしたけど、うるさがって聞いちゃいない。まだどこかに「自分は結構運転がうまい」と思っているのが透けて見えるのだ。
うまいかどうかはさておき、普通に免許を持って運転している大人たちの多くはいま路上試験を受けたら受からないよ、と断言できるわけで、試験に受かるための運転の仕方というものがあるのだ。そこのところを息子はよく分かっていなかったわけである。

1回目は落ちるだろうなとは思っていたが、2回目でなんとか受かってほしいもんだと思っていた。1回目は落ちたって人は意外と多いらしいので。
ドライビングスクールで路上試験のヘルプをしてくれる場合は、インストラクターが免許センターまで連れて行ってくれる。全部お任せできて楽なのだがそういうのを受けていないので、試験の時には私が一緒に行かなくてはならず面倒くさい。免許センターまでうちの車で行くわけだが、当然ひとりで運転して行けないから私が同乗して向かう。しかも試験は当然うちの車でやるわけだから試験の間、私はぼんやりとそこで待ってなくちゃいけない。通常は免許センターの中で待っていられるので、椅子にでも座って本を読んでたり出来るのだが、コロナのせいで中で待つことはできなくなっている。
さて1回目の試験に落ちると2回目の試験を受けるのは14日間の待機後だ。落ちたらすぐ次!ってな具合に受けなおせるようにはなっていない。

2回目の試験の前でも、私から見ると「今回もダメそうだな」という気がした。1回目で落ちたポイントがあまり改善できてないなぁと思ってたので。で、不合格。やっぱりねぇ、と私は思ったが本人はさすがにイラ~っとしたらしい。「路上試験は受かるためではなくて不合格にするためのものだと思う」とか言っている。まぁある意味そうかもねぇ。
3回目の試験までの待機期間は30日間に延びる。路上試験を受ける人は多いし、去年はコロナで試験が全然できなかった期間も長かったため、余計に試験を受けたい人が増えている状態。だから30日後すぐの予約が取れるかっていうと、そううまくはいかない。結局、息子も3回目の試験は45日くらい後の日程で予約を何とか取った。

3回目の試験では息子曰く「一番緊張した」。受けても受けてもダメなんじゃないかというネガティブモードに入っちゃってるかな?という感じ。ま、娘の友達のお姉さんは6回くらい落ちて7回目で受かったとか聞いているし、なんとかなるんじゃない?と私はひとごとのように言うのであった。

試験のために車が免許センターから出て行ってから20分くらいで帰ってきちゃったら、落ちたっていうのがほぼ確実。あと、息子の試験を見ていて気が付いたのだが、試験が終わって免許センターに帰ってきて駐車場に車を停める時、バックで入れていると受かっている。が、頭から入れてると不合格なのである。
さていよいよ3回目。さすがにもう落としたくないらしく、息子は前日に「練習しよう」と言ってきた。なので交通量の少なくなった夜に練習。多分この辺を走るでしょ、と思われるルートをうろうろしてみた。
試験のルートには絶対スクールゾーンかプレイグランドゾーンが組み込まれている。ここは時速30キロで走らなくてはならないのだが、その標識に達した時点で30キロになってないとだめなのである。だから標識をしっかり見てないといきなり30キロに落とせなくて、不合格~ってことになる。だから免許センターから遠くないあたりのルートを回って、こうした30キロゾーンを走りなれておいたほうが安心。知っていればそろそろあの標識があったなと心構えができるもんね。

試験の前には車のチェックが行われる。ブレーキランプとか右折左折のシグナルとか、ハンドシグナルとか、クラクションがちゃんとなるかなどをチェック。この点は息子など3回目なので慣れたもんである。
出て行ってから35分くらい経って戻ってきた我が家のマツダ3が免許センターの駐車場に入ってきて、バックで入れているのを見たときには「おーー、やった~」と思いましたね。これでひと安心。

車から試験官とともに降りてきて免許センター内に入っていく。暫定的な免許をもらい(ペラペラの紙一枚)写真を撮って、Nサインをもらってきた。免許は75ドル(試験を受けるのは35ドル。1回目は払ってあげたけどそれ以降は自分で払わせた)。ちなみにNとなっても制限は多少ある。同乗者は1人まで。同乗するのが親とかきょうだいならその制限はないけど、いとこや友達なんかは1人までしか乗せてはいけない。許容されるアルコール濃度は0%。免許は5年間有効で期限が来たら更新できる。というわけで、これらの制限が気にならなければずっとNのままでもいいのである。その次の段階は普通免許であるクラス5。この免許を得るためにはNの状態で2年間練習期間を経て、路上試験を受け合格する必要がある。

