origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

エーリヒ・ケストナー『消え失せた密画』(創元推理文庫)

2008-12-29 20:37:05 | Weblog
クロッツ率いる強盗団に美術品を盗まれたシタインへーフェル。盗まれた美術品を取り戻すために、秘書イレーネ・トリュープナーと彼女とひょんなことから知り合った肉屋オスカル・キュルツが活躍する。ユーモア・ミステリの傑作と言われ、冷静さとはほど遠い直情的な主人公キュルツが特に魅力的な一作である。青年作曲家ルーディ、変装の得意な悪人クロッツ、なぜか憎めないクロッツの手下たちといった登場人物たちもそれぞれが個性を主張している。
20世紀には興味がない、などと言う知的スノッブのルーディが個人的にはベスト・キャラクターかな。

今谷明『書評で読む歴史学』(塙書房)

2008-12-29 00:48:38 | Weblog
室町時代の封建主義研究で有名な歴史学者が朝日新聞に掲載した書評を纏めたものである。戦後の歴史学を呪縛したマルクス主義について、柳田國男と折口信夫について、織田信長の評価について、邪馬台国論争について、十字軍について、網野善彦について、などなど、洋の東西を問わない著者の歴史学に対する興味を伺い知ることができる。尚、著者は京都大学経済学部出身であり、大蔵省官僚であったこともあったという。ゆえに、歴史学者の中では特に経済や行政に詳しい。歴史学をロマンティシズム抜きに見ることができる著者の批評眼は貴重なものだ。
本書を読んで気になった本。
水谷三公『ラスキとその仲間-「赤い三十年代」の知識人』
政治学者ハロルド・ラスキらがマルクス主義・ソ連礼賛に走ったことについての批判的論考。
フランソワーズ・ジルー『イェニー・マルクス-「悪魔」を愛した女』
マルクスの妻の手記をまとめたもの。
井上章一『狂気と王権』
王と狂気、あるいは王権に対する反逆者と狂気について。
ロイ・ポーター『ギボン-歴史を創る』
ローマ帝国史で有名なエドワード・ギボンについて。
子安宣邦『「宣長問題」とは何か』
加藤周一が適した宣長問題に対する学者の返答。
森山軍治郎『ヴァンデ戦争-フランス革命を問い直す』
フランス革命の負の側面である農民虐殺について。呉智英が好きそうな研究書。
千田稔『邪馬台国と日本』
邪馬台国論争と日本ナショナリズムについて。『魏志倭人伝』を根拠とした九州説に比べて、有力説である畿内説にはナショナリズムの影が付きまとう。

高階秀爾『本の遠近法』(新書館)

2008-12-26 20:30:09 | Weblog
著名な美術評論家である著者が、専門内外の本に関して綴ったエッセイ。
面白かった比較文化を2つ。
将棋とチェスは同じくインドを起源にしているという。しかしそのルールには違いがある。将棋の特徴は、敵の駒を取って味方の駒にできることである。この将棋のルールはヨーロッパ人には理解しがたいものだという。戦後すぐのときに、GHQから将棋が「捕虜を兵士として利用するゲームだ」と批判されたときに、とある棋士は、「これはかつての敵も味方も平等に扱うゲームだ」と反論したという。
じゃんけんは日本特有のものである。グーもチョキもパーもどれが強いとは言えずに、関係性によって勝敗が決まる。これは日本人の国民性をよく表しているものなのではないか。
専門外のことについてもいろいろと触れられているが、やはりルネッサンス関係や美術関係の書評は濃い。塩野七生のルネッサンス論を評価している辺りは、著者の度量の広さを表しているのか。
特に気になった本。
カントローヴィッチ『王の2つの身体』
中世において王が有していた肉体としての身体、国家としての身体。
ウィリアムズ『文化と社会 1780-1950』
1780年以降、文化という言葉の持つ意義に変化が生じた。異文化との交わりによって、人々は自国の文化を意識しなければならなくなったという。文化と植民地主義の切っては切れない関係を論じた作。
ル=ゴフ『煉獄の誕生』『中世とは何か』
12世紀後半から18世紀末まで人々の心を支配したカトリックの煉獄。19世紀における自然科学の発達(丸い地球に我々は住んでいる)が、煉獄を衰退させたという。ル=ゴフはアナール派の歴史学者。
プラーツ『肉体と死と悪魔』『綺想主義研究』『官能の庭』
イタリアのロマン主義研究者の本。プラーツは『家族の肖像』の主人公のモデルである。
ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』
ルネサンス論の古典。高階垂涎のレヴィットのブルクハルト本は良作だった。高階をブルクハルトを引用しながら絵画を楽しむ上では文化的背景が重要だと論じている。絵画を虚心坦懐に味わうべきだなどと言ってはならない、と。
バルザック『知られざる傑作』ジェイムズ『未来のマドンナ』モーム『月と六ペンス』
美術家を描いた代表的な文学作品。

