釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

笄町と團十郎

2013年02月04日 18時57分46秒 | 西麻布の昔話(西麻布の夕日)
明け方にふとFacebookをのぞくと「團十郎死去」の文字。
にわかには信じられませんでした。

江戸歌舞伎役者第一の名跡、市川團十郎と江戸第一の座元の名跡、中村勘三郎が相次いでこの世からなくなってしまいました。
歌舞伎界の損失はどれだけのものなのか、素人でもわかるはずです。
それも、歌舞伎座の柿落としをひかえて・・・・・。

亡くなった十二代目の團十郎丈は、幼少期を麻布笄町で過ごしました。

昭和二十九年、根津家(根津美術館)の敷地が分譲されます。
その年、戦災で焼失した根津美術館の本館が落成していますので、その一環として周辺の整備も行われたのではないでしょうか。
それまで、分譲された場所は根津家の畑や果樹園だったと私の父は申しております。

そこに、当時海老蔵であった十一代目團十郎一家は引っ越してきます。
当時、青山学院初等部に通っていた市川夏雄(本名・堀越夏雄)少年の通学の便をはかってのことではないでしょうか。
それから約十年間、麻布笄町77番地(現在は西麻布2丁目20番)の家で暮らしています。

場所は、旧・カニングハム邸の小道をはさんだ向かい側になります。
今は駐車場になっています。

ここにお住まいの間、夏雄は、1958年に市川新之助をを襲名して、父親の海老蔵は1962年に十一代目團十郎を襲名しています。
そのころ、歌舞伎の大向(おおむこう・掛け声をかける人)は、十一代目の團十郎のことを「笄町」と呼んだということです。

8ミリ撮影が趣味であった十一代目の家族を撮影したフィルムを見たことがありますが、今の根津坂下にあったお屋敷の玄関付近で遊ぶ、十二代目の姿が映っていました。

また、十二代目がブログで、家の物干しから東京タワーが徐々に高さを増していくのを毎日楽しみにしていたと書かれていたことがありましたが、これもこの笄町の家での出来事です。
今は六本木ヒルズで隠れてしまっていますが、その向こうに東京タワーがよく見えたのです。

十一代目の襲名が終わってから、一家は今の目黒のお宅へと引っ越して行かれました。
その時、ご丁寧に番頭さんが近所に定紋の三升の最中を配ったと両親が申しておりました。

屋号が成田屋で、成田山新勝寺と縁の深い團十郎さんが、節分の日に鬼籍に入るとはなんと皮肉なことでしょうか。
とても悲しい立春になってしまいました。

謹んでご冥福をお祈りいたします。




駐車場になっているところが團十郎邸のあとです。
分譲される前の根津の畑は、道路よりも少し高かったので、盛土をしたように見えます。



現在でも勝手口と駐車場のシャッターは残っています。



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