origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

アクセル・オルリック『北欧神話の世界 神々の死と復活』(青土社)

2008-05-30 23:34:30 | Weblog
デンマーク出身の学者であるオルリックが、北欧神話のラグナロクについて論じた本である。従来、終末論であるラグナロクはキリスト教から多くの影響を受けて成立したものだと考えられていたが、オルリックは文献を吟味することで、ラグナロクがキリスト教とは違うところから生まれていったことを論じている(例えばペルシャのゼント・アヴェスタも影響源の一つである)。
著者はこの本の中で何度もケルト民話を出し、北欧神話と比較している。双方とも終末論・円環的な歴史観・多神教などの要素で共通点であり、キリスト教以前の民族的な想像力を窺わせる思想である。
著者は北欧神話のロキに関して、元々は彼が悪戯を好む人物だったのにも関わらず、キリスト教のサタンからの影響のために、次第に絶対悪的な人物になっていったということを指摘している。
北欧神話そのものはキリスト教と起源を異にする。しかし、歴史の中で(ケルト神話やプラトンがそうであるように)キリスト教的に解釈されてきた。例えば、フェンリルに向かう異教の神々は、歴史の中でキリストのアレゴリーへと変化していったのだ。

D・P・ウォーカー『古代神学 15-18世紀のキリスト教プラトン主義研究』(平凡社)

2008-05-30 22:20:38 | Weblog
著者はイギリスの歴史学者。フランシス・イェイツの友人でもある。
モーセ、オルフェウス、プラトン、彼らの先行者としてのヘルメス・トリスメギストス……。ルネサンス時代にはこれらのものを「古代神学」として扱い、キリスト教神学の先行的思想として見なすような風潮が強まったという(後に孔子もこれに加わる)。彼らが模範としたのが3~5世紀のプロティノスやオリゲネスを始めとする新プラトン主義者たちであり、オルフェウスやプラトンのキリスト教がその目標であった。そして3~5世紀の新プラトン主義者がそうであったように、ルネサンスの新プラトン主義者も得てして魔術的な要素を持つことが多かったという。
その好例が、著者の研究対象でもあるマルシリオ・フィチーノである。彼は『プラトン神学』によって、プラトンをキリスト教に先行する神学者へと押し上げた人物だったが、同時に魔術的な要素を持った思想家であり、系譜的にはブルーノや薔薇十字に連なる存在である。『ヘルメス主義』という錬金術に関する著作も書いている。彼の友人であるピコ・デラ・ミランデラも当時の代表的な新プラトン主義者であり、彼も魔術的な傾向を持つ思想家であったことが知られている。
しかし、当時においてフィチーノやピコに対する反対勢力も少なくなかった。特にエラスムス主義者とカルヴァン派はプラトンをキリスト教化することに強く反対したようであり、またカルヴァン派以外でもプロテスタントは全体的な傾向としては反プラトン主義的・反魔術的であったという。
また、16世紀のハーバート卿に始まる理神論も、反プラトン主義的な傾向の強い思想であった。理神論的なスピノザやライプニッツはやがてはカントやヘーゲルへと繋がり近代哲学への道を開いていったが、一方で新プラトン主義も根強く近代へと続いていった。
本書の終わりはニュートンの友人であるアンドルー・マイケル・ラムゼーの思想で締められている。ニュートンは晩年になってエーテルの要素を取り入れたというが、ラムゼーは友人であるニュートンを古代神学的な宇宙観に連なる存在として見ている。ギリシアの宇宙観を体現した存在こそがニュートンだと言うのだ。これは私たちの近代科学時代の象徴としてのニュートンというイメージとは正反対である。

You Tube

2008-05-25 16:53:54 | Weblog
http://jp.youtube.com/watch?v=OsSpNjhxoTg
High Llamas "Nomads" これは素晴らしい名曲。
http://www.youtube.com/watch?v=NtfxDeF2mUg&feature=related
The Pillows "Terminal Heaven's Rock" これ好きだ。
http://www.youtube.com/watch?v=QVC0adz7zaw&feature=related
Rufus Wainwright "Agnus Dei" 宗教的な歌。

平川祐弘『ダンテの地獄を読む』(河出書房新社)

