冬は雨降り・・夏は素晴らしき・・住めば都

チャー助です。
カナダ・バンクーバーに移住して25年ほど。生活・子育て・日本について思うこと等を綴ります。

トラック運転手の抗議行動

2022年01月31日 | バンクーバーとその周辺
バンクーバーとその周辺だけではなくて、カナダ全体を巻き込んでの抗議行動がおこなわれた。
29日土曜日、オタワの国会議事堂や首相官邸のあるあたりにデモの大群が押し寄せたということである。もともとは、カナダとアメリカの国境をまたいで物資の輸送をするトラックの運転手に対し、ワクチン2回接種が義務化されたことについての抗議であった。カナダのあちこちからトラック運転手がトラックを運転してオタワに集結、デモをおこなったというわけだ。このデモに関しては準備段階から話題になっていて、ネットのニュースでも見たし、ここのローカル新聞でも特集が組まれていた。週末は特集記事が多いんだが、開けたら見開きで「デモに参加するトラック運転手たち」とあって10人くらいのトラック運転手が写真付きで紹介されていた。なんか・・すごいな。

トラック運転手のほとんどはすでにワクチンを受けているらしいが、それは必要と思ったから受けているだけで、ワクチン接種を義務化するのは別の話であり、個人の自由を妨げるものとして反対という立場を取っているということらしい。そうしたことが発端であるようだが、実際におこなわれるまでの間に、コロナ対策のさまざまな規制に反対とか現在のカナダ首相の政権に物申すというようなものまで、さまざまな抗議内容も付加されてきた。
実際、トラック運転手だけでなく、他にもいくつかの団体がこのデモに加わっているらしい。デモに参加する理由もさまざまである。「デモに参加するのは、先住民の人たち、未来ある子供たちのため、ホームレスの人の待遇改善などを求めている」とかなんでもありな理由の人もいる。デモに参加するのが好きっていうだけで参加している人もそれなりの数いると思う。なんか大勢でわーわー叫びながら歩いているのが好きな人っているわけで(お祭りじゃないんだから・・と思うけど)。
トラックは隊列を組んでカナダのあちこちからオタワに集まってきたらしい。オタワの中心街ではデモ参加者による騒ぎを恐れて、店を閉めたところも多かったとか。マスクをしない大群が入ってくると困るので(動画で見た限りでも、多数のデモ参加者がマスク無しだった)、閉めてしまったショッピングモールも。

現カナダ政権に対する(というか首相に対する)抗議も多かったのだが、首相は「自分が抗議対象になっているということを恐れてはいない。ただ、デモが暴動につながることなどを心配している」みたいなコメントをしたそうだ。といいつつ、首相はデモの数日前から首相官邸から逃れ、別の場所に避難したということである。これは首相の子供の1人がコロナ陽性となったので濃厚接触者として、自己隔離をしただけだということだが。ちなみに濃厚接触者は自己隔離の必要はないことになっているけどね(BCだけかな?オンタリオの状況はしらないのですが)。もちろん、デモ参加者に押し寄せられては困るので、首相がどこに滞在しているかは公にされていない。

ちょっとした問題は起きたらしいが、概ね平和な感じでのデモだったようである。土曜日に続き翌日日曜日もデモはあったらしい。BCでもこれに合わせて各所でデモがおこなわれたそうである(多分土曜日だけ。日曜日はバンクーバーとか大雨だったからやらなかったでしょう)。
トラックの人たちもはるばるオンタリオまで行ったことだし、1日2日位で帰ってくるのもなんだろうから、数日は滞在するだろう。日曜日までで終わりにするという人もいれば、政府からのなんらかの回答やアクションがあるまではここで頑張るという人達もいるらしい。1ヶ月位いるつもりという人もいるとか。
長居されて困るのは、周辺で働く人や住んでいる人たちである。トラックが道をふさいでいたり、デモ参加者が道や人のうちの前庭にもゴミを散らかしたりということをするので、迷惑をこうむっているとのこと。
この大掛かりなデモがなにを生み出すのか、何を変えていくのか、はたまた何も変わらないまま、尻すぼみに終わっていくのか。どのようになるかな。
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幸せとは相対的なもの

