origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

中条省平『フランス映画史の誘惑』(集英社新書)

2008-10-27 22:10:40 | Weblog
リュミエール兄弟、
モローの弟子であるジョルジュ・メリエス(『月世界旅行』)から
フィルム・ダール(『ギーズ』)、喜劇王マックス・ランデル、
ルイ・フイヤードのキッチュな『吸血ギャング団』(ゴダールも絶賛した)
ダリと共同作業を行ったルイス・ブニュエル(『アンダルシアの犬』)
ジュリアン・デュヴィヴィエやマルセル・カルネなどの詩的レアリズムの監督
夭折したジャン・ヴィゴとフランス映画のカリスマであるジャン・ルノワール
ジャック・ベッケルのフィルム・ノワール(『現金に手を出すな』など)
ロベール・ブレッソンやリュシアン・ヴィテ、
ゴダール、トリュフォー、シャブロフ、ロメール、リヴェットのヌーヴェル・ヴァーグ、
リュック・ベッソンなどのヌーヴェル・ヌーヴェル・ヴァーグ
へと至る。
フランス映画の100年の歴史を描いた新書である。ルネ・クレール以前のフランス映画についてはほとんど知識がなかったので、勉強になった。
戦前の日本では、フランス映画は一般的に人気があったという。特にジュリアン・デュヴィヴィエは人気があり、年間の人気投票でアメリカ映画の名作を越えて1位にランクインされるほどであった。ジャック・プレヴィールが脚本を書いたマルセル・カルネの名作、『天井桟敷の人々』も映画ファンの間で高い人気を得た。トリュフォー以降のヌーヴェル・バーグはアメリカ映画(特にヒッチコックやハワード・ホークス)の技術を取り入れることでフランス映画史に新たな局面を切り開いたが、その代わりフランス映画に難解というイメージを与えることとなってしまった。トリュフォーは『フランス映画のある種の傾向』で、文学的表現に拘るマルセル・カルネ、ルネ・クレマンやジャン・ドラノワを批判したが、むしろトリュフォーの批判からドラノワを擁護もしたくなる(彼の『田園交響楽』は名作だ)。
著者はヌーヴェル・バーグの先駆者であるブレッソンとヴィテを比較し、前者は神による運命の決定を重視し、後者は人間の自由意志を重視していると説く。『田舎司祭の日記』で神の恩寵を説いたブレッソンは、人間を越えた運命の力を信じた。

ルネ・クレールの『巴里の屋根の下』はパリという街を良く表現した映画だと認識されていたが、実際のロケ地はパリではなかったという。

荒俣宏『広告図像の伝説 フクスケもカルピスも名作!』(平凡社新書)

2008-10-25 14:53:14 | Weblog
森永のエンゼルマーク、カルピスの黒人マーク、花王のお月様マーク、福助の大黒マーク……。図像学的な方法論を応用しながら、著者が日本の著名な広告図像を論じた本である。広告図像11個を対象にここまで自由奔放に語ることができたのか、と驚いた。
森永のエンゼルマークは天使のマークであるかのように思われているが、実はこのマークはギリシア神話の愛の神であるクピドだという。決してキリスト教の天使ではないのだ。なぜクピドを天使として用いたのか。それはバロック時代に、カトリックの美術家たちによってクピドのイメージをカトリックの天使として用いていたことに起因していたという。
花王石鹸は顔石鹸から来ている、ということを初めて知った。

『プラネテス』

2008-10-25 02:23:29 | Weblog
見た。
原作に比べて、宇宙防衛戦線の存在感がぐっと増している。宇宙開発が先進国と発展途上国の格差を推進してしまうという宇宙解放戦線の指摘にはリアリティがある。それは、現実の社会で技術革新が国の間の格差を押し広げているという事実を投影しているからだ。現実社会の事実を投影したSF作品としては、『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』もそう。ここでは旧厚生省と薬事会社との癒着という現実の事実が投影されている。
谷口監督は良い作品つくるなあ。

『マクロス・フロンティア』

2008-10-25 02:04:19 | Weblog
見た。
原マクロスでは、主人公に恋する女性が軍人と歌手だったけれども、今回は2人とも歌手。とにかく作中でランカ・リーとシェリル・ノームが歌いまくる。菅野よう子作曲のミュージカルのようだった。「愛おぼえていますか」「私の彼はパイロット」も菅野の編曲により、新たな魅力を得ている。
井上喜久子が悪役(グレイス・オコナー)というのが意外性があって良かった。最初は良い人かと思ったんだけどなあ。
CGも綺麗で、製作の予算が潤沢にあったのだろうなあと思う(人気のシリーズものはこの点が良い)。
何だか、マクロスってシェイクスピアのマクベスから来ているらしい。