2008-05-24 21:48:28 | Weblog
ダンテの研究といえば、E・R・クルティウスにエーリッヒ・アウエルバッハ。20世紀にはダンテをロマン主義的な幻視者としてではなく、言語芸術に長けた詩人として評価する向きが現れた。そのような20世紀の研究動向を踏まえた論文集……ではない。
著者は比較文学者であり、最近の研究動向など知るか、とばかりに独自の形でダンテの地獄編を論じ尽している。著者は何度も源信『往生要集』と『地獄編』を比較して論じている。キリスト教と仏教という違いはあれども、双方の地獄は意外なほどに似通っている。地獄の永遠性も同じだ。しかし、『往生要集』に源信本人の姿はない。自らを主人公としたところにダンテのエゴがある。
もし日本で『神曲』のようなものが書かれたとしたら、ウェルギリウスは誰になるか。矢内原忠雄は柿本人麻呂ではないかと冗談交じりに語っていたらしいが、著者は白楽天ではないかと言っている。白楽天は『源氏物語』を始めとする日本文学に多大な影響を与えたからだ。確かに日本人が日本語で『神曲』を書くのならば、言語の源流たる存在は中国の詩人になるのかなと思った。
著者は『神曲』の中の「お世辞」に注目してみせる。ウェルギリウスを「言語の大河の源流」として思い切り褒め称えるダンテ。カトーを褒めようとするもかえって心を害してしまうウェルギリウス。ダンテは外交官としても活躍した人物だったが、『神曲』は「お世辞」に溢れている。『神曲』を宗教的な聖なる書物としてではなく、極めて世俗的な文学として追求していく様は興味深い。
ダンテのキリスト教の独善的なところに対する批判も面白かった。源信は仏教を信じていないからといって地獄に落とすようなことはしなかった。しかしダンテは、どのような善人であっても、クリスチャンでなければ辺獄にしか行けないと考えた。そしてムハンマドを地獄の最下層に落としたのである。

シェイマス・ヒーニー『創作の場所』(国文社)

2008-05-24 21:37:56 | Weblog
アイルランド文学の研究者として有名なリチャード・エルマンの記念講演で、ヒーニーが話した内容を纏めたものである。後期のイェイツ『塔』から始まり、パトリック・カヴァナー、ルイス・マックニース、トマス・キンセラ、デレク・マホン、ポール・マルデューンといったアイルランドの詩人たちについて論じられている。
イェイツが生きた時代は、アイルランドのプロテスタント層が没落していた時代であったという。アングロ・アイリッシュのインテリ層の代わりに、カトリックのインテリ層が台頭してくる。イェイツ亡き後の1940年代に人気を博したオースティン・クラークやカヴァナーはカトリックの詩人であり、前者はUCD出身の宗教教育を受けた知識人として、後者は農家の実情を知った者として詩を書いた。
カヴァナーとヒーニーを繋ぐ詩人としては、カトリックのトマス・キンセラがいる。50年代後半から活躍し「血の日曜日事件」などの暴力的な出来事を詩という芸術へと昇華させるができるキンセラの才能は、ヒーニーに影響を与えた。アイルランド紛争について詠んだ初期のヒーニーの詩は、キンセラの影を宿していると言えるだろう。
その他、ヒーニーの弟子でもあるポール・マルデューンの詩を論じている。マルデューンの詩の注釈で、ヒーニーがキリストの十字架上での死は野獣のような死であったに違いないと言っているのが印象的だった。
ジョイス~カヴァナー~キンセラ~ヒーニーというカトリックの伝統とイェイツ~ベケット~マホンというプロテスタントの伝統があるのかも。

『歴史を問う 1神話と歴史の間で』(岩波書店)