2022年01月24日 | 生活
幸せというものはいろいろな形がある。たとえばおいしいものを食べて幸せ、とか、1日が無事終わって眠りにつくときの幸せな気持ちとか、信頼しているとか愛する人と過ごす時間が幸せとか。こうした幸せを感じる瞬間とはまた別に相対的、つまり他の人と比べて自分の幸せを実感するという形もある。いやいや、自分はそういうのないよと思う人も自覚してないだけで絶対に感じたことがあるだろう。私なんて情けないことによくある。
自分の夫は家事はあんまり手伝ってくれなくて、もっと子育てのことなんかで話し合いたいのになかなか話を聞いてくれない、という不満を感じている女性がいるとする。しかし、友達の旦那さんは、ゲームばっかりしていて家事育児も手伝ってくれない、さらに不倫もしているらしい、などということを友達から相談されたりする。「大変ねぇ・・」と同情しつつも、心のなかでうちはずっとマシだわ、この人よりは幸せといえるかもねと安堵する。そんな話はたくさんあるだろう。

ずっと以前のことだが、アメリカで17歳くらいの青年がアメフトの試合中に他の選手達に押しつぶされた形となり、首から下が麻痺してしまったという記事を読んだ。確か父母は離婚していて母親が生涯、その青年の介護をした。青年はベッドに寝たきりになり、50いくつかまで基本的に家の中だけで過ごした。母親は在宅でできる仕事を探し、買い物と日曜日の教会以外は出かけることもなく、ずっと息子の世話をしたという。熱心なキリスト教徒で、彼女の願いは唯一つ、1日でいいから息子より長く生かしてください。その願いは叶えられて、息子を家で看取り、その後しばらくして母親も亡くなったそうだ。
このような人のドキュメンタリーなど読んだり見たりして、「私がそういう状況になったらどうしよう」「私の子供がそういう事になって、ずっと介護をしなくてはならなくなったとしたら」と考える人は多いだろう。同時に「私に起こったことでなくてよかった」という思いが心のどこかにうかぶこともあるだろう。そして、献身的に最後まで息子を介護した母親を「すばらしい」と称える。「私だったらできなかったと思う」などと体のいい賞賛の言葉も添えたりして。そんなこと思いませんよ!と思われる方も多いだろう。でも、そうだろうか?実は私はちらりとそういうことを考えてしまって、自分の自分勝手さというか人間の小ささに自己嫌悪も感じてしまった。
ひとは他人と比べて、自分の境遇はマシ、あの人に比べたら私は幸せだと考えることはどうしても避けられないのではないだろうか。
そこまで大変な境遇にはなっていないものの、我が息子などあれこれ問題があって、そういうことを話さねばならないときに(基本的に話さないことにしているので、話すとしてもかなり端折ってるんだけどね!)、相手の顔を見ながら「きっとこの人は、『大変ねぇ。うちの子なんてそれに比べたらずっとマシだわ。うちの子はマトモで助かったわぁ』と思っているに違いない」などと考えてしまう。そしてそんなことを考えた自分に自己嫌悪したりする。
幸せというのは相対的なものなんだ。

幸せのかたちとは話がずれていくが、お子さんがなんらかの障害をお持ちで、ほぼつきっきりで介護や世話をする必要があるという人がいるとする。支援する人や介護のヘルプをする人といった関係者以外の、いわゆる友人や隣人などといった周りの人からすると、こういう人たちとどのように接するのがベストか悩むと思う。「たいへんね」「私には何もしてあげられなくて」とかいいながら、せいぜい気にかかっていることなどを聞いてあげることくらいしかできない。当事者はそこに、「しょせん他人事と思っているんだろうな」というような隔たりを感じてつらく感じるかもしれない。しかし、周りの人からすればどのように対応するのが一番いいのかをはかりかねているのも確かなのだ。励ますつもりとか、多少は役に立ちたい気持ちでアドバイスめいたことなど言ったりしたら、「なにもわかってないくせに」と思われてしまうかもしれない。他愛ない話をするだけでもいいのよ、と言われたとしても、では何を話そうか・・・自分の子供が学校で何をしたとか話したりするのはやっぱり良くないよなぁ?などと気を遣ってしまう。当事者とそれ以外の人の間の意識の隔たりというものは、なかなか埋めがたい。