須賀敦子『ユルスナールの靴』(河出書房新社)

2008-10-23 19:33:49 | Weblog
ベルギー生まれのフランス語作家マルグリット・ユルスナールは子どものような皮の靴を履いていた……。
ユルスナールの人生とその作品を描いた、須賀敦子のエッセイである。ユルスナールを描きながらも、著者はその過程で自らの半生を省みる。優れた文学者が優れた文学者を描くとはどういうことなのか、この作品はそれを端的に伝えてくれる。
ユルスナールの代表作『ハドリアヌス帝の回想』の内容に、著者が肉薄していく箇所が圧巻である。ローマの皇帝ハドリアヌス帝の生き様を空想するユルスナールとユルスナールの生き様を空想する著者。生きた時代も国も全く違うハドリアヌス・ユルスナール・著者を結ぶ空想上の糸が浮き彫りにされていく。ユルスナール歴史小説『黒の過程』では、16世紀のフランドル地方を生きた錬金術師ゼノン(パラケルスス、カンパネッラ、ブルーノをモデルにする)が主人公であるが、ここでもユルスナールの16世紀フランス・ルネッサンスへの想像力が、著者によって美しくなぞられる。これこそが、文学者が文学作品を読むということだろう。
著者はカトリック信者だが、若い頃アンドレ・ジッドの『狭き門』をシスターたちから隠れるようにして読んだという。ジッドの小説がプロテスタント的な内容だからだ。しかし、あまりジッドの世界観に耽溺することはなかったようだ。『狭き門』のヒロイン・アリスは当時の文学青年に人気があったみたいだけど……。

島田裕巳『宗教常識の嘘』(朝日新聞社)

2008-10-23 19:29:58 | Weblog
日本で一般的に信じられている宗教の常識には嘘がある。宗教学者として有名な著者が宗教の「意外な」事実を明らかにしている。キリスト教や仏教をある程度知っている人ならば常識的な知識も多々あったが、全体としては面白かった。
「仏教は世界の三大宗教にあらず」
仏教は意外と信者が少なく、上座部仏教の東南アジアや大乗仏教のチベット・日本を除くと広く信じられているとは言い難い。むしろヒンデュー教の方が信者人口は多いのではないかと著者は指摘する。世界三大宗教などという言い方をするのは日本人だけだとも。
「イスラム教に聖職者はいない」
イスラム教の宗教儀式をとりしきるのは法学者であり、世俗を捨てた聖職者ではない、という話。どのような信徒にも世俗的な生活や結婚を認めている点ではイスラム教はむしろ仏教やキリスト教よりも緩い。ユダヤ・キリスト・イスラムを一様に見なす誤りを著者は説く。
「イスラム教徒になるのはとても簡単」
「アラーのほかに神はなし」と宣言すればそれだけでイスラム教徒になれる。イスラム教は厳格な宗教のように認識されているが、必ずしもそうではないのではないか、というのが著者の主張である。著者はイスラム教の聖典コーラン(クルアーン)は「神の道」(宗教儀式の方法)を説いており、その点では神道にも近いと指摘する。
「隠れキリシタンは信仰を守れたのか」
実は明治以降も隠れキリシタンは存在した。長い間鎖国化の日本で信仰を守ってきた隠れキリシタンたちの一部は開国後も、本場のカトリックに馴染めずに、独自の信仰を長崎で守っていったという。戦後すぐの頃も存在していたが、現代ではその存在を確認することはできないようだ。さすがに絶えてしまったのだろうか。

エドワード・W・サイード『サイード自身が語るサイード』(紀伊国屋書店)

2008-10-20 19:26:01 | Weblog
批評家サイードが自分自身の半生を綴ったもの。パレスチナでの幼年時代、著者は英パブリック・スクールのような厳しい学校に育ったらしく、そのことを苦々しく述懐している。その中でキプリングやコンラッドと出会い、ヨーロッパ文学への興味を覚えたという。『オリエンタリズム』の中で彼はキプリングやコンラッドを批判的に読解することとなるのだが、「オリエンタリズムに囚われているということがその作家の価値を損ねない」ということを強調している。
プリンストンやハーバードでの大学生時代のことも触れられている。著者が大学時代にもっとも読み返したのがドストエフスキーとのこと。これは少し意外だった。
『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』の中では客観的記述に徹していた文学研究者の、人間らしい面が見えて面白かった。