立川武蔵『空の思想史』(講談社学術文庫)

2008-12-25 00:31:30 | Weblog
すべてのものは空である。ナーガールジュナによって大成され、中観派によって継承された空の思想。それは唯識論のように認識のみを実在とすることなく、認識含めるすべてのものを、超越的存在さえも、空として捉える思想である。著者はインド哲学が専門だが、本書はチベット・中国・日本で空の思想がどのように継承されたかについても述べられている。インド・チベット・日本の大乗仏教の格好の入門書ともなっている。特に代表的な大乗仏教国であるチベットの仏教に関してはわからないことが多かったので(映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』を見たときに気にはなっていたが)、勉強になった。
本書の末尾では、著者によるキリスト教批判が展開されている。現代には、長らくキリスト教文明であった国々でも、仏教への関心が深まりを見せた。著者はこのことを興味深いと感じ、仏教的な智慧が閉塞する現代文明への救いとして機能し得るのではないかと考察している。

T・G・ゲオルギアーデス『音楽と言語』(講談社学術文庫)

2008-12-24 22:51:45 | Weblog
グレゴリオ聖歌においては、音楽とは言葉に従属するものであった。音楽とはミサの言葉を際立たせるために存在するものであり、音楽が言語を上回ることはなかった。グレゴリオ聖歌からロマン派まで、音楽と言語の位相を探った著作である。著者はハイデガーの現象学から影響を受けているという。翻訳者の精神科医・木村敏は、ドイツ留学中にゲオルギアーデスの講義を実際に受け、感銘を受けたという。
パレストリーナは言語を構造として捉え、音楽の中に取り入れたという点で同時代のルネッサンス作曲家と比べても異色の存在であったという。革新的な作曲家のモンテヴェルディでさえもその点では、パレストリーナよりも保守的であった。彼の教会音楽は、従来のミサ曲と同じように、言語そのものが持つ韻律を重視していたからである。
音楽がどのような言語によって成り立っているか、というのは重要な問題だ。長い歴史の中でラテン語こそが音楽の言語だった。「音楽と言語」という点で革新性があったのは、バロック期のドイツの作曲家たちである。プロテスタント(主にルーテル派)であるゆえに、ラテン語を用いる必要がなかったハインリヒ・シュッツやJ・S・バッハはドイツ語で宗教音楽を編み出していった。彼らがドイツ語という口頭で話される言語で作曲したことにより、オーラルの言語としては機能していなかったラテン語にはない韻律が音楽にもたらされた。

阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』(ちくま文庫)

2008-12-24 22:49:28 | Weblog
中世ドイツに伝わるハーメルンの笛吹き男の民話。ライプニッツも興味を示したというこの民話が、近代ドイツでどのように解釈されたかを叙述した、歴史家・阿部謹也の代表作である。
ハーメルンの町から子どもを連れ去った笛吹き男の伝説。この物語はグリム童話やロバート・ブラウニングの詩で有名になったが、歴史的な事実をもとにしているという。なぜ突然、子どもたちが忽然として姿を消してしまったのか。それについては様々な説があった。少年十字軍として組織するために連れ去られたのだという説。ユダヤ教の謎の儀式に参加させるために連れ去ったのだという反セミニズム的な説。ペスト患者を隔離するために連れ去ったのだという説。ハーメルンの笛吹き男はヴォータンの化身だとするロマン主義的な奇説(ユングもこの説を採っている)。昔読んだ『マスターキートン』というマンガでは、笛吹き男はペストにかかった子どもたちを連れて、人々にペストの免疫をつけさせたのだという説を採用していた。
著者はどれか一つの説を主張するのではなく、様々な学者の考察を客観的に紹介している。著者の主張が弱く、冷静に論がまとめられているところは、この本の長所であり短所でもあると言えよう。
ハーメルンという言葉を聞いて、『ハーメルンのバイオリン弾き』というマンガを思い出した。

加島祥造『タオ―老子』(ちくま文庫)

