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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 宮古上布

2021-08-24 19:51:49 | 東京五輪延期

 「宮古上布」

 Description / 特徴・産地

 宮古上布とは?
 宮古上布(みやこじょうふ)は、沖縄県宮古島で作られている織物です。苧麻(ちょま)という麻の繊維で作った糸で織られる麻織物で、琉球藍で染めて作られます。
 宮古上布の特徴は細い糸で織られる精緻な絣模様とロウを引いたような光沢のある滑らかな風合いです。苧麻の繊維を1本1本手で裂いて作った細い糸で作られるため、通気性に富んでいて、三代物と呼ばれるほど丈夫で長持ちします。
 イラクサ科の多年草である苧麻は古くから沖縄地方に自生する植物で、40日ほどで生育し、宮古島では年5回ほど収穫可能です。糸を積むところから始まり1つの反物が織り上がるまで、数年かかることも珍しくありません。
 「括染め」(くくりぞめ)によって何度も琉球藍を染め重ねた糸を経糸に1,120本余も使い、3カ月以上かけて細かい白い絣模様の中に亀甲や花柄の模様が浮かび上がる布が織り上がります。最後の「砧打ち」(きぬたうち)によって、宮古上布独特の光沢と柔らかさが生まれます。
 日本の四大上布の一つに数えられ、藍染の麻織物の最高級品として重要無形文化財に指定されています。

 History / 歴史
 宮古上布 - 歴史
 宮古島地方では、15世紀頃から苧麻を使った麻織物が織られていたと考えられています。
 今から400年ほど前に、琉球から明へ向かう貢物を乗せた船が台風で沈没しそうになった際、宮古島の男が荒れる海に飛び込んで船を修復し乗組員の命を救いました。琉球の国王が功績を称えてこの男を問切坊主に取り立てます。これを喜んだ男の妻が献上した麻の織物が宮古上布の始まりとされています。この後約20年以上にわたり、宮古上布は琉球王府へ献上されました。
 1609年(慶長14年)に琉球が薩摩の支配下になり、1637年から人頭税が課せられるようになると、女性には宮古上布を貢布として納付することが義務付けられます。役人の厳重な監督のもとで作られた精緻な宮古上布は、麻織物の最高級品として薩摩上布という名前で広く知られるようになります。やがて人頭税が廃止されると、品質が落ちるのを防ぐために織物組合が組織され品質の保持に努めるようになり、生産量の最盛期は大正時代から昭和の初期にかけてです。
 太平洋戦争後、沖縄がアメリカの支配下になると宮古上布は衰退します。現在では伝統技術継承のため後継者の育成に力を入れています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/miyakojofu/ より

 究極の手仕事が生むしなやかな夏の着物
 手で績んだ糸で織る濃紺の宮古上布は、日本四大上布のひとつとされ、夏の着物の最高級品として、また稀少品として、着物好きの人たちのあこがれになっている。30数年、織り続けてきた平良清子さんにお話をきいた。

 
 わずか1ミリの絣をあわせながら織る
 指をすべらせると、麻とは思えないなめらかさだった。濃紺の布にはしっとりと品のいいつやが出ている。手績みの細い糸を使い、仕上げに「砧打ち」をする宮古上布ならではの手触りである。品の良さの秘密は、細かな絣(かすり)模様にもあった。沖縄のほかの織物は線で柄を作ることが多いが、宮古上布は点描のような手法を使う。白い小さな十文字(十字絣)を無数に織り込んで、紺色の柄を浮き上がらせる。しかも総絣といって、花、亀甲、銭玉などの柄を布全体に繰り返し入れるのが特色だ。
 平良清子さんに織るところを見せてもらった。ふつうの機織りとはリズムがちがう。パッタンパッタンしばらく織ると、手をとめて布の上に身をかがめている。のぞきこむと、針で糸を1本1本すくって白い絣模様のズレを直しているのだった。
 藍で染めた糸には、わずか1ミリほどの白い部分がある。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の白い部分を交差させると十文字ができる。この十文字で模様を描いていくわけだが、織っているとどうしてもズレが出るので、ときどき修正する。気の遠くなりそうな細かい作業である。