高階秀爾『フランス絵画史』(講談社文芸文庫)

2008-10-14 20:49:23 | Weblog
フォンテーヌブロー派、シモン・ヴーエフィリップ・ド・シャンパーニュのようなバロック美術、ニコラ・プッサンやクロード・ロランの古典主義、ベラスケスを吸収したジャン・アントワーヌ・ヴァトー、新古典主義のダヴィッドドラクロワらのロマン主義、クールベらの写実主義、バルビゾン派、印象派、ポスト印象派……。フランス美術400年の通史を綴った書物である。
イエズス会と交流のあった古典主義の作家ニコラ・プッサンが特に気になった。彼は聖人ザビエルを描く一方で、ギリシア・ローマ神話を題材にしたり、自画像を描いたりと、幅広い作品を後世に残した。古典主義時代においては、プッサン派とベラスケス派というのが存在していたという。ギリシア・ローマを理想化した古典主義者たちの一派と絵画の進化を信じ近代的な作品を創り出そうとした一派。この対立は後者が緩やかに勝利を収める。
-17世紀アカデミーは絵画とは理性に訴えかけるべきものであると考えた。画家が描くべき風景は理想化された風景だった。18世紀ヴァトーやシャルダンの登場により、状況は変わる。
-マルローはルーベンスを吹奏楽、ヴァトーを室内楽に例えた。
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ロマン主義とは、主題の選択の中にあるのでもなければ、正確な真理の中にあるのでもない。それは、感じ方の中にあるのだ。
(195)
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ボードレールの言葉。彼はロマン派らしい美術批評を残している。

四方田犬彦『ハイスクール・ブッキッシュライフ』(講談社) 

2008-10-14 19:35:01 | Weblog
四方田の本は『空想旅行の修辞学』『アニマとしての読書』『ハイスクール1968』『日本映画史100年』に続き今回で5冊目。本書は少年期の読書傾向を綴った『アニマとしての読書』の続編となる。
著者が高校生だったころに影響を受けた書物について語ったエッセイだ。冒頭の『ヨハネ黙示録』はブレイク、ローレンスなどを交えつつ、新約聖書の黙示録について考察した批評である。ローレンスにとって黙示録とは、神学や哲学を知らぬ庶民のためのものだった。彼らは自らが持つ怒りを黙示録の中の過激な暴力にたくした。炭鉱夫の息子だったローレンスにとっては、ニーチェの反キリスト教的哲学さえも貴族主義的なものだった。
その他にはロートレアモン、ランボー、プルースト魯迅、ジョイス、カフカ、フォークナー、セリーヌ、ボルヘス、レアージュといった前衛好みの著者らしい対象が選ばれている。
ジョイス『ユリシーズ』の章では、ハインズとマリガンの対立に焦点が当てられている。アイルランドを研究するイギリスの民俗学者ハインズが豊かな者であるのに対して、アイルランド文化を重んじるマリガンは貧しい者である。支配する者・支配される者、持つ者・持たざる者の対立はこの長編小説の至るところに見受けられる。
プルーストの章では、著者のこの小説家に対する深い愛が露になる。『ガリヴァー旅行記』を修士論文に選んだのは対象と距離が取りやすかったからで、深く愛しているプルーストの小説などは研究対象にできなかった、という話は頷けた。

最近見た映画5

2008-10-11 21:50:44 | Weblog
一言づつの感想で。
『ツォツィ』
南アフリカ・ヨハネスブルクを舞台とした映画。不良少年の情愛という割合とよくあるテーマを用いている。まあまあかな。ちょっと過大評価されている気もする。

『エコール』
無垢な少女たちの園を描いたフランス映画。全編、性的な解釈を導き出すような要素に満ちているが、もしかするとこの映画は性的解釈を求めようとする批評家を皮肉っているのかもしれないとも思った。

『宇宙戦争』
スピルバーグ監督のSF映画。わかりきった古典を、現代風に料理してしまうスピルバーグの才能は流石の一言に過ぎる。オチがちょっと弱かったが、楽しく見ることができた。ただ、トム・クルーズはいまいち好きになれないな。

『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』
チェロ奏者デュ・プレの私生活を描いたイギリスの映画。芸術家デュ・プレではなく、孤独にさいなまれた一人の女性としてデュ・プレを描く。露悪的なところは否定できないが、全体的には面白かった。バレンボイム役の人は実物と結構似ている。

『カストラート』
実在のカストラートであるファリネッリを主人公とした映画。当時の大作曲家ヘンデルが出てくる。