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<経産大臣指定伝統的工芸品> 沖縄 読谷山ミンサー

2021-08-24 20:22:07 | 東京五輪延期

 「読谷山ミンサー」

 Description / 特徴・産地

 読谷山ミンサーとは?
 読谷山ミンサー(よみたんざんみんさー)は、沖縄県中頭郡読谷村周辺で作られている織物です。ミンは綿、サーは狭い帯という意味で、沖縄各地では古くからこのような細帯が織られており、基本は幅10cmほどの藍染の帯ですが、地域によって技法や模様が異なります。読谷山ミンサーは「グーシ花織(はなおり)」と呼ばれ、竹ぐしで浮かしたい模様の部分の経糸(たていと)を拾いながら紋を作るグーシバナ技法で作られる紋織物の一種です。
 読谷山ミンサーの特徴は、先染めの木綿糸を使ったたてうね織りの紋織物であることや、南国特有の鮮やかな色彩、「紋棒」又は「花綜絖(はなそうこう)」を用いて作られる浮き出た模様です。模様にはグシバナや綜絖花(そうこうはな)、手括り(てくくり)で作られる絣などがあり、これらに縞模様などを加えて織りあげます。
 読谷山ミンサーに使われるのは、琉球藍やフクギ、車輪梅(しゃりんばい/テカチ)など、自生している植物の染料が中心です。

 History / 歴史
 読谷山ミンサー - 歴史
 読谷山ミンサーは読谷山花織(よみたんざんはなおり)と同じ頃に織られるようになったと考えられています。琉球は古くから中国や東南アジア諸国との交易が盛んでした。読谷山ミンサーや読谷山花織のもとになった絣や浮織の技法も、15世紀頃にそれらの国との交易品とともに伝来したといわれています。
 琉球で綿の栽培が始まったのは1611年(慶長16年)、薩摩から儀間真常が持ち帰ってからです。耕作面積が小さく収穫量も少ないことから、貴重なものとして主に女性達が思いを込めて家族や恋人に送った細帯などに使われてきたのが始まりと言われています。
 明治時代中期に読谷山ミンサーの生産は一時途絶えてしまいます。その後、ほとんど幻のようになっていた読谷山ミンサーや読谷山花織は、残っていた祭り衣装やお年寄りの話をもとに1964年(昭和39年)頃より約10年の歳月をかけ、染織家の与那峯貞ら、村の人々によって蘇りました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/yomitanzanminsa/ より

 花や縞の柄が一面に浮き出したミンサーは、花織で知られる読谷山らしい細帯
 藍染めが基本だが、今では色とりどりのものが作られている。読谷山で染色を手がけている新垣さんにこれまでの歩みをきいた。

 
 沖縄の各地で織られている伝統の帯
 ミンサーの「ミン」は木綿、「サー」は狭いを意味している。この細帯は、読谷山のほか、首里、八重山、与那国と、沖縄のいくつかの地方で今も織られている。藍染めで幅10センチほどのものが基本だが、土地によって模様や技法が少しずつ異なる。
 読谷山のものは、紺地に花や縞の柄が浮き出ている。竹串を使って経糸(たていと)をひろいながら紋を作る「グーシバナ」という技法だ。東南アジアの紋織りの影響が強い。琉球王国時代に広まり、明治時代には途絶えたが、花織とともに現在は復活している。
 沖縄では織物にたずさわる人は女性が圧倒的に多い。その中で、染めだけは男性が担当していることが少なくない。ミンサーと花織の染色を27年にわたって続けている新垣隆さんにお話をきいた。


 復活への険しい道を歩んだ読谷山の染織
 大学を卒業して間もないころ、新垣さんはミンサーも花織も知らなかった。どちらも絶滅寸前で、お年よりの記憶にかすかに残っているくらいにまで衰退していたのだ。読谷村が復興に取り組み始めたのは1964年。当時は高度成長の真っ只中だった。大量生産の時代になぜ手織りを守らなくてはいけないのか、という声は強く、道はけわしかった。織り機も満足になければ、染めの知識を持っている人もいない。大学で化学を専攻していた新垣さんに白羽の矢が立った。
 「私が始めたのは昭和48年です。化学をやっていたから、染料と媒染剤がどんな化学反応を起こしてなぜこの色が出るのか、といったことが理解できたんです」
 経験や勘だけでなく理論を知ってる新垣さんの存在は、回りの人にも頼もしかったにちがいない。
 それでも苦労は絶えなかった。頭では分っていても、大量の糸を一度に染めるとなると、要領がつかめない。奮闘するうちに糸がぐちゃぐちゃになり、織る人から「この糸では糸繰りができません」と言われたこともあった。

 今や製作が追い付かないほどの人気
 製品が売れないことも悩みの種だった。問屋との付き合いもないし、どこへ持っていけばいいのかわからなかった。
 綿から絹に重点を移したり、帯の柄を工夫したりして、消費者の好みを探った。色物も増やしていった。沖縄では昔、首里の士族のみが色物を着ることができた。庶民は黒と紺しか許されなかった。ミンサーも花織の着物も紺が基本である。展示会でお客の声に耳を澄まし、いろいろな色を染めるようになった。
 手織りを守り続け、さまざまな努力が実った結果、今では製作が追い付かないほどになった。
 「全国で伝統工芸が後退していく中、徐々に、堅実ではあるが伸びていっているのがうれしいですね。去年は組合で1億3千万円の売り上げがありました。村内には三カ所の地域工房があって、みんなが利用しています。産地がまとまっているのがよいのでしょう」
 後継者も順調に育っていて、新しい作品が次々と生まれている。

 職人プロフィール

 新垣隆 (しんがきたかし)

 1949年生まれ。読谷山花織事業協同組合理事長。後進を育てながら染色に取り組んでいる。

 こぼれ話

 身近なところで新たな染材を見つけたい

 読谷山では、草木染めを行っています。深い紺色は琉球藍で染めます。黄色はフクギの木の皮を、茶色はテカチ(車輪梅)の幹を割ったものを、それぞれ大鍋で煎じます。染液に糸をひたして、きれいな色になるまで繰り返し染めます。ほかには茶色が出るグール(オキナワサルトリイバラ)や、ベージュになるシイの木を使います。鉄、石灰など、何で媒染するかによって染まる色は変わってきます。
 染色の材料は自生しているものを使います。先日は読谷山花織事業協同組合の組合員約100名が集まって、山にグールを掘りにいきました。一年分をまとめて採取します。グールは芋のようなもので、乾燥すると使えなくなるので、地中に埋めて保存します。
 30年近い経験を積んだ新垣さんは、まだまだやりたいことがいくつもあるようです。
 「伝統工芸の色は、やはり地元のものを使うのがいいと思うんです。草木はほとんどみんなやっていますから、別のものに挑戦したい」読谷の特産品の紅芋や、近くの海でとれる海草などが使えないかと考えています。

*https://kougeihin.jp/craft/0129/ より


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