貴重な晴れ間を縫って、今年最後になろうかという原石拾い。
久しぶりに見る姫川河口は、断層のような荒々しい海岸段丘が発達して様子が一変していた。
姫川河口から西を望む
土木工学の本にも出ているくらい有名な暴れ川、姫川に橋が掛かったのは近代に入ってから。
昔は河口に近い須沢地区に渡し船があったそうだが、江戸時代に全国の測量行脚をした伊能忠敬は姫川の増水で何日も足止めされたとか。
幼馴染の直子ちゃんは、その時の宿泊先が親族筋の家なのだと自慢している(笑)
須沢の人々は、山の権利を貰える代わりに集落ぐるみで五人一組の交代制で渡し船をしていたとモノの本に出ているが、渡し船をするという事は増水のたびに上流から転がり出てくる大きな石を川浚いしていたに違いなく、冬なんか大変だったことだろう。
糸魚川名物の海岸段丘。
平日にも関わらず、この日も県外からのヒスイ拾いの人が大勢いた。
海岸段丘は海岸のみならず、海の中にも発達している。
だから押寄せる大波が海岸段丘をジャンプ台にして、波打ち際で急激にそそり立つ恐ろしい海でもある。
この日も河口には衝立のような巨大な波が立っていた。
こんな恐ろしい海、糸魚川の縄文人達は、船足の遅い丸木舟をよく乗り回していたもんだ。
以上、レポートは先人の苦労が偲ばれる冬の糸魚川の海からでした・・・。