戦国時代には数多くの武将・豪傑が様々な業物を振るって戦場を縦横無尽に駆け抜け、その名を馳せた。
その「様々な業物」のうち、戦国時代にはメジャーどころで「弓矢の使い手」が見当たらないところに気がついた。槍などでは本多忠勝、前田慶次郎などメジャーな使い手に容易に当たることができるのだが。また、他の時代であれば平安時代の藤原秀郷、源為朝、源平の那須与一、そして南北朝時代の足助重範といった弓矢の使い手が . . . 本文を読む
戦国時代コーナーは前回の本多忠勝に続き「強い武将」シリーズです。
島津義弘(1535~1619)は、九州の雄島津氏の中でも勇猛でならした人物である。
義弘は薩摩・大隅の島津貴久の次男であり、当主の父貴久やその後を継いだ兄義久を数多くの戦いの先陣に立つことで支えた。
義久の活躍により島津氏の勢力圏は次第に北へ広がって行き、宿敵である豊後の大友義鎮(宗麟)と日向の耳川で激突し、島津は数で劣るものの . . . 本文を読む
戦国武将は、国持ち大名となれば戦略、政治力を含めた総合的な武力で評価されるが、戦場での個人的な戦闘力で言えば、戦国時代でも屈指の存在がこの人だろう。
本多忠勝(1548~1610)は徳川四天王、徳川十六神将に名を連ねる徳川家の有力武将である。本多家は松平家譜代の家臣であり、同族の本多正信が文治派の代表格であるのに対し、忠勝は筋金入りの武闘派でありかつ幼少の頃から家康(当時は松平元康)に付き従い辛 . . . 本文を読む
先日、バブル経済とその崩壊の過程で会社に入社したかつてのヤンエグの末路について取り上げたが、本日はやや強引だが、バブル社員と同じようなパターンで生涯を送った戦国武将について紹介したい。
その人の名は福島正則、幼名を市松、尾張の生まれで秀吉の血縁者であり、幼少の頃から秀吉に仕え、荒小姓として名を馳せた。新興企業に創業者の血縁を利用しての縁故採用というところか。福島市松の名が知れ渡ったのは、秀吉が本 . . . 本文を読む
本多正信(1565~1637)は家康の知恵袋として数々の智謀を駆使した一方、家康の威を借りて権勢を振るった人物として余り評判は芳しくないが、むしろ自分が憎まれ役になることによって家康と家臣とを上手く取りまとめた、徳川幕府成立の最大の功労者ではないだろうか。本多正信こそ、日本の歴史上屈指の理想の参謀像だと思う。
本多正信が家康の参謀としての地位を確立するまでのは紆余曲折があった。三河出身で早くして . . . 本文を読む
真田昌幸は大阪冬の陣で徳川家康をあわやというところまで追い詰め、壮絶に散った名将真田幸村の父であるが、「家康キラー」ぶりは幸村をも上回るものがあった。
真田昌幸は武田信玄の重臣真田幸隆の三男として生まれた。当初昌幸は甲斐の名族である武藤氏の名跡を継ぎ武藤喜兵衛と名乗った。本家の真田家であるが、父幸隆の死後を長男の信綱が継ぐ、しかし主家の武田家も信玄が亡くなりその子勝頼の時代となるが武田家も衰運を . . . 本文を読む
藤堂高虎は、豊臣家の恩顧を受けながら秀吉の死後ひたすら家康に付き従う「ゴマすり大名」として評判が余り芳しくない。しかし私は藤堂高虎を「中間管理職の鏡」、「戦国きっての合理主義者」として評価している。彼は確かに世渡り上手であるが、前の主君に大きく義理を欠いたことはない。目上の人に対して上手く立ち回れるし人使いも上手い。また新しい技術や考え方を取り入れることも抜かりない。信長、秀吉、家康とは違った意味 . . . 本文を読む
「戦国の三智将」に挙げられている、小早川隆景、島左近、直江兼続は、それぞれ毛利、石田、上杉のナンバー2として活躍した武将である。彼らは、主人を上回る器量・能力を持ちながらナンバー2としてその身を全うした人物でもある。今回はその3人の中から直江兼続について紹介したい。
直江兼続は、1560年(永禄3年)に樋口兼豊の長男として生まれた。幼名を与六という。樋口家は木曽義仲の四天王である樋口兼光の子孫で . . . 本文を読む
中国地方の戦国武将について記してきたが、中国地方以外のこの時代の人物について書こうと思ったとき、まず真っ先に思い浮かんだのは前田慶次郎である。慶次郎は戦国時代ユニークな生涯を送った豪傑として小説や漫画の主人公になった人物として有名である。
前田慶次郎は、豪傑として戦場で活躍しただけでなく、高い教養と「傾奇者」と呼ばれた奇抜な風体と行動、そして茶目っ気のあるいたずらで数多くの逸話を残した。
前田 . . . 本文を読む
毛利輝元は、西国の覇者毛利元就の嫡孫だが、父隆元が若くして他界したため、事実上の後継者であった。
毛利輝元は、毛利元就という偉大な祖父を持ち、小早川隆景、吉川元春といった優秀な叔父に支えられ、影の薄い存在であったこと、また関が原の合戦で、自ら戦うことなく西軍敗戦の責任を取らされ、家禄を大幅に減らしたことなどから「荷の重すぎた三代目」とか「凡将」という評判が定着している。
毛利輝元は、羽柴秀吉を . . . 本文を読む