2008-12-21 18:00:22 | Weblog
老子の言葉を、詩人の加島祥造が自由訳したもの。かなり自由闊達に訳されており、「インターネットのウインドウ」などといった表現も出てくる。イェイツやパウンドの翻訳でも名を馳せた著者の訳だけあって、さすがにうまいと思う。柔らかい言葉の使い方をよく知っている人だ。
しかし老子の実態を知りたい人には森三樹三郎の『老子・壮子』の方が遥かに優れている(あまり比べるべきではないかもしれないが)。あくまでも現代詩人の加島の語り口を楽しみたい人向けであろう。

岡野宏文・豊崎由美『百年の誤読 海外文学篇』(ぴあ)

2008-12-21 17:54:32 | Weblog
今回は海外文学編。ベストセラーを語っていくというよりかは、1901年以降の名作文学を語っていくような形である。チェーホフ『三人姉妹』、ゴーリキ『どん底』、ジャック・ロンドン『荒野の呼び声』といった20世紀の古典から(この辺は19世紀文学と勘違いされていそうだ)、シュリンク『朗読者』、ジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター』、イアン・マキューアン『アムステルダム』、クッツェー『恥辱』といった近年の海外小説まで、手広く論じられている。もちろん、ジョイス・プルースト・フォークナー(『八月の光』)といった大御所の作品も手堅く抑えられている。一作家一作品となっているが、有名どころはほとんど網羅されていると思う。中国の作家は魯迅、莫言、南米の作家はロルカ、ボルヘス、ガルシア=マルケス、レイナルド・アレナスとなっている。
本書の影響で読みたいなと思った小説としてはガルシア・ロルカ『血の婚礼』、カルヴィーノ『冬の旅ひとりの旅人が』、エーコ『薔薇の名前』、マキューアン『アムステルダム』あたりがある。

岡野宏文・豊崎由美『百年の誤読』(ぴあ)

2008-12-19 18:46:45 | Weblog
徳冨蘆花『不如帰』以降の近代日本のベストセラーについて2人の批評家が語ったもの。『不如帰』、風景描写で有名な国木田独歩『武蔵野』、近松的な悲劇である尾崎紅葉『金色夜叉』、女学生小説の走りである小杉天外『魔風恋風』、神秘主義的な奇書・岩野泡鳴『神秘的半獣主義』、SF小説の草分けである押川春浪『東洋武侠団』(彼は東北学院の創立者・押川方義の息子である)、漱石の門下である長塚節の『土』、一人の女性の悲劇を描く藤森成吉のプロレタリア戯曲『何が彼女をさうさせたか』と明治期以降のベストセラーについて、縦横無尽に語っていく。森鴎外や志賀直哉といった大御所の作品に対しても批判をしている。
当時のベストセラー『魔風恋風』は女学校を描いた作品として、石坂洋二郎の『青い山脈』の先駆ともなる小説であったと言える。明治期も戦後の昭和期も意外と日本の大衆のフィクションに関する好みは変わらなかったのかもしれない。
『何が彼女をさうさせたか』は一人の女性の数奇な運命を描いた戯曲であり、筋書きだけ読むと野島伸司の『家なき子』に近いような印象を受ける。著者は小林多喜二と同世代のプロレタリアの文学者であり、女性差別・労働者差別に対する紛糾が作品創造の原動にはあったのかもしれないが、しかし作品の外面だけ見ると、『家なき子』や『嫌われ松子の一生』のような日本人好みのメロドラマである。
当時の社会状況をかんがみながらベストセラーについて語っていくスタイルをとっているので、明治~昭和初期までの話は面白かったが、1950年代以降になると目新しさがなくて退屈に感じた。『チーズはどこへ消えた?』や『セカチュウ』などを語られてもなあ……。石原慎太郎・曽野綾子・三浦綾子に対する厳しい批判も個人的にはそれほど面白いとは思わなかった。
本書でユーモア小説の傑作として、ジェローム・K・ジェロームの『ボートの3人男』、ケストナーの『消え失せた密画』、『雪の中の三人男』などが挙げられていた。この辺は読んでみたいと思う。特にケストナーは高校時代好きだったので。

荒川洋治『文学が好き』(旬報社)

2008-12-19 18:36:57 | Weblog
詩人の荒川洋治の文学に関するエッセイ。彼の書く文章は柔らかいながらも、ほのかな毒が効いていて刺激的である。著者は物事を見えるままに感じていたいと述懐しているが、まさに物事の表面を撫でるような文章だと思う。
日本の近代文学が主な話題となっているが、第3部は読書録となっており、シンガー『ルブリンの魔術師』、カポーティ『叶えられた祈り』、ナボコフ『セバスチャン・ナイトの真実』、『ヴィヨン詩集成』などの世界文学についても触れられている。