幸せなんてひとそれぞれなのは確かで、自分が幸せだと感じているならばそれでいいのかもしれない。そんなことを考えたりする私は、もしや幸せではないのにごまかそうとしているからなのかしらねぇ。
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大気の川

2022年01月16日 | 生活
自然災害関連のニュースが多いこの頃。BC州では昨年の夏の熱波、山火事、11月の大雨と洪水という災害があった。
12月の終わりには寒波も来た。
災害とまではならないものの、12月終わりから1月初めにかけては、雪が降ってそこそこ積もる→雨になる→すこしとける→また雪が降る→雨が降るっていうような具合だった。1月半ばとなった今、雪はほぼなくなった。残っているのは脇によけられて固まっているような雪。こういうのはなかなかしぶとく残るが、車や人の通行に影響は及ぼさないからね。

1月10日頃からは雨が数日続いた。大雨注意報が出るほどに。この大雨と11月の大雨は、大気の川の影響なんだそうだ。
英語で見たとき「え?なに?」と全くわからなかったが、日本語で見ても分かったような分からないような。海から北米の大陸にかけての上空で雲が川のようにつながっているところがあり、海からの水蒸気がその川を伝わってカナダとかアメリカの西海岸に来て大雨を降らすというわけらしい。ハワイのあたりが出発点となっているものはパイナップルエクスプレスというあだ名もついているらしい。パイナップルのほうは過去にも何度か聞いたことがあるんだけど、ここのところは大気の川に置き換わっているような気がする。パイナップルエクスプレスよりも、なんか壮大な感じの名前だから気に入られているとか?
まあともかくパイナップルエクスプレスは、大気の川の一種ということで、BCなんかに大雨をもたらすのはパイナップルということらしい。

こんなふうに自然災害が多くなってくると、やっぱり温暖化のせいなのかなとか言われるようになる。クリスマスの少し前にアメリカのケンタッキー州などを襲った竜巻なども、冬に起きることは珍しいといわれていたけど、これもやっぱり温暖化のせいなのかもしれない。そういえば、バンクーバーでも西の一番端っこ、つまり太平洋に面したUBC(大学)のあたりでも昨年11月に竜巻が起こったそうだ。地域住民はものすごい突風に「なにこれ?」とかびっくりしていたらしいが、「あれは竜巻でした」と後になって発表されていた。UBCの寮に住んでいる娘に聞いたら「うーん、なんか風強かったね。竜巻だったの?」とのんきなことを言っていたが、実際被害はそれほど多くはなかったのは幸いだったといえる。UBCは海に面しているせいか風が強い。うちのあたりで「ちょっと風が強いね」というとき、あちらではビュービュー吹きまくっていたりする。

今年もなにかと起きるのかも知れない。そういう時代に入ってきたのかもなぁ。
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新年明けてもやっぱりコロナ+その他の話題

2022年01月10日 | 生活
新年が明けても連日のようにコロナのニュース。
フランスの大統領がワクチンを打っていない人を「うんざりさせてやる」だとか「市民(国民ってことと同じ意味ですが)とは思えない」とか言ったそうで、やや言い過ぎかなとは思うけど結局のところ、ワクチンを接種した人からのしてない人への感情というものを要約したようなもんだよなとは思う。で、カナダの首相までワクチンを受けてない人には怒りを感じるというようなことを言った。なんというか・・カナダってすぐ米、英、フランスなんかに追随する傾向があります、まあいいのですが…。
最近ワクチンを受けた人でもかなりの確率でコロナにかかっているので、このようにでも言わないとすでに受けた人の気持ちが収まらないではというのもあるんだろう。実際、こうでも思わなくちゃワクチン受けた人は納得いかないぜって思うだろう。特に私のように副反応がきっつかったひとなんかね。

