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子との同居・・どう思いますか 2

2023-09-01 12:42:00 | 新聞記事から

昨日は,gooブログがメンテナンスとやらでアップ不能でした。失礼いたしました。

一昨日は、朝日新聞声の欄の投書をお断りもなくまとめさせていただきました。今日は、私の経験などからテーマに沿ったことをを書いてみようと思います。

● 舅姑の場合
夫の母は小学生の時亡くなった実母の後の継母でした。

外地赴任が迫っている父と4人の子供のためと、結婚したようです。父の外地赴任中に、長男長女を結核で亡くしたり、苦しいことを切り抜けてきたようです。父を送り、交代で話し相手に山口まで帰省する私共に、「私は結婚に失敗した、私は軍人は嫌いだった」と愚痴っておりました。

舅は93歳で亡くなりました。その時姑は88歳だったでしょうか

服喪中の年末、私ども家族は海外旅行を計画していました。家族4人で話し合って、「おばあちゃんを一人でお正月を過ごさせるわけにはいかない。年末年始東京に呼んであげよう」と考えたのです。キャンセルして、母には上京を進めました。

びっくりするほどの怒り声でした。
「私はやっと誰にもわずらわされずに、自由に静かに一人暮らせると思っているのに、東京なんかに行くものですか!!」
寂しさを感じるよりは自分の自由が確保されたことが何よりの喜びだったようです。

96歳でしたか、亡くなりました。一人暮らしを通しましたが、私と、義姉と交代で介護、話し相手に通ったのでした。

● 実家の母の場合

もうブログに何度も書きましたように、戦後職を追放された父でした。農地改革で4反の農地と山の中腹を開拓したミカン畑と家が残されたものでした。産めよ増やせよの標語に忠実だったわけでもないでしょうが、子どもが8人でした。にわかに農業をやり、ほとんど現金収入のない一家の生活だったのです。

父は掛け声だけして自分では働かないような人でした。母も娘時代は地主のお嬢様で暮らした人だったと思います。それでも生きねばならなかったのです。小さな体で、慣れない農業を必死でこなしていたようです。兄たちが農業はよく手伝ってどうにか食っていけたのです。生活が楽なはずはありません。
貧乏暮らしは、確かに苦しかったでしょうが、母には敗戦までの軍人の妻という誇りが無残に壊れ、逆に見下げられるような経済状態が、苦しかったのかもしれません。

まあ、どうにか年月は過ぎていき、世の中も落ち着いてきました。父はもうすぐ90歳という時、それこそ、死と生とその境界を一跨ぎしたように、一瞬で亡くなりました。母は79歳だったでしょう。

父の葬儀も終わり、子どもたちが茶の間に集まっていました。長兄が言いました。
「お母ちゃん、寂しくはないか。犬でも飼ったら。気がまぎれないかな」と。

激しい口調で「なんで私が犬コロの世話をせんにゃあならんかね。冗談じゃあありません。難しいお父ちゃんに仕え、子供8人を育て、おむつを20年洗い続けて、、やっと一人になるんよ。私にも自由気ままの時があっても良かろう!!」

少し経った頃、こんなことも言いました。「私は、今が一番幸せ。だって私が大将じゃから」
世の中が少し豊かになった頃にも、父が財布は握り、欲しいものも買えなかったのではないでしょうか。こんな手紙が来たことがありました。「誕生日祝いや敬老の日のお祝いなどは、お父ちゃんと私と別々に送ってくれん。一緒だとお父ちゃんがみんな仕舞うのよ」。そんな時代に生きた人でした。

 

一昨日、声の投書氏の方々が、原稿選びの新聞社の好みもあるのでしょうが、子どもとの同居を断わられる方が多かったですよね。皆さん自由をやっと手に入れたとおっしゃっていました。

母たちも同じ思いだったようですね。私が大将とはしゃいでいた母も、だんだん歳を重ねると心細かったようですが、86歳で、彼女もまた、一人で一瞬に亡くなりました。