釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

鶯の名所と芭蕉の短冊

2013年02月08日 22時50分35秒 | 麻布
昨日の続きです。

「うぐいすを たづねたづねて 阿佐布まで」または「うぐいすを たづねたづねて 阿佐布かな」の句は、麻布竹谷町会のホームページの「町会委員名簿先付けより」によりますと

(前略)
明治5年に現町名を付けたが、古来、里俗に竹ヶ谷と呼んだことによる。別にねくるみ村の称もあり、うぐいすの名所として、巣立野とも呼ばれた。「うぐいすをたづねたづねて阿佐布まで」という芭蕉の短冊は、隣地本村の名主の家に所蔵されていたものと言うが、巣立野と呼ばれていたことと関係があるのだろうか。
(後略)

とあります。

これは町会役員名簿の前書の引用だと思われますが、竹ヶ谷(たけがやつ)という地名があったことがわかります。
そして、巣立野という鶯の名所だったことがわかります。

なぜここが鶯の名所になったのか、少し考えてみましょう。

冬の間、鶯は人里に降りて巣を作ります。
その巣を作る場所は、竹藪など藪を好んで作るといわれています。
そこで冬の間、「ちゃっちゃ」という声で鳴くます。
これを「笹なき」といいます。(クリックすると実際のささ鳴きが聞けるサイトに移動します。)
この「笹」というのは小さい意味の「ささ」だそうで、竹や笹とは関係がないようです。
しかし、笹という字をあてはめたのはやはりなにか関係をうかがわせるのではないでしょうか?

今私たちは、鶯というと花札の影響もあって、梅を思い浮かべますが、鶯に竹という連想も過去には大いに働いていたようです。
例として、尾形光琳の「竹梅鶯図」や国立博物館所蔵の小袖などの意匠があげられます。

竹ケ谷→竹藪→鶯の笹鳴き→巣立ち
という発想は江戸人なら起こったのではないでしょうか?

となりの本村の名主の家にあった俳句の短冊。
本当は詠み人知らずだったのかもしれません。
いつしかそれが芭蕉の短冊として認知されたのではないでしょうか?

その途中で「麻布で鶯がいるのはどこかしら?」という発想から、鶯→竹→竹ケ谷と進んでいったのかもしれません。
もちろん、竹が生えて竹藪になっていたでしょうから鶯がいたことは確かです。
この俳句から鶯の名所になったのかもしれません。

鶯の名所が先か、俳句が先か、みなさんはどう思いますか?


*画像は今日の長谷寺の墓地の梅、満開でした。



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