もうこれで息子は1人で運転できるようになった。25年以上前の製造のトヨタ・ターセルで1人で早速出かけていく。もうこれで私も息子のドライブに付き合うことはなくなりそうだ。
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小川洋子さんのエッセイ

2021年05月12日 | 読書
小川洋子さんのエッセイ「とにかく散歩いたしましょう」は、2008年から4年間、新聞連載されていたものをまとめたものだという。小川さんの小説は好きで、日本で本を買いあさる際にもほぼ絶対その中に入っている。彼女の小説の多くは、通常の世界と見えない壁を隔てた、非現実の世界のような場所で物語が展開すると思う。そして多くはもの悲しい気分になるようなところが含まれていて、心が少しひんやりしたような気持になることがある。なのだけど、なんというか冷たい優しさみたいなのを(矛盾してますが)感じて、もの悲しいけれど暖かいような不思議な感覚になる。
でもときどき読後感がとてもつらい作品もあって、多分これは読み返さないなと思うリスト入りしてしまうものもちょっとだけどある。
多分一番知られている作品の一つである「博士の愛した数式」なんて、愛があふれていて感動してしまったけど。

さて、このエッセイ。タイトルがまず良いではないですか。とにかく散歩、散歩が一番ですとばかりに小川さんの愛犬は散歩へといざなう。
私も犬がいたときはこんな気分になったことがたくさんあった。たいしたことのない私の日常でもやっぱり、気分がくさくさしたり、悔しい思いをしたり、解せない思いを抱えたりってことはあるわけで、そんなときも散歩すると意外と気持ちのリセットができたりする。ゆったりと犬のペースで歩きながら、考えるでもなく考えているうちに、なんとなく「まあいいか」「なんとかなるか」と思えたりすることもよくあった。

ここにおさめられた46篇のエッセイはどれも良くて、一篇一篇大切に読んだ。
親子愛についてのエッセイでは、親は子供がどんなに大きくなっても心配で仕方ない、子育てとは心配することかもしれない、と書いている。「そうだよねぇ」とうなずき、そしてちょっと泣けてくる。ここには森鴎外と森茉莉親子のことも書かれていた。鴎外は娘の茉莉を溺愛しており、娘のことはなんでも上等とほめちぎっていたということはよく知られた話。親が子供を全肯定しているという親子関係はうらやましい。私の母は私のことを誉めるだとか励ますといったことはしてくれず(けなすことはしょっちゅうだが)、基本私のなすことすべてに対して否定から入るというような人なので。だからといってこうした親子関係が、私の生育に特別悪い影響を及ぼしたというわけではないと思うけど。それでも私のことはいつも心配してはくれている。確かに親というのはそういう存在なのかもしれない。

映画の試写会で大泣きしたことも書かれていた。その映画は私も見たことがある「マーリー」というもの。アメリカのコラムニストが飼っていたラブラドールの犬、マーリーとの生活を書いた本が映画化されたものである。いろんな問題を引き起こすお騒がせ犬だったけど、家族に寄り添い幸せな時間をたくさん共有してきたマーリーが、最後に死んでしまうところでは私も大泣きしたことを覚えている。小川さんの飼っていた犬はこのエッセイの連載後に亡くなったそうだけど、いまはまた違う犬を飼っているのだろうか。

夏目漱石の「こころ」という小説を散歩文学(というものが存在するならば)のひとつと名付けたいというエッセイでは、この小説のことを「散歩ばかりしている小説ね」といった知人の言葉を、「そういえばそうかも」と思ったと書いている。「こころ」はずいぶんと昔に読んだきりでなんとなく忘れているので取り出して読み返してみた。そういわれてみると確かにそうかもねと同感。
「散歩」という言葉がタイトルに入っているが、もちろんこのエッセイ集には散歩のことしか書いてないわけではない。
作家としての創作の源泉を明かすものなど読んでいると、やはり小説を書く人の感性は違うなぁと思ってしまう。
小説を書き始めると登場人物がいつのまにか自分たちの物語を語るようになり、それを書きとっているような感じ、など、小説を書く人というのはインスピレーションがおりてきているのを感じるものなのかぁと。そういうところが違うんだなと感心してしまうのである。