 女の子が生まれると喜ばれた
 普通の人は一日に数センチ、熟練した人でも20センチくらいしか進めない。一反織るのに3カ月かかる。糸は細く切れやすいので、針ですくうときはとくに注意が必要だ。
 「始めたころは目が疲れて、夜寝る前にポロポロ涙が出て止まらなかったですよ。」という平良さんは、20代後半のとき機織りを始めた。母親も染めと織りをやっていたし、近所の人もみんなやっていたから、自然な成り行きだったという。
 かつて宮古上布は、さとうきび、鰹節と並ぶ島の三大産業のひとつだった。織り手になる女の子が生まれると喜ばれ、手先の器用な子には、食事の支度も洗濯もさせないで織りに集中させた。女の子が二人か三人いれば赤瓦の立派な家が建ったという。現在は年間約30反の生産量なのに対し、昭和10年代の最盛期には年間1万5千反が生産されていた。平良さんが始めたのはそれより後の時代だが、織っている人はまだたくさんいた。


 一人で織る自信をくれたのは台風だった
 最初は、第一人者だった下地恵康さんの工房に通った。切れやすい糸の扱いに慣れるだけでも何年もかかる。当時の指導は厳しく、背中をたたかれながら覚えていった。三年たったころ、大きな台風が島を襲った。工房のトタン屋根は吹き飛ばされ、せっかく織り進んでいた反物が雨にぬれてしまった。仕方なく家に持って帰り、隣のおばさんや母親に手伝ってもらい、乾かして、巻き直して、また織った。
 「たいへんでしたけど、織り上がったときは自信を持ちました。自分でも何とかできるかなと。それからは家で織りました。これしか仕事がないからなのか、好きなのかわからないけど、機から離れたことは一度もありません。」
 その間に三人の男の子を育て上げた。母親が機織りをしていると、子供は不思議と非行に走らないという。


 90歳になってもまだまだ現役
 宮古上布に使われる糸は、経験豊富なお年寄りが績んでいて、質がよいことで知られている。
 「いい糸を機に乗せて織り始めるときはうれしく感じます。きれいな模様ができると、ひと安心です。」
逆にうまくいかないと、あれこれ後悔して夜も眠れない。
 「仕上げてホッとする気持ちは、やっている人にしかわからないと思いますよ。20年後?ここでは90になるオバアも織ってますからね。」と平良さんはほがらかに笑った。

 職人プロフィール

 平良清子 (たいらきよこ)

 1938年生まれ。染めと織りに取り組むとともに、宮古織物事業協同組合で後継者の育成に力を注いでいる。

 こぼれ話

 元気なお年よりが支える宮古上布

 宮古上布には細くて均質な糸が使われます。そんな上等の糸を績んでいるのは、80歳以上のおばあちゃんたちです。
 苧麻(ちょま、宮古の言葉ではブー)を栽培し、茎から繊維をとる作業を担当している友利千代さん(83)を訪ねました。家の裏庭が苧麻の畑になっています。肥料はヤギのふんの堆肥。化学肥料は使いません。堆肥作りのために3匹のヤギを飼っています。えさにする草は、農薬がかかっていない海沿いの野原まで刈りにいくそうです。
 友利さんはびっくりするほど元気で、力のいる仕事もみんな一人でやってしまいます。苧麻は背丈より高くなるころに刈り取り、アワビの貝殻で茎の皮をしごいて繊維をとります。乾燥させて、次の作業をする人に渡します。
 繊維から糸を績む人も、80代、90代のおばあちゃんばかりです。繊維を爪で細く裂いて、より合わせてつなぎ、1本の糸にします。
 機織りにも、速くきれいに織れる80代の名人たちがいます。上布にたずさわるお年よりは、病院にいくことが少なく、ボケることもないそうです。彼女たちが培ってきた技術を伝える後継者の育成が今、進められています。

*https://kougeihin.jp/craft/0127/ より


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