さてBCでは雪が年末から降ったり止んだりしている。年末に割とまとまった雪が降った。その時の雪は道路からはほぼ消えていたものの、脇に寄せられた雪は残っている状態で、年明け早々また雪。その後、雨になったが、雪+雨のコンボでより滑りやすくなってしまったようだ。郵便局(カナダのは国営です)は、当面郵便配達を休止するとかいい出した。えっと・・1月1日、2日は土日で配達なし、3日は振替休日(とはいえお休みなのはお役所関係くらいなもんで)で郵便来なかったし、1~2日おいてまた配達しませんって・・。もっとも最近は郵便でやってくるものが少なくなっており、配達がなくてもそれほど困らないというのも事実。郵便配達の人は徒歩で配っており、歩道などは雪が残っているところが多いので、確かに大変・危険だろうとは思う。
雨のおかげで雪が結構解けたところもあるが、今度は風が強くなって停電するところもあった。なかなか荒れた年明けである。

さて、ネットのニュースで、911にかかってきた困った電話というのが発表されていた。こちらでは、警察、救急、消防は全部911となっている。なのでかけると警察ですか救急ですかと最初に聞かれる。911には緊急事態以外はかけないこととなっているけど、まったく緊急事態でないことも多数かかってくるそうだ。私も昔、車のナンバープレートが盗難にあったとき、911にかけてしまって「所轄の警察にかけ直してね」と言われたことがある。そう言われてみると確かに911にかける事態じゃないよね。
昨年の「困った電話」トップ(件数が多かったわけではなく呆れた度が高かったということ)は、コーヒーショップで頼んだものをバリスタが間違えたというのと、歩道を歩いていたときに側を通った車に水をかけられたというものだそうだ。その他にも、コロナの検査を受けたいとか、911のオペレーターになるにはどうしたらいいか、連邦政府の選挙の投票所はどこかとか、なんでも屋さんじゃないんだからという電話もあったそうな。笑っちゃうのは、明日の天気はどうなるかなとか、バスが来ないとか、ルームメイトがあんまりにも部屋を汚く使うので困ってますとかっていう電話。バスに関しては、こちらは時間通りに来ないっていうのはしょっちゅうあるし、全然来ないっていうこともよく起きる。例えば、10時発のバス(しかも始発を待っているのである)を待っていたのに、来なくて結局次の10時半発まで待つことになったとか。だから怒りたくなる気持ちもわかるけど、もちろん911にかける案件ではない。

こうした困った電話の問題点は、本当に緊急度が高い電話がなかなかつながらないということになりかねないという点だ。オペレーターの人も困った電話をさばきつつ、警察や消防車、救急車を手配したりと、大変な仕事だろうなぁと思う。
ちなみにこちらは救急車の使用は有料なので、たとえば外でだれかが怪我した、倒れているということに遭遇しても、あきらかにこれは救急隊員に来てもらわないとだめだとわかるときでない限り、一応、本人に救急車呼ぶ?と確認したほうがいいらしい。呼んだだけでもお金がかかるそうなのだ。昔、娘がおでこを切ったとき、救急車を呼んだが救急隊員の人は、脳しんとうなどがないかチェックして応急処置をしてくれた。救急車でなくても自分で連れて行ってもいいよ、と言ってくれたのでそうすることにした。あのとき、結局お金は請求されなかったので、救急隊員の人が請求を出さなかったのだろうと思う。ERに娘を連れて行ったら、その隊員の人が他の人を搬送してきたのか、受付のあたりにいて「あ、大丈夫?」と声をかけてくれた。いま考えてみるといろいろ親切な人だったなぁと改めて思う。
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新しい年は静かにやってくる

