富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

【長編】奥の谷より嶽山城跡(龍泉寺城址)を探索。

2022年03月14日 | 館外活動

富田林百景分科会参加者 「七人の侍」 そんなエエもんか。(3月11日 頂上付近広場で)後ろの景色がほとんで見えとらん。

執筆人:kusu(左端)、アブラコウモリH(右端)

 

2022年3月11日、百景分科会オプショナルツアーで、富田林市で二番目に高い嶽山(だけやま)の山頂にあった嶽山城(龍泉寺城)跡を目指し尾根伝いに道なき道を登城して探索しました。

 

遠くから見た嶽山 富田林市若松町東一丁目 石川サイクル橋より

 

廿山(つづやま)墓地から望む金胎寺山と嶽山

尾根でつながっている富田林市で一番高い山 金胎寺(こんたいじ)山 296.2m(右側)と二番目に高い山 嶽山(だけやま) 278.0m(左側)。

どちらも南北朝の時代には楠木氏の十七支城となり、また室町時代には畠山義就が政長との内紛で籠城、山頂付近に縄張りの跡を思わせるようなキレットや曲輪が今も残ります。

 

嶽山城(龍泉寺城)は南北朝時代、元弘2年(1332)に楠木正成が築城し楠木七城の一つ。当初は佐備氏が守将となって防衛に当たっていましたが、延元2年(1337)激戦の末陥落、その後奪還して、楠木正儀・和田正武が防衛していましたが、楠木十七支城当時、正平15年(1360)に陥落。以降は河内守護畠山義就の支城となり、室町時代中期になると畠山氏のお家騒動が発生し、永正5年(1508)廃城となりました。現在は城跡の辺りにかんぽの宿 富田林があり、車で山頂まで登れますが、あえて奥の谷から尾根伝いに嶽山城址を目指しました。

なにがしかの中世の山城の痕跡を見出そうと思ったからです。

 

奥ノ谷の河内ふるさとのみちから、嶽山の頂上を目指し頑張るど―。

 

最初はらくちんな道。

 

天気がよく、暑いくらい...

 

さっそうと「高年探偵団」、全部合わせて508歳。

 

10分くらい歩くと、いきなり出てきた尾根を切る堀切。「うーん、明らかに人為的!」

 

700年も経っているのに、この深さ!あやうくこけそうになりました。

ここまでが林道の終点。

 

人工的に削平されたと思われる平らな場所に到達。段々状に削平されています。武者だまりになっていたかもしれません。

 

「なんだ!これは!!」だれが置いたんやろ、こんな山中に。

 

宝篋印塔2基(内1基は倒壊)と板碑が1基。

 

滝谷不動明王寺は南北朝の正平15年(1360)に楠木方が籠る龍泉寺城・金胎寺城を足利義詮が攻めた時と寛正3年(1462)に畠山義就が籠る龍泉寺城を畠山政長が攻めた争乱で2度の兵火にみまわれています。そして、嶽山の山腹にあった元滝谷不動は、慶長年間に現在の場所に移動して再建されたと伝承されています。直線約1km移動したことになります。

これは元滝谷不動に関連する宝篋印塔と板碑かもしれません。

 

銘はありますが、判読不能。年号等が解れば何らかの手掛かりになるのですが...

 

ここからは尾根沿いに道なき道を、ブッシュをかき分け登っていきますが...

 

メチャメチャ急な登りが続きます。

 

あらかじめ下見の時にkusuさんが付けたテープが頼りです。

 

出てきた出てきた嶽山火山岩。二上山や横山潮沸石と同じく、約1700万年前に瀬戸内火山帯の活動により形成されたと思われます。

1700万年前と言えば、日本列島が中国大陸から離れ「く」の字に大きく動いた頃、大陸の縁が引き裂かれて海水が入り、日本海ができました。そのころのお話です。

 

これは地表近くで急激にマグマが冷やされてできた流紋岩のようです。

 

目印を外れるとイバラやカズラにひっかかり、ブッシュに阻まれて前に進めません。

 

流紋岩の風化したような崖が現れました。

 

もうすぐ頂上近くでさらに急になり、思うように進めません。

さらにメンバーの一人がケイタイを途中で落として逆戻り、捜しに1名が後を追い、他のメンバーは音で見つかるように落としたケイタイに電話を掛けまくりました。マナーモードやったら鳴りませんけど...

