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スピルバーグと映画大好き人間、この指とまれ!

カフェには、映画が抜群に良く似合います。
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身辺雑記。

映画監督スピルバーグ誕生~独学の天才~

2008-02-05 06:23:52 | 連載コラム~スピルバーグ~

 多感な時期を過ごしたスピルバーグも1964年、彼、18歳の時に、とりあえず進路が決まる。大学に行くしかなかった。高校を卒業した時の成績は平均して「C」という悪いものだった。しかし、進学しなければベトナムへ徴兵されるおそれもあった。そこで、必死になって勉強して、USCの映画学科に行きたかったが不合格したもののカリフォルニア州立大学ロングビーチ校英語学科に何とか入学できた。しかし、この大学には映画学科が無かったのであまり大学には行かず独学で映画の勉強に専念した時代だった。ルーカスやスコセッシ監督のように希望する映画学科に入り恵まれた環境のもとで映画作りができたのに比べるとさぞ悔しかったことだと思うがそれをきっとばねにしたのだろう。そして、これは、わたしも同じ大学時代に感じたことだが人間が勉強することは本来独学なんだということを改めて共感させてくれる。回顧上映で、映画史上の名作から娯楽映画まで何でも見た。また、何とか金を工面できたときは16ミリのカメラを借りて映画を5本作った。

 そして、その後の数年間は、映画作りの技術全般の専門家になることを自分の課題としている。また、この頃今では神話化したがユニバーサル撮影所へ通い、編集の仕事を手伝わせてもらえた。そうこうしているうちに映画監督になるには35ミリ映画でないと説得力がないことを痛感しはじめた。しかし、それには金がいる。そんな時、特殊効果の会社を経営していたデニス・ホフマンと出会った。彼は、プロデューサー志願の裕福な若者でスピルバーグの8ミリ、16ミリを見て1万ドル投資していいと言った。そこで、出来た作品が彼の初35ミリ映画「アンブリン」であった。この時、スピルバーグ20歳。24分の短い映画でセリフ無し。ストーリーは、見知らぬハイティーンの男女が、ヒッチハイクのため車を止めようとしたが、うまくいかず歩きだし、夜を過ごし次の朝別れてゆくもので、見終わった後にさわやかさが残る。ところで、アンブリンとは、ゆっくりと行こうという意味で、これは、後に「E.T」のマークで有名になった製作会社アンブリンをスピルバーグが立ち上げるが、その名前の由来はここからきている。この作品は、1969年ヴェネチア映画祭・アトランタ映画祭学生部門入賞。後に日本では、「ぴあフィルムフェティバル」で上映された。また、この映画祭でジョージ・ルーカスと会っている。

 そして、ユニバーサルテレビの副社長、後にユニバーサルの親会社MCAの会長に就任した実力者,シド・シャインバーグが「アンブリン」を見た。彼は、いち早くスピルバーグの才能を見抜き、テレビ映画の監督として7年間の契約をむすんだ。21歳の誕生日を迎える前だった。大学は中退となった。この若さでプロの監督として契約を結んだのは、テレビの分野でもハリウッドはじまって以来の出来事だった。しかし、スピルバーグの納得がいく仕事はこないし監督になったといっても所詮テレビ映画である。そんな失意の時代でも彼のすごいところは、くさらず辛抱してテレビの仕事をこなしていったことだ。結局この時があったからこそ、後に映画監督になれたのである。映画監督修行時代であった。

 そこで、この時期の作品のの主なものを紹介してみよう。1970年「怪奇真夏の夜の夢」。これは、12時間だけ眼が見えるようになりたいため盲目の女性が賭けに負けた男の眼球を買うストーリー。しかし、ニューヨークの大停電で眼球を買えたのに、物を見ることはできなかった。戦前の大スター、ジョーン・クロフォードが65歳で主演。「笑いを売る男」。人を笑わせなければならないのにできないコメディアンと自分の力を試そうとしている妖精の話。「ドクター・ホィットマン」は、学校でも家庭でも品行のよくない十二歳の少年が眠りの中で空想の世界をひろげる。1971年刑事コロンボシリーズ「構想の死角」。シリーズ第一回作品。2人で1つの名前を持つミステリー作家の一人が、相棒と目撃者の女性を殺す。

 「激突!」。初めて手がけたテレビムービー。SF・サスペンスの小説家・脚本家であるリチャード・マシスンが、「プレイボーイ」誌に発表した短編小説。デニス・ウイヴァー演じる温厚なセールスマンが、ハイウェイでタンクローリーに追いかけられ、死に物狂いで逃げ回る。秘書がスピルバーグにすすめたのがのきっかけ。初めて自分のやりたい題材に取り組めた。1971年11月13日、ABCテレビで放映。評判も良く高視聴率。1972年モンテカルロ・テレビ・フェスティバルに出品し選外佳作として表彰。1973年1月フランスアヴォリアッツ第一回ファンタステイック映画祭グランプリ受賞。ヨーロッパ、日本、南米では劇場公開され興行的に成功。キネ旬ベスト8位。赤のプリムス・ヴァリアント。カリフォルニアを北へ向かううちタンクローリーが追い抜いたので何気なく抜きかえし、抜きつ抜かれるがくりかえされる。タンクローリーが攻撃してくる。原題のとおり決闘(デュエル)となる。一対一の対決。単純なドラマの中にサスペンスとショッカー演出。その間にユーモアをはさむ。タンクローリーの運転手を画面に出さず体の一部を見せる演出。カメラワーク、車のミラー・疾走感。音と映像を密接に結びつける。

 1972年「恐怖の館」。テレビ・ムービー。若い夫婦ペンシルベニアの農家へ引越。その家は、奇怪な怪死事件があった。悪霊が一家を襲うホラー。後の「ポルターガイスト」に通じる。母の愛が子供を悪霊から救う。1973年「サヴェージ」。ポール・ヴェージなるテレビのジャーナリストたちが、最高裁判事候補を中傷せんとする事件の謎を追う。「スパイ大作戦」のマーティン・ランドー主演。

 これらの作品郡を監督するなかでスピルバーグは、「怪奇真夏の夜の夢」、「激突!」に代表される彼独特の演出スタイルが育まれた。撮影方法としては、広角レンズの使用・ドラマテックなライティング・俳優に向かってカメラが動くトラッキング撮影など。そして、テレビの仕事は、予算が少なく撮影日数も短いので早く作品を仕上げなければならない。そんな環境のもとで絵コンテの作成と撮影現場でのアイデア、アドリブ、臨機応変さをみにつけたのである。

 そして、この時代の仕事振りが「スティング」のプロデューサーであったリチャード・ザナックとデビッド・ブラウンに評価されてスピルバーグは、劇場映画第 一作「続・激突!カージャック」を監督することができた。彼この時27歳。作品は、批評家からはある程度の良い評価をもらえたが、興業的にはあまりふるわなかった。しかし、周知のとおり1975年の監督第2作目「ジョーズ」が、歴史を塗り替える大ヒットを記録しアメリカ映画史にかつていなかったスター監督が誕生したのである。スピルバーグ29歳の時であった。

※参考文献『スピルバーグ 筈見有弘著 講談社現代新書』、『地球に落ちてきた男/スティーブン・スピルバーグ伝 ジョン・バクスター著 角川書店』

 



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