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オーソレ、何それ?

私、o_sole_mioが好きな歴史、旬の話題、
賞味期限の切れた話題等を
適当に書きつづります。

中国地方の戦国武将9:忠臣か佞臣か、評価が分かれる関が原

2004-11-25 00:11:26 | 戦国時代
以前関が原の合戦に関連して毛利家の重鎮2人を記事で取り上げたが、今回はその一人である吉川広家について、取り上げてみたい。 吉川広家は毛利元就の次男吉川元春の三男として生まれた。最初名を経言と言い、宮庄氏を相続していた。ところが長兄の元長が死去したため、経言が吉川家を継ぎ、その際に広家と改名した。広家は経言と名乗っていた頃、毛利対織田の備中陣を経験しており、関が原とともに毛利の大きな危機をいずれも . . . 本文を読む

毛利VS織田の争い(後編):備中高松の水攻め

2004-11-14 00:16:44 | 戦国時代
毛利との播磨、畿内を巡る戦いに勝利した織田軍は、天正10年(1582年)毛利の領土である備中に出陣した。毛利攻めの総大将はかつて安国寺恵瓊から「さりとてはの者」と評された木下藤吉郎秀吉改め羽柴筑前守秀吉である。これに対して毛利軍は備中と備前との国境付近に備中七城と呼ばれる防衛線を敷き、その中心は清水宗治が守る備中高松城であった。 羽柴秀吉と備前・美作を支配する宇喜多氏が連合して備中攻略に当たった . . . 本文を読む

毛利VS織田の争い(前編):信長の台頭と播磨を巡る攻防

2004-11-13 16:40:14 | 戦国時代
元亀2年(1571年)毛利元就が75年の生涯を終えた後、中国地方を中心に元就が築き上げた広大な版図は嫡孫の毛利輝元に引き継がれ、それを2人の叔父、吉川元春(元就次男)と小早川隆景(元就三男)が補佐した。この2人の叔父は戦国時代でも第一級の人物であり、共に苗字に「川」がついていたことから「毛利の両川」と呼ばれていた。 万全の体制を築き上げたかに見えた毛利家であったが、安穏の日々は長く続かなかった。 . . . 本文を読む

中国地方の戦国武将8:時代の仕掛け人か、毛利家を籠絡した怪僧か?

2004-11-05 00:01:19 | 戦国時代
毛利家に外交僧として活躍した人物がいた、その名を安国寺恵瓊という。 安国寺恵瓊は安芸の守護武田氏の出身である。武田氏は信玄で有名な甲斐武田氏と同じ流れを汲む清和源氏の名族である。しかし、室町時代になると周防の大内氏と対立し、その後次第に衰退していった。そして1540年に本拠地の銀山城が落城し、安芸武田氏は滅亡した。 安国寺恵瓊は安芸武田氏最後の当主である信実の従兄弟信重の子供であるといわれ、安 . . . 本文を読む

厳島の合戦:元就の綿密な知略・謀略

2004-10-26 22:59:48 | 戦国時代
厳島の合戦は毛利元就が四千の兵で二万の陶晴賢を打ち破った「寡よく衆を制す」の代表的な戦いとして名高い。この合戦は織田信長が今川義元を奇襲攻撃で破った桶狭間の合戦になぞらえて「海の桶狭間」とも呼ばれる。 1554年9月毛利方の厳島宮尾城を陶軍は二万の大軍を擁してこれを攻めたが、翌10月1日の明け方、毛利軍本隊が風雨をついてこれを奇襲、村上水軍も陶軍を挟み撃ちにしたため、陶軍は潰走し、陶晴賢は厳島で . . . 本文を読む

中国地方の戦国武将7:厳島に敗れた反逆の将

2004-10-18 23:56:35 | 戦国時代
今日の主役は前回の大内義隆に謀反を行った陶晴賢である。晴賢はもともと隆房と名乗っていた。父の興房同様、主君である大内家当主の偏偉(興房は義興の、隆房は義隆の)を受けていた。陶家はもともと大内家の支族であり、かつ重臣であった。興房は義興・義隆親子に仕えて数々の軍功を上げ大内氏の西国の勢力拡大に大いに貢献した。興房の没後、次男(長男は既に死亡)の隆房が19歳の若さでその後を継いだ。また隆房も武勇に優れ . . . 本文を読む

中国地方の戦国武将6:西の京を開いた文化人武将

2004-10-09 00:04:41 | 戦国時代
大内氏は代々周防権介として周防(山口県東部)の地を治めていたが、室町時代に周防、長門他数カ国の守護大名を務めた西日本の有力大名である。大内義興は第12代将軍足利義稙(よしたね)を将軍職に復帰させるなど足利幕府においても影響力を揮い、周防、長門、豊前、筑前、石見(現在の福岡県と山口県、として島根県の西半分)の守護に加え、管領代、山城の守護も兼務した。しかし、周囲に敵は多く、西に大友氏、東に尼子氏との . . . 本文を読む

中国地方の戦国武将5:波乱万丈の山陰の覇者

2004-10-01 00:10:23 | 戦国時代
尼子経久(1458-1541)は中国地方の戦国武将で版図を大きく広げた一人である。しかし彼の一生は波乱万丈の連続であった。経久は出雲の守護代であった父清定の後を継いだが、室町幕府に従わなかったため、守護代の職を解かれ出雲から追放された。経久は流浪の身となったが、本拠地であった富田城奪還を虎視眈々と狙っていた。そして文明18年の正月に新年を祝う千秋万歳の行事に紛れ、富田城を襲いかつての居城を取り戻す . . . 本文を読む

中国地方の戦国武将4:秀吉も惚れた「瀬戸内の鷹」

2004-09-25 15:26:24 | 戦国時代
戦国時代における西国の覇者毛利元就には9人の息子がおり、この中でも、長男隆元、次男元春、三男の隆景が「三本の矢」として有名である。今回はこの三人のうち、三男の小早川隆景についてである。小早川隆景は子供の頃から機転がきき、それを示す有名なエピソードがある。ある冬の日、兄元春とお供を付けて雪合戦をした。1回目は、力に勝る元春が勝ちを収めたが、2回目隆景は自分が囮となり、相手を引きつけておいてからお供に . . . 本文を読む

中国地方の戦国武将3:月に祈った七難八苦

2004-09-16 01:02:15 | 戦国時代
山中鹿之助幸盛は、山陰の雄尼子家家臣としてその名を馳せた人物である。三日月に「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と主家再興を祈る逸話は有名である。 尼子氏は経久の死後、嫡孫晴久が当主になったころから徐々に衰退していった。特に毛利元就の計略にかかり一族の有力な戦闘集団であった新宮党(叔父一族)を討伐したころから衰退振りに拍車がかかっていった。 山中鹿之助の名が現れるのは、尼子が毛利の攻勢を受け始 . . . 本文を読む