このケイタイは後に奇跡的に見つかりました。

 

不自然な削平地が見られます。曲輪(くるわ)かも...

 

急坂を上がると削平地。急勾配と削平地の繰り返し。

 

人為的に削平された跡。いつの時代かは分かりませんが、頂上の広場のすぐ下に削平地が同心円状に拡がります。

 

ようやく頂上付近の広場に出ました。登り始めて30分くらい。

 

丘の上が西側を望む台地。ここだけあまり木が生えていない。

 

冬場はめちゃくちゃ西から吹き上げる季節風が強いですが、きょうはそよ風です。しかし黄砂であまり視界がよくありません。ここが標高278m。

 

「七人の侍」or「西部警察」

 

PL塔左横の小さな緑地が廿山(つづやま)で南北朝時代に北条幕府軍(寄手方)の陣があり、楠木軍とにらみ合いました。「太平記 巻34」に記述があります。

〈画面をクリックするとその時のエピソードが見れます〉

 

眼下に石川や羽曳野丘陵を見下ろすロケーション。あべのハルカスより少し低い。

 

東側には「かんぽの宿 富田林」があります。その左側に「楠公龍泉寺城跡」の石碑があります。実はここの方が標高が高くて283.5m。金剛山がかんぽの左側に見えます。

 

園地を通り、「龍泉寺城跡」の石碑に向かいます。

 

またもや懲りずに記念撮影。

 

「かんぽの宿」でトイレをお借りし、水分補給をさせていただきました。

 

ちょうどしだれ梅が満開。

 

連日の暖かさに遅れていた開花もここにきて一気。ちょっと休憩をはさんで帰路へ。

アブラコウモリHが館内でゆっくりしすぎて、メンバーに捜されましたが、「ちょっと温泉に...」と一言。

 

帰路の途中、道路わきの削られた法面で節理構造をなす嶽山火山岩(流紋岩)。

 

嶽山城址よりの帰路も谷間や急勾配が多いです。またもや道なき道を。どこから来たかわからん。

 

いつに加工されたかは分かりませんが、人工的な切通しがある外周路。

道に迷いながら無事下山。決して少人数では行かないようにしてください。間違いなく迷います。私たちの内2人は数回同じ道を歩いていますが、それでも間違いました。

出来ればGPSの付いているケイタイの歩いたコースがわかるアプリで帰路も同じコースをたどれば迷わないと思います。

 

行く時に立ち寄った石碑のところまでなんとかたどりつき、富田林の自然を守る会が管理されている奥の谷の散策路を行きます。

 

両側が切り立った谷の細尾根の散策路。うっかり足を踏み外そうものなら、20m位落ちてしまいます。

 

この木は何でしょう?

桧は木肌が荒いです。桧は谷筋でも尾根筋でも生長します。

〈画面をクリックすると桧葉が見れます〉

 

この木は何でしょう?

杉は木肌が整っています。杉の方が成長が早く、同じ年数でも桧よりかなり太くなります。

また、水分を好み谷筋で生長します。乾燥した尾根筋では生長しにくいようです。

〈画面をクリックすると杉葉が見れます〉

 

富田林の自然を守る会が管理されている奥の谷の散策路には、よく管理された竹林があります。

 

散策路を経由してベースの「みかん小屋」に戻るメンバー。

 

やっと奥の谷の拠点「みかん小屋」に着きました。

距離は2㎞位でしたが、急勾配と道なき道の尾根伝い歩きでした。以前歩いた谷筋コースはもっと急で多くの崖が途中存在します。

頂上付近に人工的に作られたと思われる曲輪のような削平地が取り巻き、中腹の急坂になる前にも堀切や削平地があるようで、山城の片鱗がうかがえました。

また楠木氏支城群の特有の多くの秘密の取りつきルートがあり、寄手方に悟られない水や物資の補給、兵力を柔軟に活用することをしていたのではないかと思います。

しんどかったけど、楽しい嶽山登山でした。

長文最後まで見ていただきありがとうございました。 

 

関連記事:奥の谷より嶽山城址を頂上攻略。 2022.2.21 撮影:2月20日

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撮影:2022年3月11日 

2022年3月14日 HN:kusu & アブラコウモリH

 


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