2008-05-24 21:15:50 | Weblog
『歴史を問う』というシリーズものの論文集の第1巻。今回のテーマは「神話」であり、国内外の神話と歴史に関して論じられている。
「神話と歴史の間で」
元々口語によって語られるものだった神話が次第に書き言葉となっていき、それが「歴史」と接近する。著者は「中世神話」という概念を提唱し、『愚菅抄』や『神皇正統記』を論じる。鎌倉時代、仏教者たちは自分が末法の世にいるのだと考えていた。救いがもたらされることのない末法の世。その中でどのようにして宗教的な救いを人々に与えることができるか。その問いに対する一つの回答が親鸞の浄土真宗であったと言える。慈円の『愚管抄』もそのような時代に書かれた書物であり、彼の仏教的な歴史観が投影されている。慈円の道理の概念や末法思想はあくまでも彼の主観によるものだということに留意すべきである。そこには歴史を客観的に語ろうとする意識はあまりない。
一私人の立場から書かれた『愚管抄』と南朝の正当性の証明のために一公人としての立場から書かれた『神皇正統記』は結構違う。
「歴史と信仰」
20世紀を代表する聖書学者ルドルフ・ブルトマンと神学者カール・バルトは共に歴史主義的な聖書学に抗った。歴史を追及すればイエスの真の姿に会うことができるという19世紀後半以降の聖書学の潮流に従わなかった。しかし、ブルトマンとバルトは決して似ていない。バルトは歴史に抗いそのキルケゴールから影響を受けた神学によって真理に近づこうとしたのに対して、ブルトマンは歴史学から距離を置きつつも歴史の中に真理を見出そうとした。ブルトマンはまず「史的イエス」に関して、ほとんど何も確実なことはわからないということを認める。その上で、新約聖書を非神話化し、実存的なイエスの像を求めていくのである。聖書には幾つもの神話があり、それらの神話を解体していくことが必要だとブルトマンは考えた(「神話」こそを重視したノースロップ・フライとは対照的に)。そして神話を取り払ったときに残る核こそが、信仰の対象となるべきものだとした。彼はルター流の信仰義認説の立場を取っており、神話を取り払ったときに立ち現れる聖書の本質を信仰の対象としたのである。しかし、本当に信仰すべき聖書の本質と神話は峻別できるものなのだろうか。その疑問を呈したのが、ブルトマンから影響を受けた哲学者ポール・リクールであった。
個人的にはルター派に共感を覚えていることもあって、ブルトマンの神学はなるほどなあと思わされるところが多かった。もし現代において信仰が成立するならば、それは神話に抗うことによってのみなのではないか。
「神話の引用と再話 グノーシス主義の創作神話」
グノーシス主義における二元論的な傾向や歴史否定の傾向について。グノーシスが歴史には何の超越的な価値はない、などという考えをもっていたのだということは初めて知った。歴史の超越的な価値を重んじるユダヤ・キリスト教のネガとなるべき歴史観がグノーシスには存在している。

辺獄

2008-05-22 21:25:34 | Weblog
煉獄はpurgatory、辺獄はlimboである。
初期のカトリックの教父たちは、洗礼を受ける前に死んだ子どもたちは地獄に行くと考えた。それに対してペラギウス派は洗礼前の子どもでも救われ神の国へ招かれると考えた。アウグスティヌスはペラギウス派に反論した。13世紀から地獄の中の「罰を受けない場所」として辺獄という概念が登場する。トマス・アクィナスは辺獄で幸福に暮らす洗礼前の子どもたちの姿を思い描いた。
ダンテの『神曲』においては、ホメロスやプラトンのような、キリスト教以前の偉人は、地獄の最上位である辺獄にいることになっている。

『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』

2008-05-22 19:25:54 | Weblog
3手に分かれてしまったパーティー。1つはビルボとサム。もう1つはピピンとメリー。もう1つはアラゴルン、レゴラス、ギムリ。
蛇の舌に操られていたローハン王セオデンはアラゴルンたちの強力な協力者となる。
ハリウッド映画らしく、アラゴルンとエルウェン(リヴ・タイラー)の恋愛がクローズ・アップされて描かれている。アラゴルンは次第にゴンドールとローハンを導く存在として成長していく。

私が書いたメールより抜粋

2008-05-22 19:16:14 | Weblog
ウェルギリウスは『アエネーイス』の中で地獄の様子を描き出し、後のキリスト教の地獄概念に影響を与えた。ダンテが地獄の案内人としてウェルギリウスを選んだのはそのことに一因があるだろう。ダンテの地獄観は他にも、ホメロス(ハデスの章)、オウィディウスからの影響も存在する。

薔薇物語以降、ルネサンス期において薔薇が象徴として重んじられるようになった。薔薇はイングランドの象徴でもある。薔薇十字団のアンドレーエはイギリスが神聖ローマ帝国に従うことを願い、その名前をつけたという説がある。

詩人ウィリアム・ワーズワースは元々フランス革命を支持する人物であり、ウィリアム・ゴドウィンから影響を受けた彼は革命により新しい時代が訪れることを信じていた。しかし、ナポレオンの登場とともに、彼は革命に失望し、隠遁的な傾向を強くしていく。

ウェルギリウスのアエネイス第四歌はイエスの誕生を予言したものとして有名である。

煉獄

2008-05-22 18:57:48 | Weblog
カトリックの煉獄(Purgatory)といえばダンテの『神曲』で有名だが、中世~ルネッサンスに煉獄概念の普及に大きな役割を果たした書物として『聖パトリックの煉獄』が挙げられる。これはアイルランドにキリスト教をもたらした聖パトリックが、イエスに導かれて煉獄を見るという内容である。この本の中には、騎士オーエンを主人公とした地下世界めぐりという物語も含まれており、地獄・煉獄を経て天国へと上昇していくプロットは『神曲』に影響を与えたと考えられている。この上昇をテーマとした作品は『神曲』の他にも十字架の聖ヨハネの詩などがある。
シェイクスピアの『ハムレット』にも聖パトリックについての言及があるとのこと。