またこのエッセイの中ではいくつも本の紹介があるのだが、読んでみたいかもと思える本が多かったのもうれしい発見であった。
そういえばかなり前のことだけど、小川さんがインタビューの中で本というものについてこんなふうに語っていたのを思い出した。「本というものはかたわらに置いてアルバムのように時々開いて、慈しむもの」。いいなぁ、確かにそうだよなぁ。
小川さんの書く言葉は感覚的にしっくりくることが多いのだが、なんでだろうと考える。私が思うに、言葉の選び方が的確なのだ。なんとなく「こういう感覚・・」という漠然とした気持ちをなんと表現したらいいだろうかと考えるとき、私などありきたりであいまいな「さびしい感じ」だとか「なんかいいんだよね」などといった言葉しか浮かばない。それをもっと豊かな言葉で的確に表現され、「そうそう、それですよ」とぴたっと自分の心の動きに当てはまるようなものを見つけた気分になる。それが小川さんの作品(小説であれエッセイであれ)を読んでいると覚える、私にとっての「合点がいく感じ」なのだろう。
また、他の小川さんのエッセイ集に寄せられた解説には、小川さんの作品を読む読者を「これは自分のために書かれたんだ」という気持ちにしてくれると書いてあった。確かにそうだと思う。そんな気持ちにしてくれる作品の数々は魅力であり、大切にしまって時折取り出しては眺めたくなるような宝物なのだ。
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コロナにふりまわされる日々

2021年05月08日 | 生活
日本はゴールデンウイークが終わったところ(ほぼ終わり?)であろうか。去年に比べるとあちこち人出が多かったということらしいが。
私の住むBC州ではあいかわらず1日の感染者が600人前後なんて状態だ。4月中頃に1日の感染者が1200人という数字になったことが数日間あり、それに比べればおちついてきたといえるかもしれないけど、やっぱりまだまだ安心できないという状況。
レストランなど店内での飲食は禁止となり(ショッピングモール内のフードコートでの飲食も含む)、その規制は5月の最後のほうにあるビクトリアデー(今年は24日)まで続くらしい。さらにBC内を3つの地域に分けて、その地域より外に出かけてはならないという規制も出た。ただし仕事だとか荷物や商品の運搬だとか、病院に行くとかといった用事の場合は許可される。つまり遊びに行ったりとか親戚、家族や友達に単に会いに行くだけっていうっていうのがだめなのである。で、これを遵守させるために週末などに高速道路・フェリーの乗り場周辺などで、警察がランダムにチェックをするってことになったそうだ。キャンピングカーだとか乗っているとテキメンこの検問(?)にひっかかりそうだ。
もとより遠くへお出かけということは予定にないので、この規制にもどうということはない。というより私などほとんど家にいるプチひきこもりだから、そもそもコロナにかかる可能性も低いんじゃないかと思う。ただ私以外の家族は学校や仕事で外に出るので、そこ経由からという可能性も大いにあるのだが。

5月末はもともとは高校の卒業式も予定されていたが、もちろんこういう状況だから中止となった。
そのほかのいろんなイベントはなにも行われない。ずっとこんな状況だ。
教会などは日曜日のミサをやりたいだとか、イースターのミサを開きたいとか、訴えて続けていたようなのだがそういうのも全部却下である。コンサートやお祭りなどはもちろんもってのほか。開催しようと考えること自体が「あり得ない!」という感じみたいだ。もっとも考えたところで開催は許可されないのですが。
日本では音楽フェスが開かれたりしてびっくり。うらやましい~。1日に1万人ほどのひとを集めて大丈夫なの?などと思ってしまうが、日本はこちらに比べて感染者数も少ないし、きっと大丈夫なんだろう。あー、千葉でもやっているじゃないですか。わーん、実家にいたら見に行けたのに。でもまぁ日本にいたとしてもきっと見には行けなかっただろう。まずチケット取れるかどうか?という点、そもそも野外フェスなどとてもじゃないが参加する体力はもはやない。普通のコンサートだって、着席したまま見ていられるようなタイプのものでないともう無理。年取ったせいもあるし、もともと体力がない。それにしても宮本さんがソロで大トリをつとめるの見れたら(何度も言うが日本にいたからといって見れたとは限らないが)、最高だっただろうなぁ。これからも拝見する機会なんてないのだろうし、手の届くことのない憧れみたいなものですね。

