道 (真理)

道は須臾も離るべからざるなり 離るべきは道にあらざるなり

道すなわち真理について~釈迦略伝(四)苦行

2014-12-28 20:46:40 | 釈迦略伝・釈迦因果経

2014年12月28日

この「道」は、無形無相、無声無臭で、見ることも聞くことも嗅ぐことも触れることもできません。これが道の実体です。

古聖が次のように述べています。

老子は、「大道は無形にして転地を成育し、大道は無情にして、日月を運行し、大道は無名にして万物を長養す。吾その名を知らず。強いて名付けて道という。」(清静経) ※老子は道徳経・清静経・黄庭経の三経を遺しています。

訳:大道は本来形象はないが、よく天を生じ、地を育てることができる。本来感情はないが日月を運行することができる。本来名称をもって表現できないが、天地間の万物を養育することができる。私自身、その名前を知らない。それで強いて道と名付けた。) と述べています。

イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれも私によらないでは、父のみもとにゆくことはできない。」 (ヨハネ伝第14章)と言いました。

※    イエスの墓が青森県三戸郡新郷村大字戸来にありますが、地名の「三戸」「戸来」について次のように解釈できます。

論語の雍也第六:子曰誰能出不由戸何莫由斯道也

解釈:子曰く、誰か能く出づるに戸に由らざる。何ぞ斯の道に由ること莫からむ

誰か出るに戸によらないものはない、どうして、(生きるに)この道によらないことがなかろうか。普通戸の無いところから出入りすることはなく、人は、無意識的に戸を用いる。道路も、無意識的にそこを通るが、もとからあったものでなく、人々が往来するから道路となったものである。道路には通る人々により、悪しき所に通じるものも、善き所に通じるものもある。道とは、ここでは、人が生きる道のことであるが、さまざまな道がある。無意識的に生きているのかもしれないが、先人の道を辿っているものである。(周公のごとく)生きた人の道(斯道)によるべき、・・・これは真理がわからない場合の一般的な解釈です。孔子が伝えているのは「人間はどこから来てどこえ往くのか、この戸による・・・」ということでした。

ここでいったん、話をイエスに戻します。イエスは私が「道であり、真理であり、命(性命=霊)である」ことを証明するために神はイエスに十字架で磔になる機会を与えました。この時の場所は「ゴルゴダの丘(しゃれこうべの丘)」でした。つまり人の頭の部分です。そしてイエスと共に2人の盗人が処刑されました。三人が同時に磔になりました。

汝姦淫するなかれ”と言いますが、姦淫の源は目にあります。目で色を見ることで心が動じ罪を犯します。つまり左右両目は磔になった2人の罪人で比喩し、イエスは真中の十字架で〝私は真理である“を比喩しました。

また仏教の「如來」は、済いとは「菩薩が來るが如し」と言う意味に使います。この「來」と言う文字は「十」の字に「人」と言う文字を3人を書いた字です。つまり十字架に3人が磔になったことと同じになります。

如=女の口=玄牝之門(老子道徳経で“玄なる牝の門”と表現)

玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。などと解釈されています。

來=十(十字架)に从(罪人が2人従う)もうひとり、「人=キリスト」がいて十字架に人が3人

※古聖曰く「三人同行すれば必ず我が師あり」と・・・

そして「戸」と言う文字について、もちろん聖書にも「戸をたたく」と言う真理に関する機密の表現がありますが、「戸」の「一」の字を取ると「尸」(しかばね)と言う字になります。「一」は「点」の伸びた形で、今の「一なるもの」の「一」そのものです。つまり真理のひとつの表現です。「尸」が「一」を得て「戸」になる、つまりこの「戸」が「真理」を表現しています。京都の大文字焼きの「大」の字も「人」が「一」を得て「大」になる、やはり「一」が真理であることを継承しています。

「戸」と同じ意味で、先ほどの「如」とおなじですが、老子「道徳経」第1章でいう「玄之叉玄衆妙之門」とは、人間の認識を超えた玄妙な処があり、それより更に玄妙な処こそ、さまざまな微妙なものを生み出す門(創造の出入り口)が有る。と解釈されてきました。

さて、はじめの話、キリストの墓がある「三戸」「戸来」の地名について、想像してみます。

「三戸」については、東北方面の方はご存知のように青森県には「一戸」「二戸」と言う地名があります。おそらくキリストの足跡が秘められていて、今はまだ公開する時期ではないと思います。

「戸來」は「如来」と同じで、そのときがくれば十字の秘密が公開され、真理が得られることを印しているものです。キリストが日本に、しかも東北に来たことはきわめて意義深いことでやがて真実が明らかになります。

西洋文化の精神性の本拠地が東洋の日本にあることが段階的に証明され、世界がひとつになり、宇宙とつながる史実となってきます。聖人はそのために足跡を残す天命を担っていました。

昨今、歴史が明らかになってきていますが、「真理」に基づいた歴史が明らかになるのはこれからです。エジプトも中国もどの古代文明もすべて十字などの形象で顕した「真理」を探求する歴史そのものでした。天のデザインは細微に渉っています。

 

釈迦略伝

 

苦行(四)

悉達多太子は迦比羅城を離れて17里あまりを走り、藍摩市(らんまし)につきました。そしてさらにこれより東に進み、阿跋彌河(あばみがわ)の深い森林の中に入り、四方静寂なところを一箇所選んで修道の場所に当てました。

この時は、髪や髭をそり、袈裟を着て宝服を脱ぎ、車夫に持たせ馬車と共に城に帰らせ父王に奉還することにしました。そうして「人生は早かれ遅かれ離別するものであって、いずこに一緒に居住することができましょうか」との口信をお伝えしました。

それからまた東に向かって進み、跋迦仙(ばがやせん)を訪ねました。跋迦仙は婆羅門(ばらもん)の一人の苦行者であって、苦行しなければ解脱できないと説いていました。

太子が跋迦仙が苦行されるのを見て、跋迦仙に[汝はなぜこのように苦修するのですか」と問いました。すると跋迦仙は[欲によって天に生是利、来世天上の楽果[楽が]を得んと欲すれば、苦修せざるを得ざるを得ない、それのみなり」と答えました。

太子は「汝の求むるところの天上の楽果は亦、究竟にあらず、諸天は楽といえども、福報限りあり、福業尽きれば、また六道輪廻の苦報受けるを知るべし、汝の楽と説くところのものは、究竟苦しみのみなり」と告げて、遂に跋迦仙のところから離れてゆきました。

さて、太子が迦比羅城を離れて後、まもなく父王はことの詳細を知り万分の驚きをなして、直ちに臣下を派遣し四方を探させました。ちょうど慌しく探し回っている時、車夫が馬車を率いて王城に帰ってきました。

車夫は出城の経過と太子の口信をいちいち浄飯王に申し上げました。そこで浄飯王は二人の大臣と師夫を派遣し、太子を迎えて帰るようにしました。この一行が跋迦仙のところに着きますと、跋迦仙は「太子はすでにここを離れて北の方にいかれました。」と申しました。一行はまた北の方に向かって追っていきますと、樹下に座しておられる太子を発見しました。一同は大喜びして、父君が如何に太子を思って心配しておられるかを告げて速やかに城に帰るようにすすめました。

次回「苦行」続きます。