2022年01月05日 | 生活
2022年もあけた。日本から17時間もあとにこちらでは新年を迎える。例年だと、レストランやバーなんかで飲食を楽しんだり、踊ったり騒いだりしながら、カウントダウンをする人が大勢いたり、公園などで花火をあげて新年の訪れを祝うなんてことがおこなわれるのだが、2020年に続いて2021年もそうしたイベントは中止となった。個人で花火をあげるという人も多少いたみたいで、うちの近くでも何発か聞こえてきた。でも、ほんの少し。いつもはもっと何発も聞こえてくるけどなぁ。これはきっと外が寒かったせいでもあるだろう。寒波がきていて夜はマイナス15℃くらいまで下がったりしたのだから。マイナス40℃とか恐ろしい気温にはさすがにこの辺ではならなかったものの、日中でもマイナス5℃なんて気温が続いたのだ(体感温度だとマイナス10だったらしい)。寒波はおさまったものの、今度は雪も降った。多少気温が上がったとはいえ、やっぱり夜は氷点下という具合でとても花火を楽しむ気にはなれないだろう。
うちの外にある水道は、冬は蛇口を開けて元栓を閉めているのだが、残っている水が滴り落ちていたようだ。それが凍ってつららみたいになっていた(画像をクリックすると大きいのが出てくるよ)。


そんな感じで新しい年は静かにやってきた。なんか正月という気分がしない。娘は友達と遊びに行ってしまったし、息子は大晦日も元旦もバイトで夕方から夜中まで働いていた。バーやナイトクラブは1月半ばまで営業停止となっているのだが、レストランは営業可能なので、息子の働く店も開いている。ただ、中に入れる客の数を半分に抑えているとのことで、そんなに忙しくなかったと言っていた。
我が家ではおせち料理もなく、お雑煮を作って正月料理はおしまいである。お雑煮だって出汁に醤油で味付けて、ほうれん草と鶏肉ちょっと入れ、焼いたお餅を入れるのみというあっさりしたものである。実家のお雑煮がこんな感じだったのでね。
1月2日、雪になるかもとドキドキしていたが雨になった。翌日も雨。おかげで雪がかなり溶けてきた。ここらへんは雨でも山の方や内陸の方は雪らしい。

今年はいつもよりいっそう新年が明けたという気分がうすい。年取ってきたからなのか?今年もたいしたことなく終わりそうな気が正月早々からしていて、もりあがらない。でもまぁ、たいしたことはなくても平穏無事に過ごせれば何よりかもしれない。もはや何かを成し遂げるだとか、すごくいいことが起きるなんてことは考えもつかない。今年の抱負は、健康に過ごせればそれで良しってな具合だ。老人のようだなぁ。
生活というものは、ごはんつくって、掃除洗濯をして、食料品や日用品の買い物に行って、食べるものなどが家に程よくあるように気を配り、請求書の支払いをしたり、子供の学校のことのあれこれをしたり、パートでの仕事をやって、といったことをずっと続けていくことである。なにも劇的なことは(通常)起こらないし、きらきらしたこともないし、ただただ同じことを繰り返していくのである。これが、自分に与えられた人生ってなわけでその中でやっていくんだな。
わくわくするようなことは起こり得ないんだけど、まあこんなもんかなという感じ。

思うに、こういう心持ちってコロナのせいでもあるんじゃなかろうか。去年も一昨年もコロナで自粛、規制、差別などがあり、コロナにかかったらどうしようとか、イベントや集まりが軒並み中止で楽しみがない、いつになったら前のような生活に戻れるんだろうなどといった不安があるわけで。2年もこうしたことを続けていると、どうせ今年もコロナのせいであれこれ諦めなくちゃならないんだろうな、とか思うようになってくるのでは。つまり無力化する。とすると、やっぱり私も影響受けているのかな(私の場合はただの老化のせいかな?)。

私のようなばあさんはイベントがないとか、コンサートに行けないだとか、スポーツ観戦に行けないだとか、ということはたいして問題ではない。友達と会うのが難しくなるのは困るが。でも、子供なんかはかわいそうだなぁと思う。たとえばクリスマスに関連するイベントが2年続けてできなくなったとする。来年はできるよ!と励ますことはできるだろうが、10歳の子供のクリスマスはその年だけのものであり、12歳になったときに再開しても同じものではないのだ。10歳のときと11歳のときはコロナの心配ばかりで楽しいことが少なかったなぁという思い出が残るというのは、なんだか悲しい。

希望に満ちたなどとはいわないが、平穏な1年となることを願うのであります。
今年もどうぞよろしくお願い致します!
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