さてこちらは、ワクチン接種は順調に進んでいるらしい。いちど、何か所かでドロップイン形式でワクチン接種が行われたのだが、それはそれはたくさんの人が行列を作ったらしい。当然来た人全員分には足りず、そのほかいろんな問題も出て、保健局や政府の人が不手際を謝罪する顛末に。これに懲りてこういう方式はもうおこなわないことにしたなんてことになったらしい。
メディアでもさかんにワクチンの進み具合やらを報道しているし、ワクチンを受けられることになった人が「心から安心しました」とかコメントしたり、特定の業種の人が「私たちは優先的に受ける権利があると思う」と声高に主張したりといったことを見ていると、誰だって「ワクチン最強、ワクチンさえ打てば・・・!」という気持ちになるってものだろう。
断っておくが私はワクチン懐疑論を持っているわけではなく、やっぱり受けておいたほうが安心だろうなぁとは思う。
でもワクチンを打ったからといってコロナにかからないわけではなく、かかりにくくする、またはかかったとしても重症化するのを防ぐというものだということをみな軽視しているのでは、と思ったりする。ワクチン打ったからもうマスクなしでどこでも行っちゃって、手洗いもほとんどしなくなるなど、今まで頑張ってきた対策を全部一気に捨て去ってしまったら、ワクチンを接種した意味がないではないかって感じだ。
そういう点もメディアとかはきちんと伝えるべきではないの?なんて私は思うんだけど。
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千葉の電車

2021年05月04日 | 日本のこと
新聞のネット版でみかけた千葉の電車についての動画。知らなかったけど千葉はなかなかの鉄道王国らしい。
私が見た動画では内房線、外房線などに新しく導入されたという車両を紹介していた(見たのは4月某日)。どっちもそんなに乗る機会はなかった電車だが、見ていると乗りに行きたいねぇと思っちゃう。ぜひともあの新型の車両に。
動画は安房鴨川駅や館山駅などの紹介もしていて、ますます行きたくなってくる。
鴨川はシーワールドのために何度か訪れているが、車か高速バスでしか行ったことがない。でも海の間近でこういうところに住んでみたいなぁと思ったもんだ。館山は千葉の観光地のひとつであるが行ったことがないので(車でないとなかなか回りにくいというのがネックでして)、いつか行きたいと思っている。

私は千葉市で生まれ育っており、日本で生活していたころのほとんどは千葉市で過ごしているが、同じ千葉県内でも行ったことがないところはたくさんある。
かなり前のことだが夏場に日本に行き(私の日本行きはほとんど夏)、ある日ふと思い立って銚子に行った。子供2人と共に。銚子までは総武本線の特急で行ったがその時はかなり空いていた。そして銚子電鉄に乗って犬吠埼の灯台まで向かった。銚子電鉄っていうのが、日本一貧乏かもっていうような鉄道会社らしいけど、確かに車両はすっごく古いし駅も古くてさびれた感じ(銚子電鉄さん、すみません)。
実は銚子電鉄に乗ったのもこの時が初めてだった。銚子といったら小学校のころに醤油工場の見学に行ったっけ。大人になってからも何回か訪れたが、その時は車に乗せて連れて行ってもらっており電車には乗っていない。
手入れのほとんどされていない木々が生い茂る中を通って行ったり、レトロな駅舎など、ほんとにローカルって感じでこれはこれでとても良い感じ。息子に聞いてみたら「そんな電車乗ったっけー?」と覚えてなかった。犬吠埼の灯台のことは覚えていたのにぃ。
でもこの銚子電鉄は廃線の危機をいくども乗り越えてきたしぶとい会社である。電車の乗客数を増やすのには限界があるから、関連グッズをがんがん売り出しているらしい。有名なのはぬれ煎餅だが、そのほかにもまずい棒だのといった商品を開発したり、線路の石を売ったり、「売れるものは何でも売る」とたくましい。実は、少し前にこの銚子電鉄のことを取材したテレビ番組を見てこうした知識を得たのであり、それまではよく知らなかったのですがね。
でも見ていたら銚子を訪れた時のことを思い出して、また行きたいなぁなんて思った。

銚子も館山や鴨川も海が近くて、住んでみたいなぁと思うことがある。千葉の実家は内陸地だし、いま住んでいるところも山はあるが海からは遠い。だからか海へのあこがれみたいなのがあるのかもしれない。
いつ日本に行けるかまったくわからないなか、あれこれ夢想しているしかないこの頃なのである。
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